●その7 明治維新

 緩やかな変化が続いた日本だったが、変化を求める日本全土の声によりついに江戸幕府は終幕を迎え、新たな日本の幕が切って落とされる。

 ※1870年年代
 短期間の内に数年前まで盤石に思えた江戸幕府は呆気なく瓦解し、明治新政府が成立した。しかも事実上の無血革命であり、列強が介入するスキを与えることも許さなかった。この事は国際的に希有な例であり、諸外国に大きな落胆と主に後世になってから称賛をもたらした。
 そして日本列島自身は、江戸時代後期全体をかけて緩やかにかつ着実に進んでいた各種近代化のおかげで、それまでの封建体制を中心にした政治面の近代化と国民国家としての再編成さえ行えば、国際的に見て大きな飛躍できる可能性が存在していた。
 国力、経済力、工業力、軍事力は当時の欧州列強の標準近くあり、また近年幕府が多数の海外戦争に参加し海外植民地も獲得していたため、有色人種国家であっても当初から欧州列強に準じる国として見られていた。英仏など西欧先進諸国からの扱いはトルコよりも高く、ロシアと同程度になるとされていたと言われている。

 1868年(明治元年)
1月、
「鳥羽伏見の戦い」。「戊辰戦争」勃発。
反幕府勢力が、既存勢力が残ることを恐れて戦闘を誘因。
日本の内乱始まる。錦の御旗の前に、幕府軍が開戦から2日目にして士気崩壊して敗走。元将軍徳川慶喜は、いち早く鉄路江戸に退却。幕府軍は、破壊された瀬田の大橋東側で踏みとどまるも多くが離散。以後上方から江戸にかけての幕府軍は士気の面で機能しなくなり、一部の「衆兵」以外はほとんど機能しなくなる。何もできなかった幕府海軍主力も、やむなく大坂湾から江戸に後退。
イギリスが反幕側、フランスが幕府側に付く。ロシアは当面静観。オランダ、スペインなど他は中立姿勢。米北(合衆国)は加州を伺うべく境界線に軍備増強し、合わせて米南(南部連合)との対立も強まる。加州では、米北への警戒感が上昇。
同月、将軍の江戸退却を受けて大坂・堺・神戸が自由都市として中立宣言。両勢力も認める。京・伏見でも可能な限り戦闘が控えられる。その後東海道、中山道各地の旗色を決めていない藩や都市の多くが中立宣言。戦闘部隊だけが野外で戦う、欧州的戦争が展開された。また海外の日本勢力圏は現地での固守体制を固めて静観の構え。
一部は、中央政権を握った側を支持すると表明。幕兵の多い加州奉行(総督府)だけが幕府側支持を表明するが、住民は反発したため結局中立を宣言。
諸外国勢力も情報収集のため日本各地に艦船を派遣。
3月、
「五箇条の誓文」と三権分立を謳う「政体書」が出される。また新政府は、幕府の持っていた施設、財産の継承を内外に宣言。人材についても雇用継続を示唆。国号については、江戸幕府が用いていた「大日本国」を継承。
幕府海軍は、江戸湾に後退していた一部を除いて太平洋各地の部隊は中立宣言。日本本土外の幕府陸軍も同様。日本の既得権益防衛を優先。
他、「御榜の掲示」。「神仏分離令」が出され日本の宗教界が激変。しかし美術的(金銭的)価値のため無軌道な破壊は戒められ、仏教系美術の多くが新政府や地域の有力者、富裕層の預かりとなる。後に多くが海外へ売却されたり日本の博物館収蔵となる。
4月、
「甲府攻防戦」。
幕府の「衆兵」が活躍。甲州街道の新政府軍の進撃を止める。しかし新政府軍は、東海道をほぼ無抵抗で突破。
「江戸無血開城」。
将軍は蟄居謹慎。幕府の多くが従うが、江戸湾の幕府海軍のうち約6割が、既得権益の維持を求めて離反。停泊する海軍残余を砲撃などして多くを行動不能としてから、幕府への支持の強い奥州、蝦夷へと向かう。
5月、
「奥羽越列藩同盟」結成。北方(対ロシア)警備の幕兵が多数参集。関東からも多数が参集。新政府の幕府及び武士に対する権利や職の多くの剥奪が、大きな反発を呼び込む。
7月、
加州で住民暴動。現地の白人移民が日本からの独立を訴える。一部は北軍(米北)の援助すら要請。幕兵が暴動を鎮圧するが、白人移民との対立激化。裏に米北の影。米北軍も国境線に展開して現地幕軍と睨み合う。また加州では、民兵が多数発生して米南も緊張。海上では詳細不明の海賊行為も多発。多くが米北の陰謀と判断され、加州では現地奉行所、幕兵に対する信頼がやや回復。
8月、
「第一次会津戦争」。日本北部各地で戦端が開かれるが、準備不足の新政府軍が敗退。戦線が一時膠着。
極東でロシア軍の活動が活発化。北樺太で激減した幕軍と睨み合い。新政府、英仏なども神経過敏となる。
9月、
「明治」と改元。
10月、
明治天皇、初のお召し列車で江戸に行幸。しかし遷都にはならず。新たな首都(帝都)を江戸か大坂にするかの結論が出なかったことが原因。明治維新時点では、京・大坂の民間人口が江戸を上回り、日本経済の重心は完全に上方にあった。
「箱館戦争」勃発。
幕府直轄地だった事もあり、蝦夷、樺太、千島のほとんどが箱館政権に参加を表明。日本分裂の危機となる。
11月、
「箱館政権」成立。
奥羽越列藩同盟に合同して「北方同盟」を結成。しかし函館政権の第一目的は独立ではなく、幕臣の身分と権利の保障を確約させる事にあった。
海外亡命中だった坂本龍馬、サンフランシスコ(聖府)にて坂本商会創立。神戸、長崎、上海、ハワイ、加州に拠点おく。諸藩や武士、植民地人から資本を集めて短期間で大きな海運・金融会社となる。影響でハワイと加州の日本人移民増加。幕末から明治初期にかけての混乱に乗じて会社組織は拡大。

 1869年
3月、
北樺太にて北方同盟軍とロシア軍が交戦。ロシア軍が一部北樺太に侵攻。ロシアは北方同盟を日本の反政府団体と認定。さらにロシアはアラスカも伺う。
北方同盟軍は軍主力を北樺太に展開。明治新政府軍は、東北での戦闘を控えて事態を静観。
加州近海でも、米北艦隊と現地幕府艦隊が睨み合い。
4月、
「樺太会戦」。北方同盟軍がロシア軍に勝利。ロシアとの戦闘の情報が伝わるにつれて、北方同盟に対する日本全体の見方に大きな変化。日本人全体の世論が反ロシアで一つに固まる。加州は反米北で団結。外圧が、日本人の団結を促進。
5月、
箱館政権は対外危機に対して新政府との妥協を模索。停戦が成立し、箱館政権の新政府合流が決定。一部不満分子は、そのまま軍艦数隻で海外亡命。加州やハワイ王国に至る。その後ハワイ王国では、食客となった者がハワイの近代化に尽力して大きな影響力を持つ。
「戊辰戦争」終戦。日本統一。
6月、
「版籍奉還」。華族、士族制度導入。北方同盟の影響で、武士への扱いが当初の予定よりかなり緩くなる。また既に武士のかなりが近代官僚となりつつあったため、士族には現役職の継続など役人・将校への優遇措置が残される。加えて廃刀令など、名誉特権の規制は長らく出せず。
同月、蝦夷地を北海道と改名。戦闘のあったロシアとは、外交交渉で改めて領土確定を行う。
同月、加州に至った増援艦隊が抑止力となり、加州での戦闘機運も一旦終息。
同時期、新政府は東南アジア、太平洋各地での領土確定も実施。
「太平洋分割協定」。太平洋に領土を持つ英仏と太平洋に関する領土協定を結ぶ。小栗上野介が海外での交渉に活躍。(※今まで通り、タヒチ、クック、フィジー、ニューカレドニア以北の全てが日本勢力圏として認められる。)
8月、
明治天皇が江戸に遷都。江戸を「東京」と改める。裏には、大坂の資本家の反対があったとされる。その証として、商業的な中心は大坂のままとなる。
9月、
大村益次郎暗殺未遂。政府要人に対する警護が強化される。
「スエズ運河」開通。
10月、加州が説得に応じて明治新政府へ合流。諸外国にも加州が改めて日本領であることを認めさせる。
11月、
米南と加州の鉄道連結(リオグランデ鉄橋完成)。北米大陸初の大陸横断鉄道開通。これにより米南の安価な綿花が加州に流れ込み、加州の綿花農家は大打撃。逆に綿加工工場は発展。米南には、米など加州の農作物が流れる。以後加州では、綿花に代わって柑橘類、葡萄など乾燥した土地で育つ作物の栽培が増加。農業はさらに発展して、労働者移民も増える。
また加州と米南が鉄道で繋がった事で、北米大陸の軍事バランスが変化。米北の保守性とハリネズミ化が加速。米北経済の停滞も続く。米南は西欧との貿易促進と、加州(日本)との相互貿易で戦災復興進む。

 1870年
新政府、海外亡命者の帰国・帰順を勧める。また海外で働いていた旧幕臣の再雇用、登用が進められる。小栗忠順 (小栗上野介)、榎本武揚など有力者が新政府に合流。旧新撰組幹部など一部は帰国せず。また幕府側の旧武士階級の多くが加州などに移民。
加州、過剰な元幕兵の帰国が進むと共により高度な自治を求める声が高まる。日本人移民の多くも同調。
御親兵(近衛兵)を志願兵の形で日本全国から募集。多数の応募があり、幕兵の装備を用いて御親兵団(近衛軍=常備軍)の編成が始まるが、幕府系の武士を除外したため将校不足により進展せず。
岩崎弥太郎、九十九商会創立(後の三菱)。当初は母体の一つである坂本商会と対立して業績低迷。後に政商として大きく飛躍し、後の三菱となる。
「普仏戦争」(〜71年)。
パリが陥落しプロシアが大勝。フランスは日本への干渉能力を完全に無くす。仏、ナポレオン三世が退位して第三共和制成立。
伊、「未回収のイタリア」以外のイタリアの完全統一を達成。

 1871年
「廃藩置県」(府(三大都市)県(旧藩)制になる。)。同年11月に、各県を統廃合するのではなく地域ごとにまとめ「道」として「府道制」となる(3府7道制)。多くの海外領土を持つことが地域の統廃合に大きく影響。また各地の海外領土は、各地に総督府を作り政府直轄とする。群県制に近い中央集権体制が作られる。
加州、アラスカ、ボルネオ、ニューギニア、南太平洋など各地に総督府設置。海外領土の確定を急ぐ。
加州、新政府の方針に不満。より高い自治権要求の声が激化。自由主義を標榜とした民衆運動となり、人種を越えた移民の連携が強まる。
「国立銀行条令」公布。新たな貨幣単位が「両」から「円」となる。
「貨幣法」金本位制施行。幕府の持っていた財が、完全に新政府の管轄となる。
一方では、藩債処分は財界の強い反対にあってできず。江戸時代の幕府と各藩の負債はかなりの量が不当たりとされるも、多くが政府債として継承される。一部財閥と政府の間に溝。大坂は金融の街として改めて隆盛する。
各地で官営工場を多数建設。以後爆発的に増大。江戸時代で一定段階を過ぎていた産業の近代化が、重工業の発展という次の段階へ移行する。
独、「ドイツ帝国成立」。ドイツ統一の完成。これで以後半世紀近く続く欧州の国境線がほぼ確定。

 1872年
身分俗称決まる。皇族、華族、士族、平民とする。平民以外には特権があり民権(デモクラティック)運動が強まる要因となる。ただし日本の外郭地は例外。各地方によって若干違う。加州では皇族以外は全て平民(市民)とされる。それでも多数の武士がそれまでの生活を失い、かなりの数が移民として世界各地に散らばる。
学制頒布。それまで雑多にあった学校制度を統一。また新たに「各道」ごとに「国立大学」を設置。人材のマスプロ的育成を本格化。加州では、独自に中央大学を設置。
太陽暦を採用。
軍制改革。
省庁改変時に大村益次郎、榎本武揚の献策により兵部省(海外訳:国防省)を維持。その下に陸軍、海軍を置いて特に予算面での軍の統一を維持。また二頭体制により新政府軍と幕府軍を合流させ、後に陸の薩長(官軍)、海の幕軍(賊軍)と呼ばれる。

この年、鉄道がほぼ日本の主要地域で開通。総鉄道距離は2万キロメートルに達する。
日本列島内で、初めて全国規模の戸籍調査が行われる。
総人口は、確認された総数が4372万人。域内を中心とする海外移民は、過去40年間の累計で19世紀中頃の総人口の約一割に当たる350万人に達すると推定され、1880年代まで移民の大きな流れが拡大しつつ続く(※史実の35%増の人口)。
琉球王朝を廃止し近隣島嶼をまとめて琉球道とする。既に日本の影響下にあるハワイ、ブルネイが反発。加州も反発に同調。

 1873年
幕府時代とは違う近代的な「徴兵令」布告。全ての国民が徴兵対象とされる。
幕府時代の「鎮台」を「師団」に改称。「各道」の主要都市城塞に司令部を移す。また御親兵を廃止し近衛兵を設置。常備軍設置を本格化。大村が中心となって改革を進める。
「地租改正」。幕府時代は名目上だった貨幣による租税徴収を正式な制度とする。大きな混乱は起きず。
「征韓論」を是とし、朝鮮開国の準備開始。新政府、幕府時代の帝国主義路線継承を行動で示す。
琉球道、琉球国に変更。自治権を認め王族・王朝の権利を保障。一方で、軍事、外交権はなく、長らく内地と含められず。

 1874年
日本、朝鮮に開国を要求。「日朝修好条規」締結。清帝国が反発。琉球問題と合わせて日清戦争の遠因となる。
兵部省、陸海軍合同の参謀惣本部設置(後に総参謀本部へ改称)。
「民撰議院設立建白書」提出。各地で政党が相次いで誕生。都市化が進み、中流市民階層の多い三府(東京・京都・大阪の三大都市)で特に運動が盛んとなる。
英、フィジーを領有。多数の日本人移民がいるため日本が問題提起。日本人移民の権利保障を認める。また日本への砂糖輸入に関しても優遇する通商条約を締結。

 1875年
「漸次立憲政体を立てる詔」。憲法と議会の議論本格化。自由民権運動活発化。運動のため加州での自治権拡大運動を主導していた坂本龍馬、加州より帰国。日本共和党を立ち上げ。
官営「八幡製鉄所」開業。大規模操業となる。
「ボルネオ・ニューギニア交換条約」
日本はニューギニア全島を取得し、ボルネオでの日本とオランダの境界線を設定。7:2の割合で分割し、北部沿岸をオランダが領有。また日本がオランダとアチェ王朝の問題に関わらない事を約束。日本に有利な条約とされ、新政府成立後の日本の復活を国際的に印象づける。

 1876年
「枢密院」設置。憲法作成が本格化。
「日布条約」。日本とハワイが軍事同盟を締結。日本はハワイの政治、経済、軍事の近代化を助力。
この年、日本国内の不平士族の反乱相次ぐ。
英、スエズ運河株買収。
米北、ハワイと互恵条約締結。
フランス、米北に建国百周年を祝う巨大像贈呈を断念。事実上の一党独裁状態と南北対立を理由とする。(「アメリカにもはや自由なし」) これが原因で北米移民が鈍化したと言われる。

 1877年
「北海戦争」。
不平士族が、旧幕府勢力の強い北海道、樺太で蜂起。政府は大軍を派遣して鎮圧。不平士族は北海道で善戦するが各島ごとに各個撃破され、制海権の有無が勝敗を決する。
以後、日本中で武士の権利・特権が大きく減少。一方で旧幕臣の雇用や待遇は改善。薩長の圧倒的優位だった情勢にも変化。国内の安定を維持できなかったとして、西郷隆盛が政界を引退後に薩摩も離れハワイで隠居。リーダー不在で、薩摩でくすぶっていた反乱機運は消沈。
「露土戦争」のため、ロシアは日本に干渉する余力なし。逆に日本はトルコの援助要請に応えられず両国の関係が希薄化。
「大阪万国博覧会」開催。東洋初のエキスポであり、内外に江戸幕府とは違う日本の姿をアピール。会場となった大阪の街が近代都市として大改造されると共に、欧州との距離克服のため多数の大型客船が就役。それでもヨーロッパからの客足はあまり伸びず、日本政府を落胆させる。
英、「インド帝国」成立。

 1878年
9月、「廃刀令」。ただし士族以上は当面例外とされる。
11月、大久保利通暗殺。世論が大きく揺れ、テロに対する見方が厳しくなる。


●その8 帝国主義全盛時代