●その2 幕府開国1(田沼時代)
(※時代劇時代とも揶揄される)

 国内での重商主義拡大と北東アジア地域への欧州列強の来訪の増加に伴い、幕府はなし崩しに開国へと向かう。商業の発展が、自国内で止まることを自ら否定させた何よりの証であった。
 しかし当初日本に訪れる外国がロシアとイギリス程度しか存在しないため、日本国内の一部の保守派が警戒したような変化はなく、緩やかな開国解放でしかなかった。

 1767年 
ロシア船が択捉島に初来航。
 1771年 
ロシア船が日本列島に初漂着。
 1776年 
アメリカ合衆国独立宣言。
英、アダム=スミス「国富論」。
 1778年 
ロシア船、得撫島からノッカマプ(根室)に来航。交易を懇請。松前藩は拒絶。幕府にロシア船寄港が伝えられる。
 1780年代前半 
田沼政策により、清国への俵物(乾物)などの輸出拡大。幕府の銀備蓄が綱吉時代のレベルにまで増加。ホタテ貝など海産物の供給源の一つとなる蝦夷開発が活発化。
 1783年 
大黒屋光太夫がアリューシャン列島に漂着。
工藤平助『赤蝦夷風説考』献上。
「パリ条約」。イギリスは、アメリカ合衆国の独立承認。
 1784年 
平賀源内、田沼意次の手により同年密かに蝦夷(道南)へ。(罪人となった1779年以後、田沼家への助言となる。田沼意次に流通の重要性を示唆する。そして幕府隠密のエゾ開発へ関わり、晩年「蝦夷開拓指南書」を執筆。後の開発の参考とされる。)
 1785年 
林子平、「三国通覧図説」刊。
 1785〜86年 
最上徳内、千島列島探検。ウルップ島に到着。その後樺太にも向かう。
 1780年代後半 
これまでの貿易黒字を受けて貿易の拡大が加速し、交易品を求めて蝦夷地開発もさらに北進(毛皮と魚介類を求めて)。オホーツク各地で日本人とロシアとの接触増える。
 1786年 
北方国防を理由に松前藩領を厳密に定め、道南の松前藩領以外の全ての蝦夷地を天領(幕府直轄地)にする。箱館に奉行所設置。目的は幕府と御用商人(都市特権商人)の海産物の独占も進む。
ロシア、千島に来航。幕府は察知せず。
 1787年
フランス人ラベルーズ、樺太西海岸調査。樺太を大陸の一部(半島)と判断。
大黒屋光太夫ら、カムチャッカ半島に渡る。
 1788年 
北方警備のため蝦夷地への常備的な幕府兵(幕兵)の派遣始まる。連動して近代的な幕兵の整備が少しずつ始まる。また蝦夷探査の速度も加速。
英国による豪州移民始まる(初期は流刑地)。
 1789年 
「クナシリ・メシナの乱」。アイヌ最後の対日蜂起は失敗。幕府の蝦夷・アイヌ支配と統制を強化。その後、対ロシア政策という情勢変化もあって、幕府の下でアイヌの権利がある程度保証されるようになる。
大黒屋光太夫ら、イルクーツクに到着。
仏、「フランス革命」開始。天明の飢饉の原因であった浅間山の噴火による北半球全域での天候不順による不作が原因の一つとなる(火山噴火に関しては、世界中での大規模火山の噴火による地球規模での気温低下が原因で、浅間山はその一つに過ぎない)。
米、ワシントン、初代大統領となる。
 1790年
「寛政異学問の勧め」。田沼改革の一環として日本各地に藩校増加。国学が進められると共に、地方に蘭学も広まる。
幕府、貿易好調を受けて蘭船の来航許可を年3隻にまで戻す。
最上徳内、択捉島に至る。
 1791年
幕府、この5年間に徐々に増やし(戻し)てきた唐船(清船)の来航許可を年70隻に拡大。百年前の水準となる。この年の貿易黒字は、年間100万両を突破。主力輸出品の海産物と銅に関連する産業が大きく発展。さらなる規制緩和機運を盛り上げる。また清やオランダを介して、海外の珍しい物産が多数日本にもたらされるようになり、日本人の消費熱を煽る。
幕府、林子平の「海国兵談」「三国通覧図説」を御用書として発行。国内に開国と国防意識の拡大機運を促す。
 1792年
大黒屋光太夫がロシアから帰国。同行したロシア特使のラクスマン、江戸幕府に通商要求。
「御露西亜開国」。田沼意知、大幅な貿易黒字による好景気と国内の消費経済発展で力を持ち始めていた御用商人(都市特権商人)達の後押しを受け、武士階級には科学技術面での近代化による国防促進を理由にロシアに対して開国を決定。翌年、ロシアと条約を交わすことを約束。連動して、オランダとの交易もさらに活発化を約束。幕府の目的は、貿易開始によりロシアの動きをコントロールする事での北方国防と、オランダ・清との交易拡大にあった。開国はショックを与えるための方便に過ぎなかった。
 1793年 
「日露通商条約」締結。三年後に条約が施行される。
オランダとも新たな通商条約を結び、貿易枠と貿易場所拡大が約束される。特にオランダとは、西欧で大規模に普及し始めたコーヒーと砂糖売買を目的とした。
能動的な貿易促進のためと日本領の拡大を理由に、外洋航行可能な船舶の建造規制緩和。(幕府の認可制。商人からの後押し。国内での流通拡大が理由でもあった。)
またロシアとの交易開始のための準備として、開港地の整備と国境線の設定作業、ロシア語習得者の増加、そして警察力(軍事力)の整備を急ぐ。
「第一次対仏大同盟」。欧州各国は、フランス革命の伝搬を強く警戒。
 1794年 
近藤重蔵、最上徳内、大日本恵登呂府の標柱設置。幕府はロシアとの国境設置を急ぐ。連動して、蝦夷各地の標識設置や測量も行われる。
 1795年 
幕府、清船(唐船)、オランダ船の来航制限撤廃。許可制とするも以後自由となる。一時期、清船(唐船)の来航がかなり無軌道なものとなる。またこれを機会として、中華系海賊が日本近海にも出没するようになる。
ハワイ、カメハメハ王朝成立。
 1796年 
箱館開港。ロシア公館設置。また、日露の正式な境界線確定。最上徳内の探検効果により千島列島は日本領(幕府天領)とされる。同時期、蝦夷各地(室蘭、根室など)に幕府の番所を設置。ロシアを監視するため現地アイヌとの交流及び協力が進む。
 1797年 
長崎がロシアに開港される。ロシアが公館、商館を設置。
イギリス船、室蘭に来航(日本初来航)。補給を求める以外は特に動きはなし。日本側も有償補給を行う。
ロシア、択捉島に無断で上陸。幕府役人が駆けつけると退去。
昌平坂学問所(後の帝大)を官学校とする(1800年開校)。
 1798年 
近藤重蔵、オホーツク地域の探査。千島探検。日本国の標識を蝦夷、千島各地に立てる。
箱館で欧州型(オランダ型)城塞の築城調査開始。後の五稜郭。以後箱館は北方防衛の要となる。
 1799年 
幕府、国内での船舶建造の規制を完全解除。幕府以外が軍艦を持つ場合は許可が必要。さっそく千石船や大型漁船の大型化、外洋船化が始まる。早くも年内には、竜骨を備えた千石船の改良型が出現。実質的な積載量は二千石船を越えていた。オランダやロシアからも、技術や図面の購入が図られるようになる。
ロシア、アラスカ領有宣言。幕府にも通告あり。幕府の北方国境の確定と拡大路線を助長。
オランダ、東インド会社解散。
 1800年 
幕府、禁書(洋書)の規制撤廃。ただしキリスト教関連の宗教書の輸入禁止は継続。また蘭学者や役人の間にオランダ語以外の習得が奨励され、異人の御雇い教官が招かれる用になる。一方で、反発から国学の研究が各地で盛んとなり、合わせて日本での高等学問が拡大。
異人の日本国内移動緩和(当初は開港地から十里四方は自由。それ以上は許可制)。
伊能忠敬、幕府の大規模な支援を受けて蝦夷地測量開始。
 1801年 
ロシア代表団、将軍(徳川家斉)に謁見。幕府、返礼の使節派遣を約束。
富山元十郎ら、ウルップ島に日本国の標注立てる。
露遣衆(御露西亜派遣衆=ロシア派遣団)、探検家の間宮林蔵、近藤重蔵らを道案内として伴いシベリアを横断。中央アジアで越冬。ロシア辺境の未発達度合いを見聞。
 1802年 
ロシア派遣団、露都ペテルブルク到着。ロシア皇帝、アレクサンドル1世に謁見。将軍の親書を渡し多数の献上品を贈呈。
両国の境について約束を交換。ロシアは樺太島、千島を日本領として認める。幕府はカムチャッカ、アリューシャン列島、アラスカをロシア領と認める。
 1803年 
ロシア派遣団、ロシア皇帝の計らいで欧州中心部各地(ベルリン、ウィーン、ベネツィア、パリ)を訪問。欧州世界の上層部に、オランダを介しない日本の存在が「初めて」知られるようになる。ロシアは、東洋の国を連れてまわることで各国を牽制。同時に日本には、欧州の偉大さを知らしめさせようとする。
イギリス船、日本調査のため長崎寄港。ナポレオン統治下のフランスに対抗する海外貿易拡大が目的。国の親書を持たないため、幕府から交易を断られる。



●その3 幕府開国2