■フェイズ11「第二次世界大戦(4)」

 1944年9月6日、連合軍はフランス・ノルマンディー半島に強襲上陸作戦を敢行した。世に言う「ノルマンディー上陸作戦」もしくは「史上最大の作戦」や「D-day」とも呼ばれる大作戦の発動だった。

 アメリカ軍、イギリス軍、カナダ軍、日本軍、自由フランス軍など第一波上陸部隊だけで16万人を越えており、彼らの後ろには300万人もの大部隊が続くことになっていた。
 作戦は600隻の艦艇と7000機の航空機に支援されており、5000隻を越える上陸用舟艇などが兵士達を海岸まで運んでいった。
 しかも連合軍全体での作戦はこれだけでなかった。
 同時に、南フランスからの強襲上陸作(通称「リヨン湾上陸作戦」)戦も開始されたからだ。こちらは第一波で12万人の兵力が上陸し、後ろには150万人以上が続くことになっていた。これを300隻の艦艇と4000機の航空機が支援した。ノルマンディーの空には、白地に黒帯の侵攻帯を描いた航空機が飛んだが、南フランスの空には黒字に白帯の侵攻帯を巻いた機体が飛び交っていた。侵攻帯とは、見た目での分かりやすい敵味方識別用に施されたマーキングで、この時の作戦のため特別に施されたものだった。そしてさらに連合軍内でも混乱を避けるため、南北で違う模様としたものだった。
 地中海側での目的は、速やかな南フランスの解放と北イタリアへの圧迫だった。フランスでも比較的地形障害の多い地域への侵攻のため迅速な進撃は求められていなかったが、ドイツ軍の防備が薄い分、ドイツ側は攻め込む可能性が高いと考えていた。
 しかも作戦自体は派手に宣伝し、意図的に情報漏洩されたため、ドイツの関心も自然こちらに向いていた。それに地中海で圧倒的優位に立っている連合軍が、南フランスから反撃に転じてくることはむしろ自然な事と考えられた。そしてブリテン島からの反撃がカレーではなくノルマンディーだったため、ドイツ軍は上陸作戦開始当初はノルマンディー方面の上陸作戦こそが囮と考えていた。
 しかし、連合軍の本命はノルマンディーだった。
 そして連合軍が贅沢な二正面同時強襲上陸作戦を行えた根元は、アメリカの存在が大きかった。またこの頃にはイギリス、日本の戦時生産もピークに達しており、日本軍だけですら無視できない戦力と物量を前線に展開するようになっていた。
 南フランスからの上陸作戦で主な役割を果たすのも日本軍であり、上陸戦力の半分近くも日本から運ばれた兵士達だった。地中海を埋め尽くす艦艇の過半数も、日本海軍の旭日旗を掲げていた。この作戦には、大戦が始まってから建造開始された最新鋭の戦艦や空母も複数参加しており、尚一層ドイツ軍の目を引きつけることにもなっていた。排水量で《ビスマルク》を越える基準排水量5万トン近い巨大戦艦《大和》《武蔵》や、世界最大と宣伝された基準排水量3万6000トンを誇る大型空母《大鳳》は、日本国民に対しても大きな宣伝効果を発揮した。

 なお、アメリカの1945年のGPD約2000億ドルに対して、日本のGDPは約300億ドル程度だった。戦争経済による未曾有の好景気が、日本のGPDを大きく引き上げていた。
 そして国内経済維持に必要な以外のほぼ全力がヨーロッパに注ぎ込まれたのだから、当時のドイツが受け止められる限界を超えていたのは当然と言えば当然の事でしかなかった。しかも日本には、アメリカのレンドリースが湯水のごとく流れ込んでいた。戦争中に日本が受けとったレンドリースの総額は、100億ドルにも達していた。日本兵一人当たりの総合的なコストがアメリカ兵よりもずっと安価なため、アメリカが費用対効果から日本への援助を日に日に増やしていたからだった。
 なお、この頃までに地中海方面では既にローマが解放されており、北部がドイツに占領された状態のイタリアは、政治的にも枢軸と連合の分裂状態にまで追い込まれていた。
 ドイツ軍は、東部戦線ではいまだモスクワを保持していたが、こちらでもソ連軍による自らの兵士達の犠牲を省みないような大反抗が始まっており、一兵も引き抜くわけには行かない状況に追い込まれていた。東部戦線の中央部では、損害にもめげず増強され続けるソ連赤軍の大規模な戦線突破を許し、戦線そのものが崩壊しつつあったからだ。東部戦線の兵力差も、既に1対3とソ連軍優勢だった。主にアメリカとそして日本が注ぎ込んだ対ソ連援助もピークを迎え、巨大な軍団がドイツ軍を押しつぶしつつあった。
 同年7月には、モスクワがヒトラーの命令によって膨大な爆薬で廃墟になるまで破壊した後に放棄されていた。ヒトラーはナポレオンの故事に倣ったのだと宣伝放送でドイツ国民を鼓舞したが、ドイツが東部戦線でも敗北したのは間違いない事実だった。
 要するに、ドイツの総崩れだった。膨れあがったナチスドイツという風船が、アメリカとソ連という巨大な万力により潰されてしまったのだ。

 その証拠とばかりに、首都ベルリンまでが戦略爆撃の洗礼を日常的に受けるようになっていた。飛んでいる機体の一部は、アメリカが量産配備を始めたばかりの革新的な重爆撃機「B-29 スーパーフライングフォートレス」に変わっていた。日本軍も国産の重爆撃機を投入し、ようやく列強水準の重爆撃機を自前で揃えて、夜間爆撃を中心にしてヨーロッパを爆撃するようになっていた。
 ドイツは懸命に迎撃したし迎撃できないわけでもなかったが、迎撃にかかる様々なコストと受ける損害は鰻登りとなり、ドイツの負担をさらに増大させていた。アメリカの「P-51」や日本の「烈風」などの長距離随伴戦闘機の存在も、ドイツ軍の損害を押し上げていた。
 海では完全にドイツは封殺されてしまい、自慢のUボートは港に逼塞するしかなかった。このため連合軍海軍の仕事が、タクシー運転手並になったと言われたりもした。このため米英日の海軍は、自らの存在を誇示するためだけにドイツやイタリア沿岸への艦砲射撃や、機動部隊を用いた凶暴な空襲作戦を競って行ったりもした。既に、バルト海西部の制海権までもが連合軍のものだった。ノルウェーに対する強襲上陸作戦も、すぐに始まると言われた。
 それでもドイツ軍は各地で反撃し、防戦にあたった。特に地上では連合軍は各所で激しい抵抗にあって、膨大な犠牲を積み上げることになる。上陸作戦から半月で奪回できると言われたパリも、連合軍がパレードをするまでに二ヶ月近くかかった。連合軍はノルマンディー橋頭堡で一ヶ月近く足止めを受け、南部からの上陸がなければ戦線突破にもっと時間がかかっただろうとすら言われた。
 パリ陥落前後にフランスのほぼ全土が解放され、戦線はベネルクス三国とイタリア北部国境にまで迫った。しかしイギリスのモントゴメリー将軍が発案した連合軍全ての空挺部隊が参加した大空挺作戦では、ドイツ軍は厳しい状況の中で果敢に反撃し、連合軍の安易な意図を挫くことに成功していた。東部戦線がまだドイツ本土から遠い事が、西ヨーロッパで、ドイツの反撃を活発なものとしていた。
 しかし制空権は、常に連合軍のものだった。
 アメリカ、イギリス、日本、自由フランス、自由ポーランド、自由チェコ、様々な国の印を施した機体が常に飛び交った。彼らの最大の敵は、ドイツ空軍ではなく天候だと言われたほどの優位だった。

 ノルマンディー上陸作戦から三ヶ月後、その年が暮れるまでの西部戦線では、フランスとベルギー、オランダのほとんどが解放され、最前線がライン川近くにまで達した場所もあった。フランス南部でも、山岳地帯を越えて北イタリアの一部までが連合軍のものとなった。東部戦線でも、モスクワや旧スターリングラード(※奪回時点ではボルゴグラード)が奪回され、ドイツ軍は各地で後退していた。ドイツにとって悪い場合は、数十万の兵力が包囲され降伏していた。
 連合軍将兵が賭けたようにクリスマスまでに戦争は終わらなかったが、戦争が最終段階に入ったことは誰が見ても明らかだった。将兵の誰もが、次のクリスマスは祖国で迎えることができるだろうと言った。ちなみに、日本人の多くがクリスマスの習慣を知ったのは第一次世界大戦のヨーロッパの戦場での事で、この頃には日本人広くにもクリスマスの習慣が浸透していた。無論キリスト教徒の日本人は、常にごく限られていたが。
 そして将兵達の楽観的な予測とそれよりも遙かに強い願望は、おおむね裏切られなかった。
 予想外だったのは、ドイツの想定以上の戦争継続能力の高さと、ドイツ軍が投入した新世代の兵器、そしてそれらが生み出した連合軍の膨大な損害だった。
 1944年12月には、ドイツ軍の反撃によって西部戦線が一時苦境に陥ったりもした。この時は日本陸軍の一部部隊もドイツ軍精鋭部隊の矢面に立たされ、大きな苦境を経験する事になった。基本的に日本で開発された陸上兵器は、イタリア軍相手ならともかくドイツ軍相手では役者不足と言われることが多かった。機甲兵器では5年から10年遅れていると言われる有様であり、現地部隊のほとんどがアメリカ軍からの貸与兵器で自らを武装したほどだった。「百式戦車」も当初は47mm砲だったのが、長砲身砲になり、さらには75mm野砲に載せかえたが、主力戦車としては殆どの場合ドイツより劣っていた。
 このため日本陸軍将兵は、日本製は菊の御紋と体だけと言ったりもした。そしてアメリカ製兵器の扱いを修得し、連合軍として円滑に行動するため日本軍将兵達は、暇さえあればイングリッシュの学習を熱心に行った。
 もっとも日本軍兵士が高い信頼を寄せたアメリカ製兵器も、抜群の機械的信頼性はともかく、個々の面ではドイツの方が優秀であり、戦車の撃破比率は4対1以上と言われた。だが日本製の場合は10対1でも撃破が無理なのだから、日本軍将兵にとっては有り難い兵器だったのだ。それにドイツ軍の戦車に出会うのは、よほど運の悪い者というのが一般論のため、日本陸軍自体は今時大戦での日本軍戦車が貧弱なことをあまり気にしていなかった。
 そうして、日本陸軍が第一級の装甲戦闘車両をヨーロッパに送り込むのは、実質1945年に入ってからの事となる。この車両は、アメリカ、ソ連からの供与品を研究してアメリカ製部品を使うことで完成された「四式戦車」だった。しかしこれですら、ドイツの「V号戦車」を1対1で相手にするには厳しいものだった。将兵の要望に応えるため火力は十分に与えられたのだが、防御力で劣っていたからだ。能力的には、アメリカの「ファイアフライ」に近かった。
 故に日本軍将兵にとっての救いは、ドイツ軍の戦車と出くわす可能性が低いという事だっただろう。この戦争のお陰で、日本軍内では陸軍と空軍・海軍(航空隊)の関係が円滑にならざるを得なかった一事を以て、陸での日本軍の劣勢を見ることが出来る。

 しかしドイツ軍の兵器がいかに優秀でも、連合軍の圧倒的物量を押しとどめるには至らなかった。ドイツ兵が挙げた戦果や奇跡的行いも、局所的以上の成果には至らなかった。むしろドイツが次々に繰り出したジェット戦闘機やロケットなどの次世代の新兵器は、その潜在的恐怖故に連合軍の強引な進撃と無差別爆撃を助長した。また無理な反撃は、ドイツの抵抗力をかえって落とす結果になった。
 そして既にドイツ本土にまで踏み込まれたドイツに、連合軍の攻勢を押しとどめる力は残されていなかった。
 戦争は1944年冬の小康状態を挟んで、1945年春には再び活性化した。小康状態なのも、連合軍が後方での補給体制を整えていたという要素が強かった。そして準備が整うと連合軍は遂にドイツ本土へと踏入り、ソ連軍はこれまでの遅れを取り戻すような強引な反撃を実施した。
 空を舞う重爆撃機も、1945年春頃には300機単位のB-29がベルリンに飛来するようになった。米英日合同による「3000機爆撃」が実施されたりもした。この戦いでは日本空軍も500機の機体をドイツ上空に送り込み、これまでのアメリカ又はイギリスからの供与機だけでなく、自国製の「三菱・三式重爆撃機(連山)」を多数装備して爆撃を実施するようになっていた。なおこの「3000機爆撃」では一度に15キロトン(1万5000トン)もの爆弾がドイツ中部各地に投下され、ベルリン市街地の破壊、ドレスデン市の壊滅など歴史的にも悪名に近い記録を残す事になっている。
 一方、仕事のなくなった海軍主力部隊は、米英海軍と合同で、地中海、北海双方で大規模な空母機動部隊による空襲を繰り返したりもした。世界の三大海軍と言われるようになっていたアメリカ、イギリス、そして日本の海軍主力部隊を預かる人々は、自らの戦後の生き残りを賭けて積極的な洋上からの攻撃を常に提案し、半ば無理矢理に実行していった。
 1945年5月には、ノルウェーに対する米英日合同の大規模強襲上陸作戦も実施され、呆気なくノルウェーの解放にも成功した。ドイツが奪ったクレタ島にも同様の強襲上陸作戦が、半ばついでのように実施された。ドイツ軍に、これを止める手だてはまったく存在しなかった。何しろ連合軍は、どの作戦でも数えるのも馬鹿馬鹿しいほどの戦艦や空母を擁する大艦隊で押し掛けていたからだ。これを見て怯えたのは、ドイツ人ではなくむしろロシア人だったと言われている。

 そしてアメリカは、世界初の核兵器(原子爆弾)をケーニヒスベルグ市に投下し、ドイツへのトドメの一撃とした。
 同日1945年8月6日の東西両軍がブレスト市西方で握手し、連合軍により半月近く包囲下にあったベルリンは8月9日に市街戦の後に陥落、そして8月15日のドイツ無条件降伏によって戦争は幕を閉じる。
 小さくも激しい攻防戦が行われたドイツ国会議事堂には、連合軍の勝利を象徴する「スター スパンクルド バナー」が翻った。

 その後も戦闘は若干続いたが、ポーランドやチェコの自由政府が自らの首都で独立回復を宣言したり、東ヨーロッパにあった中小の枢軸国が何もしないまま両手を上げるなど、後はほとんどが事実上の戦後処理でしかなかった。ムッソリーニが一度追い出された後、ドイツにより戦い続けさせられていた北部イタリアが正式に降伏したのも、8月9日の事だった。
 そしてほぼ6年続いた戦争が終わってヨーロッパに残ったのは、膨大な借金と墓石と瓦礫の山だった。
 ドイツとソ連、フランスを中心として、ヨーロッパの半分以上が戦場となって荒廃した。二度目の荒廃は、塹壕線や地上を月面のように変えてしまう砲撃の応酬はなかったが、一度目の荒廃を遙かに上回っていた。今回の戦いでは、砲弾だけでなく航空機の落とす爆弾が、戦場から遙か遠い筈の後方の都市すら簡単に破壊してしまったからだ。事実、ベルリン、モスクワ、ロンドンなど各国の首都も大きく破壊された。
 ここまで戦う必要があったのか、途中誰もが疑問を投げかけたが、戦争は行き着くところまで行かなければ終わる事はなかった。ドイツではクーデター未遂や暗殺未遂が何度も起きたが、独裁者はベルリンが包囲されるまで生き延び、戦争は何ら変わること続けられた。
 しかしベルリン陥落により戦いは終わった。
 ソ連国境での握手で戦争は終わった。
 連合軍の勝利で戦争は終わったのだ。

 戦争の総死者数は、一説によると約4000万人となったとされる。死者の約6割はソ連の損害で、国民の15%以上、全男性の二割以上が何らかの理由で死亡していた。国民の一割近くが死亡したドイツの人的損害も甚大で、人的損害の主なところはこの二カ国とポーランドによるものだった。ただしポーランドの死者のうちかなりの数が、ナチスの歴史的悪行によって強制収容所で殺されたユダヤ人やロマ、ポーランド人である事を忘れるべきではないだろう。一説には、連合軍の爆撃で収容所への食糧供給が行えなくなった事が大量死の原因だと言われる。だが仮にそうだったとして、そもそも罪のない人々を財産を奪ったうえで収容所に入れている時点で、歴史的悪行だと断言できるだろう。
 なお外様として6年間戦い続けた日本の戦死者数は、約20万人だった。アメリカと共に軍人以外の死者が皆無だった事を考えても、死者の数は列強の中で最も少なかった。通商破壊による船舶での人的被害はかなりに上ったが、船舶に乗った時点で最低でも軍属扱いなので統計上はそう言うことになる。ただし日本軍将兵は、ドイツでの人種偏見のために捕虜になると酷い扱いを受けるという噂が戦争全般に渡って噂として飛び交い(一部事実だった)、それが戦死者の数を増やす要因になった事は特筆すべきだろう。
 日本兵が勇猛だという連合軍、ドイツ軍双方の評価も、捕虜になった後の事が日本兵の間で噂になり、それが日本軍の絶望的状況下での苛烈な戦闘に反映されていたというのが実状だった。「サムライ」は、好き好んでサムライになったわけではなかった。
 しかし1944年秋以後は、ドイツ軍全般では戦後の事を考えて捕虜の扱いを公平に扱うことが増えたため、戦後流布した噂ほどドイツ軍将兵が日本兵に蛮行を働いたわけではない。捕虜を取る前の残虐行為は、連合軍でも行われている。だが一方で、一般親衛隊により人体実験にさらされた日本軍捕虜がいたことも忘れるべきではないだろう。
 ちなみに、直接日本人の事ではないが、アメリカに移民して虐げられていた日系移民がアメリカ国内で大きく地位を向上させたのは、この戦争を契機としている。日本人が有力な同盟国だという事でアメリカ市民全般の日本人評が上がり、また日系人は多くが志願兵としてアメリカ軍に参加して勇敢に戦ったためだ。

 一方戦費だが、とある統計数字によれば全世界の総額で約1兆1900ドルとなったとされる。内訳は、アメリカの約4000億ドルを最高に、ドイツの約3000億ドル、ソ連約2000億ドル、イギリス1200億ドル、イタリア約940億ドル、そして列強末席の日本は約500億ドルとなる。他にもフランスなどそれ以外の国の分が上乗せされる。
 連合国:枢軸国=3900億ドル:7700億ドルという倍近い差が、ドイツを始めとする枢軸側の全面敗北という結果をもたらしたのだ。ランチェスターモデルに従えば、連合国側が三割弱の犠牲を払えば枢軸国を殲滅できる事になる。しかも遠方のアメリカや日本は、戦闘特需の中で自国経済を最低限しつつ戦っていたのだから、常に本国が無差別爆撃されていたような状態の枢軸国側に勝ち目が無かったのは道理だった。しかもアメリカ、日本共に自国の経済リソースの四分の一は自国経済の維持と拡大に回していたので、ある種余裕のある戦いを行ってすらいた。
 なお、戦費について今ひとつ分かり辛いので補足すると、当時全世界のGDPが総額で5000億ドル程度(※21世紀初頭の約百分の一の金額)だったという数字を提示すれば、戦費の大きさが多少は理解できるだろう。当時の全人類が一年間に生み出す富の二倍以上の金額が戦争で使われたという事だ。敗北したドイツなどは、国内資産全てを食いつぶすような戦争を行っている。
 また、戦争当事国に総人口が一億人を越えた近代国家が二カ国も含まれていた事も、連合国勝利の一因だった。この二カ国だけで3000万人もの兵士が動員されている事で象徴されている(ソ連、アメリカ共に1500万人以上)。
 人口の点では総人口8000万人近くを抱え、約500万人の兵士を動員した日本の役割も無視することはできない。最終的に250万人もの兵士(のべ350万人)をヨーロッパや地中海方面に派兵したのだから、連合国として日本が果たした役割は非常に大きなものがあった。特に1940年6月のフランス降伏から約一年後の独ソ戦開始までの日本の存在感は際だって大きく、第一次世界大戦の時とは比較にならない貢献を果たした。ヨーロッパ各国からも感謝され、世界政治上で大きく存在感を増すことができた。アメリカのおかげで戦争中盤以降は存在感に陰りも見えたが、それ以上にヨーロッパ諸国が疲弊して枢軸各国が没落したので、戦中・戦後の日本の立ち位置は非常に高くなった事は間違いなかった。

 そして追い風を受けた日本が意気揚々と臨んだのが、二つの国際舞台だった。戦後の枠組みを決定する、ポツダム会談とサンフランシスコで開催された国連憲章の調印式だ。
 日露戦争で敗れて以後低迷し、一度目の世界大戦が不本意な結果に終わった日本にとっては、ようやく本当の一等国の地位を得るための会議と位置づけられていた。
 それは明治維新以来、日本が目指していた一つの到達点になる筈だった。
 坂の上の雲に手が届くまで、あともう少しの筈だった。



●フェイズ12「戦後の枠組み」