■フェイズ12「戦後の枠組み」

 1945年7月、「国家連合(UN)」が発足した。
 国家連合の実質的な始まりは、1943年1月の「大西洋宣言」に始まっている。この時に、枢軸側と敵対していた国々の集まりが連合軍や連合国という言い方で正式に言われるようになった。そして大戦の最初からドイツと戦っていた日本も、共同宣言に主要国として署名した。このためだけに日本は、完成したばかりの新鋭戦艦《長門》に近衛文麿首相を乗せて大西洋に赴いている。
 ちなみに、近衛文麿が当時の日本での挙国一致内閣の首相だった事に対して、後世賛否両論あった。しかし彼の持つ血統は、ヨーロッパ世界に対しては非常に有効だったと考えられている。千年以上続く大貴族の末裔であり、現時点でも公爵という高い爵位を持つ事は、ヨーロッパ外交で大きな効果を持っていた。ただし、ヨーロッパ社会での公爵とは主に王族の血統に属する血筋を示す家柄のため、この時点での日本の皇族に連なると勘違いされる事もあったと伝えられている(※古い昔に繋がりがあるが)。

 なお、この頃の日本外務省の本陣は、ロンドンにあると言われたほどだった。当初はイギリスと、アメリカ参戦後はアメリカの首脳と緊密な連絡を取り合って戦後枠組みを話し合うと同時に、日本が主要な地位を得るための積極的な活動が行われた。何しろ日本は、自国権益を確保するために莫大な戦費を使い、ヨーロッパにまで大軍を派遣し、国民の血を流しているのだ。行いに対して相応しい立場と椅子を求めるのは、当然の行動であり権利と考えられた。外務省職員にとっては、ロンドンこそが戦場だったと言えるだろう。
 しかしいまだ戦争中という事もあって、数々の国際会議や国際会談は、紆余曲折する事になる。
 特に1945年4月にアメリカのフランクリン・ルーズベルト大統領が死去すると、その数ヶ月後には米国の外交方針が大きく転換していた。それまでアメリカは、戦争中終始劣勢だったソ連を擁護する事が多かったし、レンドリースでも多くの援助を与えていた。だが政権交代後は、戦局が大きく連合軍に有利になったとして、ソ連に対して過度の接近と援助を行わなくなっていた。
 英米軍によるベルリン攻略も見えた6月に行われた参戦主要国による「ヤルタ会談」でも、ソ連は自らの異質さを確認する会議となった。
 同会議は、アメリカはトルーマン、イギリスはチャーチル、日本からも近衛が参加して、スターリンとの間に会議を持った。
 この会議でソ連の指導者ヨシフ・スターリンは、ソ連軍がいまだ自国領内で戦っているのに比べ、連合軍が既にドイツ本土に侵攻しているのに、ソ連軍との共同でベルリン攻略を行うようにと強く訴えていた。そうした極端な例以外にも、ソ連の異質さは目立った。
 そしてソ連と他の国が溝を作ったのだが、海を挟んでソ連とソ連の衛星国と国境を直に接する日本にとっては、国家安全保障上でむしろ喜ばしい事だった。世界でソ連の異質さが強まれば強まるほど、極東では日本一国でソ連及び他の共産主義国と対峙しなくて済む可能性が高まるからだ。この会議での近衛は、記者団に対して「晩餐で出たキャビアは美味しかったが、やはり私には日本の味が合うようだ」という言葉を伝え、暗にソ連を非難していると国際的に判断された。
 一方で、世界帝国からの転落が確実になったイギリスは、アメリカの一国覇権を阻止するため日本を積極的に利用し、日本も自国の地位向上のためにイギリスの動きに連動した。
 連合国として戦っている主な国が、アメリカ、ソ連、イギリス以外に日本しかなかったからだ。フランスも国土が解放された1945年以降はそれなりに存在感を示せるようになったが、占領中はヴィシー政府の存在によりドイツに与していたと見られていたため、基本的に戦争中の首脳会談に呼ばれることはなかった。これが、その後のフランス(=シャルル・ド・ゴール大統領)の大国主義と独自行動を呼び込んだとも言われている。
 そしてソ連は共産主義国、社会主義国の上に極度の独裁国家のため、イギリスのパートナー足り得ないのは最初から分かり切っていた。アメリカの一国覇権主義を阻止する国として利用できる国は、イギリスにとって日本しかなかった。アメリカの一人勝ちに向けた動きを抑止するという点においては、ソ連ですら日本を利用しようと動いたほどだった。フランスも、何かと日本働きかけを行っている。
 そして拒否権を有した常任理事国の選出というより、ほぼ大国同士による話し合いで決められた中に、日本も含まれる事になった。
 日本が選ばれたのは、上記したようにアメリカ一極状態を避けるため、欧米中心、白人中心という国際世論上での非難を避けるため、アメリカやイギリスのコントロールを受けやすいため、というところが主な理由だった。
 日本が今回の戦争と国際社会で責任を果たした事や、十分な軍事力や国力を持っているという表面的な理由は、この時ほとんどどうでもよい事だった。日本自身の積極的な外交活動や近衛文麿のある種脳天気とも言える外交活動も、そうした下地がなければあまり意味はなかっただろう。チャーチルなどは、近衛の底が見えないと言っていた時期があるが、近衛の場合それほど深い底がないので、そうした錯覚に陥っただけだと言われる。大いなる無定見、それが他社から客観しした近衛文麿の外交だった。
 それでも日本にとっては、十分な外交成果だった。以前の国際連盟同様に半ばおこぼれで常任理事国になったが、今度は少し違っていたからだ。
 世界大戦での主要な戦勝国となり戦後の国際社会で高い地位を得た事は、日本人に自信と誇りを持たせることにもなった。これは莫大な戦費を使った日本政府にとって、国民に対する十分な報償を与える事にもなった。しかも、国力、経済力も以前よりも大きく拡大しており、国連常任理事国という服が似合うだけの体格を持つようにもなっていた。
 日本は遂に、明治維新以来求めて止まなかった真の一等国の境地に至ったのだ。

 なお新たに発足した国家連合の常任理事国には、アメリカ合衆国、ソビエト連邦ロシア、イギリス連合王国、フランス共和国に加えて日本帝国(※1925年の憲法改定で、正式国名は「大」の文字を外して日本帝国に決定している)が選ばれている。
 一方では、1945年10月に占領下のドイツで開催された「ポツダム会談」は、日本にとっては少し失敗だった。
 同会議では、第二次世界大戦の戦後処理問題と、第二次世界大戦とは別扱いされていた中華地域での戦乱が主に議論された。
 会議には、アメリカのトルーマン、ソ連のスターリン、イギリスのアトリー、日本の近衛が参加した。
 ここで日本は、東ヨーロッパのいくつかの国(旧枢軸国)の戦後占領統治を行う事が決められた。ドイツの占領統治からは外されたが、国力とヨーロッパの国でない事を考えれば、ほぼ順当な決定だった。場の雰囲気を読むことに長けた近衛は、会議に参加させてもらえなかったフランスのド・ゴールような無茶は言わ無かった。日本貴族的な曖昧な表現を駆使することで、日本の権利を最低限ではあったが獲得していった。ここで日本は、東ヨーロッパのチェコスロバキア、ハンガリー、ルーマニア、ブルガリアの占領統治の主軸を担当することになった。日本としては、取りあえずベルリン占領に形だけ参加できれば、ドイツの占領統治では十分と考えていた。他にも、キールなどの軍港にも日本の大艦隊が、他の国共々占領に参加している。日本としては、それで必要十分だった。
 また日本の占領地が決まった背景には、日本陸軍の主要進撃路がフランス南部からドイツ南部、東ヨーロッパ南部、バルカン半島へと地理的要素に従い、ベルリン攻略でも外されたという物理的な理由だった。終戦時、日本軍の最終到達地点はルーマニアとソ連の国境線(※正確にはベッサラビア国境)で、諸手をあげるかのよう降伏してくるドイツ兵を受け入れながらソ連軍と握手したのだった。
 そして日本政府は、戦後のヨーロッパ情勢に深入りする気がなかったし、今後の外交のためにもドイツから不要な恨みを買う事は避けるべきだと考えていた。このため、自軍で降伏を受け入れたドイツ軍将兵に対しては、正式な取り決めや国家間の約束、条約などが定まるまでソ連への引き渡しを拒んだりもしている。
 ただしその一方で、戦争中のドイツでの火事場泥棒は相応に行っていた。アメリカやイギリスの後の事がほとんどだったが、フランスよりもロケットやジェット、潜水艦、戦車などの最新技術を現物ごと持ち帰っていた。半世紀後に機密解除された外交文書からは、核兵器関連技術までがドイツから持ち帰られていた事が分かっている。

 話が少し逸れたが、ポツダム会談では、この時点で祖国の全てを奪回できていないスターリンが、他の国全てに強い態度で東ヨーロッパ及びドイツの分割占領を提案した。だがあまりにも現実的でないとして連合軍各国から否定され、辛うじて戦後にベルリンの共同占領に参加できるに止まっていた。このためベルリンは、国連常任理事国全てが参加する占領地となった。
 また会議の一部が、恐らく意図的に外部に漏れたため、東ヨーロッパ諸国は一斉にソ連に反発した。共産主義者に占領されるぐらいなら、有色人種の占領統治の方が遙かにマシだったからだ。日本の占領担当から外れたユーゴスラビアの指導者チトーですら、地中海からアドリア海を経由してやって来る日本の輸送船から上陸する日本兵の行動を阻止する事はなかった。終戦間際まで中立国だったトルコも、条件付きながら日本のボスポラス海峡の通過を認めた。遠い日本による占領ならば、後の領土問題が起きる可能性が低かった事も、この「好意」につながっていた。それに日本人は、本国近辺でもロシアと敵対しているので、伝統的にロシアの脅威にさらされている国々、民族にとって、むしろありがたい存在だった。アメリカよりも、真剣にロシア問題に向き合ってくれる可能性が高いからだ。
 こうした経緯から、戦後東ヨーロッパ諸国やトルコと日本の友好関係が大きく進展する事にもなる。
 一方でソ連は、「ポ・ソ戦争」でポーランドに割譲した地域の復帰を達成した。連合軍もポーランドの強欲が両者の対立原因の一つと認識していた証拠でもあったが、強かなスターリン外交の勝利だった。しかし連合軍が占領したバルト沿岸諸国は会議上で独立復帰が決まり、東ヨーロッパもほぼ全土がソ連以外の国が占領統治することが決まった。これらは現状の追認でしかなく、ソ連は大戦前の状態に復帰したことで満足しなければならなかった。バルト海と東地中海に連合軍の大艦隊が浮かんでいるとあっては、流石のスターリンもどうにもならなかった。
 以上、ヨーロッパでは、ソ連以外の連合国にとって優位な状態で落ち着くことになる。

 一方、世界大戦とは分けられた形の東アジア情勢だが、こちらは中華地域が依然として混乱状態だったため、ソ連の要求をある程度受け入れざるを得なかった。
 以前から存在するマンチュリア、モンゴル、プリモンゴル、東トルキスタンの各社会主義国家(共産主義国家)は、改めて国際的な国家承認が行われた。加えてチンハイ(青海)地域も「民意」によって東トルキスタへの併合を受け入れざるを得なかったので、対抗外交としてチベットがイギリスの委任統治下となった。またコリア半島は、改めてソ連領であることが確認された。さらに、その他の地域を含めて日本との間で国境線の再確認が行われた。コリアはロシア人が血を流して得た歴史的正当性のある領土とされては、この頃の他国が反論する事も難しかった。
 ここで日本は、20世紀に入るまでのコリア半島は民族自決国家だと、一応食い下がってみた。しかし、他の国の代表(特にアメリカ)がコリアの知識に乏しすぎること、ソ連があまりにも強気だったことなどから、結局何も得ることができなかった。それにソ連がロシア帝国時代に併合したロシア国境近辺の各地域には、コリアと似たような運命を辿った地域(共和国など)が多数含まれていた。ロシア人が、戦略的にも価値があるコリア半島を例外とするとは考えられなかった。ただしアメリカも何も考えていたわけではなく、日露戦争の頃にイギリス領となっていた済州島はUN委任統治のまま管理がイギリスからアメリカへと移された。後には、済州国として独立が行われ、アメリカの軍事基地も建設されるようになる。
 なお当然だが、戦争状態の終息のため中華各地に攻め込んでいた北東アジア各国の軍隊は、それぞれ国境線まで撤退を行わせるプログラムが組まれた。
 そして中華中央部は、中華民国が唯一正統な政府とされたが、複数政党の参加を認めた議会制民主国家とする事も確認された。この決定には、中華民国を率いる国民党の意見はほとんど反映されなかった。
 中華民国(国民党)が蔑ろにされたのは、戦争中多くの期間が連合軍でなかったばかりか、戦争前まで事実上ドイツとの同盟関係にあったためだ。しかも国民党と首班の蒋介石が、欧米の視点から見てファッショだという要素も大きかった。加えて、後に連合軍に入った北東アジア諸国と戦った事も影響していた。第二次世界大戦において、中華民国は枢軸陣営ではなかったが、1942年頃から連合軍に参加してもなお準枢軸陣営と見なされていたが故の、過酷な措置であった。
 また中華共産党は、ソ連の後押しで中華民国の政治に正式に参画する資格を得ることが決められた。これは中華地域の民主化の一環として、各国も受け入れざるを得なかった。ソ連は、中華共産党と大戦中に敵対したことを棚に上げた状態で、共産主義勢力の拡大にまずは大きく舵を切ったのだった。

 しかし中華地域の事はあくまで方針であり、まずは戦乱状態と事実上の内乱状態をなんとかしなければならなかった。
 このため中華問題は、ドイツとの戦いが終わり新たな国際的枠組みを作り上げた主要国の、そして国連最初の仕事と位置づけられた。場合によっては軍の派遣も視野に入れられており、大戦が終わった中での大規模な騒乱地域をなくす事が重要だとされた。
 そしてこれで、北東アジア地域はソ連優位の形で固定化する事が決められたも同然だった。欧米各国も、有色人種国家である日本の過剰な増長をある程度押さえるためには、ソ連の脅威が日本の前に強くぶらさがっている方が良いと判断したため、この時は極端にソ連に反発しなかった。



●フェイズ13「さらなる坂の上を目指して」