■フェイズ4「第一次世界大戦」

 1914年の夏、後に「第一次世界大戦」と呼ばれる、それまでの常識からは考えられない規模の戦争が勃発した。戦争はドイツ軍の奇襲攻撃で始まったがすぐに膠着状態に陥り、誰もが戦争の拡大を止められないままに、各国が国民の総動員を行った総力戦状態となった。

 この時日本は、日英同盟に従ってただちにドイツに対して宣戦布告しなければならなくなった。この頃の日英同盟は相互二カ国間条約に改訂されており、どちらか一国が戦争状態に入ればもう片方も戦争に参加することが義務づけられていたからだ。本来はチャイナ及び東アジアでの進出と侵略を拡大するロシアに対する抑止効果を目的とした同盟だったのが、この時は自動的にドイツに対して機能してしまった。
 誰にとっても予想外の戦争だったのだ。
 そこで日本は、取りあえずドイツに対して宣戦布告した後に、イギリスなど各国と会談をもって中華地域での不可侵を文書を交えて約束した。いまだ国力、経済力、軍事力など様々な面で大きな不足を感じている日本にとって、列強から悪感情を受けることは何としても避けなければならない外交方針だった。
 国内の一部には、大陸利権拡大の千載一遇の好機だと脳天気に唱える者もいたが、国民の大多数と政府からは全く相手にされなかった。身の丈に合わない事をした末路を、ほんの十年ほど前に体験したばかりの日本人一般にとって、自らの不要な膨張主義はとうてい受け入れられる事ではなかったのだった。自衛戦争にすら負けたのに、膨張など以ての外だった。膨張などという事は、もう少し余裕ができてから行うものだという認識が日本人一般にあった。
 そして少しでも賢明な選択を行うことは、帝国主義という弱肉強食の時代にあって必須事項だった。国家の舵取りを誤った他の北東アジア諸国がどうなったのか、それを考えれば日本人達が選択できる道はおのずと限られていた。

 しかし世界大戦そのものは、日本にとっては天からの恵みの他ならなかった。
 これまで恐れに恐れていたロシアは、ドイツとの戦争でアジアに構っているどころではなくなっていた。しかもイギリス、フランス、ロシアの間での三国協商と戦争のおかげで、ロシアは日本に手を出すことは外交上でも当面なくなった。イギリスを挟んで、日本とロシアも同盟関係にあるに等しくなったからだ。ドイツが敵となったが、アジア、太平洋でのドイツの勢力は、ロシアに比べれば比較にもならないほど小さかった。
 また戦争が長期戦となると、巨大すぎる戦争特需が日本にも津波のごとく舞い込んでくるようになった。ヨーロッパ商品が消えた世界各地へのビジネスチャンスも無数に転がっていた。
 日本も、当座はドイツの中華及び南洋利権を攻撃しなければならないが、それぐらいなら今の日本軍でも何とかできそうな任務だった。事実アジア、太平洋のドイツ軍は比較的簡単に日本軍によって撃破することができたので、日露戦争以後悲壮感に包まれていた日本の軍人達に多少の自信を取り戻させることにもなった。
 そして開戦二年目までは、日本も未曾有の戦争特需の中で日清戦争戦勝以来の明るい雰囲気を過ごすことになる。あらゆる産業は活況を示して急速に発展し、「成金」などという景気の良い言葉も出てくるようになった。本当に、日清戦争での勝利以来の活況だった。欧州での戦争が永遠に続いて欲しいという、不謹慎な言葉すら飛び出したほどだった。
 しかしヨーロッパでの戦争の経過がイギリス、フランスにとって思わしくなくなると、その影響が日本にも押し寄せてくるようになる。
 開戦から一年ほどが経過した1915年の後半に入る頃に、英仏の強い要請でヨーロッパに大量の陸上兵力を派兵しなければならなくなったのだ。そしてこの要請を日本が断る事はできる訳なかった。
 それでも当初日本政府は、国力の不足、日本とヨーロッパとの距離の問題、日本軍の補給能力の貧弱さ、日露戦争敗北の後遺症など様々な理由を並べ、大軍の派兵は不可能だとイギリス、フランスに言ってみた。だが、短期間の戦争で常備軍を消耗した英仏には受け入れられなかった。一人でも訓練された兵隊の欲しい英仏は、必要経費の三分の二と最新兵器の現地支給、さらには日本からヨーロッパへの移動負担すら約束して、日本に否が応でも大軍を出させるよう迫った。
 ヨーロッパ以外で近代的な軍隊を訓練と装備込みで一通りまとまった数で揃えている国は、この当時日本以外にどこにもなかったからだ。しかも日本軍は、ロシア軍を相手にすることを前提に組み上げられており、10年前に実戦も経験していた。それに比べれば、他の国はあてにならなかった。
 アメリカ人は、海軍はともかくまともな陸軍を作ることなく脳天気に暮らしていた。南米諸国は国力、人口など様々な点で問題を抱えており、しかも国民国家とは言えない状況だった。他の地域は、殆ど全てヨーロッパ列挙の植民地で、自分たちが動員させなければならない場所ばかりだった。
 日本の軍事力しか選択肢がほとんど無かったのだ。
 加えて日露戦争での日本軍の相応の善戦は、日本軍が十分にヨーロッパで戦える事を示していた。それにロシアとの戦争から十年も経過していれば、日本の動員能力も回復しているだろうと人口学的、算術的に考えられた。それに、自分たちが既に失った兵士の数に比べれば、日本が日露戦争で失った兵士の数など、ものの数ではなかった。死傷者数十万人程度など、西ヨーロッパの戦場では1回の会戦で失われる兵力量に過ぎない。
 そして、いまだ大量の借金と外交的負債を抱える日本が、イギリスからの強い要請を断る事はできなかった。借金の証文をある程度破棄してやると言われては、否応もなかった。

 かくして日本でも、総力戦に向けての本格的な軍人の大量動員が始まった。交替、後方支援を含め、まずは200万人の陸軍動員が始まった。これだけで、日露戦争最盛時の約二倍の規模だった。そして英仏に言われるがままに、当初編成で15個師団、前線の戦力数にして30万人、後方部隊などを含め総数50万人に達する派兵が順次始まった。そして50万人の兵力をヨーロッパに送り込むためには、日本国内で最低でも200万人の軍隊を作り上げなければならなかった。このため、既存の陸軍兵は全員一階級以上臨時特進して、圧倒的に不足する下士官、将校とならねばならないほどだった。
 日本では初めて「方面軍」が編成され、現地でのコミュニケーションのため、将兵への基礎外国語教育、文化教育なども行われた。軍人以外でも、通訳・翻訳家なども大量に促成栽培が始まった。陸海軍以外でも、外務省、内務省、大蔵省を始めほとんど全ての省庁が全力を挙げて、日本の戦争体制構築に邁進した。英仏も可能な限り支援を行ない、イギリスなどは優秀な言語学者、文化人類学者などを日本に送り込んだ。
 日本にとって、遠距離の遠征を始め何もかもが初めての事だったので混乱も大きかったが、とにかくやるしかなかった。ヨーロッパで戦争をする事そのものよりも、ヨーロッパに大軍を送り込む事の方が遙かに大事業だった。
 そしてこの時日本人達が懸命に動いた理由は、日露戦争では失敗したが、ヨーロッパに大軍を派遣して見せることが、日本が真の近代国家となった証と評価されると考えられたからだった。そればかりか、上手く行けば列強の末席に座れるかもしれないという思惑もあった。そのぐらいの意気込みで、日本政府を先頭にした日本人達は、ヨーロッパでの大戦争に参入していくことになった。
 それに、イギリスの船が日本兵を運ぶために日本列島に来て催促しているのに、兵隊を乗せないわけにもいかなかった。そしてイギリスの巨大な海運能力は、日本側の準備が十分に整ってもいないのに、どんどん日本兵をヨーロッパに運んでいった。当初日本が1年以上かかると試算した15個師団の派兵は、実際行ってみると半年もかからなかった。イギリスやフランスは、これまで日本列島に行ったこともない北大西洋航路で活躍していた巨大客船群を日本の港湾に派遣したりもしたほどだった。排水量4万トンに達する巨船の群に、それだけで日本人は度肝を抜かれてしまった。
 加えて日本自身も、戦争特需の中で大幅に拡張しつつある造船産業を使って多数の船を建造するようになったので、時間が経つといくらかは自力で運ぶようになっていた。特に現地将兵の士気を維持するため、日本でしか生産されない食料品は熱心にヨーロッパに持ち込まれた。専用の給糧船も、何隻も建造された。補充、増援の兵士や現地調達の難しい武器弾薬もそれなりに自分で運ぶようになり、日本の海軍会社や貿易会社も大きく飛躍した。スエズ運河を通る半分以上の船に日本が関わっている、と言われた時期があったほどだった。
 そして兵士以外の日本人達もヨーロッパへの補給ルート確保のために、香港や上海、シンガポール、マドラス、スエズ(アレキサンドリア)、マルタ、ジブラルタルを始めとしたイギリス領各地に駐在するようになっていった。後の総合商社の前身が本格的な活動を行ったのも、この戦争を契機としている。

 その後日本は、戦争期間中に補充と交替を含めると延べ90万人もの将兵をヨーロッパ各地へと派遣するに至る。
 陸軍の15個師団だけなら、英仏が後方負担を引き受けてくれるので戦時編制で後方要員まで含めても50万人程度で済むのだが、戦闘での消耗は十年前の戦争を体験した筈の日本の予想を遙かに通り越えていたからだ。それに後方支援を全て外国頼みにする事の不便も多いので、現地将兵の要望に応えるためにも後方部隊や一般の日本人達も、多くが派遣もしくは渡欧した。それらを合わせると、延べ100万人を優に越える数字になった。政府が日本本土で大量雇用した公娼が多数渡欧したという情景すらあった。
 こうした動きの結果、日本は陸軍を中心に根底から組織の変化が見られ、また一方では官僚組織が異常に肥大化する大きなきっかけにもなった。そうしなければ、遠方でのシステマティックな戦争が運営できなかったからだ。
 また日本は、ロシアへの対抗のために努力して維持していた海軍力の派遣も強く求められた。そしてここでも否と言うことは許されず、国防のために維持していたなけなしの戦力を、根こそぎインド洋から地中海にかけて派遣せざるをえなくなった。ロシアが同じ陣営の同盟国なのだから当面アジアに軍事力がいらないだろうと言われれば、言い訳のしようもなかった。
 加えて、イギリスに依頼して建造中だった最新鋭の巡洋戦艦は、性能が優秀だったためそのままイギリスに借り上げられる事になってしまう。
 しかも戦場における日本軍は、当初の日本側の目論見とはかけ離れ、二流国の二流の軍隊でしかない事を痛感させられる事態ばかりとなった。
 ヨーロッパの戦場は、日露戦争を経験した日本の予測を遙かに越える巨大で容赦のないものだった。
 陸軍は、塹壕戦と重砲、機関銃の弾幕の前に、日露戦争が児戯に思える損害を積み上げた。海軍は、ドイツの仕掛けた通商破壊戦によって、次元の違う戦争を体験させられることになった。当然ながら、物的、人的損害も当初の予想が、たちの悪い冗談であるかのような数字を示した。

 しかし、まったく悪いことばかりではなかった。
 大軍派遣の報償もしくは代償として、連合軍各国からは日本自体に多くの物資発注を受けることができたし、主にフランスからは大量の新兵器(※主にホチキス社やシュナイダー社の重砲、機関銃など)の供与が受けることもできた。現地では、日本兵が自動車ばかりか戦闘機や戦車も扱うようになった。陸軍と海軍双方で実戦目的の航空隊が編成されたのも、ヨーロッパにおいてだった。
 戦場では苦戦を強いられたし犠牲も大きかったが、最新の戦訓も数多く得られた。
 ただし、陸軍の一部がヨーロッパ正面に投入されると、想定外の物量戦に立たされた上に大損害を受けて、陸軍全体が意気消沈してしまう。後方部隊を含めて1個方面軍(軍)が投入されるも、最初の突撃だけで全体の一割が早くも失われた。重砲と機関銃による暴風雨は、旅順の戦いを計数的に拡大したような有様だったが、月の表面のような有様となっていたそこは、単なる塹壕が広がるだけの西部戦線では一般的な戦場に過ぎなかった。当時独仏の間で激戦が展開されていたベルダン要塞戦に比べれば、二線級の戦線に過ぎなかった。
 その後も慌てるように補充兵と増援が日本本土から派遣されても、前線の兵力が充足される事ははなかった。戦争全体で日本は、約15万人の戦死者とその二倍近い数の負傷者を出すことになった。つまり、派兵された兵士の死傷率が五割に達したのだ。この数字は日露戦争の損害を越える数字で、日本国民の間に撤退運動が行われたほどとなった。戦争当事者であるフランスなどに比べれば絶対数においてはるかに軽微な損害なのだが、いまだ未熟な国家である日本にとっては耐え難い損害だった。あまりの損害に、兵士の供給源である日本の農村部では、大戦後半になると派兵反対のデモ(一揆)が頻発したほどだった。
 そして日本本土では、ヨーロッパ派兵を支えるために国民の約5%に当たる250万人以上(※後備などを含め270万人・国民の5.5%)の動員が行われ、戦費も自国負担分だけで50億円(25億ドル)以上に達した。戦費の半分近くを英仏が負担した形になっていたのだが、この数字でも当時の日本にとっては大きな負担だった。何しろ開戦頃の国家予算は、10億円に達していなかった。
 また前線では、日露戦争の善戦が風聞としてある程度伝わっていたため当初は連合軍各国から相応に期待されたが、結局のところ所詮有色人種の国と軍隊でしかないという再認識がヨーロッパ各国で行われた。それでも全く役立たずでもなかったし、同盟国として血を流したため扱いはそれなりだった。有色人種だけの軍隊が最低限の礼を受けたことは、当時の人種偏見が横行するヨーロッパ社会(白人社会)では評価すべきことだろう。
 だが戦争の帰趨が、日本の本格参戦や大量派兵ではない事も1917年夏までに証明された。50万人の兵力など、ヨーロッパでは中小国の動員力でしかなかったからだ。
 戦争の帰趨を決したのは、二つの要素だった。
 ロシア革命とアメリカ参戦だ。
 ロシア革命によりドイツは戦力の半分近くにフリーハンドを得て、アメリカ参戦によって連合軍はドイツを打倒しうるだけの兵力供給先を得たからだ。アメリカは、参戦からわずか一年で200万の兵士をヨーロッパに送り込み、膨大な物資を積み上げて見せた。
 そして戦闘は1918年春にドイツ側が仕掛けた攻勢「カイザー・シュラハト」によってクライマックスを迎え、攻勢限界に達したドイツ軍の後退とアメリカ軍を得た連合軍の反撃によってドイツの不利が決定的となる。1917年から流行したインフルエンザ、スペイン風邪から兵士達が前線に戻る間隙をアメリカ軍の増援が突いた効果も大きかった。
 そして1918年夏から秋にかけて、崩れ去るように同盟軍の敗退と戦争離脱が相次ぎ、戦争経済が完全に行き詰まっていたドイツで、1918年11月に革命が発生。ドイツ皇帝の亡命という事件はあったが、世界大戦は劇的情景を迎えないまま終幕を迎える事となった。
 この戦争において日本は、周囲の期待と自らの努力にも関わらず、主要国以外のその他大勢の参戦国でしかなかった。ヨーロッパ列強の動員数や損害、戦費は、日本とは文字通り桁が違っていたからだった。助太刀した形の日本だったが、自らの大損害に対して英仏などに泣き言すら言えなかった。戦争終了時のヨーロッパ各国は、立っているのもやっとという状態だった。それに比べれば、日本軍の損害などかすり傷でしかなかったのだ。

 なお第一次世界大戦に連動する形で、アジアでも出兵が行われていた。1917年3月に発生した「ロシア革命」に連動した「シベリア出兵」である。
 ロシア革命の頃、日本はヨーロッパへの派兵と兵站の維持で完全に手一杯となっていた。兵力量や英仏の経費負担があっても、地球の反対側への派兵は、まだ近代国家として未熟な日本にとっては大きすぎる負担だった。シベリアどころか、本当なら進出したいチャイナへ手も付けられない状態だった。動員が進んでいるので兵隊は何とかなるのだが、動かす為の金と物資がなかった。砲弾や銃弾も、日本で作る側から輸送船に乗せてヨーロッパに送られていた。
 しかし日本も、ロシア革命の影響は最低限に抑さえるべきだという世界的な考えには大いに賛同した。日本も立憲君主国家で、特権階級も存在したからだ。それにロシアの戦線離脱は国家として明確な裏切り行為であり、許すべき事でもなかった。
 そこでシベリア近隣で唯一の近代国家だった日本は、国力に余裕のあるアメリカ共々シベリア出兵での主力として期待された。
 また日露戦争後に日本とアメリカの経済関係が強まっている事もあって、日米共謀でこれにイギリスを巻き込んで、ロシア領コリアの独立(復帰)とマンチュリアでの中華民国の影響力回復ができないかと画策された。
 シベリア出兵自体は、日本は連合軍の主力の一翼を担う形になり、師団規模の戦力をシベリアとコリア、マンチュリア各地に派兵した。しかし国際的な力関係からイギリス、アメリカの言いなりであり、日本自身も出過ぎた行動に出ることはなかった。それに日本政府としては、自国の安全保障を確保するのが目的であり、それが達成されるのなら文句はなかった。日本国内には膨張主義もまったく存在しないわけではなかったが、それが妄想や妄言であることを大多数の人が正しく認識していた。
 その後シベリアと北東アジア各地で混乱が広がるが、1920年には連合国各国もシベリアから撤退した。国際外交上での横紙破りのためコリアも結局独立させることはできず、全てがロシア人の領土として保全される形のままで事態は終息した。日本は、サハリン(樺太)やクリル(千島)、特にロシア人に奪われたクリル(千島)には未練を見せたが、他国とタイミングを合わせて撤退するより他無かった。国際的に見て法を犯しているのは、干渉した側にあるからだ。そして日本にとって、国際ルールはいまだ厳しく守るべきものだった。
 また撤退自体は、軍事力を用いた干渉がロシア人やその他の民族の反発を買って、各地での共産党運動とシベリアでの赤軍の反撃により挫折を余儀なくされたからでもあった。この流れで、ソビエト社会主義共和国連邦が成立した1922年から1924年にかけて、モンゴル(蒙古)、プリモンゴル(内蒙古)、マンチュリア(後清)、東トルキスタン(ウイグル)の各地に、各現地民族の共産党主導による人民政府(人民共和国)が成立した。
 しかし、コリア(朝鮮)はそのまま引き続いてソビエト連邦へと加盟し、ロシア帝国時代と変わらなかった。あまりの過酷な統治により、ヨーロッパ・ロシアでの少数民族のように現地民族から独立する気力と能力が失われていたからだった。ロシア統治時代の短期間で朝鮮民族の数が半数近くに減ったという数字を示すことで、朝鮮半島での統治と荒廃ぶりが多少は理解できるだろうか。
 これはロシア人が、他の北東アジア地域と同様に自分たちの傀儡国家を作らなかったことでも証明されている。
 しかしシベリア出兵や北東アジア情勢は、当時の世界にとって全くの些事に過ぎなかった。

 それを表すかのように、1919年「ベルサイユ講和会議」が開催された。
 無論、世界大戦の決着を付けるためだった。そして、同盟国というよりドイツから莫大な賠償金をむしり取らない限り、連合軍各国も戦後の国家運営が立ちゆかなくなってしまうからであった。
 この会議で日本は、久しぶりに戦勝国側として出席した。
 主要国とはいかなかったが、イギリス、フランス、イタリアそしてアメリカに次ぐ地位の国として会議に参加し、戦争への貢献と損害に似合うだけの立ち位置を確保する事ができた。交渉団も、現地にまだ残っていた軍人多数を含めて数百名が送り込まれた。
 一等国として扱われなかったことに国民の一部に不満が大きかったと言われているが、ようやく末席ながらも列強と肩を並べることができた事に日本人の多くが満足して喝采を叫んだ。
 しかも今回の戦争では、勝者の側だった。日露戦争での敗北と戦後の苦境は、それほど日本に大きな心の傷(トラウマ)となっていたのだ。ようやく日本は、心理面で一息つけたと表現できるだろう。
 なおパリ講和会議で日本は、賠償としてドイツ領の南洋諸島と東部ニューギニアの島嶼部を事実上獲得した(※東部ニューギニアは、オーストラリアが獲得した)。中華各地の旧ドイツ利権は、戦中こそイギリスなどとの共同占領が続けられたが、会議で中華民国に返還された。他の賠償としては、賠償金の2%(2億6400万マルク)を日本は獲得したが、その後の様々な変化によって一部兵器や各種機械、工業製品以外は結局ほとんど得られなかった。
 それでも海外領土が得られた事は、日本人一般にとっては日本が高く国際評価された証として喜ばれた。
 しかも日本人の喜びは続いた。

 その後の国際連盟設立では、提案者のアメリカが参加を辞退した穴埋めの形で、日本が常任理事国に選出されたからだ。選出が国際バランスのためや数合わせ、大戦参戦への報償であっても、その数の中に入れたことは十分な外交成果だと考えられた。何しろ、中華民国や南米諸国が選ばれず、日本が選ばれたのだ。
 結果、イギリス、フランス、イタリア、そして日本が初期の国際連盟常任理事国となった。
 そして戦争特需による経済発展、多額の借金国からの脱却なども重なって、国威が大きく上向いた。日本国民の間にも、ようやく「一等国日本」という考えが出てくるようになる。
 しかし日本政府は、列強と比べると軍備や国力がまだまだ小さい事を自覚しているので、親英米政策に大きな変更はなかった。それに日本には、ソビエト連邦という新たな敵も現れたので、今までの外交方針の堅持は当然の選択だった。
 上るべき坂道は、まだまだ目の前に続いていた。


●フェイズ5「大戦後の日本の軍備と安全保障政策」