■フェイズ10「第二次世界大戦(3)」

 1942年7月5日、北大西洋上でソ連に援助物資を届けるための「PQ-17」船団が、ドイツ軍の攻撃によって大損害を受けた。
 この損害によって、アメリカ国民の間にドイツに対する敵意と参戦支持が急速に盛り上がった。多数のアメリカ人、しかも軍人ではない民間人が船に乗り込んでいたため、多数犠牲になったからだ。

 この頃アメリカは、1941年夏の時点で大西洋上を航行する自国商船に対して自国海軍による護衛を付けるようになっていた。軍そのものも、1941年秋までにグリーンランド、アイスランドに進出していた。時が進むと、ドイツ潜水艦すら平然と攻撃するようにすらなっていた。間違いなくドイツに対する挑発であり、イギリスなどに武器を含めた物資を運ぶという行為そのものは、既に戦争行為に他ならなかった。レンドリースの対象も、イギリス、日本、自由フランスなどに加えて、ソビエト連邦も支援していた。ドイツが手出しできない太平洋からシベリア鉄道を使う支援ルートは、日本を中継点とした援助ルートとして拡大の一途を辿っていた。そして日本やソ連に向かうよりも何倍もの船が大西洋を押し渡り、ブリテン島に兵器や物資を送り届けていた。
 しかしドイツは、アメリカ軍に絶対に反撃してはならないという命令を全軍に出しており、ドイツ軍将兵も強く自重していた。輸送船団を攻撃する潜水艦が日常的に撃沈されるようになっても、自分たちの側からは手は出さなかった。アメリカが本格的に参戦して、巨大な生産力と巨大な人口の全てが戦争に向かった時点で、自らの敗北が目に見えているからだ。ドイツ総統のアドルフ・ヒトラーはアメリカの国力や軍隊をかなり侮っていたと言われるが、それでもアメリカの参戦が不利益だという見識は有していた。
 もっとも、ヨーロッパでの戦争に対するアメリカ国民の一般的な意見は、参戦から遠いところにあった。
 フランスが早々に敗北したのは衝撃だったが、気が付けばドイツはロシアとも戦争を始めた。それに早くから日本がイギリスの助太刀に行っているので、戦争自体はヨーロッパの中で終わり、イギリスが負けることはないだろうという程度の見識でしかなかった。だが政府や財界の見解は違っていた。
 アメリカの中枢は、自らが大規模に戦争に関わることによって、自らの経済、正確には国内の巨大な生産力をフル稼働させる事で国力を大幅に拡大し、戦争に勝利し尚かつイニシアチブを握る事でヨーロッパの経済覇権を手にすることができると考えていたからだ。
 そしてアメリカの行動は、日に日にエスカレートしており、ついには大西洋航路でソ連に対する援助船団にも積極的に参加するようになっていた。しかもアメリカは、船の多くをイギリス船籍に移した上で前線でも作戦参加させて、半ばドイツ軍を欺いていた。
 そして事態を看過できないドイツ軍が船団を攻撃して、幸運もあって壊滅的打撃を与えることに成功した。ドイツ海軍の水上艦艇襲撃を恐れた船団は散り散りになって逃げ、そこにドイツ軍の潜水艦や航空機が襲いかかったのだ。
 しかし成功には大きな対価が必要だった。

 アメリカ船舶は、船籍をイギリスに移していたが、船員はアメリカ籍のままの者が多数いたのだ。
 救助どころか漂流もままならない冷たい北の海では多数の犠牲者が発生し、その事がアメリカ世論を揺り動かした。
 ただドイツにとって幸いな事に、この時すぐにアメリカが対独参戦に踏み切ることはなかった。アメリカの生産量が一段と高まり、連合軍に対する援助が計数的に増え、アメリカ軍の徴兵制が強化され、徴兵されるまでもなく軍に志願する若者が大幅に増えただけで済んだ。まだアメリカ世論は、参戦に対して煮え切っていなかった。日本とアメリカとの間に協議が重ねられ、太平洋艦隊に駆逐艦すらいなくなるほど艦艇が大西洋に回されたが、それでもドイツに宣戦布告する事はなかった。
 しかし同年9月半ば、遂に破局が訪れる。
 7月と似たような状態の戦闘が、北大西洋上で再度発生。この時40隻いた船団のうち13隻が沈められたが、うち6隻はアメリカ船籍の船だった。今度はアメリカは偽らなかったので、星条旗を掲げた民間の船が大量に沈められる事になった。
 アメリカ世論は、遂に参戦を是とした。
 まずは、11月の中間選挙にもルーズベルト率いる民主党は勝利して、戦争指導体制を確固たるものにした。そしてアメリカ議会は、ルーズベルト大統領の出した対独参戦案を万雷の拍手の中、圧倒的賛成多数で可決。共和党も、対立を棄ててこの時は賛成に回った。
 ついにアメリカは、世界大戦クラブの会員となったのだ。
 参戦は1942年12月7日(グリニッジ時間)の事だった。

 アメリカは参戦したが、すぐにアメリカの大軍がヨーロッパに溢れた訳ではなかった。
 確かにアメリカ経済の戦時生産体制は、戦争に参加せずとも着実に進んでいた。主に国内の不景気対策として始まった軍艦の建造も順調だった。戦車や航空機など兵器の増産は、計数的に拡大していた。レンドリースでは、様々な物資と共に豊富な兵器が連合軍各国に供給されていた。国内では兵士の徴兵と厳しい訓練も進んでいた。
 しかしアメリカには、戦争に対する教訓、戦訓、そして犠牲が不足していた。
 また戦争準備が進んでいたとは言っても、総力戦という面で見た場合、本格的な兵士の動員が行われていた訳ではなかった。
 アメリカが本格的に大軍をヨーロッパに派遣できるようになるまでには、早くても1年の歳月が必要だった。
 しかもアメリカ軍自体が本格的に活動するようになるまで、準備を含めて最低で三ヶ月、一般的な状況からなら約半年が必要だった。
 参戦当初は、Uボートに右往左往して大量の輸送船舶を失い、アメリカ東部沿岸ですら経験豊富なイギリスや日本が手助けをしなければならないほどだった。日本からは、最新鋭の護衛艦艇が十数隻も供与されたりしている。
 参戦から三ヶ月目に早くも開始されたヨーロッパに対する戦略爆撃でも、初期はドイツ軍の迎撃にあって逃げ散ったり、爆撃場所を間違えたりと、失敗ばかりしていた。アメリカから貸与された機材で戦っている非力な日本軍の方が、多くの戦果を挙げていた。
 しかしアメリカの力は、まるでゆっくり確実に締まってくる万力のようなものだった。日本軍では、基本的な国力、戦場と本国との距離などの問題もあって、最大で300機の重爆撃機を用いた継続的な夜間爆撃が限界だった。だがアメリカ軍は、参戦から半年で300機単位の昼間爆撃を日常化させ、一年後には1000機単位の爆撃を平然と行うようになっていた。日本空軍ではルール工業地帯の爆撃が限界だったが、アメリカ軍は単独でのベルリン爆撃も行い損害にも平然と耐えて見せた。重爆撃機そのものも、日本空軍は自国製の「三菱・一式重爆撃機(連山)」や「川西・二式重爆撃機(泰山)」よりも、アメリカから大量に貸与された「コンソリデーテッド・B-24(リベレーター)」を好んで使った。カタログスペックはともかく、稼働率や機械的信頼性の差がそうさせたのだった。
 海でも、アメリカの参戦一年を越える頃には、膨大という以上の海上護衛組織が出現して、イギリスと日本が長年苦しめられたUボートを数の力で封殺してしまった。大戦中に都合200隻近く建造された護衛空母よ呼ばれる簡易建造空母の群は、アメリカの工業力の象徴だった。イギリスと日本のそれまでの努力と功績も大きかったのだが、アメリカの物量なくしてUボートを完全に封殺することはできなかっただろう。日英の精鋭部隊としのぎを削ったドイツ海軍のボート乗りの奮闘も、問答無用の物量戦の前には蟷螂の斧でしかなかった。
 なおアメリカは、1937年以後に艦隊用空母を合わせて14隻も建造し、これだけでもイギリスと日本を足した数を上回っていた。戦艦についても、都合10隻も建造していた。一時は、自国用としては作りすぎたため、イギリスや日本に大型艦も貸与しようという話しもあったほどだった。そうした中で、都合190隻以上建造した護衛空母のうち、約40隻をイギリスに、約30隻と日本に貸与している。日本海軍では、借りた空母の命名に困った程だった。しかも護衛空母以外では、アメリカの造船力はまだ余力を十分に残していた。この圧倒的という以上の生産力こそが、ドイツの抵抗を問答無用に押しつぶしていったのだ。
 何しろ、日本が終戦までに実戦投入した軽空母、護衛空母の数は、全てを合わせても20隻程度でしかなかった。アメリカの工業力の巨大さを分かりやすく伝えている例と言えるだろう。

 そして戦争全体を見渡した場合、アメリカという国家そのものが巨大な金槌だった。
 金床はソ連であり、初戦で大敗を喫したソ連だったが、なりふり構わない焦土戦術と後退戦術、そして国土の主要な地域を失ってもなお衰えることを知らない膨大な兵力供給力、さらにはレンドリースによって、強力なドイツ軍の主力部隊をロシアの大地にがんじがらめにしていった。
 無論ドイツ軍が弱かったわけでも、手加減したわけでもなかった。間違いなく、民族の総力を挙げ死力を尽くして戦っていた。むしろドイツの主敵は、ロシア人だった。ヨーロッパの枢軸国も、ほぼ全力を東部戦線に注ぎ込んでいた。イタリアですら、陸軍主力は東部戦線に展開していた。
 そしてドイツ人には、外様の日本がなぜ熱心にヨーロッパで戦うのか理解できなかった。日本人に言わせれば、一等国としての日本の存在を世界に示すためだという返答があっただろうが、そうした考え方は植民地を持たないヨーロッパ中央部に住む人々にとって考えの及びにくい事だっただろう。
 国家が挙げて行う戦争とは、民族の存亡を賭けて戦う戦争であり、それは外征による国威発揚や国際地位の向上ではない筈のものだったからだ。

 ドイツ軍によるソ連に対する大規模攻勢は、1942年6月から二度目の総攻撃が開始された。既に敵首都のモスクワを落としているためドイツ軍の士気は依然として高く、同年11月までにドイツ軍はコーカサス地域からボルガ川河口部にまで進撃した。しかし補給難に陥ったため、ウラル山脈に行くこともできなかったし、A=Aラインの到達も叶わなかった。コーカサス山脈の向こう側にあるバクー油田までの進撃もかなわなかった。
 また、同年夏頃からはソ連軍は容易に包囲されなくなり、戦い方もそれまでよりも柔軟で狡猾になっていた。歩兵対歩兵の戦いになると、ドイツ軍の消耗も非常に激しくなった。しかもペルシャ湾から伸びる連合軍の補給ルートからも、主にアメリカの援助物資が多数届けられるようになっていた。しかも連合軍空軍機がペルシャ湾からコーカサスまで爆弾を落としに飛来するようになり、何を考えたのか日本海軍の水上機部隊はカスピ海を根城にしてドイツ軍への嫌がらせを行ったりもした。
 このためドイツ軍は、喉から手が出る以上に欲しかったバクー油田の手前で進撃を止めざるを得なかったのだ。
 他の東部戦線でも、ソ連軍の焦土戦術による後退、進撃による補給路の延長、戦線後方でのパルチザンの増加、補給負担の増大、というプロセスが続いていた。
 ドイツ軍は勝っている筈なのに、進めば進むほど負担ばかりが増えていた。見たことのない兵器も、多数姿を見せるようになった。撃破したり捕獲して調べてみると、ロシア人らしくない兵器には圧倒的な英語表記の中に日本語も混ざっていた。全世界から、ロシア人に兵器が供給されるようになっていたのだ。

 そして冬になると、今度こそソ連軍の反撃が始まった。
 冬のヨーロッパ・ロシア奥地では、血で血を争う戦いとなった。前年の冬はソ連側の混乱のために組織的な反撃は少なかったが、ロシア兵が自国の冬に慣れている事はドイツ人も十分に理解したつもりだった。自らも、今度は冬に対する準備を行うことができた。だが、この年の組織だったソ連赤軍の冬の反撃で、その認識が甘かったことをドイツ人は思い知らされる。
 両者の意地を賭けた攻防戦が行われたモスクワは何とかドイツ軍の手に保持されたが、モスクワバルコンと呼ばれる突出部として半ば以上に包囲された形に追いやられていた。ボルゴグラードと改称されたスターリングラードとアストラハンのラインは辛うじて保持されたが、バクー油田を目指しコーカサス方面に広がった部隊はモスクワ死守のため引き上げざるを得なかった。この間、多くを求めすぎて失敗したヒトラーは、自らの戦略の破綻に落胆していたと言われ、そのためドイツ軍の戦線整理は比較的順調に進んでいった。
 だが各地の戦線は常に予断を許さず、ドイツ軍の陣地は各地で強引に突破され、人の海の中で孤立し、救援や撤退が間に合わない場所でドイツ人の陣地が消滅していった。一冬だけで50万人近い兵力を失うことになった。これまでのソ連との戦いで500万人以上のソ連兵を潰したが、ドイツ軍も同盟国と合わせれば既に100万人以上の兵力を失っていたので、この損害は非常に大きな打撃となった。
 しかもソ連軍は、極東方面とペルシャ方面から大量の物資援助を受けており、主要工業地帯を失ってもまだまだ高い戦力を保持していた。事実ソ連軍戦車の数台に一台がアメリカ製で、数十台に一台が日本製の戦車だった。無線機はイギリス製、トラックや高機動車(ジープ)といえばアメリカ製だった。日本の戦車は比較的弱かったが、それでも火砲はそれなりに強力であり、冬の寒さにも強い空冷ディーゼルエンジンはロシア将兵から好評だった。補助戦力として投入されれば、それなりの活躍ができた。10対1の撃破比率でも、ソ連赤軍なら十分に許容範囲の損害だったからだ。
 そしてソ連とドイツの戦いが半ば膠着状態に陥る頃、連合軍の反撃、アメリカ軍の進撃が始まろうとしていた。

 アメリカ軍の最初の地上攻撃は、北アフリカ西部のヴィシー・フランス軍に対してだった。実戦経験の不足を補うために、徐々に敵のレベルを上げてステップを踏みつつドイツ本土を目指そうと言うわけだ。
 そしてイギリス軍、自由フランス軍と共に圧倒的戦力で現地軍を叩きつぶすと、即座に進撃を行ってチュニジアに至った。この時点でリビアからチュニジアまで前進していた日本軍とイギリス軍も前進して、連合軍揃い踏みでイタリアのシシリー島への攻撃を開始する。
 この時点で1943年4月であり、この頃までに地中海の海上通商路防衛に成功したイギリス軍、日本軍は、イタリア海軍をほぼ完全に無力化していた。ドイツ軍が若干の空軍戦力を派遣しただけの戦線だっただけに、戦意に疑問のあるイタリア軍だけを相手にすればよく、常時優勢を保持する事ができた。
 イギリス軍と日本軍の連合軍だけで英本土からの戦略爆撃が何とか行えたのも、連合軍の抱える戦線が少なかった要素と、ドイツがロシアの大地に掛かりきりで、深みに嵌っていたという要素が大きな役割を果たしていたと言えるだろう。
 そしてシシリー島に上陸しようと言う頃には、アメリカ軍による西ヨーロッパ各地への戦略爆撃が本格化しつつあった。英本土には、続々とアメリカ本土からの軍事力が集結しつつあった。1943年秋には、ヨーロッパにいるアメリカ兵の数は日本兵の総数を上回るようになっていた。
 ヨーロッパの空は、昼はアメリカ軍、夜はイギリスと日本軍が支配するようになっていた。
 戦争の大転換は、もうすぐそこまで迫っていた。



●フェイズ11「第二次世界大戦(4)」