■フェイズ5「大戦後の日本の軍備と安全保障政策」

 1921年、「ワシントン海軍軍縮会議」が開催された。
 イギリス、アメリカを中心にして、世界大戦後も有力な海軍を保有する海軍国が集った。その中の一角として日本も会議へと参加する運びとなった。
 この頃日本海軍は、日露戦争時代の前ド級戦艦4隻、装甲巡洋艦8隻に加えて、世界大戦までに建造された前ド級戦艦と前ド級巡洋戦艦を合わせて4隻、さらに世界大戦中からこの時期までに建造された巡洋戦艦を4隻保有していた。最後の4隻はイギリスに発注するも、大戦中は半数がイギリスに借り上げられてイギリス海軍として戦争に参加し、戦後日本に安価で再度売却されたものだった。加えて日本各地の大型造船所では、新たに4隻の戦艦が建造もしくは計画中で、新時代の戦艦戦力に関しては他の会議参加国のフランス、イタリアを凌ぐほどとなりつつあった。
 そしてこの頃日本が新たに計画するようになった艦隊建造計画が、「八八艦隊計画」だった。計画はその名の通り、艦齢8年以内の8隻の戦艦もしくは巡洋戦艦の保有を目指すというものだった。要するに、毎年1隻の戦艦か巡洋戦艦を建造するという計画だ。
 世界大戦前の列強各国の海軍増強から見れば実に可愛い計画だったが、大戦後となると不要なものなのではと考えられた。技術の向上に伴う戦艦1隻当たりの価格および能力の大幅な上昇と、戦後の日本には外敵となりうる国が特に見あたらなかった為だ。日本海軍の一部の者は自分たちの発言権と昇格ポストを増やすべく色々と海軍増強の理由を日本政府や国民に説明してみたが、国際政治上で必要な要素はほとんど見られなかった。そのことは、日本政府の多くの者が十分以上に理解していた。
 イギリスは同盟国で、アメリカとは経済関係を中心に関係は良好だった。さらにアメリカとの軍事関係は、ロシアを牽制するためにアメリカ艦艇に日本に寄港してもらったりもして良好だった。好意的な言葉として、「東洋のスウェーデン」という言葉が出たほどだった。
 他にも、最も脅威度の高い仮想敵だったロシア帝国、次点となるドイツ帝国は国家ごと消えて、フランス、イタリアも世界大戦を共に戦った関係だった。ロシアでソビエト連邦(ソ連)という共産主義国家が新たに誕生したが、ソ連の海軍力整備はどう考えても当面不可能と判断されていた。つまり日本の外交状況は、向こう十年間敵が現れるはと考えられないほど安定していた。しかも新世代の軍艦は急速に大型化しており、多数の戦艦を中心とする艦隊整備は尚更不要な軍備に映る傾向が強かった。
 ただ日本の場合は、世界大戦の影響で国力と経済力そして国家予算枠が大きくなったので、半ば惰性で計画を進めていた側面もあった。また先に書いたように、海軍自身が官僚的考えから自らの存続のために計画を推進している歪な形になりつつあった。
 しかも新たに計画中の新型戦艦は、基準排水量が3万4000トンで速力27ノットの発揮が可能という極めて高性能な戦艦だった。これにはアメリカやイギリスも警戒感を持ち、軍縮会議の呼び水の一つになったと言われたほどだった。
 このため日本政府は、国際外交上での日本の立場の安定と、国防方針の改訂と健全化を兼ねて会議への積極参加を実施し、自ら大幅な海軍力削減を計ろうとした。日本にとっては、贅沢な新型戦艦を少しばかり持つことによるプレゼンスの誇示よりも、英米との友好的な外交関係の方が遙かに大切だった。それに実際の所、4隻もの巨大戦艦を建造することは、健全な国家財政と国防予算を考えれば、過ぎたる玩具だと日本政府も考えていた。そして日露戦争での敗北以後、国家体制のさらなる洗練化を続けていた日本中央にとって、不健全な軍備は看過できない内政問題でもあった。

 軍縮会議において日本代表団は、積極的な縮小案を自ら提案した。その案は二大海軍国であるイギリス、アメリカを慌てさせたほどのものだった。
 そして会議では、イギリス、アメリカの52万5000トンを100%の基準として、フランス、イタリア、日本は共に33%(17万5000トン)の保有枠で決着した。新たな軍備である航空母艦についても英米が共に13万5000トン、日本は仏伊と同じく6万トン分の航空母艦が建造できる事になった。また戦艦の主砲口径の上限は、現状での最大口径である15インチに抑さえられてもいる。
 日本代表団は、この決定に異を唱えることなく、むしろ積極的に会議を進めそして調印した。国内では海軍関係者と造船業者のごく一部は反発を示したが、日本には強い脅威となる仮想敵が存在しないとして、海軍の縮小が断行されることになった。国民のほとんども、平和と安定をもたらすであろう軍縮に賛成した。
 仮想敵のロシアは消え、ソ連は新たな海軍拡張には十年以上必要と考えられたからだ。しかも英米を始め他の列強とは全て関係が良好で、そもそも英米相手では戦争にもならないのだから、国力相応の必要十分な海防戦力が備えられれば十分だったからだ。

 会議の結果日本は、排水量2万7500トンの《金剛級》巡洋戦艦4隻、排水量3万4000トンの新型高速戦艦2隻を保有する事になる。新型高速戦艦の主砲はイギリスから輸入された42口径15インチ砲のライセンス生産品であり、当然ながら軍縮条約内に抑えられていた。
 そして日本の新型高速戦艦《伊勢》《日向》は、アメリカのフォーシスターズ(《テネシー》《カリフォルニア》《メリーランド》《コロラド》(全て50口径14インチ砲装備))、イギリスの保有する世界最大の戦艦《フッド》と共に世界のビックセブンと呼ばれるようになる。日本人にとって、これまでにない名誉な事だった。
 なお《伊勢》《日向》は、基準排水量3万4600トン、最高速力27.5ノット、42口径15インチ連装砲塔を5基10門搭載した大型の高速戦艦で、イギリスの《フッド》と《クイーン・エリザベス級》の中間のような印象も受ける本格的な次世代型高速戦艦だった。もしくは、金剛級に砲塔をもう一つ増やしたような形状でもあった。
 そして他の高性能巡洋戦艦の存在もあって、以後アメリカ海軍が日本海軍にかなりの警戒感を見せるようになった程だった。アメリカが保有する戦艦の全てが、火力や防御力はともかく速力面で大きく劣勢だったからだ。
 しかし日本は、会議締結後も国力と国家予算に沿ったレベルの海軍整備計画しか行われなかった。軍縮条約に従って新たに計画された新型巡洋艦は、世界大戦の教訓を大幅に盛り込み、さらに通商航路拡大や領土拡張に対応した、イギリス海軍の巡洋艦と似た用途の巡洋艦らしい巡洋艦となった。新設計の駆逐艦も、海上護衛や対潜水艦戦を重視した装備が施されており、無理な設計や装備は施されていなかった。しかも世界大戦で多数の簡易建造型の護衛駆逐艦が保有されたため、建造も技術試験や建造技術維持を目的とした限られた数でしかなかった。新たに建造が開始された航空母艦も、まずは実験的な排水量1万トン以下の軽空母が建造された。その後も発展型と言える軽空母が続けて建造されたに止まっている。複葉機が当然の時代なら、その程度の規模で必要十分だし、日本海軍の用途が偵察と限定的な防空、さらには潜水艦制圧への応用なのだから、規模の大きな母艦は不要だった。それに日本には、イギリスのように空母に転用すべき大型艦も予算なかった。6万トンも保有枠をもらっても、1万トン以下が対象外とされては満たすだけの必要性がどこにもなかった。

 なお日本政府は、日英同盟の維持とアメリカとの良好な経済関係を軸にした自国の安全保障を構築する事に努めていた。海軍も、英米と共に戦う事を考えた場合に、日本の国力に応じた活動と活躍ができる事を配慮した仕様が求められていた。何しろ万が一英米と関係が悪化しても、国力差と戦力差から戦争にならないことが最初から明らかだったからでもあった。戦う戦わないのどちらにせよ、基本的に本格的な考慮をする必要がないと割り切っていたのだ。
 また近隣の仮想敵は主にソビエト連邦であり、イギリスの三分の一程度の規模の海軍があれば、当面はまったく問題がなかった。戦艦の主な使い道も列強としての顔を維持するための表看板としての抑止効果ぐらいにしかなく、常時3隻程度が活動していれば十分な抑止力が期待できた。そして活動している戦艦は、相手国の通商破壊に迅速に対応できる高速力が発揮できる航海性能と航続距離に優れた戦闘艦が望ましかった。
 何しろアジアで新鋭戦艦を保有するのが、日本一国しか存在しないからだった。
 一方では、アジア唯一の戦艦を保有する近代国家として天狗になっても良さそうなものだったが、そうはならなかった。
 日露戦争で手ひどく負けた記憶がいまだ残り続けていたし、世界大戦でも世界の壁を痛感させられていたからだった。日本国民も、政府が日本の力をできるだけ正確に伝えていたため、軍縮での結果が分不相応だと決めつけて激高することはほとんどなかった。世界大戦で部数拡大のため過剰な記事ばかり書いていた新聞が、一斉に処罰された事があった程度だった。

 一方、世界大戦の間に肥大化した日本陸軍だが、大戦終了と共に大規模な軍縮が実施された。
 大戦最盛期40個師団近くが編成されるも、戦後すぐに三分の一以下の規模の13個師団にまで縮小された。兵員数も230万人に達していたものが、動員解除によって十分の一以下に削減された。見た目では、日露戦争前よりも小さな規模とされた。
 しかも師団の全てが大戦中に導入された三単位制の師団で、1個師団当たりの兵員数もそれまでより大幅に削減されていた。その代わり大戦でフランス、イギリス、ドイツ(賠償)で得た多数の最新兵器を解体した師団から贅沢に取り入れたため、火力で兵員数の減少を補う形になっていた。無論、戦争で余った弾薬も豊富にもらって帰ってきていたので、当面弾薬にも不足はなかった。また大戦中に作られた戦車連隊、飛行連隊の多くも解体されたが、戦技研究として一定数が保持され、研究と開発も細々とながら続けられた。またある程度保存の利く戦車は、一部が重量物運搬に用いられ、試験的に軍用の土木作業機械に改造されるも、多くが倉庫に保管された。部隊に配備されたのは、僅かな数でしかなかった。常時運用するだけの予算が得られなかったためだ。
 そして師団のうちかなりが兵員を充足しない状態に置かれたため、兵員全体の数はさらに大きく絞られていった。総数では平時状態で16万人とされ、軍事費全体の削減に大きく貢献していた。日本陸軍は、平時において4個師団しか常時兵員を充足させず、それすら戦時の動員に比べて後方部隊を用意しないなど、かなり限られたものでしかなかった。
 軍全体の兵員数も、海軍の4万人、空軍の2万人を入れた22万人体制が、以後十年以上続けられる事になる。このため陸軍では平時において徴兵制がほとんど不要になり(※海軍は大戦中を除き志願制)、平時用に本格的な選抜徴兵制へと制度自体も変更された。しかも実態は、ほとんど志願制軍隊だった。徴兵検査時の面接で、志願意欲の強い者だけで十分に兵員が確保できたからだ。
 また世界大戦の間に陸軍から派生する形で新たに誕生した空軍だったが、こちらも大幅な軍縮の対象にさらられた。新軍種ということもあって政治力がなかったことから、一番の削減対象となった。海軍や陸軍も偵察面を中心に航空戦力を持っていたので尚更だった。空軍としての制空能力と偵察能力はかなり残されたが、遠距離爆撃能力はほぼ皆無となった。ただし研究開発費だけは多額の予算が計上されており、日本の国力増大と近隣情勢の緊迫化に伴い徐々に空軍全体の規模を拡大していく事になる。
 最後に軍事費だが、国家予算全体の四分の一以下になるよう努力が行われ、1920年代から30年代半ばにかけては概ねこれが保たれる事になった。場合によっては、関東大震災後数年間のように2割を割り込む事もあったほどだ。
 そしてこうした効率的な軍備計画が行えたのは、軍の政治組織を統合したことが大きく影響していた。
 世界大戦の半ばに法外となってきた軍事予算と軍需物資の量に対処するため、まずは1916年に軍需省が設立された。ここで陸海軍の予算や兵器の生産を管理するようになり、新たに出来た軍である空軍を臨時措置として管轄するようになった。そして徐々に組織の拡大と整備が行われた。しかし戦後に空軍省が作られることはなく、制度の改変と省庁の合理化を巡る議論が国会で何度も議論された。
 そして戦後のこの時期の軍備再編に連動して、一気に省庁の改変も行ってしまったのだ。この結果陸軍省、海軍省、さらには軍需省も消滅して、新たに国防省が設立された。大本営もなくなり、総参謀部が新たにしかも常設の形で作られた。連動して軍官僚の教育も順次一元化される事になり、軍の教育自体も大規模な改革が断行されるようになった。日本国内での学校制度及び就学者の充実と、世界大戦での将校の柔軟性の欠如が問題視を理由として、幼年学校制度も廃止された。
 全ては、莫大な戦費を使った世界大戦の教訓と恐怖が生み出したものだった。一部の者は、憲法上での「統帥権」を持ち出す者がいたが、政府が率先して明治憲法の本来の役割、目的を広く流布する事と、若干の憲法改定によって問題のほとんども回避された。

 次に軍備に連動した外交関係だが、「ワシントン海軍軍縮会議」で、「日英同盟」の更新が行われた。日英同盟はもはや日本外交の基本であり、日本側から熱心に同盟の継続と更新の外交工作が行われた。イギリスの側も、世界大戦で縮小した自国戦力と国力を補完するため、世界の反対側にある日本との同盟は今後十年は有効だと判断していた。また太平洋側から社会主義ロシアを封じるためにも、日本との同盟は有効だと考えられた。
 日英同盟継続にアメリカが若干苦言を言ったが、日本そのものが基本的にアメリカの脅威としては小さく、さらに日本は中華大陸利権をほとんど持っていないので、アメリカの障害としては小さすぎた。しかも日本は常に親米政策を取っているので、仮想敵としての位置も低かった。アメリカにとっての脅威は、日系民ぐらいと言われたほどだ。しかもこの時日本側からは、アメリカとの軍事同盟や協商関係の提案があったほどだった。
 ただアメリカとしては、日本が日英同盟にかこつけてイギリスの持つ中華大陸利権や市場に食い込んでいることが気に入らなかった。そしてイギリスの中華大陸利権に関しては、イギリスとアメリカの問題であり、日本との問題でもなかった。中華各勢力も、個人的人脈を除いて日本はほとんど無視していた。
 日本がアメリカよりも高性能の戦艦(巡洋戦艦)を保有することにもなったが、戦艦戦力全体では21対6と話にもならない数的差のため、基本的には「羨ましい」という程度の感情論でしかなかった。
 それにアメリカにとっての日本は、依然としてアジア市場の一つであり、中華市場に向かうための橋頭堡の一つだった。実際、多くの企業が日本に進出していた。また日本に対しては、共産主義国家を作ったロシアを太平洋に出さないための防波堤としての役割を今後期待していた。そして日本がロシア人と睨み合っている間に、日本を橋頭堡の一つとして、大陸に食い込むことがアメリカの主なアジア戦略だった。
 このため日本の控えめな増長は、多少ならば多めに見るべきだと判断された。軍縮条約で取り決めるまでもなく、ドイツ領の南洋諸島には最低限の警察力以外の軍備を置かないと言っているのだから、可愛いものだった(※後に軍縮条約でも決められた)。
 このためアメリカも、事実上の対向者や仮想敵がいないため、海軍関係者の思惑をよそに海軍予算は削減され、艦艇の整備も緩やかなものとなった。しかも、アメリカ海軍の関係者が日本の脅威を煽って自分たちの予算と軍艦を得ようとしているという話しが流布し、アメリカ海軍のアメリカ国内での肩身はかなり狭いものだった。

 なお、軍縮条約内で巡洋艦の主砲制限が8インチ砲(20.1センチ)とされたが、イギリスが7.5インチ砲搭載艦を既に持っているので、フランス、イタリアがまずは8インチ砲搭載巡洋艦の建造を始めた。これにイギリス、アメリカが順番に続き、最後に日本が数隻の建造を行ったに止まっている。しかも日本海軍などは、20センチ砲搭載巡洋艦は火砲に対して中途半端な能力しか与えられないので、むしろ建造したがらなかったほどだった。渋々建造したのも、軍拡の原則に従ったに過ぎない。
 このため日本海軍は、多数の条約型重巡洋艦を建造する事なく、ある程度似た戦力価値を発揮できる軽巡洋艦の開発を独自に進めていった。大型の軽巡洋艦の方がバランスのとれた性能を与えることができる上に安上がりで、しかも合理的だったからだ。日本が建造した重巡洋艦の数も結局6隻にとどまり、戦艦と合わせて「今六六艦隊」などと日本人の間で言われたりもした。
 もっとも日本海軍は、世界に先駆けて5.1インチ砲を12門搭載した大型の軽巡洋艦を建造して、列強を少しばかり驚かせることになるなど、海軍軍備においての先進性を持つなど徐々にその力を高めつつあった。


●フェイズ6「コミュニズムとファシズムの台頭」