●その4 日の本西洋化

 開国により世界に広く開かれた日本。幕藩体制の天下太平を謳歌する日本人たちは、自ら利便さを求めて西洋文明の取り入れへと緩やかに進んでいく。一方世界は新たな世界に向けて不穏な情勢となりつつあったが、日本列島はいまだ辛うじて平穏の中、天下太平の中にあった。

 ※1830年代〜40年代
 西洋文化が庶民の間にも一般に広まり始め、軍事面でも西洋から流れてきた中古兵器の浸透が強まりつつあった。幕府や御用商人、一部の大名は、従来の千石船や弁天船とはまったく別次元の大型高速船つまり「帆船」を保有するようになる。異人(主に白人)の姿も、幕府側の制限付きながら主要貿易港ではそれなりに見かけられるようになった。また、蒸気動力を用いるようになった近代的工場が各地に建設され始め、産業の近代化も少しずつ始まる。
 一方、武士の高等教育が一層普及するのと平行するように、寺子屋の上位に当たる武士以外の高等学問所(西洋式学校)が、寺子屋の増加と共に「私学」という形で都市部を中心に大幅に増加し、武士以外の教育が普及した。豊かさの拡大と近代化の進展により、社会がマスプロ化された教育を求め始めていた。
 それでも幕藩体制に大きな疑問は抱かれず、便利で先進的な文物が広まる以外大きな変化はなかった。日本はまだ天下太平の中にあったからだ。
 なお1840年代は、以前から始まっていた重商主義化と産業革命初期の過渡期による、江戸幕府がそれまでに経験しなかった人口増加と日本独自の海外流通経路の増加の二つの要因から、突然のように海外移民が大規模に発生した。このため1830年代は、後に移民元年とも呼ばれる事になる。
(※神の視点:政治以外は、史実の明治維新前後に近い状態。もしくは、イギリス以外の西欧諸国一般での産業革命に近い。)

 1831年 
大坂にて出資者を募り配当を与える形式の会社組織、つまり日本初の株式会社が誕生。以後爆発的に増加。両替商なども出資が増え、商人を中心に業務の近代化が急速に進展。商人の屋号として「株式屋」というものまでが登場した。
日本列島外の海域で、初めて日本船が海賊行為に合って問題化。幕府は、両シナ海に軍船を派遣。幕府、海賊対策のため海軍増強を急ぐ。
なお、1930年代の東南アジアでは「日本の海」と呼ばれるほど、大量の日本商船が活動するようになる。一方では、国防と海賊対策のため、幕府海軍を中心にした軍備拡張を行う日本に対して、諸外国から警戒の目が向けられ始める。

 1832年
スペイン領フィリピンで日本の大型商船が難破。後の調査で、大型のジャンク船(中華帆船)を使う中華系海賊の犯行と判明。非武装の日本船は格好の餌食となる事が明らかになり、商人を中心に日本人に危機感が生まれる。このため幕府は、許可制で商船の武装と武装兵(武士や浪人)の搭乗を認めるようになる。以後剣客が日本の港町で引きも切らないようになる一方で、度胸のない上辺だけの剣客は姿を消した。
なお1830年代の東アジアは、日本の活発な商業活動もあって「海賊最後の夏」と言われる。
同年、幕府軍艦と海賊船が領海外で初交戦。幕府海軍も日本近海以外での活動が増加。

 1833年 
「天保の大飢饉」(〜39) 天候不順を原因として日本列島全土で不作。民衆の不安と不満が増大。「化政文化」時代がほぼ終了。
幕府、飢饉対策として初めて海外(清、大越(ベトナム))から穀物輸入。貿易の拡大が叫ばれるようになる。
しかし、日本国内の流通網の整備と貨幣経済の浸透の影響でそれなりに安定した穀物供給が行われ、かつてほど大きな飢饉とはならず。田沼流政策が改めて見直される。一方で、換金作物の栽培が多くなっていたために穀物輸入を呼び込んだ。
飢饉の影響で、自主的な海外移民が激増。最初の1、2年間は、ハワイなど既に進出の始まっている南洋の島や、幕府が開拓を後押しする蝦夷島へ至る。南洋が多かったのは、幕府が日本への砂糖供給先を得るため。また移民需要の拡大に伴い、太平洋横断用の移民型高速帆船が多数建造される。五年間の間に約10万人が海外に移民。また幕府は、日本人移民も視野に入れた安定した穀物供給先を探すようになる。
安藤広重「東海道五十三次」。江戸時代的景観を残したものとして後に高い評価を受ける。

 1834年 
日本初の近代製鉄所開業。(後の住友金属・堺に建設・反射炉を用いる)
「蝦夷開拓令」。飢饉対策の一つとして、幕府主導で武士中心の屯田兵による蝦夷内陸部の開発が本格化。蝦夷でもできるとされた欧州式農法が導入される。しかしまだ技術的に難しかったため、当初はあまり進展せず。蝦夷内陸部は、船舶用材料の供給源として発達。森林の急速な減少が本格化。
日本船、移民探査も兼ねて自力で北米大陸西岸に至る。到着地に白人異人(文明人)がいないため、異人も知らない未開地と誤認。一部に標識を設置。その後南下を続けカリフォルニアでメキシコの役人と接触。同乗した幕府の外交使節団は、メキシコシティーまで赴きメキシコと国交開く。ここで大陸東岸のアメリカ合衆国の存在を知るが、ロッキー山脈の向こう側という事もあり、この時点では国交を開かず。
メキシコと完全な平等条約と関税自主権条約を締結。さらに相互不可侵を約束したメキシコは、メキシコへの帰化・帰属などを条件にカリフォルニアへの日本人移民の受け入れを約束。メキシコが日本を優遇したのは、スペイン本国人の排除とテキサスに流れ始めたアメリカ系移民への対抗のための現地人口の拡大が目的。
使節団、中南米各地を歴訪。独立間もない国々と国交開き、不安定な中南米諸国も白人国家ではない文明国として江戸幕府に注目。

 1835年 
幕府、「洋式鉄砲令」。幕府以外の洋式大砲・小銃の研究・製造を完全解禁。厳しい許可制ながら一般にも兵器開発が認められ、日本の近代兵器産業が本格的に動き始める。住友屋が、さっそく兵器の開発を開始。
幕府、「海軍」および「海軍局」を設置。江戸越中島に「海軍伝習所」設立(後の海軍士官学校。後に江田島に移転・統合)。合わせて、各藩が海上軍事力を持つことを厳しい許可制とする。また手本には英国式が用いられる。この前後より、軍事を専門的に担う人員増大を前に、日本中の武士の「徴兵」画策を始める。
島津藩、財政改革の過程で一部大商人と結託。主に清国との密貿易で莫大な利益を上げるようになる。この頃より上方商人との関係が親密化。

 1836年
幕府主導の移民事業開始。当面の飢饉はかなり沈静化したが、後の食料及び飢饉対策、そして日本への南方産作物の栽培が目的。第一陣は、移民が既に始まり国交も開かれたばかりのハワイへ。後に、ブルネイ(ボルネオ島)、ニューギニア(新奄美大島)そして北米大陸西岸(カリフォルニア)へも拡大。少し遅れて琉球王朝からも、海外移民者が多く出るようになる。
幕府、神戸にも「軍艦操練所」設立(後に江田島に移転)。
幕府、海外交流の増加に伴い海外に赴く武士、商人に山の手言葉を強く推奨。各学問所にも講師や補助金を出して推奨。「日本語」の統一を画策。しかし海外では、上方商人の使う上方言葉特に大坂弁の普及が進んでいく。
西洋馬を種馬として初輸入。以後輸入継続と国内での繁殖が広まる。当初は、大名や大商人用の高級場と荷馬としての利用が主。
英、日本に日本製高速帆船を近隣アジア諸国に輸出しない事を強く要請。目的は、中華系海賊の殲滅のため。幕府はこれに合意。東アジアでの海上航路防衛で日英の関係が強まる。
米、テキサスがメキシコから独立。メキシコの反米感情上昇。対米政策として、新大陸に来始めていた幕府(日本)との協力関係を強化。カリフォルニアへの日本人移民を奨励。

 1837年 
徳川家慶、十二代将軍就任。
「大塩平八郎の乱」 規模は小さいが洋式装備による国内初の交戦となる。幕府内部からの反乱に幕府大きな衝撃を受ける。
アメリカ、モリソン号が日本との交易を求める。幕府は政府の正式な使者を開港地に寄越すように強く要請。メキシコから聞いた風聞を鵜呑みにした幕府がアメリカ合衆国を警戒。アメリカ側にも反日感情を持たせる。
「唐寇襲来」。日本列島周辺で海賊行為頻発。幕府の航路防衛に対する中華系海賊の組織的反撃。国内流通が混乱して民衆の不安増大。幕府、海賊掃討に本腰を入れ、各地で戦闘が頻発。日本人の多くにも危機感が生まれ、海外と国防への関心が増す。幕府は大幅な海軍拡張を決定。また民衆には、唐(中華)への反感が生まれる。
徳川家斉死去。大御所政治終焉。
メキシコ、幕府にカリフォルニアでの移民受け入れ準備ができた事を通達。
英、ヴィクトリア女王即位。幕府は自国の軍艦で祝賀使節を派遣。イギリスからも歓迎される。

 1838年
 春
民間(商人)主導で、日本初の鉄道敷設開始(大坂=京間・43年開通・標準軌)。ただし技術者の一部はお雇い異人で、試行錯誤のため工事も遅延。以後は全て国産となる。
日本初の大型戦列艦「日本丸」就役(二級戦列艦)。ほぼ同時に同型艦が数隻建造され幕府海軍の象徴となる。しかし同年、日本初の蒸気船(商船)が就役。翌年には蒸気軍艦も登場。鉄道敷設開始や蒸気機関を用いた近代工場と合わせて「蒸気元年」や「蒸気維新」と呼ばれる。日本の産業革命開始の年とも言われる。
 夏
大坂で、日本初の駅馬車開通。日本の発明品である人力車も登場して、瞬く間に普及。大名や大商人など個人所有の馬車の普及も始まる。逆に駕篭は一気に廃れる。
幕府、江戸・新宿に西洋風迎賓館(後の新宿御苑)建設。前後して大坂、神戸にも民間資本が西洋風迎賓館を建設。この時期から、江戸、大坂、京、横浜、神戸、長崎、箱館を中心に西洋建築が増え始める。建築物の高さ制限も、道を広く取る事や骨組みに鉄骨を用いるなどで一部解除される。
緒方洪庵、「適塾」開校。後に上方商人達が支援して大規模化し、西洋文物を学ぶ高等学校となる。後の大阪帝国大学の源流。この頃から、上方中心の民間主導の産業革命進展に伴い、大坂を中心に多数の私設高等教育機関が設立される。また、蘭学以外の西欧医療の普及も進み、国内で外科手術も行われるようになる。また京では、日本の伝統的な学問が進み、上方全体で町人や富農主導で高等教育が発展する。
長州藩、藩政改革開始。
二宮尊徳、小田原藩の藩政改革に着手。
 秋
カリフォルニアで日本米(ジャポニカ米)の生産に成功。幕府はこれを国内で宣伝し、カリフォルニアへの移民熱を煽る。翌年春の航海に向けて、日本では大量の移民船が準備される。

 1839年 
幕府海軍、英海軍と共同で中華系海賊を掃討。海賊との大勢が決する。英海軍は、幕府海軍を評価。幕府海軍では、自らの存在意義を強く意識されるようになる。
ブルネイ王国に進出していた大坂の大店(大商人)が、王家の依頼を受けて傭兵(武装浪人)を用いて反乱鎮圧。褒賞としてサラワクを割譲させラジャ(藩王)に任じられ幕府も追認。日本は初めての海外領土を得る。(1846年にサラワク藩として幕府に加入)以後、日本人による海外進出を誘発するようになる。
「蛮社の獄」幕府による少数の蘭学者に対する弾圧。誇大に世間に流布したため、幕府への批判強まる。西欧技術の導入で、瓦版から新聞へと発展しつつあった報道機関の影響力が注目される。

 1840年 
「アヘン戦争」勃発。
当初日本は、幕府が近隣に軍艦を派遣するも静観。中華系海賊への警戒と情報収集のみに止まる。
蝦夷の幌内炭坑開削。初の幕営会社組織を取る。その後、蝦夷開拓の進展と共に蝦夷各地に幕営会社を設立。現地アイヌの雇用も行われ、日本化も進められる。
日本人移民、初めてカリフォルニア(加利福尼亜)北部(サンフランシスコ(和名:聖府))に到着。当時カリフォルニア北部はほぼ未開の地だった事もあり、メキシコ政府は帰化を前提としつつも日本人による開拓を奨励・優遇。アメリカの後のホームステッド法に似た法律まで制定する(ただし土地取得は欧州出身者に制限があった)。イギリスもアメリカ牽制のため後押し。
幕府肝いりの移民事業だった事もあり日本での宣伝にも務められ、その後も日本人移民が増加。日本から高速帆船で最短一ヶ月という行程の短さも影響。カリフォルニア各地に日本人移民経営の農場と牧場が加速度的に急造。サンフランシスコに最初の計画的な都市を建設して拠点とし、以後産業革命による人口増大の大きな受け皿となる。またカリフォルニア南部にも、労働力として日本人移民が流れる。
日本の造船問屋、大型廻船を開発。移民と物資運搬を目的に、より大型で高速の帆船が就役。最高平均速力7ノット、最高速力20ノットを誇る(※黒潮などの大型暖流に乗ればもっと出る)。積載量が1500トン程度のものが主流のため「一万石船」、「大名船」と呼ばれる。欧米では同種の船を「クリッパー船」と呼び、ほぼ同時期に開発。イギリスは日本製クリッパーを「Jクリッパー」と呼んだ。

 1841年 
「天保の改革」(〜43年) 老中水野忠邦、今までの方針を一転して国内の経済の引き締めと緊縮財政を画策。百年以上実質的に動かなかった貨幣単位の変化、つまり大きく進行して中間層以下の生活を圧迫していたインフレに一定の歯止め。
幕府中心の政治と統制経済を行い、経済及び幕府財政の急速な悪化を招き反発が強まる。同時に、中央統制による近代的制度の導入を図ろうとするが、多くが保守派に阻止される。
一方「富国強兵」政策が打ち出され、武士(軍)の近代化と産業の近代化は特権大商人(住友、三井、鴻池など)が後押ししたため比較的順調に進む。また改革を嫌い、海外で交易活動を行う商人と移民者が続出。
幕府、イギリスの許可を得てアヘン戦争への視察団派遣。初の観戦武官派遣となる。
カリフォルニアで日本米(ジャポニカ米)の大量生産に成功。また初めて日本に輸入。これを契機に移民が爆発的に増加。現地では日本資本が大規模に入り込み、大規模な灌漑事業など社会資本整備が急がれ移民はさらに急増。移民専用の客船型Jクリッパーが多数建造される。また日本国内での景気の引き締めによる不景気で移民者がさらに増加。

 1842年 
「南京条約」の会議に幕府代表もオブザーバー参加。中華系海賊に日本船が襲撃されている事が理由。
前後してヨーロッパ文明に対する脅威が言われ、日本で近代化促進が叫ばれると共に攘夷論が強まる。
別会議で「日清通商条約」締結。副産物として琉球が清の属領や属国ではなく日本の影響国である事が国際的に確認される。
同年、琉球から日本船で初移民が出発。以後爆発的に増加。
幕府、江戸市ヶ谷に「陸軍伝習所(後の陸軍士官学校)」設立。日本中から武士を募る。手本には仏式を導入。
日本初の国産旋条銃(ライフル銃)生産開始。生産場所から「大坂銃」や「住友銃」と呼ばれ、蒸気を用いた近代工場で生産。

 1843年
新橋=横浜間に鉄道開通。幕府主導の純国産鉄道。前後して各街道の整備も強化され始め、大河への恒久的橋梁建設が本格化。内陸部への流通速度上昇が叫ばれる。
上方では京から神戸、堺まで鉄道が開通。以後、40年代のうちに名古屋、北陸、山陽に伸張。日本経済中枢部の流通が激変。九州でも長崎・博多間の敷設工事が進む。関東以外の多くが、幕府(中央政府)ではなく民間資本や藩(地方)の出資で建設される。
幕府、政府の事業として大規模な太平洋探索開始(この年から以後続く)。太平洋艦隊を設立して各地に派遣。測量も行う。
同時期、国内での鯨油の需要増大のため、遠洋での捕鯨と進出が盛んとなる。合わせて日本人による太平洋各地の航路、島嶼の開発と開拓が進む。この時調査艦隊は、北米大陸沿岸から南極近海にまで達して幾つかの島に日本国の標識を設置。なおこの時、北米大陸のポートランド近辺に標識を立て、ハワイ近在の小さな諸島(中道諸島、大波島)などを領有宣言。その後も船舶密度の違いから、1820年代から太平洋に入りつつあった欧州諸国やアメリカを圧倒。瞬く間に太平洋の勢力図を塗り替えていく。捕鯨とサトウキビ栽培が日本人による開発を後押し。
幕府、ハワイの日本移民増大を受けて、ハワイに公館設置。日本側の初の公館(大使館)設置となる。日本人移民は琉球人を含め既に5万人達し、現地資産家や国の有力者になる者も現れ、現地人との同化も進む。本願寺なども進出し、少数の白人移民を圧倒。またハワイは、砂糖生産地、捕鯨基地としてばかりでなく、日本と北米西海岸との中間点として発展。
同年、日本・ハワイ間の定期航路整備。東太平洋、北米大陸西岸の探索と移民も活発化。
アメリカ、ハワイの独立を承認。捕鯨目的での太平洋進出だったが、既に日本の一大拠点となっていた真珠湾での日本人、日本船の多さに驚く。太平洋を自らの市場や勢力圏とする難しさを実感し、一方では日本人に敵意を持つ。

 1844年 
阿部正弘老中に就任。譜代中心から雄藩賢者との合議を重んじる政治となる。政治方針は形としては田沼時代に近い。先代の極端な緊縮財政、統制経済後の景気拡大策で経済好転。幕府の財政も冥加金(税収)増大で若干改善。
同年、水野忠邦が唱えていた政策のうち「富国強兵」だけが幕府及び大日本国の主な方針として残り、景気拡大に平行して産業革命と軍備の増強が進む。
幕府、朝鮮に開国と近代化を勧める親書を送る。朝鮮側は拒否。これ以後幕府(日本)は、朝鮮を半ば無視するようになる。以後、朝鮮通信使節も、朝鮮側の拒絶により中止。一方では対馬での密貿易は拡大。
日本国内で、カリフォルニアで無限の農地が得られると評判を呼び爆発的に移民が急増。また同地での綿花栽培のための労働者を求めたため、さらに移民が増加。一部の金持ち以外は、小農(貧農・小作農)が主に移民。幕府も移民の為の補助金制度を設ける。同年、さらに定期航路を整備。中心地のサンフランシスコには、幕府の大きな公館も開かれ大店の商館が並ぶようになる。また現地の治安の悪さから幕府役人だけでは全く足りず、現地日本人移民の多くがかなりの武装をするようになり新大陸浪人も増加。日本本国で問題視される。
アメリカとの対立悪化と内政不安が続くメキシコは、アメリカへの牽制になるとして事態を概ね歓迎。
この年のカリフォルニア日本人移民約4万人に対して、白人系住民人口は8500名(うちアメリカ合衆国系移民2000名)。しかも北部では15対1以上と日本人移民の圧倒的優勢だった。この背景には、日本からカリフォルニアまで最短で海路1ヶ月強、通常で2ヶ月ほどで到達できるが、北米東部から陸路だと7ヶ月、海路だと三ヶ月半程度かかるため。また海路と陸路だと運べる荷物の量も圧倒的差があり、瞬く間にカリフォルニアで日本文化と日本の勢力が膨れあがる。また、人口飽和状態の日本からは、40年代のうちは年間1万人以上のペースで移民が増加。さらに体制の整備と共に船賃が下がる事で移民数は年々増加。三井などの海運会社が大きく発展。

 1845年
阿部正弘老中首座となる。雄藩の賢者の意見を求める姿勢を強め、幕政の総裁制導入を画策(総裁=宰相を中心とする近代的内閣制度に近い)。しかし保守派から反対にあい、数年後には総裁制導入の先送りを明言させられる。
幕府、従来貨幣による貨幣供給量の限界を受けて、江戸と大坂に近代的な造幣所設置(勘定奉行管轄)。江戸では従来の藩札などとは規模の違う、国家としての紙幣を大量発行。機械力を大幅導入。当初は幕札と呼ばれ、各藩の藩札と交換もされ紙幣の統一が進む。大坂では、最新鋭の機械技術を導入して新しい金貨、銀貨、銅銭が大量発行される。貨幣単位は今までと同じだが、東西で違いのあったものが、西国基準の両、匁、分、厘の十進法でほぼ統一(両、匁は金貨か紙幣、匁、分が銀貨、厘は銅貨)。
同時に国営(幕営)の近代銀行開設(後の日本銀行)。民間でも近代的な銀行業務が始まる。これまでの両替商、貸金商も、順次取引を近代化して銀行化。また幕府は、小判の流通を紙幣に徐々に換えて、小判(純金)の国庫備蓄を本格化。(※すべてが近代化するには十年近くを要した。またこの時蓄えられた金貨の一部が、後に徳川の埋蔵金と言われるようになる。)
米、テキサスを州として併合。アメリカとメキシコとの対立深まり、メキシコは水面下で幕府に援助を依頼。幕府は、加州移民の保護のため出兵を検討。

 1846年 
「徴兵之御触書」。幕府、武士階級に対する事実上の選抜徴兵制度施行。武家の次男以下が主な対象。第一期の伝習兵(将校)誕生と共に、近代的常備軍の整備が本格化。今までの武士とは違う「幕兵」が誕生する。同時に日本各地に幕兵の拠点となる「鎮台」設置。幕府直轄地の江戸城、二条城、大坂城、駿府城、蝦夷・箱館(五稜郭)、建設中の樺太・真岡(四稜郭)が当面の最大拠点とされ、その後要地に近代城塞が建設されて拠点となる。
波及効果で、武士以外の間でも武芸が盛んとなる。特に天領(幕府直轄地・日本の二割)での武芸が盛んとなる。
幕府保有の横須賀造船所にて、大型の蒸気軍艦(外輪船型)就役。しかし当面は、いまだ多数見られる中華系海賊対策のため中小型艦艇が爆発的に増加。
この時期には東アジア航路の過半数を日本船(主に万石船)が占め、欧州列強から警戒感を持たれるようになる。一方で、日本船に対する海賊行為は急速に沈静化。幕府海軍では、海上護衛活動が重要任務となっていた。
4月、
アメリカ、ビッドル使節を派遣。日本、アメリカに対しても開国。
「日米和親条約」。これまでの国々同様、一応の平等条約を締結。アメリカ使節は日本のカリフォルニア移民に対して北米問題(不干渉)を幕府に伝えるが、幕府はメキシコとの友好関係を持ちだして反論。両者にわだかまりが残る。
英、医師ベッテルハイムが日本国内で治療と共に布教活動。幕府は、異人居留地以外での布教活動を禁じる。
5月、
「米墨戦争(アメリカ=メキシコ戦争)」勃発。2ヶ月後には飛脚廻船(高速船)により日本にも伝わり、急遽メキシコに使節を派遣。国内では、戦争特需を当て込んだ商人の動きが活発化。多数の船が、武器や兵站物資を満載して日本を出発する。
7月、
「カリフォルニア戦争(加州戦争)」勃発。米墨戦争発生を聞くとカリフォルニア日本人移民は、自主的に武装して現地メキシコ軍に合流(「義兵組」とされた民兵は最盛時5000名(日本人移民の約一割)を数えた。)。現地の幕府役所(代官所)も追認。各地で少数のアメリカ軍とアメリカ移民の混成部隊と交戦。数と地の利で優勢に戦いを進め、一時アメリカ勢力を駆逐。
8月、
幕府は現地移民を介してメキシコからの援軍依頼を受け、移民保護を理由に出兵と参戦を決意。他国への派兵と同盟に関する議論が本格化。
9月、
「加州出兵」。戦列艦含む軍艦4隻、輸送船3隻と水兵、幕兵合わせて4000名を加州に派遣。帆船が主力だが蒸気軍艦も含まれる。幕兵の初出動で、能力を見るのが目的とされていた。戦争特需に乗っかる商人の動きが激増。日本は俄に加州ブームとなり、多数の船と物資が加州へ渡る。平行して移民はさらに増加。この年だけで3万人が太平洋を渡り、翌年はさらに倍増。幕府の出兵により、カリフォルニアが天領(日本領)となることへの期待が移民を後押し。諸外国は、一部の者が尋常ではない大規模派兵と誤解。
10月、
幕府艦隊、高速船(武装飛脚船)による先遣艦が加州に到着。艦隊主力もハワイ入り。
11月、
幕府艦隊主力、カリフォルニア北部に到着。現地でアメリカ軍艦が先に発砲したため交戦後に撃沈。蒸気軍艦が活躍。さらに少数の現地アメリカ軍と交戦して一方的に撃破。カリフォルニア、サクラメントなどカリフォルニア北部は完全に日本の占領下に置かれる。なお幕府は戦闘後に宣戦布告を行い外国との初戦争となる。
12月、
西海岸で日本軍(幕府軍)参戦の報が伝わり、米政府に大きな衝撃。欧州各国も動きだし、西海岸へも軍艦派遣開始。

 1847年
2月、
カリフォルニアで、アメリカ軍が増援を得て反撃。しかし欧州標準の三兵編成を取り装備も良い幕兵が、現地移民やメキシコ軍の援護もあり優勢に戦いを進める。数でもアメリカ軍の大幅な劣勢が続く。
3月、
アメリカ軍の増援部隊壊滅。幕府艦隊は、その後ロサンゼルス、サンディエゴにも海路進軍。メキシコ軍と合同で、カリフォルニア主要部全てを奪回。さらに幕府は、日本より高速船団による増援艦隊を派遣。交渉のための使節も同行。
4月、
イギリスがカリフォルニアに軍艦を派遣。各国にカリフォルニアでの休戦を提案。
5月、
「カリフォルニア戦争」終戦。アメリカ側が申し出る形で、カリフォルニアで休戦協定成立(日、米、墨)。アメリカは、これ以上の諸外国の干渉を恐れた。
アメリカ、無理を押して東部から大規模な増援を送り牽制すると共に位の高い代表を派遣。
6月、
「サンフランシスコ条約」締結。
メキシコが、カリフォルニアの現状を鑑みて大日本国(幕府)に64万5000両(=1000万ドル)で売却。幕府は初の対外遠征成功に満足。アメリカは反日感情を持つ。
8月、
幕府、加州(カリフォルニア)を幕府直轄地とし、奉行所(総督府)をサンフランシスコに開設。域内への移民、交易を自由とする、加州(カリフォルニア)限定の法度(法律)を公布。カリフォルニアが日本領となった事で、日本人移民の増加はさらに加速。幕府も現地での開発を進めたり移民者を資金援助して加州に誘致。日本列島内での人口飽和状態の緩和が目的。

アメリカ、カリフォルニアを失ったため、北米西岸北部(ビクトリア湾岸)の開発強化を決定。太平洋への出口を維持する決意を諸外国に見せる。しかし、太平洋での捕鯨事業は既に日本の独断場であり、各島嶼での製糖業も日本人が牛耳り、太平洋はもはやアメリカ人の求めるフロンティアではなくなっていた。
江戸湾、大坂湾のお台場砲台大幅拡張。(近代海上要塞の建設。)
大坂、神戸の異人居留地が拡大され山間部には避暑用の別荘地も開かれ、各地に大きなキリスト教会も建設される。幕府は異人の宗教に関しては放免。北九州などでは、隠れ切支丹の海外移民が増加するが、幕府はあえて放置。
幕府主導による初の樺太開拓団が入植。開拓は難航。千島とどもも、林業と漁業開発に重点が置かれる。
同年、釜石鉱山、高島炭坑、三池炭坑、阿仁銅山が幕営化。既存の足尾銅山、佐渡金山、石見銀山なども国営会社組織化。その後も炭坑や鉱山の幕営化が進められ、時期を見て御用商人(特権大商人)に払い下げされていく。各種近代工場も同様に拡大。以後、日本の産業革命が急速に発展。

 1848年
「米墨戦争」終戦。アメリカは多くの領土を獲得。日本のカリフォルニア領有も再度確認される。
アメリカ、幕府にカリフォルニア買収(価格2000万ドル)を持ちかけるが、幕府は謝絶。
加州(カリフォルニア)で金鉱発見。幕府が二年間に限り冥加金なし(無税)としたためゴールド・ラッシュ(砂金祭り)始まる。
世界中から移民が殺到。欧州での自由主義革命を止めたと言われる。日本からも多数の移民がカリフォルニアに至る。翌年のカリフォルニア人口35万人の約三分の二(23万人)が日本人又は日系人で、白人移民との対立が始まる。一方で幕府により自由の地とされたため、北米各地から黒人(解放奴隷)やネイティブの移民も少しずつ増加。以後加州での人口増加は加速度を増す。
まだ派遣中だった幕軍が治安維持に乗り出し、海外で初めて統制の取れた警察活動となる。またカリフォルニアが日本領である事が改めて世界中に認識され、冥加金なしも宣伝と移民増加を目的としていた。また、加州への移動に際して日本製のJクリッパーが有名になり、日本では快適な移民専用の貨客船型Jクリッパーが多数建造される。
仏、「フランス二月革命」。王政廃止。第二共和制開始。欧州各地に革命や民族運動が波及。欧州の政治情勢の再編成が始まる。
独、「ドイツ・オーストリア三月革命」。ウィーン体制が崩壊するも、欧州各地での自由主義革命は失敗。ゴールドラッシュによる人の流れが原因の一つと言われる。以後ドイツ地域から北米への移民が急増。
カール・マルクス「共産党宣言」。

 1849年 
大坂に、日本初の近代紡績工場建設。綿布の自給体制確立を急ぐ。その後紡績業は、安価な労働力を用いて拡大。後に英仏などから苦情がくる。一方この頃には近代化された養蚕業が日本各地で大きく拡大し、国内需要を満たすだけでなく主力輸出商品として幕府や諸藩の大きな財源となる。そして日本は、貿易輸出国として近代産業面でも頭角を現すようになり、欧州にとってうまみのある市場ではなくなっていく。
イギリス、軍艦を用いて浦賀・下田に領海侵犯し測量。幕府海軍の追撃を振り切り逃走。幕府、外交ルートを用いて抗議。イギリスは後に謝罪。
この頃から、諸外国の日本に対する行動で侵略的なものが増える。また近代憲法を持たない後進国だと決めつけ、治外法権や関税自主権の自由を奪おうとするようになる。ただし曲がりなりにも国内法があり、ある程度の近代軍を持つため、強引な動きに出る国は少ない。
英、「航海条例」廃止。
東アジア・太平洋での英国流通で日本廻船問屋が価格差から大きくシェアを伸ばす。英国は一時反発するが、極東・太平洋という場所、距離の大きさから日本と妥協。


●その5 世界の中の幕府