●その6 幕末到来

 様々な国際情勢の変化に翻弄される日本。様々な面での硬直化により適切な対応のとれない幕府。変革の到来に活発となる日本人達。そうした中、新たな時代の胎動が始まる。

 ※1860年年代
 日本列島での流通革命と言える鉄道、汽船(+高速帆船)の登場と普及は、距離の壁を大きく取り払った。物流、情報伝達を中心とした利益、利点は、言うまでもないほど劇的だった。だが一方で、幕府政治の根幹であった参勤交代制度の必要性を大きく減少させ、軍事力の移動もより容易となり、幕藩体制を大きく揺るがす要素にもなった。
 また近代化の進展は、技術を扱うことが新たな能力や知識を求めるが故に武士の特権をますます危うくし、世の中は民衆と商人その後押しを受ける者たちによって動かされるようになる。しかも開国に大きく舵を切っていた日本は、再び鎖国に戻ることは事実上不可能だった。
 それらの象徴として、依然として日本の権威である天皇が住まう京の街が国内政治のホットゾーンとして脚光を浴び、政治的主導権を握ろうとする人々の争いによって、白昼ですらテロが横行する危険な都市となっていく。
 加えて対外戦争の増加、様々な近代的制度の導入と建設は、幕府財政を大きく圧迫した。また大きな変化は民衆の不満と不安を増大させ、新たな時代が必要なことを人々に求めさせるようになる。

 1860年 
アロー戦争に参戦した幕府軍は、列強の軍隊と共に北京に進軍。しかし幕軍は、無益な破壊と略奪に参加せず。欧州に「武士道」が知られるようになる。
「桜田門外の変」
幕府総裁井伊直弼が、反対派によって暗殺。重大なテロ事件で幕府の国内権威が失墜。井伊直弼の死と共に総裁制は中止となる。
以後幕府の権威が大きく陰り、外交は見せかけの維持のため強硬路線がかえって強まり、内政は無定見なものとなる。
上方を始め多くの大商人が幕府との関係を見直し改革勢力との関係強化を望み、運上金・冥加金などの献金減少から財政悪化も深刻化。このため商工身分の者への税制を強化しようとするが、大きな反発を招く。
幕府、江戸五品廻送令。上方商人との対立はすぐにも表面化。水面下で、反幕勢力に大量の資金や物資が流れる。
 春先:
幕府軍も参加した連合軍が北京占領。
「北京条約」締結。
幕府も代表派遣。交渉では雑居状態が進みつつある台湾島を日清共同の行政管理地とする権利を得る。また上海の共同租界の権利も得る。一方清では海外渡航が自由となり多くの移民が発生。日本及び日本の勢力圏にも多数が移民。幕府は、日本列島と周辺部の中華移民を当初から禁止。自由地の加州、雑居地の台湾は例外とされ、上海もしくは福建=台湾ルートで加州への中華系移民が激増。当初加州では下層労働移民として重宝される。
また清の一部が、近代化のために日本に接近。「化外の地」である台湾が実験場所とされる。
ロシア、沿海州一帯を清から獲得。ウラジヴォストーク建設。
幕府、対露警戒感を再び上昇。北方警備の為の軍備増強。以後国内の治安維持が疎かになる。幕府、武士以外の者による軍隊の建設に関する議論始まる。
米、リンカーン大統領当選。南部の反発からアメリカ分裂。

 1861年 
2月、
アメリカ連合国(南軍)成立。
幕府、南軍成立に伴い同国に公館設置。アメリカ合衆国(北軍)が強く非難。南軍、幕府に援軍依頼。幕府は当初謝絶。しかし加州では、すぐさま郷土防衛を目的として義勇軍が自主的に編成される。
4月、
「アメリカ南北戦争」(〜65年)勃発。
南北分裂当時の加州は、総人口250万人の7割以上を占める日系と少数派の白人(※メキシコ系以外の白人系住民は約一割の25万人程度)を中心とした対立が深刻化。対処のため師団司令部規模の幕兵1万人以上が駐留。戦争勃発が伝わると共に、治安維持目的を理由に重装備の1個旅団規模5000名近くが直ちに日本本土を出発。混乱に対処するためとして、正式に現地義勇兵の徴募と武器の配布も始まる。北軍は軍の一部をカリフォルニア方面に向けるなど警戒感上昇。加州内の白人も、幕府及び日本人への反発強める。(※南軍の狙いは、北米に足場を持つ日本を経由して欧州列強を動かし、独立そのものを確固たるものにするところにあった。)
7月、北米中央部での戦争長期化が確定。日本も加州への軍備増強と、現地での警備用の志願兵募集が本格化。
8月、南軍の1個大隊(実数200名程度)が日本の加州と連絡を取ろうと出発。北軍も過敏に反応して南軍部隊を追撃し、テキサスで戦闘に発展。ミシシッピ以西での戦闘に、加州での緊張が増大。
10月、
南軍、再度太平洋を目指す。アリゾナで北軍と戦闘。
同月、ニューメキシコ、ネヴァダ、オレゴンの北軍兵士が増加。加州軍の警戒感が大幅に上昇。臨戦態勢に入る。義勇兵も膨れあがる。
11月、
加州軍と北軍が、境界線近くで偶発的に交戦。
幕府、態度を一変。現地軍は、北軍に対して組織だった戦闘を仕掛ける。圧倒的な戦力差から、現地幕府軍が本腰を入れると加州国境各地の北軍は敗退。幕府軍は、追ってオレゴン、ネヴァダに侵入。ほとんど白人移民のいない地域のため、幕府軍は補給線の続く限り占領地を広げていく。
幕府、加州(カリフォルニア)防衛を理由に北軍に宣戦布告。
12月、
日本、海外での勝利の報に熱狂。
日本(幕府)、南軍との軍事同盟締結。
ただちに南軍は幕府と同盟。国内では、加州幕府軍は「関ヶ原の小早川」だと言われる。南軍との間には、人種問題を互いに持ちださない事を約束。
冬だったことが幸いし、乾燥地帯での南軍との直接交通路から加州先遣隊が出発。テキサスを目指して進軍開始。カリフォルニア北部からの主力部隊も、北軍国境を突破して本格的な進撃開始。
加州内では、約1万人の装備の良い師団規模の幕軍を中心に徴募兵・義勇兵を加えた約3万の軍勢が準備される。さらに本格的な動員を開始。また東部への街道、鉄道整備のために大量の人員が動員される。
日本本土でも、幕府が加州防衛のための派兵準備が急ピッチで進める。これを各国が牽制。幕府は、諸外国に対して加州防衛を認めさせて、日本からは大量の武器と兵站物資の移動が始まる。欧州各国は、日本の行動を覇権主義と考えて警戒感を強める。
日本列島では南北戦争特需が発生し、領土拡張の機運と戦争特需のあおりを受けて日本からの移民も急上昇。人的需要の爆発的増大により、日本以外の北東アジア地域からの移民も急拡大。

 1862年
加州各地に集結した軍隊は、冬の間は準備に明け暮れる。ただし気温の高い加州南部では、夏の暑さを避けて乾燥地帯を横断する部隊が続々とテキサスを目指す。少数の北軍に為す術なし。
4月、
加州内の鉄道で素早く国境線に移動すると、先発隊を追いかけて各地の少数の北軍を撃破。
その後2ヶ月近く陸路をかけて、各地の北軍を撃破して占領地を拡大しつつミシシッピ川西岸まで進撃。途中、多数の先住民が日本側に荷担。一部別働隊は、オレゴン・ワシントン(ポートランド、シアトル)方面に進軍。少数の現地北軍を撃破。
また幕府艦隊の東太平洋衆は、太平洋方面の少数の北軍海軍を撃破後にシアトルを艦砲射撃。北軍海軍は、少数ながら太平洋方面の海賊行為(通商破壊)で対抗。幕府、北軍をパリ条約(海賊禁止条約)違反と強く抗議。独立国に対する海賊行為のため欧州列強も注目。後に南北戦争介入の口実の一つとなる。
6月、
幕府加州主力、進軍を続けミシシッピ川流域とニューオーリンズの奪回作戦に従事。さらにテネシー戦線に参加。ニューオーリンズ奪回以後大規模な戦闘はないが、北軍の多くを拘束すると共に加州と南部の交易路も再開。夏までには大規模な増援も合流し、派遣軍の総数は後方要員を含めると8万人を突破。幕府軍の一番の問題は加州からの兵糧(兵站)の維持とされ、軍属や協力者、人夫を含めると30万人以上が戦争に従事。占領地のニューメキシコでは、乾燥地という悪条件にも負けずに南部に向けて鉄道を延長工事を実施。道路も整備される。また戦争特需で、拠点となった南部のロサンゼルス市(呂讃市・天使市)が急速に発展。乾燥した南部地方が、南部連合との連絡路として注目を集める。
一方中西部各地で、辺境に追いやられつつあったインディアンのかなりが自らの権利を得ることを条件に日本側に協力。日本(幕府)は、新たな領土を得た暁にはインディアンの優先居住権を認めることを約束。
8月、
「生麦事件」。日本国内での偶発的殺傷事件。
薩摩藩とイギリスが対立。幕府は、北米への努力傾注のため対応が大きく遅れる。イギリス側から、地方自治組織に過ぎない薩摩藩とイギリスの問題とされてしまう。イギリスの意図は、事件そのものは半ばどうでもよく、南北戦争に深入りする日本への牽制。
9月
「アンティータムの戦い」。
西部(ミシシッピ方面)に多くの兵力を取られた北軍が敗退。南軍勝利で終わり、戦力不足から北軍戦線の一部が崩壊。
「ワシントン陥落」。南軍、先の野戦での勝利の勢いのままに北軍首都ワシントンを占領。北軍は首都を臨時にフィラデルフィアに移転。短期的ワシントンな奪回作戦も失敗。北軍の戦意低下。
10月 
欧州各国が南軍の独立について意見。北軍はモンロー主義を盾に反論。しかし既に西部、中部で日本が参戦しているため主張が空転。
11月 
イギリスがカナダ、ニューファンドランドに兵力増強。艦隊も増強。南北戦争に連動して発生したカナダの争乱を鎮定した後も駐留を続けて北軍に圧力。フランス、スペインなども停戦に向けて動き出す。全ては「民主主義」を掲げる北軍が、欧州政治とは相反するため。
以後南北戦争は戦線が停滞。東部では互いに塹壕に籠もって睨み合いとなる。
プロシア(ドイツ)、ビスマルクの執政開始(〜90年)

 1863年
幕府、国内外の情勢激化を受けて、将軍が御用列車を仕立て鉄路上洛(将軍上洛は230年ぶり)。主に南北戦争について天皇に上奏。
幕府側にとっては勝利報告であり権威の回復を目的としていたが、国内的には逆に江戸幕府の権威が落ちたことを国内で印象づけてしまう。また、以後京が政治の重心として注目を集める。またこの背景には、莫大な戦費に対する日本国内の大きな不満があった。
幕府、国内での失地回復を狙って大規模な増援派遣を決定。北軍に大きな圧力を与える。
2月
「南北戦争」終戦。戦争は二年弱で終わる。
アメリカは、アメリカ合衆国(北軍・米北)とアメリカ南部連合国(南軍・米南)に分裂確定。南部はワシントンとその周辺部の返還を条件に北軍占領下の旧領全てを回復すると共に、日本軍占領下のミズーリ協定で定められた奴隷承認地域のニューメキシコ東部とインディアン地のオクラホマを得る。日本は広大な占領地のうちニューメキシコ西部(リオグランデ川が境界)を獲得して加州に併合。他の占領地についても割譲を要求するが北軍は交渉の席で強く拒絶。南軍も日本が巨大な土地を得すぎることに難色。これは、日本が太平洋岸を全て得ることに対する反発でもあった。
代わりにイギリスが介入。北軍に1846年の「オレゴン協定」が不当な取り決めだとして、日本には購入を北軍には日本への割譲を提案。北軍は西海岸北部の領有継続に固執し、日本に賠償金(750万ドル=両)を支払うことで決着。

アメリカ合衆国(北軍・米北)、敗戦と国土の約半分を失って国威低下。ハリネズミ外交と保護主義傾向がより強まる。戦争と戦後の保護主義と、開拓地(予定)の大幅な減少が重なって欧州からの移民も減少。また挙国一致体制と共和党の事実上の一党独裁が長年続く事になり、徐々に大統領選挙が形骸化。緩やかに全体主義化していく。一方アメリカ連合国(南軍・米南)では、一部が南部に残った共和党が勢力を徐々に拡大して民主党と張り合い二大政党制となり、緩やかな議会民主制の連邦制国家として発展。ただし人種差別は根強く残る。
新大陸での領土面積を拡大した日本は、利害関係から米南との関係が強まり、以後米北との対立が続く。

米北、首都を正式にフィラデルフィアに遷都。米南、首都をアトランタに遷都。ワシントンは交渉や会議のための都市となり、南北の対立が固定化する。
幕府、南北両米政府に加州の日本支配権を改めて確約させる。しかし幕府にとっての南北戦争は、利益よりも出費と犠牲が大きかった。戦後は幕府財政は大きく傾き、武士の間に犠牲の大きさに対する士気低下と不満がたまり、戦中には物資調達のための買い占めで日本国内の物価が高騰。また南北戦争特需が終わると日本全体で大幅な景気後退。工業生産力は大きく伸びたが、初めて近代的な不景気を経験して国内不安が増大。
加州では、多数の従軍と戦争協力により域内の一体感が醸成。民族や階級のない「自由の国」の意識が強まる。また自由の国として移民は依然好調。
なお、南北戦争に従軍した加州日本兵のかなりが、食用としてリョコウバトを多く持ち帰り、家畜化や放鳥を開始。そのリョコウバトの生態からほとんどが次世代を残さず息絶えるが、一部が適応して加州北部に根付いて徐々に増加。後に、北米統合に向けての象徴と言われるようになる。
7月
「薩英戦争」勃発。
南北戦争終戦を見てからイギリスが薩摩藩に宣戦布告。イギリスによる、戦争で利益を得すぎた日本に対する強い牽制が目的。一度発生した鹿児島沖合での戦闘は痛み分けで終わるが、幕府は外交的無能をさらしただけに終わる。以後イギリスは改革機運の強い薩摩藩に接近。
「浪士隊」京にて「新撰組」に改変。日本国内での下級武士・庶民上がりの武士(武装)組織のテストケースとして注目。組織自体は幕府の都市用対テロ部隊となる。また幕府組織として、警察力と軍事力の境界線を設けるようになり、装備にも大きな差が出始める。
長州藩、「奇兵隊」編成。下級武士・庶民を多く含んだ軍隊が誕生。南北戦争の影響を受けて志願者数は多く、幕府は強く警戒。

 1864年
幕府、参勤交代を事実上中止。見返りとして、この十年ほどの対外戦費拠出を諸藩に要求。一部を除いて諸藩に大きな不満。翌年からは参勤交代がなくなったため、約150万人を数えた江戸の人口が武士を中心に急速に減少。既に鉄道と高速商船の普及により衰退を始めていた各街道の宿場町の衰退と変化も加速。逆に地方都市(雄藩の拠点都市)の大型化が加速。この頃には工業都市も日本各地に出現。
幕府、有力な海外植民地(主に加州)にも戦費拠出を要求。加州を始め各地で幕府に対して大きな不満。
「池田屋事件」。京都に集まっていた反幕勢力に大打撃。事件の結果を受けて、幕府は日本各地の治安維持組織の拡大を決定。
「京都事件」
反幕府勢力の急先鋒だった長州藩は、事態打開のために京都に軍を派遣するが、幕府側は都市部への重装備の持ち込み禁止を理由に京都郊外に部隊を展開。一部で戦闘が発生し、南北戦争終結で余った武器を用いた幕府軍が圧勝。
「第一次長州戦争」長州藩が政治的に敗北。「京都事件」と合わせて幕府の国内権威が若干回復。
幕府、外交面でのさらなる挽回を計るため、米南との繋がり強化を画策。加州と南部との大陸横断鉄道敷設の協議に入る。
欧州、「第一次インターナショナル」結成。反幕勢力の一部も、情報を入手して迎合。一部で接触も行われる。

 1865年 
幕府、国内の「新撰組」の成功を受けて、下級武士・庶民の実質的募兵と軍組織の編成を開始。警察力の強化も本格化。諸藩でも同じ動きが活発化。南北戦争での加州市民軍の活躍が伝搬したのも強く影響。
鉄道が下関から青森まで開通。この頃までに京・大坂地域は、縦横に鉄道が張り巡らされ、近代産業の多くが勃興。経済、産業の一大中心地と化す。
また「京都事件」では双方の軍が鉄道を利用。多くの者が、日本がアメリカ南北戦争のような戦争に発展する事を危惧する。
米北、リンカーン大統領が「奴隷解放宣言」発表。奴隷制を維持する米南との違いを鮮明化すると同時に、自国の保護貿易政策を強化。欧州列強の干渉排除に努める。しかし加州での民意の点での自由意識の前に政治的衝撃はかすむ。

 1866年 
徳川慶喜、十五代将軍就任。
「薩長連合」成立。
「第二次長州戦争」 
外国(主に米北)からの大量の武器を調達していた長州に、資金難(予算不足)で兵力の限られた幕府軍が大敗。裏で薩摩藩と坂本龍馬が暗躍。近代企業化が進んでいた上方大商人の多くも、この時までに反幕府側に付く。
幕府、民兵集団である「衆兵」編成。志願制の身分を問わない軍隊で、天領から多数が参加。余剰兵器を活用して、各鎮台で旅団規模の編成が目指される。
日本列島全域で不作。世情不安高まる。
「普墺戦争」 プロシアが勝利。ドイツ統一の機運上昇。
米北、加州周辺に軍備増強。日本の政情不安につけ込んだ行動。
幕府、米南共に警戒感上昇。加州では、再び市民による志願兵が大幅に増加。幕府の無策もあり、自立に向けての動きも加速。

 1867年
仏、「第2回パリ万博」開催。幕府と南洋代表として薩摩藩が参加。互いに自らの存在を諸外国にアピールするが、一つの国から二つの代表が出た事で日本国内の混乱ぶりを見せる。欧州で再び日本ブーム。幕府は、各国との交渉のためもあって小栗上野介を代表として派遣。
8月、「ええじゃないか」起こる。
9月、
日本各勢力の軍事力が京・大坂を中心に集結。しかし、京・大坂は都市化が進んでいるため大軍の移動や展開に不向きで、双方とも大部隊同士での対陣がしたくてもできず。都市部の局地戦では、都市部に特化した「新撰組」などの重武装警察型の組織の方が有効な場合もあった。また制海権は、圧倒的海軍力を持つ幕府側が圧倒的に優勢。一方で、兵站や資金面を民衆(商人)が援助した反幕府側が、陸では優勢となる。
幕府、国内での争乱に対する海外交渉と日本の権益保持のため、欧州滞在中の小栗上野介を特別代表として各国と交渉。
10月、
幕府「大政奉還」。政治上で無血革命が成立。
11月、
一部軍事力の都市部からの後退が始まる。
土佐の坂本龍馬暗殺未遂。反幕側に政治的亀裂。坂本自身は、長崎に逃れた後に海外亡命。
12月、維新政府「王政復古の大号令」。
独、マルクス「資本論」。
ノーベル、ダイナマイト発明。

●その7 明治維新