■フェイズ3「ロシア勢力下の北東アジア」

 日露戦争によって変化したのは、日本、ロシアだけではなかった。
 日本が手放した朝鮮半島では、ロシアの支配が急速に強まった。ロシアが戦争により手に入れた場所であるだけに、内政面からも経営を重視しなければならなかった。先にも記した通り、満州と朝鮮半島はロシア人の血によって得られた場所だったからだ。しかも満州は、新たに得た場所ではなく、既に持っているものを守ったに過ぎないので、心理面での重要度は若干低下していた。
 ロシア人の感覚では、満州は蛮族を追い払った「領土」であり、朝鮮半島は新たに得た「新天地」になる。そして日本が奪い返しにくるかもしれない場所であるため、ロシアの地盤を一日でも早く作る必要があると考えられていた。

 朝鮮半島では、戦争終了直後から事実上の属国支配が始まり、日本軍が引き上げたその後に続くようにロシア軍が朝鮮半島に入ってきた。そして日本よりも遙かに強大で強欲なロシア相手に、朝鮮王国に抵抗する力はどこにもなかった。
 日露戦争前にも見られた、事大主義に従ってロシア人におもねろうという動きも、白人と有色人種という当時は絶対的だった壁を前に、大量に賄賂を積み上げるかロシア人が相手を利用する場合を除いてほとんど機能しなかった。人種差別という、東アジアの理論では通じない絶対的な壁が存在したからだ。しかもロシア人は、正面から正々堂々戦った日本人を称賛こそすれ、朝鮮人、特に朝鮮支配層に対する蔑みを強めるだけだった。
 独立、権利、自由が戦って得るものだという事を理解しない者を、白人社会が認めるはずがなかったのだ。
 かくして朝鮮王国は、次々に国家としての権利が奪われていった。1907年には、外交、軍事、徴税の権利が奪われて、ロシアの保護国にされてしまった。諸外国も、ロシアが戦争で勝ち得た利権であるため、強く文句を言ったりはしなかった。朝鮮王国はまたも他国(日本にすら)に泣きついてもみたが、本気でロシアに文句を言う国も今更なかった。朝鮮半島は既にロシアの利権、つまり持ち物、植民地、隷属地域なのだ。むしろ朝鮮半島支配のためにロシア人が世界の僻地で苦労するのなら、それは列強にとっては歓迎すべき事ですらあった。故に、自力で行動しようと言う朝鮮民族には、水面下で支援したり、武器を渡してロシア人を困らせる行動が行われた。
 イギリスにとって、この地域にはいささか頼りないながら日本という番犬があるので尚更だった。加えて言えば、日本以外にとっては朝鮮半島は半ばどうでもよい場所だった。

 朝鮮内ではロシア人の手による鉄道や電信が強化され、対馬海峡に面した場所と首都ソウルに近い場所(仁川)に軍港も新たに建設された。当然ロシア海軍が利用した。ただし朝鮮半島南部は、日本海から黄海、東シナ海へ抜ける時の中継点という以上に使うことは避けられた。ロシア太平洋艦隊の拠点としては、依然として旅順、ウラジオストクが利用された。これは新たな軍港建設に割くべき予算が足りないからでもあったが、日本そして日本の後ろにいるイギリスを必要以上に刺激しないロシア側の外交戦略であった。そしてロシア人としては、相手の感覚が鈍ってくるのに合わせて、徐々に南に軍用の港を作る心づもりだった。
 そして朝鮮半島そのものは、ロシア人がしゃぶり尽くすべき場所だった。これは神と皇帝陛下によって認められた、ロシア人の神聖な権利であり義務ですらあった。
 新たに開かれた鉱山の利権も、全てロシアのものだった。ソウルの鉄道沿線には広大なロシア人居留地が作られ、放射状の道を中心にして総督府、大聖堂、ロシア人のための様々な施設が次々に建設されていった。
 当時の世界一般から見て貧しい部類に属する朝鮮人は、ロシア人一般の価値観からすれば新たな農奴や苦力としての価値しかなかった。朝鮮半島に入ったロシア人の中には、正面から戦った日本人に対する評価が戦後の方が上がったほどだった。確かに日本人は、アジアで唯一近代化しただけの事はあったのだ、と。
 そして結果として現地住民がほとんど何もしなかったもしくは出来なかった朝鮮では、ロシアの支配がどんどん強化されていった。あるかないか分からないほどだった現地貨幣(通貨)も、ルーブルに統一された。単位もロシアと同じに変更された。従来のものは完全に認められなくなり、ほとんど全ての朝鮮民族が貧乏で新たな知識を持たない者に格下げされてしまった。ロシア人の支配の中で朝鮮人が多少なりとも出世したければ、ロシア語を学ぶことから始めなくてはならなくなった。
 独立国家としての外交や軍事の権利は、ロシア人が入ってきた時点でなきに等しくなり、その後事実を追認する形で外交文書化された。徐々に朝鮮人そのものに対する権利も大きく制限されていった。

 さすがに朝鮮人内に反抗する者も出てきたが、既に自国内で様々な少数民族問題に直面していたロシア人は、利用しやすい一部の者に少しばかりの甘い汁を吸わせるも、反抗した者は容赦なく処罰していった。宗教で結束したりしないだけ、朝鮮人は支配もしくは弾圧しやすかった。民衆の教育程度が低いのも好都合だった。
 それでも無軌道な反抗と強圧的な弾圧が悪循環で繰り返され、シベリアや中央アジアの強制収容所や過酷な労働環境に送られる朝鮮人の数は大きな右肩上がりのグラフを描いた。そして負の連鎖は、圧倒的という以上の国力の差、武力の差、知識の差、文明の差によって、朝鮮半島のロシア人支配をいっそう強固なものとしていった。
 さらに1909年に北満州のハルピン市で起きた朝鮮総督の暗殺事件を機会として、ロシアによる朝鮮統治が格段に強化された。この時ロシアの怒りは大きく、警察権を含めた内政自治権のほぼ全てが剥奪され、朝鮮半島中で大量の逮捕者を出し、朝鮮の国家及び民族としての死命はこのときほぼ完全に絶たれた。単独犯にもかかわらず、処刑された者の数は公表されただけで1000人を越え、シベリア送りとなった者の数はその百倍に及んだと言われた。
 そしてロシアは1910年に朝鮮を正式に併合し、以後朝鮮半島は「ロシア領コリア」と改名された。内政自治も残されることはなかった。首都だったソウルはニコラエフスクに改名され、多くの主要都市や地名もロシア風の名称に改められた。コリアの名が残されただけでも、ロシアとしては慈悲深いとすら考えられた。
 当然だが、朝鮮王国は滅亡した。王族は主に幽閉か流刑され、反抗的な者は死罪とされた。王族は、1905年の日露戦争終盤に、ごく一部の者が亡命できたに過ぎなかった。連動して両班と呼ばれる世襲官僚(官僚貴族)も、反抗的な者は初期の段階で徹底的に弾圧・粛正された。僅かにいた独立運動家や反ロシア活動をする者についても容赦なかった。頑迷な知識人(儒学者、漢学者)も容赦なく弾圧された。多少なりとも優遇したのは、キリスト教徒ぐらいであった。
 ロシア人は、周辺少数民族の支配に躊躇するなどという事はあり得なかった。ごく一部の者が、日本や清などに逃れた他は、ロシア人による牢獄に捕らわれていった。朝鮮人が、ロシアの支配がそれまでの北東アジア的な支配とは全く違うことを理解したときには、全てが手遅れとなっていた。
 以後朝鮮半島では、大量の朝鮮民族のロシア領辺境各地への強制移住や強制労働、強制収容が行われた。特にシベリア鉄道敷設(拡張)工事では、多数の朝鮮人労働者がかり出され、危険で過酷な労働の中で多くの犠牲者を出した。朝鮮半島内でも、鉱山などでの強制労働、農作物の強制供出など過酷な支配が行われた。朝鮮半島内では食料不足や飢饉は日常となり、反発をするたびにロシア人の支配と弾圧は強まった。
 朝鮮半島住民は、僅か五年ほどで全てが事実上の農奴以下の存在に貶められていった。世襲官僚(両班)以外で知識層、技術者層が薄かった事も、ロシア人の支配を強めさせる大きな要因となった。
 なお、ロシア人による朝鮮の過酷な支配の背景には、日露戦争での戦費回収とロシア本国が革命で揺れた事による反動も影響していた。
 しかも革命騒ぎの直後であったため、反抗的な者は徹底的に弾圧されていった。新たに収容所を作ったり、収容所に入れる経費も惜しまれたからだ。
 そして過酷な支配のために、毎年朝鮮住民の5%がずつ減っていると言われ、ただでさえ北東アジアの中では人口密度の低かった朝鮮半島の人口は短期間で激減した。
 朝鮮(チョソン)という言葉も使われなくなり、十年もすると中華や日本ですら政府組織ではコリアと言われるようになった。現地で使われる文字も漢字が駆逐され、使われているのかいないのか分からないハングル文字は僅かにあった文物ごと滅ぼされ、全てロシア語とキリル文字に変えられていった。文化的な遺産も、移動できるもののほとんどはロシア本土(欧露)に持ち出され、無知なロシア兵、ロシア人に破壊されたものも無数にあった。
 宗教もロシア正教が大幅に導入され、ソウルの中心街には総督府よりも立派な大聖堂が建設された。既に別宗派のキリスト教(カトリック、プロテスタントの現地化したもの)が入っていた事もあって、朝鮮人の間で改宗も熱心に行われた。改宗だけが、僅かながらも個々の朝鮮人の地位を向上させる手段となったからだ。
 そしてわずか数年で、朝鮮民族は「ウラー、ツァーリ(皇帝万歳)」と唱えるようになっていた。

 さらにロシアは、チャイナ北部の経営にも邁進した。具体的には、マンチュリア、モンゴル、プリモンゴルといった地域の事になる。
 特にマンチュリアの経営には熱心で、万里の長城より北側を事実上自国領のように扱うまでになった。軍を中心にした統治を強化し、事実上の総督府を設置し、鉄道、電信をさらに引いて、ハルピン、ターリエン(大連)を軸に各地にロシア風の計画都市を造り、鉱山を開き、ロシア帝国領各地からの移民もやって来た。
 当然だが、ロシアの増長をほとんどの列強が警戒した。
 ロシアも他国の目を多少は気にして、ヨーロッパ方面での動きを若干低下させ、各地で利権や境界線がぶつかるイギリスとは、自分たちの裁量範囲内で出来る限り協調外交で望んだ。日本との戦争からしばらくは、財政の問題もあって、次の戦争なり紛争をしたくなかったからだった。連動して、イギリスと同盟している日本への露骨な干渉や進出も控えた。領土や通商、漁業権を定めた日露協商も再度結ばれ、ロシア太平洋艦隊も旧式艦を中心に大幅に削減したほどだった(※日露戦争終末期に本国艦隊(バルチック艦隊)を丸ごと持ってきていたし、旅順で着底した艦艇の一部が再生されていたため、削減と言うよりバルチック艦隊の本国帰投という表現が正しい。)。
 ただしロシアは、チャイナへの経済的進出を強く狙っていたアメリカとの関係には、積極的とは言えなかった。このためアメリカは、当面は日本での活動を活発化させるようになる。そして日本側も、アメリカからの資本投下と技術導入をカンフル剤として国力と経済力の回復を熱心に行った。

 ロシアの朝鮮併合の翌年の1911年、中華にて「辛亥革命」が発生する。そうした中で、ロシア帝国は自らの勢力圏からは動くことはなかったが、本国からさらなる増援を派遣して勢力圏の維持に努めた。ロシアの一部ではさらなる勢力拡大の好機とも考えられたが、ロシアなりに他国との協調で臨むことにされた。もっともそれは、自分たちの勢力圏を確定することと、他の列強の勢力圏に入らないこと、他国のチャイナ利権を認めることであった。そして欧米列強はロシアへの反発があるも、当面は勢力圏の棲み分けを選ぶことにした。
 この結果ロシアは、東トルキスタン地域も完全に勢力圏とする事に成功し、ロシア本国からの長い鉄道を引きながら青海地方にまで入ってきた。旧清帝国のチベット以外の外郭地が全てロシアの勢力下となった。
 そしてそこに、清帝国の崩壊に連動する形で東トルキスタン首長国、モンゴル王国、プリモンゴル王国を成立させた。さらに満州では満州王族の一部を引き入れて、「満州王国」を建国した。むろん全ての国の事実上の宗主国はロシアであり、成立時点から属国や保護国に近い状態に置かれていた。その証拠の一つとして、満州王族は「後清」の名と「皇帝」の座に固執したが、流石に露骨すぎるのでロシア人が認めなかった。
 それでも諸外国は出過ぎたロシアへの反発を強め、イギリスと日本、アメリカの間のアジア間での関係はさらに進展する事になった。特に日本のロシアに対する警戒感は強まり、日本はイギリスとの同盟関係の強化を訴え、イギリスも受け入れるに至る。
 日英同盟は改訂され、完全な攻守同盟となった。アジアで調子に乗ったロシアが、イギリスの利権であるインドやペルシャ、もしくは日本、そしてチャイナ、太平洋に再び手を出す恐れが出てきたからだ。そしてこの時点での日本に、日露戦争の時のようにロシアに立ち向かうだけの軍事力と国力、そして気力はなかった。
 またアメリカ海軍の艦艇も、フィリピンや上海に訪れる「ついで」に日本にも「友好親善のために」訪れるようになった。アメリカ領のアラスカやアリューシャン列島の軍備もある程度増強された。誰に対するメッセージかは、問うまでもなかった。
 これに対してロシアは、ヨーロッパ列強に対しての言葉として、北東アジアでのロシアの行動は既に得た植民地の地盤固めと同じだと説明した。合わせて、チャイナでの他国の勢力圏を犯すことはしないとも言った。
 そして地盤を新たにした勢力圏の開発と経営を尚一層推し進めた。一方では、インド方面にもペルシャにも露骨に手は出さない事で、イギリスとの関係改善を図った。日本との関係も、当面ではあっても友好的に接していた。日本に対しては、新領土での高価値住民の獲得のために日本人個人の資格での移民すら誘ったほどだった。何しろ当時のチャイナ、コリア地域は、民度、教育程度が低かった。
 そしてロシアは、既に朝鮮半島(コリア半島)を自国領に併合していた事もあって、より有利な地続きの国土支配を求めて、マンチュリアの支配権をより一層強めていくようになる。


●フェイズ4「第一次世界大戦」