●その1 田沼時代

 田沼意次、意知親子を中心とした、重商主義化政策と幕府の財政改革。農業(米作)中心の封建的経済体制が大きく変化していく。特にここでは、「天明・寛政の改革」となる「田沼政治」と、田沼家の江戸時代内での行く末を追ってみたい。

 1718年 徳川吉宗、八代将軍に就任。
 1719年(享保4年) 田沼意次生まれる。
 1751年 徳川吉宗没。
 1758年 田沼意次、大名に列せられる。
 1767年 
田沼意次お側用人に登用。
同年、米沢藩(上杉鷹山)にて藩政改革開始。
 1772年 田沼意次老中となる。重商主義政策を推進。
 1779年 平賀源内、罪人となり死罪と言われるも最終的に流罪。裏に田沼意次の影があったと言われる。その後行方不明となるが、田沼家に匿われた。以後彼は、田沼意次へのひらめき的な助言を度々行うようになる。(※最初のターニングポイント)
 1781年 田沼意次、長崎貿易促進のため幕府、諸藩、大商人に流通規模の拡大を支持。千石船の建造が増加。
 1782年 「天明の飢饉」発生(〜87年)
 1783年 
「浅間山の噴火」。関東地方に大きな被害。日本東部及び北部に大飢饉をもたらすと共に、巻き上がった粉塵と硫黄化合物は北半球全域に気温低下などの悪影響を与える。
田沼意知(田沼意次の息子)若年寄となる。
田沼親子、飢饉に際して諸藩の米売りを逆手に取り、上方商人を動かして日本全国の米の流通促進。少なくとも各地での品薄はなくり、特に奥州の飢饉は大きく緩和される。その過程で白川藩の松平定信に自ら領地への米の買い占めが発覚し、彼の幕府中央進出の道を絶たれる。
 1784年 
田沼意知暗殺未遂事件。松平定信派の犯行(主犯:佐野政言)。裏事情が露見。松平定信が蟄居、徳川治済が隠居。一橋派の勢力も減退し、守旧派が排除される。
 1785年 
飢饉継続に対して、先物価格(米相場など)の安定と流通のさらなる促進により、各地に平均的に食糧など各種物産が供給される体制を作る。この年より多数の千石船が就役。連動した流通の拡大により経済も上向きとなる。船の建材として、蝦夷の材木が注目されるようになる。
 1786年 
田沼意知お側用人となる。意次の名声も最高潮となる。
関東、陸奥の大水害に対しても、流通網充実による食糧供給体制の強化策のおかげで各地での一揆、打ち壊しを大きく減少させる。
「天明・寛政の改革」始まる。
守旧派を排除した田沼派による重商主義政策が推進される。幕府財政は、大幅な海外貿易黒字(対清貿易)もあって再び安定。一方で飢饉対策は功を奏したが、米を基本とした藩及び地方の財政が一時的に悪化。幕府とそれに連なる御用商人(都市特権商人)の影響力強まり、農業軽視の重商主義化路線だとして批判も残り続ける。
 1787年 
徳川家斉 十一代将軍就任。将軍が若年のこともあり、田沼意次、意知の権威強まる。
 1788年 
田沼意次没。人々から惜しまれる。反田沼派が巻き返しを図ろうとするが、水野家など田沼派の反撃で動きを封じられる。
 1790年 
田沼意知老中となり、「寛政の改革」開始。
 1793年 
田沼意知、世情不安に対処するため大老就任。
以後約20年間幕府財政は大きく潤い、日本全体の経済力も1780年代初頭から四半世紀の間に実質二倍近くに拡大。江戸時代後期の幕府絶頂期となる。この間幕府は御用商人(特権大商人)と結託することで日本の重商主義を押し進め、海外交易も運上金拡大のために御用商人に委ねるようになる。そしてこの間に江戸後期型の大商人(財閥の始祖)が形成され、彼らが日本を海外へと押し出させる大きな力となる。

 1794年
水野忠邦出生。
 1804年
田沼意正(=水野忠徳・意次の四男)、若年寄就任。派閥の一翼を担うもこれ以上出世する事なく、大きな活躍もなし(1836年没)。しかし、これ以後権勢を握る水野家の出ともなるため、田沼派の拠り所として存在。
 1811年 
田沼意知年齢を理由に隠居願い。以後田沼家は影で影響力を保つも勢力を徐々に縮小。かわって田沼派の水野家が勢力拡大。
 1817年 
田沼意知没(67才)。水野忠成、老中首座に就任。
田沼時代終わる。
以後、約二十年間続く「大御所時代」へと入る。
 1839年
水野忠邦老中首座就任。
 1841年(〜43年)
水野忠邦「天保の改革」開始。
改革の失敗で、田沼、水野派は勢力衰退。
しかし改革の一部が江戸幕府の帝国主義化の端緒となる。

以後政治は雄藩合議制でしばらく進み、井伊直弼の強権政治を経て幕末になだれ込む。

 1861年
田沼意尊、若年寄就任。この代のまま明治維新を迎える。
明治後、田沼家は伯爵家に列挙され貴族院議員も輩出。改革開放政策の端緒を担った田沼意次が、後世高く評価される。

※「天明・寛政の改革」
都市商業、海外交易、殖産興業、貨幣経済を基本に置いた、重商主義による経済改革。

「天明の改革」(意次時代)
・株仲間の積極公認による、運上金・冥加金(税金)の増加
・専売制度の拡張
・貿易促進(長崎貿易の規制緩和による輸出拡大と金銀獲得)
・蝦夷地対策(ロシアのと交易模索と北方調査)
・新田開発(印旛沼など)
・貨幣鋳造(銀貨が秤量貨幣から計数貨幣となる)
・流通拡大(千石船の追加整備、国内交易網の追加整備)
・幕府の保有貨幣量が、家綱以来の高額となる

「寛政の改革」(意知時代)
・貨幣統合(金貨(小判)を中心とする貨幣経済が進む。)
・税制改革(幕府財政の基本を、米から貨幣への比重を高めることで税収安定を狙う。)
・与禄改革(武士への給与を米そのものから貨幣へと比重を移す。最終的には完全に貨幣への変更を予定。)
・限定開国(ロシアへの開国と長崎貿易のさらなる拡大。さらには開国場所の増加。鎖国政策の大幅緩和。)
・殖産興業(貨幣経済拡大を狙い、工場制手工業を拡大。諸藩にもさらなる産業振興と加工品の海外輸出を指導。)
・農政再建(重商主義により困窮する農村と諸藩の税制改革。多くを貨幣中心経済へと段階的に移行させる。また換金作物のさらなる奨励と平行して、基本食料である米の価格と供給量の安定化を促進。)
・文化振興(庶民文化の発展促進により、さらに消費文化を拡大して、貨幣経済と海外交易の促進を狙う。)
・海防政策(日本近隣調査の促進。蝦夷地の測量。沿岸部諸藩への海防強化の命令。)



●その2 幕府開国1