●その3 幕府開国2(化政文化時代・大御所政治時代)

 ロシアに対する開国に端を発して、幕府の鎖国政策が根本的に変化。日本全体の西欧文化流入と近代化が始まる。

 ※1810年代〜20年代
 1780年代から続く長年の重商主義政策の継続により、都市部を中心に貨幣経済が浸透。日本列島の経済力自体も、少しずつではあるが大きくなり始める。また都市部を中心とする富の蓄積により富裕層、中間層が多数形成され、平行して民衆の教育熱も増大。一方では、船舶建造の規制撤廃により日本の船が徐々に外洋に出始める。特に海外に赴くわけではない漁業面での進展は早く、遠洋でも利益の出る鯨漁(主に鯨油目的)が発展して、国内の照明燃料としても大きく普及。日本の夜がより明るくなる。
 一方では西欧の文物も多数入り込むようになり、一般にも広まり始める。各地の城下町には、砂糖の輸入増大を受けた甘味どころが増加。店先ではお茶や甘茶ばかりでなく珈琲(コーヒー)が絶大な人気を集め、珈琲専門店までが出現する。お茶の方も、中華系商人の手により烏龍茶や紅茶が早くも上陸した。
 他方、経済の商業化・巨大化によって、身分制度も徐々に亀裂が入り始める。それでも人々は、近世時代で最も平和で文化的とされる文化文政時代を謳歌し、日本全体も大いに繁栄する事になる。それはまさに、江戸幕府の黄金期であった。

 1804年 
仏、ナポレオン皇帝即位戴冠。皇帝即位。フランスを訪問中だったロシア派遣団も、祝賀行事の臨席を許される。
ロシア派遣団帰国。日本の完全開国と近代化、そして国防の充実の必要性を説く。その後以後十数年間の間に、ロシアを経由して幕府の欧州視察団が度々出される。しかしそのたびに、ロシアからの要求で交易と開国をなし崩しに拡大。
ロシア派遣団と共にロシアのレザノフが来日。駐日公使に就任。文化や習慣の違いや強引なやり方で幕府と衝突。
 1805年 
「レザノフ事件」 レザノフの随員が、帰途に樺太と千島列島で測量及び略奪。日本初の国際問題となり、幕府が対応に追われる。攘夷論が始めて登場。北方の探査と警備に力が入れられるようになる。
欧州、フランスが「アウステルリッツの戦い」で勝利するも「トラファルガーの海戦」で敗北。仏、欧州の覇権を握るも、英本土上陸を断念。この頃より、欧州情勢は以前よりも早く日本にも伝えられるようになる。トラファルガーの戦いは、日本に初めて海軍力の整備を印象づけさせる。
 1806年
幕府、沿岸に防備命令。諸藩には、参勤交代の江戸滞在日緩和と引き替えの形で、沿岸防衛のために西洋式武器の装備と大型船保有の許可を緩める。一方では、異人船全般に対する有償補給許可を出して、来航を統制しようとする。
幕府、浦賀に外国奉行所設置。江戸近辺の沿岸防衛と交渉の拠点として整備。
神聖ローマ帝国滅亡。
仏、大陸封鎖令。
英国が一時的であれ欧州以外の貿易先を探すようになり、清を中継した形だったが日本の消費力が注目される。
 1807年
幕府、樺太の各地に日本の標識を改めて設置。翌年真岡に国内用の港を開き番所も設置。
ロシア、択捉島の幕府番所を襲撃。現地の警備部隊(幕兵)の反撃で撃退。幕府厳重抗議。ロシア側も後に謝罪。
アメリカ船が長崎来航。日本初来航となるが、アメリカ政府とは一切関係がなく補給後にそのまま退去。幕府、初めて太平洋の遠方に興味を向ける。
 1808年 
「フェートン号事件」。長崎でイギリス船がオランダ船を拿捕しようと進入。幕府は適切な対処できず。法律の整備と国防体制の充実が強く検討されると共に、オランダ、ロシア以外の国との国交を開く切っ掛けとなる。
間宮林蔵による樺太、黒龍江(アムール川)を詳しく探検。間宮海峡を発見。また黒龍江河口部にも、現地を島と判断して日本国の標柱を立てる。この後、国際的にも樺太全島が日本領と認められる大きな要因となる。また黒龍江河口部は、しばらく清、ロシア、日本の雑居地となる。
 1809年
スペイン船がフィリピンより長崎に来航。フランスの代わりに、イギリス、ロシアとの交易停止(大陸封鎖)を要求。幕府はフランス及びスペインとの関わり(国交)がないとして謝絶。
 1810年 
江戸、大坂に初期のお台場(沿岸砲台)建設開始。長崎、箱館も、港湾施設の拡大と共に防備強化が始められる。
ハワイ、カメハメハ一世により国家統一。

 1811年
幕府、「蛮書和解御用掛」設置(後の帝国外大)。蘭学以外の語学の修得と翻訳を本格化する。
「ゴローニン事件」ロシア軍艦が領海侵犯により拿捕。翌年解放。事件の後始末としてロシア側が日本側に強く迫るが、途中から態度を大きく軟化。その後ロシアは、日本で大規模な軍事力を海外派兵出来るか打診。幕府はロシア派遣団の中に調査隊を含ませる。
 1812年 
仏、「ロシア遠征」。
ロシア、ロシア訪問中の日本のロシア派遣団に正式に援軍を要請。幕府は前例がないとして謝絶。しかしロシアからの重ねての要請により受け入れ。装備や編成の多くが昔のままだが、体面から象徴的な意味での派遣と物資援助が行われる。夏に約三百名の騎馬武者と形だけの洋式歩兵が日本を出発。
モスクワ陥落によりウラル山脈南部で越冬。翌年春、廃墟となった解放後のモスクワの街をパレード。日本の軍事力が、初めて欧州で見られる。
高田屋嘉兵衛、日本初の能動的な貿易目的でロシア首都(サンクトペテルブルグ)に赴き、初の日本商館を設置。
 1813年
幕府、海軍奉行所設置。洋式海上戦力の増強および造船所の設立を決定。当面は輸入でしのぎ、10年以上の試行錯誤の後に小型・中型の帆船型軍艦(コルベットやスループ、フリゲート)の建造が行われるようになる。
幕府、ロシア派遣団に慰問団を追加派遣。ロシア皇帝にも見舞いの献上品を贈呈。
仏、「ライプツィヒの戦い」で敗北。
幕府、オランダ(ネーデルランド王国)に見舞いの使節派遣。
 1814年
幕府のロシア派遣団、「ウィーン会議」に招待。オブザーバーとして会議を傍聴。オランダ、ロシアを介して紹介され、国際デビュー。
日本の総人口3000万人以上、首都江戸の人口100万人という数字は欧州中を驚かせ、豊富な金銀を代名詞としてジパングの名が知れ渡る。各国の代表が日本との交易を求めるが、派遣団は政府としての交渉権がないとして謝絶。日本への使節の来訪を願う。この時、代表団が持ってきた日本の工芸品(陶磁器、漆器、絹織物、刀剣など)も紹介。欧州の対日関心を煽る。幕府も貿易拡大のため、商業活動は積極的で、以後数年間欧州上流階級では日本ブームとなり、当面はオランダが積極的に日本製品を輸入して転売。逆にウィーン会議で知った西欧の贅沢品が将軍家や大名に知られるようになり、以後輸入が増加。この時期、フランス料理が料理人と共に初めて日本に伝えられる。
松前藩の知行地変更行い、蝦夷、樺太、千島の全域を直轄地とする。箱館奉行を「蝦夷奉行」に昇格・拡大。
仏、パリ陥落。ナポレオンは退位してエルバ島に配流。
英、スティーブンソン、蒸気機関車を運転。
 1815年
幕府、江戸近くの下田を開港。オランダ、ロシアが商館を設置。
この頃から、欧州の戦乱終息で余った大量の武器が蘭、露を介して日本に流れ始め、日本の軍備の西洋化(近代化)が本格化。逆に日本からは多数の手工業品が輸出されて好景気となり、日本各地で手工業が拡大。
また、手工業の拡大などで照明用として鯨油の需要が高まり、近海に優れた鯨の漁場があるため短期間で普及。補給拠点として、伊豆諸島や小笠原などの開発も漸次行われるようになる。一方で、独自の遠洋漁船の多数建造と改良が進む。
仏、ナポレオン復権(「百日天下」)。
「ワーテルローの戦い」。幕府のロシア派遣団も観戦。『近代戦』のすさまじさを実感。
 1816年
イギリス船、琉球に来航。幕府と島津藩の役人と接触。幕府に新たな交易拡大と南方の調査と領土確定を意識させる。
この年頃より、輸出拡大に伴い日本各地で工場制手工業が大幅に拡大。産業革命への大きな呼び水となる。
 1817年
「大御所政治」始まる。この年、田沼時代終焉。以後大御所政治により一見華やかな時代となるが、幕府の政治的停滞が強まり財政が放漫経営となって徐々に社会の不満が高まる。
国内での砂糖需要拡大を受けて、自力の佐藤栽培拡大を目的として南方の探索と開拓が本格化。幕府は、砂糖の輸入増大による国内の金銀流出を懸念。それほど砂糖の消費量が拡大していた。
 1818年
幕府、百数十年ぶりの国産大砲を試射。
イギリス人ゴルドン、浦賀に来航して交易を要求。幕府は、通商条約を結ぶための英国政府の正式な使節を要求。
 1819年 
イギリス政府、日本に軍艦を用いて政府使節を派遣。幕府、イギリスと国交を開き通商条約締結。対等な通商条約を締結。その他の取り決めもオランダ、ロシアと同じ措置。イギリス、各地に公館、商館設置。またイギリスは、アジアでの共同の中華系海賊対策を幕府に提案。貿易と海賊対策は、日本の港に浮かぶ多数の帆船型軍艦を目にしたためと言われる。
同年フィリピンからスペイン船が来航。他国と同様に国交を開き通商条約を締結。
 1820年 
「開国元年」。ウィーン会議で日本の使節と接触を持った国々のうち、フランスなどまだ国交のない列強の多くがこの年に競って日本に多数来航。日本と国交を開く。これにより鎖国が事実上完全廃止。以後、交易を求めてきた国に対して幕府は順次通商条約を結ぶ。また日本は、全面開国により欧州の「ウィーン体制」下の外交状況に組み込まれる事になる。
なお、いまだ産業革命がイギリスだけな事、日本の国家規模の大きさ、既に自力で高速帆船や最新武器を作り始めていた事などから、有色人種国家ながら「文明国」と判断され、条約のほとんどが平等条約として結ばれる。
神戸、横浜開港。大がかりな港湾施設と異人居留地の建設始まる。
米、ミズーリ協定。奴隷州と自由州の境界が決められる。

 1821年 
伊能忠敬門弟「大日本沿海輿地全図」完成。幕府は多額の援助金を出して、さらに外郭地の測量を要請。以後、新造されたばかりの国産大型帆船を用いて近隣島嶼の調査開始。この頃から「伊能衆」と呼ばれるようになり、さらには幕府の威の及ぶ太平洋一帯を測量。「東洋のメルカトル」と呼ばれ日本人の海外進出に貢献。
ロシア派遣団中止。以後、自前の船による欧州派遣へと変わり、能動的な外交と交易も兼ねるようになる。
小田原藩主、二宮尊徳を登用。
 1822年 
西国でコレラ大流行。開国により日本に来た異人がもたらしたとの噂が広まり、くすぶり始めていた「攘夷論」を後押し。海外交易の順調さから大きな声とはならず。一方で商業拡大と産業革命開始で巨大化が始まっていた都市部では、上下水道の整備や側溝の充実など近代的な都市環境の改善が強く指摘される。
この年から、欧州諸国との海外貿易が大きな利益を出すようになる。しかし翌年には、海外との金銀兌換格差から交易が大幅な赤字に転落。
 1823年 
幕府、中央に新たに「外国奉行」設置。日本各地に役人を配置。
幕府、日本人の海外渡航に関する規制を緩和(海外交易する大商人からの突き上げ。)。
すぐにも日本側の船が、初めて海外へ交易に出発。幕府の認可制ながら、以後爆発的に拡大。海外交易も御用商人(都市特権商人)が牛耳る形が作られる。
米、「モンロー宣言」。
同年、イギリス船に乗ったメキシコの役人が訪日。
 1824年 
常陸沖にてイギリス船(捕鯨船)、日本の捕鯨船に対する海賊行為と領海侵犯で幕府軍艦により拿捕。外交問題となる。幕府に、国防の進展と日本近海の調査を促す。またイギリスとは、海賊対策の協議が進む。
この頃より、日本で鯨油産業が一大産業となり、鯨油と鯨油を用いた加工品の欧州への輸出が大規模に行われる。また日本でも、大型捕鯨船が太平洋の航路開拓を後押し。逆にイギリスからは安価な綿布などの工業製品が流れ込み、日本の国内手工業を圧迫。さらに過剰な貿易による国内の物資欠乏などから、民衆の対外不満増大。幕府は輸出品目としての絹と絹織物に注目し、全国に生産を奨励。
「金銀改鋳」。貨幣(金貨)が国際基準にされ貿易収支安定。海外との貿易法も整備され、日本側の貿易促進が図られる。(※1両=1ドルや1フランとなる。)
 1825年 
「異国船令」。幕府、諸外国に日本領海内での行いを記したお触れを出して、日本各地の開港場で知らせると共に各国に通達。同時に「異人法度」により、日本国内での異人の犯罪行為に対しての法制度を整備。諸外国から反発があるも、特に行動を起こす国はなし。
同年、幕府は欧州に外交使節団を派遣。日本との国交並びに通商の約束事取り決めを行う。
 1826年 
大坂開港。開国による物流変化で影響力が弱まりつつあった大坂、京の御用商人(特権大商人)が幕府を動かす。上方商人の巻き返しにより、神戸、大坂が海外交易の中心として発展。江戸と結びついた横浜(+長崎)一辺倒の海外交易が大きく変化。物流の中心が再び上方起点となる。
以後外国船が多数直接大坂に入るようになり、大坂の繁栄ぶりに驚嘆。「東洋のヴェネツィア」と呼ばれる。港湾としての有効性と後背の山岳部の保養性から、連動して神戸も発展。
また鯨油産業の母港や加工地として、太平洋沿岸部の漁港が発展。
 1827年 
幕府、海外渡航禁止を完全撤廃。移民も自由化され、年内にも第一陣が南洋の島に出発。国内の人口増加解消が目的だった。
幕府、日章旗を日本国総船印に制定。
島津藩、財政改革始まる。
大坂にて、日本製の高速帆船(クリッパー船の前身)が登場。以後、国内用と近隣諸国間用の双方で爆発的に増加。積載量は千石船の五倍、速力は平均で5〜6ノット程度、最高で15ノットを記録。3日ほどで江戸=大坂間を横断。平均積載量から「五千石船」と呼ばれる。また、建造資材獲得のため、北方(蝦夷)開発が促進。さらには、アジア・太平洋各地への進出が拡大する。
 1828年 
「シーボルト事件」。日本地図(伊能地図)を持ち出そうとして、オランダ人医師が逮捕後国外追放。法制度整備が促進されると共に、日本国内の攘夷論が高まる。
攘夷論の台頭から、開港地で日本人による異人殺傷沙汰が多数起きる。諸外国からの非難が殺到し外交問題化。治外法権を求める声に、幕府は対応を迫られる。
 1829年
上方商人達が、欧州列強が深く手を付けていないボルネオ島北部に商業進出。以後現地のブルネイ王国と関係を結び、ブルネイの港を自らの東南アジア交易の中継点とする。また一部では、日本人移民を入れてサトウキビ栽培を開始。以後東南アジア各地に、かつての日本人村のような拠点を建設。
葛飾北斎「富嶽三十六景」。
 1830年 
江戸、限定的ながら開市。品川宿に居留地が作られる。
日本捕鯨船、初めてハワイに至る。捕鯨の遠隔地化の影響だが、日本近海での鯨水揚げ量の低下が原因。
また幕府は、サトウキビの栽培地としてハワイを注目。ハワイ王国との関係強化を図ると同時に、ハワイへの日本人移民を奨励。
島津藩、日本や琉球以外の場所で独自の海外交易(密貿易)を開始。
幕府、洋装解禁。日本人にも国内での洋服が公的に認められれ、日本的な髪型にもより自由が許されるようになる。以後都市部を中心に、民間主導で洋服が普及。江戸時代的な髪型も少しずつ廃れ始める。安価な綿布の普及が、服装の多様化を後押し。


●その4 日の本西洋化