●第一部「御江戸帝国主義」
 
●コンセプト
 18世紀後半の「田沼時代」に開国を経験した日本を土台として、その後史実とは少し違う歩みをする歴史を20世紀が幕開けするまでを追いかけていく。
 「田沼時代」時代を変革点に選んだ理由は、日本の産業、商業の発展度合いから、西洋型の近代に向かう最も良いタイミングの一つだと判断されるため。
 まあようするに「『水の(水野)出て、もとの田沼に戻りけり』なんて戯れ言言ってるぐらいなら、最初から田沼路線続けとかんかい!」ということになるだろう。

●歴史的前提条件
 西暦1792年(寛政4年)にロシア人ラクスマンが来た時点で、江戸幕府(日本政府)が限定的ながら開国に転じる。
 上記の前提を満たす日本側の条件として、重商主義派の田沼親子が失脚せず、逆に農業重視で保守派の松平定信とその一派が失脚しているとする。以上二つが、時間犯罪上での最重要ターニングポイントになる。
 そして時代は、18世紀末から継続的に江戸時代型の重商主義のまま推移させる。
 18世紀末に松平定信の倹約政治にはならないまま、田沼派主導の重商主義の長期継続を経て、19世紀の放漫経営の大御所政治に雪崩れ込む。要するに江戸時代版ビクトリア時代をより商業的に過ごしてもらうわけだ。
 そして早期の開国も重なって、日本国内で消費経済と重商主義がさらに発展。日本開国も半世紀以上早く始まるので、その分近代化、西欧化も前倒しとなる。しかも時代を反映して、しばらくは前近代的なものを多く引きずったままの近代化を行う。特に技術的変化は、世界の流れに乗る形で段階的なものとなる。開国しても幕藩体制を揺るがす事態にならなければ、近代化だけで幕府が倒れる可能性は低いと判断できるからだ。
 また歴史をなぞる意味でも、幕府が倒れる時期は史実に準拠するものとする。
 そして近代化に伴う産業革命の進展も最低でも四半世紀早く始まり、西欧列強標準レベルの発展と変化が訪れる。それは幕末に入るまでの江戸幕府を立派に帝国主義化する可能性を秘めている。日本列島は既に人口的に飽和状態であり、重商主義で人口の飽和は助長され、イヤでも外に出て行かなくてはならないからだ。

●前書き
 江戸時代中期(18世紀前半)、八代将軍徳川吉宗が改革を行わなくてはならなかった大きな理由の一つとして、日本列島自体が主に農地面で開発限界に達して農業生産が頭打ちとなりつつあったからだ。当然人口も飽和状態となって、日本人社会全体が保守的な経済体制へと自動的に移行し、これを円滑に運営するための経済改革だったと捉えることが出来るだろう。実際それまでの幕府は、自らが苦労して作り上げた天下太平の中で、拡大する日本経済と人口の上に乗っかっていればよかった。18世紀に入るまでは、拡大路線の放漫経営で問題なかったのだ。商人達も、『鎖国政策』により海外への活動こそ大きく制限されていたが、冒険的な者が多数存在していた。長崎貿易も、18世紀に入るまではそれ以後よりもずっと活発に行われている。また18世紀に入るまでは、日本各地で産出される金銀の量は世界屈指であり、商業や経済の拡大を大いに助けてもいた。
 一方人口自身は、戦国時代末期に米の石高(生産高)が1500万石と言われるので総人口自身も1500万人程度(米が食べられる人口は、実質1200万人程度。貧農は他の雑穀を主食とする。)になる。だが平和な時代が百年も続き18世紀に入る頃は3500万石以上、つまり米を食べる人口も3000万人近くに達したと見て間違いないだろう。人口増加を示すように、18世紀に入る頃には貧農も大きく上昇している。各種資料でも、大なり小なり人口増加を裏付けを取ることができる。この時期から、早くから開発の進んでいた大都市圏や大きな平野部では人口が微減しているほどだ(大都市特有の衛生問題という避けて通れない問題もあるが。)。総人口が3000万人を完全に越えたのは、18世紀半ばになるとされる。また石高自身は、幕末頃には4000万石に達する。明治最初期に行われた人口調査における総人口は約3300万人だった。つまり日本列島内の開発できる主な場所を、おおむね開発しつくした時期が江戸時代中期の頃にあたる。江戸時代後期での開発や生産力の拡大は、開発の難しい場所に対する干拓などの苦労と工夫の末の開発や技術の向上などによる。
 また日本の経済力だが、世界平均を100とした場合、おおむね100を少し割り込むのが時代を問わず常態化していた。日本に一度も世界帝国が成立せず、日本列島の峻険な地形などを考えれば当然だろう。
 これが100に達したのが、いわゆる文化文政時代だという研究結果が存在する。西欧世界のほとんどがいまだ産業革命に入らず、日本が前近代の中で最も安定して発展していた証拠と見るべきだろう。侵略せずに経済を発展させていたのだから、実のところたいしたものである。
 そうした様々な面での準備運動と言える状況が揃っているので、本来なら次の段階へと進むべきだったのだ。
 つまり1800年代前半で、日本は産業革命に入るべきだったのだ。
 これが農業主義に拘泥せざるをえなかったのは、日本の支配階級への給与を「お米」に依存していたからに他ならない。日本が商業発展して商品経済が盛んになればなるほど、限られたお米の収入に依存していた武士は困窮してしまうからだ。そこで、武士の給与も一部でも良いから貨幣(もしくは紙幣)としてしまえば、幕藩体制のボトルネックの一つがクリアできる筈である。

 なお、生産に手間がかかり時間が制約される生物に依存しない燃料資源を自由に使うことができ、望んだ品、望まれた品が迅速に運ばれる状況(流通)が発達しなければ、人口増加はどうしても停滞してしまう。当然だが、時間が制約されず生物に依存しない燃料資源こそが石炭(後に石油など増え続ける)だ。そして石炭の大規模な利用を可能にしたのが産業革命、つまり石炭を用いて迅速かつ大量に熱量を生み出し、流通の速度と量を計数的に拡大させた革新的な転換という事になるだろう。
 これがいわゆる産業革命の本来のからくりだ。各種工業製品はその象徴にして先兵に過ぎない。何時の世の中でも、情報を征する者が世界を征するのだ。

 ようやく本題に入るが、18世紀に入る頃こそが産業面、経済面で見た場合での日本(列島)が海外へと飛躍する最も妥当な時期だったのではないだろうか。これは吉宗が農業を基本に据えた緊縮的改革を行いつつも、殖産興業を行っている点からもうかがえる。農業面では完全に充実し、産業の次なる段階へと向かうべき最良の時期の一つであったのだ。
 一方で、江戸幕府は鎖国をするべきではなかったとか、織田信長が天下を取れば日本に絶対王朝をうち立てて大きく海外進出する可能性があったと、「もしも」の上で言われる事がある。そうしていれば日本は大きく飛躍し、江戸時代に当たる時代に欧州諸国以上に繁栄した可能性が十分にあったと。
 しかし本当にそうだろうか。
 日本列島内の経済面、産業面から見ると、16世紀末からの本格的な海外進出は、必ずしも賢明とは言い難い。
 確かに「鎖国」と呼ばれる日本的ではないドラスティックな海外貿易統制がなければ、17世紀前半の開国状態を維持することは可能だったし、様々なチャンスが生まれた可能性は存在するだろう。海外領土は増えたかもしれないし、海外へ日本人が移民したり、日本語圏が拡大した可能性もある。北アメリカ大陸にもいち早く到達していたかもしれない。オーストラリアに入植していたかも知れない。日本本土での人口拡大に伴い、海外での日本人、日系人人口は確実に増加していただろう。
 また略奪的進出によって、列島内の富も一時的に増えたかもしれない。産業を商業に重点を置く事で、大きな違いが発生した可能性も十分にある。江戸時代初期の例を見れば、以上の事を肯定しているようにも感じられる。
 しかし当時の日本列島自身の経済状態、産業状態、人口状態などの発展状況から考えると、海外に膨張するよりもまずは日本列島自身の経済、産業、人口を充実させる方が賢明である可能性の方が高いように感じられる。国内が未熟なまま海外に進出しても、自らの体力不足から息切れを起こしたり、略奪的進出に頼る傾向が強まりかねない。
 もし江戸時代初期の頃の状態のまま開国を維持していたら、いずれスペインやポルトガルのように一時的な発展の後に、急速に衰退していた可能性は十分に存在しただろう。中華大陸での明朝と清朝の勢力争いの時期に深く介入するとか、軍備に必要以上にお金をかける状態が続くなどすれば、スペインのごとく衰退していた可能性は十分に存在する。
 だからこそ私は、戦国時代後半以後の時間犯罪上において、必ず明朝から清朝への革命期に中華大陸で大略奪をさせ、逆に領土的侵略はさせていない。しかもこれにより、日本産業の発展はステップアップが図れるし、余剰資金を簡単にかつ大量に得る可能性が存在すると判断したからだ。
 無論日本はスペインと違って、日本列島で多数の金銀を産出していたのでその点での違いはある。近隣は巨大人口を抱える中華地域があり、市場や商品に不足はないという点も違う。国内で各種船舶、艦艇の船員を確保できる点も大きな違いだ。造船業も他がいないため自力で発達させるしかないので、これもスペインとは違う。また、まともな外敵や競争相手が近隣にいない点もスペインとの大きな相違点となる。最強の競争相手として中華を挙げる方もいるだろうが、前近代においては、域内の数億人(清朝の場合、なんと四億人だ)の人口を統治するだけで一大事業であり、必然的に海外膨張はできなくなる構造を持っている。
 しかしスペインのように、一部特権商人と政府(幕府)による統制が発生し、国内での産業発展すら抑止する可能性が十分に存在している。そして16世紀末当時の日本には、輸出するべき商品が金銀以外に目立った物品がなかったと言える。大量に輸出するにしても、前近代的な手工業では国内生産分以上を作り上げるためにかなりの時間と手間が必要になるだろう。事実江戸時代中頃までの主力輸出商品も金銀、つまり貨幣だ。要するに財政的には大赤字に等しい状態といえる。故に幕府も、徐々に限定鎖国の強化を行ったのだ。
 一方では国内人口が飽和し、国内の手工業が十分発展する時期に入るのが18世紀前半頃であり、江戸幕府自身も安定時期の日本の経営体制を作り直さなくてはならなかった。故に商業の発展を抑えて農業重視へと転換したのだ。加えて、一時的な貿易赤字のために、大規模な海外貿易は自らの手で封じてしまっている。
 これを重商主義と交易促進により打破しようとした人物の一人が、田沼意次になるのではないだろうか。
 賄賂政治などと悪名を言われることもあるが(※一橋派や松平定信一派の過剰な宣伝工作の可能性が高い)、彼こそが近代商業を江戸幕府下で取り入れようとした数少ない人物の一人であり、18世紀後半というモアベターなタイミングで存在していたと言える。彼は、日本のビスマルクやリシュリュー、メッテルニヒ、カブールになり得た可能性を持つ人物だったかもしれない。
 そして江戸幕府自身による重商主義化の継続と段階的な開国によって、江戸時代のうちにゆるやかな産業革命と西洋文明の取り入れに入り、日本人が19世紀の帝国主義時代をうまく乗り切れる可能性がでてくる。

 ・・・まあ、だからと言って激動の20世紀を勝者の側で乗り切り、さらには21世紀初頭まで大いに繁栄しているとは限らないだろう。
 パックス・ヤポニカいまだ遠し。

 と結ぶわけにもいかないので、まずは「汎・御江戸」もしくは「江戸幕府的帝国主義」を目指してみたいと思う。



●その1 田沼時代