●その5 世界の中の幕府

 開国は良いことばかりではなかった。交易ばかりではなく、それまで意に返さなかった国際情勢に目を向けねばならなくなっていた。しかも世界は、グレート・パワーによる世界分割と帝国主義の時代へと確実に突き進みつつあった。

 ※1850年年代
 重商主義化、開国、そして近代産業革命の始まりにより、日本にも大きな変化が訪れる。これも田沼時代から続いた貨幣経済主導の経済の賜物だった。日本全体の国富は約70年間の間に大きく増え、人口も再び緩やかな上昇線を描く。かなりの数の藩が積極的な産業発展により慢性的な借金財政から脱出し、日本全体のプラス面での金融資産は大きく膨れあがった。しかも産業革命の開始により、1840年代から人口の大きな上昇が始まっていた。
 またカリフォルニア地域の獲得は日本人経済拡大の起爆剤となり、さらに現地で見つかった膨大な量の黄金による収入、日本人が得た黄金の消費によって日本人の経済全体が躍進し、この時期の日本の爆発的な発展を引っ張ることになる。
 商業都市・産業都市である京、大坂の人口は半世紀の間に五割り増しにもなり、産業革命の進展と共に農民から工場労働者となる者が爆発的に増えていった。また京は、その歴史の古さから学術の街として極端に発達。日本全国から多くの学徒(多くが武士)が京を目指し、彼らは後に幕末の原動力となっていく。そして商都だった大坂の都市規模は一気に百万都市へと足を踏み入れ、様々な負の側面を持ちつつも日本の表面上の繁栄を象徴する。
 また開国がもたらした海外との交流増加は日本自らも海外へと赴かせ、様々な文物の交流と事件、そして戦争を起こすことになる。
 また、カリフォルニアでの成功は、欧米列強に日本が東洋唯一の近代文明国であると共に帝国主義国家であることを印象づけた。

 1850年 
幕府、釜石に大規模な近代製鉄所開業。日本全体の鉄鋼需要の急速な増大に対応。その一方では、量産性、コストなどで不利となった砂鉄と木炭を用いた従来型の製鉄(蹈鞴製鉄)が廃れ始める。
京=大坂間で電信開始(民間の先物取引において)。
先物取引で穀物価格の上昇が目立つ。同年、幕府の調査により近年大幅な人口拡大が起こりつつあることが改めて確認される。
幕府、海外からの穀物輸入と国内での穀物栽培の強化が行い、また加州、蝦夷の開発と移民事業にもより一層力が入れる。
ロシア、アムール河口に侵入して調査。ニコラエフスク、マリースク、ソフィースクに軍事拠点を築く。雑居地として漁業などをしていた日本人を攻撃。幕府、軍艦と幕兵を派遣して領民保護を行うと共に樺太警備を強化。ロシアとの関係が悪化。
幕府、加州北部内陸の佐倉面都市(後の櫻芽市=サクラメント市)に奉行所(総督府)移設。移民増大に対応できる支配体制の確立急ぐ。和洋折衷の大きな建造物は、白人移民から「ブギョーハウス」と呼ばれる。

 1851年 
幕府、「郵便之御触」。近代郵便制度を創立。初期は民間の飛脚や早馬、宿場町の陣屋が利用される。
大坂で近代的な株取引所(後の大阪証券取引所)開設。民間主導で運営され、民間資本の上方集中がより強まる。
英、「万国博覧会」開催。幕府も大規模に参加して日本をヨーロッパに紹介し、欧州諸国との貿易拡大を画策。イギリスに多数の日本人が赴くことになり、日本人達はイギリスの発展に驚く。
清、「太平天国の乱」(〜1864)。反抗時には、列強からの誘いを受ける形で幕府も共に派兵。

 1852年
幕府、加州人口が早くも50万人突破。サンフランシスコの人口も5万人に達し、アメリカ人からはJ・ヨーク、ウェスト・ニューヨークやイエロー・ニューヨークと言われる。ゴールドラッシュ以後も一ヶ月に1万人以上のペースで移民人口が増加。最初の現地日本人世代も成人し始め、自然増加も爆発的な数値を示す。住民の八割以上が日本人移民を中心とする有色人種。移民を呼び込むため、域内特定の法度(法律)で人種差別、身分差別、奴隷はほとんど認められず自由地とされる(「加州法度」=武士とそれ以外という身分以外設けられず。)。日本からは下層身分の移民が増える。中西部からはネイティブ、東部各地から黒人解放奴隷も本格的に流れ込み始め、ゴールドラッシュ後の白人は少数派。言語は武士達が主に使う山の手言葉(日本語)が奨励されるも、スペイン語と英語が認められる。また日本語も商業語として太平洋標準となっていた上方言葉が多数派となる(官語=山の手言葉、商業語=上方言葉)。
日本、東海道線開通。幕民双方で始まった鉄道敷設が、ついに浜松で連結。江戸=神戸間が繋がる。その後も日本各地に拡大。
同年、日本領加州(カリフォルニア)でも鉄道敷設を開始(最初はサンフランシスコ=サクラメント間)。
仏、ナポレオン三世即位。

 1853年 
日本、江戸でコロリ(コレラ)大流行。異人のせいだとして攘夷論が強まる。一方で江戸でも都市の環境整備が注目され、下水処理を含む都市改造が本格化。三府(主要三都市=江戸、京、大坂)の大規模化と共に内需拡大を牽引。
徳川家定、十三代将軍就任。
「クリミア戦争」勃発(〜1856年)
「ペリー来航事件」
アメリカ、江戸幕府に対して新たな将軍就任を祝うとして江戸湾に艦隊派遣。しかし幕府は、ロシア情勢不穏を理由として江戸湾奥への軍艦の入港を拒絶。幕兵が沿岸部各地に出動。イギリスがアメリカを牽制するためこれを助言。一時、ペリー艦隊と江戸湾駐留の幕府艦隊が睨み合いとなるが、ペリー艦隊が江戸湾外に自主退去。浦賀で歓迎式典が行われる。アメリカは、クリミア戦争で欧州勢力がアジアにない間に日本外交を有利にしようとするが失敗。幕府上層部では対米不信、それ以外では攘夷論が高まる。また幕府内で加州防衛の考えが強まる。
一方、朝鮮は日本への通信使節派遣を見送り。幕府の開国を進める言葉への反発が理由。
仏、二ューカレドニアを領有宣言。幕府の太平洋に対する領土的感心が増大。何度か南洋の遠方に調査艦隊を派遣して、各地に改めて日本国の標識を設置。ニューギニア島やフィジーなど遠方の島にも至る。王国のあったフィジーとは国交を結び、疫病により既に人口が激減していたことから日本移民受け入れも約束。この時の活動では、既に多くが完成していた精密な測量地図、航海地図が大いに活用される。
同時期、東南アジアのシャム王国、安南、カンボジア王国、ブルネイ王国、アチェ王国にも相次いで公館設置。国交を開く。同地域へ進出姿勢を強めていた欧州諸国が日本の帝国主義的行動と警戒するが、通商と穀物輸入そして移民の打診が幕府側の大きな目的だった。当時の幕府は、国内での人口の急速な増大に頭を痛めていた。
この年、カリフォルニアのゴールドラッシュは一段落がつく。黄金に対する税収で、莫大な富が幕府に流れ込む。また日本人の一部が得た黄金による消費によって、消費経済が発展。また黄金の価値下落が起きて経済の一部混乱も起きる。幕府は、自国でも起きたインフレに対して、貨幣を慌てて鋳造する事になる。

 1854年
英仏、クリミア戦争でロシアに宣戦布告。
英仏、ロシア極東攻撃のため幕府にも参戦を要請。ロシアの度重なる横暴に業を煮やしていた幕府も乗り気。
ロシア、対抗措置としてカムチャッカ半島とアムール川河口部に軍を展開。各地の幕府軍と睨み合い。
幕府、イギリスの勧めで対露宣戦布告。
英仏艦隊、カムチャッカ半島のペトロパブロフスクを攻撃。幕府軍も、艦船と上陸兵を派遣。攻略に貢献。また幕府軍は、ロシア軍のいるアムール川河口部にも侵攻。アムール川深くにまで追撃。
「御露西亜襲来」
ロシア・プチャーチン艦隊、報復で江戸市街を奇襲攻撃で砲撃して大火災となる。幕府、撤退中のロシア艦隊と交戦。幕府艦隊が勝利しプチャーチン艦隊は全滅。日露双方の態度硬化。
日本国内で幕府の威信が大きく傾くと同時に、露西亜討つべしの声と共に以後攘夷運動が活発化。政治的不安定となり、幕末に突入。一方で江戸の主要部では、街の再建に平行して鉄道と鉄道馬車を中心にした都市の大改造が加速。
米、反奴隷制勢力が共和党を結成。北部を中心に急速に拡大。日本領の加州も共和党の考えに同調。
 1854〜55年「セバストポリ包囲戦」
幕府は、ロシアに対する復讐戦のため、英仏に要請して欧州への派兵を実施。幕兵1個旅団3000名が、自国軍艦でセバストポリまで派兵。途中、英仏の援助を受けて各地に寄港。現地の戦闘で大損害を受けるが、欧州各国に日本の存在感を植え付ける。東洋国家の参戦にトルコが大いに感謝。
一方で幕府軍は、アムール川やカムチャッカ半島各地をさらに攻撃。ロシアとの対決姿勢を強める。幕府の威信は若干回復。国内では、上方を中心に戦争景気発生。同時に米など物資の買い占めも行われて物価が高騰。
大坂で武士以外の女性のための高等学校(女学校)開設(※武士の街江戸では女性の教育発展がしにくいため。しかし女性への教育普及よりも近代的な良妻賢母が求めらた。)。

 1855年 
幕府、老中首座の阿部が病で引退。一橋家派が勢力を持ち、井伊直弼台頭。急速に独裁体制を強め、内外に対して強い態度でのぞむ。
幕府、オランダ政府とボルネオ島の南北分割条約に調印。ボルネオ島(日本名:ブルネイ島)の七割の権利を取得。ほぼ同時にニューギニア島(新奄美大島)の領有宣言。その後も、南太平洋の探査と領有宣言を続ける。ニューギニア島では、境界線を巡りオランダと対立。
加州では、移民事業推進と共に治安維持を理由に幕府が支配力を強めようとして住民が反発。自治組織の拡大、特に自前の警察組織と正式な郷土軍の設立が求められるようになる。
安政の大地震。都市部の地震で多くの被害をもたらすが、震災復興で都市の改造が行われ、近代的景観の様相が強まる。
仏、「パリ万博」開催。
日本も大々的に参加。日本館は書院造りと仏教寺院風とされ、珍しさもあって閉会後も長らく保存。欧州各国で日本美術が評価され、日本でも仏教芸術にも興味が向き日本国内で保存活動が活発になる。日本からの工芸品、美術品が大量に輸出される。

 1856年
「パリ講和会議」。
幕府代表(代表に小栗上野介)も出席。(※出席国:イギリス、フランス、ロシア、オーストリア、プロシャ、サルデーニャ、オスマン帝国、日本)
会議にて、江戸の砲撃の賠償の一つとして、英仏と共に占領中のカムチャッカ半島、アムール川河口と交換の形で、日本はアラスカ、アレウト列島をロシアから割譲。後押しした英仏にも借りができ、ロシアからは恨みを買う。
またこの時、通商条約未締結の国々(プロシャ、サルデーニャ、オスマン帝国)と国交を開く。特にオスマン帝国とは完全な平等条約を締結し、今後も対ロシア外交での協力を約束。さらにオスマン帝国は、日本に近代化の助成を要請。
この戦争参加と会議への出席で、国家としての日本という存在が欧州世界に一般的に認知されるようになる。
一方幕府は、戦争を通じて産業革命を果たした英仏の威力に恐怖。日本の産業革命の速度上昇を決める。またロシア対策として、蝦夷、樺太開発を促進。アラスカにもいち早く加州との中継点を築き、加州ともども北米大陸への関心を増す。さらにクリミア戦争後余った兵器を大量に購入。クリミア戦争参戦と合わせて、幕府財政が急速に悪化。一方で武器商人の巨大化が始まる。
吉田松陰、松下村塾開く。尊皇運動激化。幕府の行きすぎた海外での戦争と、天皇を蔑ろにする姿勢を強く批判。世相も、幕府批判に迎合。

 1857年 
「アロー戦争(第二次アヘン戦争)」勃発。(〜1860年)
幕府、「欧米視察団」派遣。
勝海舟、榎本武揚ら多数が数隻の軍艦でアメリカ訪問。加州での戦争で悪くなったままのアメリカとの関係改善を図ると共に、アメリカの優れた文物の修得が目的。以後、そのまま欧州各国を歴訪した後に世界一周の形で帰国。多くの文物と情報をもたらす。
使節の一部がパリにいた幕府代表団と合流。そのままアメリカと欧州各国に残留。各地に公館(大使館)を設置。

 1858年 
井伊直弼、総裁制を開始し自ら幕府総裁(=宰相)に就任。強引に近代化を推し進めると共に、幕府の中央集権強化を画策。
大坂で、日本初の鉄道馬車開通。都市の公共交通機関登場。以後各地にも登場し、市電登場まで各地の大都市の足となる。またこの頃には、都市部の主要道路のかなりが石畳となり、耐震構造の三階建て以上の建築物が増える。
徳川家茂、十四代将軍就任。
台湾島で日本人商人の殺傷事件発生。幕府、清政府に謝罪と賠償を要求。英仏は日本にもアロー戦争への参戦の誘いを行う。中華苛めよりも、東アジアでも南進を行うロシアへの牽制が狙い。
「安政の大獄」 多数の反対派が処罰され幕府への反感強まる。
「アイグン(愛琿)条約」アルグン川・黒龍江(アムール川)を露清両国国境とする。

 1859年 
幕府、フランスの要請を受ける形で「アロー戦争」に参戦。今回も中華系海賊による損害が理由とされ、幕兵5000名を自国の軍艦を用いて天津に派遣。幕府と仏の関係が強まる。
幕府、外務総裁に小栗上野介、海軍総裁に勝海舟が就任。身分を問わない若手実務派の起用により体制建て直しを図ろうとする。
幕府、欧州視察強化と憲法制定のための調査開始。(※幕府を中心とする近代憲法制定で体制維持を画策。)
同年、日本の鉄道総延長5000キロ突破。この頃、鉱山・炭坑と沿岸部を結ぶ鉄道の整備が各地で進む。
英、ダーウィン「種の起源」。


●その6 幕末到来