●第二部「北米三国志」 世界は帝国主義の理論によって列強により力で分割された。日本もほぼ順調に近代化の波に乗れた事もあり、大きな勢力圏を形成して次なる時代を迎え安定期を迎えつつあった。 しかし世界は、その帝国主義の限界から新たなる混乱の時代へと移行していく。
・その9 ユーラシアの戦乱
1904年 2月、 ・「日露戦争」勃発。 ・日本とロシアの北東アジアの覇権を賭けた戦い。過去半世紀の日露対立も原因していた。日本国民の中には、国土防衛戦争という雰囲気はかなり低かった。日本人の多くが、日本は列強の一角であり欧州諸国の中でも工業化で遅れているロシアになら遅れを取らないという考えが一般的だった ・戦争では、日本側に英、米南がつき、ロシア側に仏、独、米北がつく。 ・初戦は、近代化に成功し列強の予想以上の軍備を持つ日本軍が優勢で進める。しかし、ここ半世紀の日露の慢性的な衝突とロシアでの反日気運から、苦戦の伝えられる戦争中盤以後はロシア国内は少なくとも上層部では団結。総力体制での反撃を模索。ドイツとも協議を行い、欧露の兵力移動で合意。 ・「旅順攻防戦」でロシア軍敗北。ロシア太平洋艦隊壊滅。 ・ロシア側に危機感。日本側に戦勝気分。 ・日本政府、ロシアに停戦を提案するもロシア側は一蹴。 ・しかしロシア側に焦り。陸軍の増援を急ぐ
・1905年 1月、 ・「黒溝台会戦」。ロシア軍、伝統の冬季反抗実施。日本陸軍、情報戦の不備から惨敗し主力が壊滅。その後ロシア軍の大幅な増援もあり、日本軍は大きく後退。 ・日本ではそれまでの戦勝気分が吹き飛び、自衛戦争としての機運が大きく上昇。日本政府は、それまで準備に止めていた準総動員を開始。国民も受け入れ。半年間で大軍(約200万人)が動員されたため、後に各国が懸念を表明。ロシアも動員を始めれば、欧州各国での動員も始まるため。 ・ロシア、「血の日曜日事件」。革命の危機に揺れる。以後国内の混乱も続き、ロシアでの動員強化を躊躇させ続ける。 ・同月、ロシアは、本国艦隊(バルチック艦隊)の極東派遣中止を決定。ロシア本国の守りを疎かにするべきでないという皇帝の意思によるが、欧州的妥協による戦争終結を狙った行動。 ・双方、中立国で歩み寄り始める。 ・1月〜2月、「第二次遼陽会戦」。日本軍敗北。朝鮮半島と遼東半島先端部にまで後退。ロシア側の補給問題から戦線膠着。 4月、 ・ロシア軍、別働隊が朝鮮半島に本格的な侵攻。日本軍は遼東半島先端部、満州南部の山岳地帯で防御戦を展開。日本軍の大増援が本格化。遼東半島先端部(南山付近)は俄に第二の旅順化。講和の話し合いも本格化する。 ・5月、朝鮮国境付近の山岳地帯と遼東半島先端部で戦線停滞。 ・7月、ロシア軍再度攻勢を仕掛けるが、国内に準動員を仕掛けた日本軍の大軍を前に前進できず、逆に守勢に回る状況も出現。ロシアは欧州からの増援が間に合わず。 ・8月、日本、講和を有利にするため自国領の樺太からカムチャッカ、アムール川河口部などを攻撃もしくは一部を占領。 ・9月、「日露戦争」終戦。
11月、 「ポーツマス講和会議」開催。英、ポーツマスにて。 ・満州、朝鮮半島全域がロシアの勢力圏して認められる。英は講和前に朝鮮から済州島を事実上割譲。ロシアの強いアラスカ返還要求(領土割譲)に対して、日本は寸土も侵されず、むしろロシア領を占領しているのは自らだと反論。日本は、占領したごく一部のロシア領と手元に残った遼東半島先端部と朝鮮半島を渡すことで対応。裏では、太平洋での制海権及び海軍力の有無が情勢を決める。互いに賠償金はなし。 ・これまで順調に発展していた日本は、ロシアと互角以上に戦ったとして国際評価と名声が大きく高まるが、戦費の返済などで以後しばらく停滞。国内では惜敗と考えられ、日英同盟を堅持し海洋国家路線に傾倒。英も対露、対米北政策から対日外交を重視。 ・ロシアは、陸での勝利で軍事国家としての面目は辛うじて保つが、日本が予想以上に強く太平洋での海軍力を全て失ったため太平洋進出の方針を変更。しばらくは、陸路で行ける地域の経営に傾注。新たに得た満州、朝鮮が主対象となる。 ※1905年後のロシア情勢 ・日本から北東アジア大陸の覇権を手に入れたロシアは、太平洋に出ることはしばらく諦めなければならないが、その後北東アジア経営に没頭。アジア進出の足場を固めると同時に、そこから上がる利益で日露戦争での戦費返済をまかなおうとする。一方日本とは当面協調路線をとり軍事費を圧縮。 ・そして朝鮮、後清で得られた財貨で、国内の工業化と近代化を進めると共にアジア経営にのめり込み、軍事力もアジアへと吸い取られたため欧州への対応能力が一時的に大きく低下する。
・日英、日英同盟を改訂。 ・英仏米南などが日本に大規模な借款。日本は「アジア・太平洋の防波堤」として戦争前より注目される。 ・露、朝鮮と協定締結。日本の権益の全てを受け継ぐと共に、さらに過酷な条件を受け入れさせ、実質的に朝鮮を保護国化。 ・独、「モロッコ事件」。アフリカ大陸北西部のモロッコの植民地化でフランスと対立。前後してドイツの帝国主義的行動が目立つ。 ・独、アインシュタイン、特殊相対性理論発表。
1906年 ・日本、建て直しのため行政、経済、軍事など多岐に渡る改革実施。憲法改正(天皇主権及び統帥権の縮小)、参政権の拡大、税制改革、農地改革、経済改革、労働法、初期の社会保障制度の整備などが行われる。数年後に日本の改革は完成。欧州よりも進んだところを持つ国家となる。 ・日本、加州を始め地方自治を拡大。自治の強い加州では、英連邦諸国のように事実上の首相を中心とする議会民主制となる。以後日本全体の連邦国家化が加速。 ・また軍組織そのものが日露戦争の敗北原因とされたため、門閥士族士官を大きく制限し、役割が終わったとして幼年学校も廃止。軍人育成に連動して、日本全体での教育制度全体の見直しも行われる。
・ロシア、旅順での着底戦艦を再生して太平洋艦隊を再建するが、日本は新鋭艦を多数浮かべて対抗。日露間のアジア・太平洋での海の日本圧倒的優位動かず。 ・日本、対ロシア政策として中華地域の革命勢力支援を強化。 ・ロシア、満州鉄道及び満州開発に他国資本の参加を認め、米北(アメリカ合衆国)企業が多数資本参加。満州からの輸出市場ともなる日本にも資本参加を呼びかける。満州開発では生産拠点として日本が活用され、皮肉にも日本の戦後不況が緩和。ロシアの極東開発も大きく進展。海(島)と陸(大陸)との完全な棲み分けにより、日露の関係が進む。
1907年 ・「英露協商」。イランでの境界線を画定。イギリス、フランス、ロシアによる「三国協商」が成立。 ・ロシア、満州、朝鮮の支配権強化。朝鮮での反発に、強権支配で対応。清、日本が非難。 ・「日露協商」。改めて両者の国境線を確定。経済面も合わせて日露の和解進む。朝鮮半島の件も両国の国境確認の中で、日本側の要請を聞き入れた形でロシアの行動が認められる。三国協商と日英同盟と合わせて事実上の「四国協商」となる。
1908年 ・清、西太后死去。幼い宣統帝(溥儀)が即位。 ・トルコ、「サロニカ革命」。青年トルコ党が力を持つ。日本にも近代化援助を依頼。
1909年 ・「ハルピン事件」。韓国青年によるロシア朝鮮総督暗殺を契機に、ロシアは朝鮮半島支配を強化。強制労働などが加速。一部の朝鮮人が海外逃亡。多くが日本、清国に亡命。
1910年 ・日本、「日本合邦」。ハワイとの合併と国全体の連邦化を発表。 ・「大日本帝国」の国号はそのまま。日本の領土は、日本、琉球、ハワイ、ブルネイ(ボルネオ)、そして加州を自治国。加州は民主共和制で他は立憲君主もしくは王制。それ以外の地域は引き続き日本の直轄領とされる。本国以外でも主権者は天皇だが、外交権は持たず軍備も郷土軍を少数持つ以外は「連邦軍」として統一。首相選出も直接選挙で選び1期4年の任期として政治の継続性を強化。国民の選挙権も、普通選挙制度導入によりさらに拡大。25才以上の男子全てになる。 ・ロシア、朝鮮(大韓帝国)を完全に保護領化。過酷な支配を敷く。(※遅れた中世的王朝だと断じて、フィンランド以下の扱いとなる。西欧のアフリカ並みの支配を受けて、さらに強制移住と強制労働、農奴化、自らの移住により朝鮮半島の人口は大幅に減少。) ・英、南アフリカ連邦成立。
1911年 ・中華、「辛亥革命」開始。 ・ロシア、清王朝支持を表明。満州、蒙古など自国国境沿いへ大軍を駐留。既得権益地域の兵力を増強。各国が警戒。中華自身は中華派と親清派に分裂。 ・ロシア、「ストルイピン改革」の成功を宣言。北東アジアからもたらされる富で、経済の好転に成功。しかし、農奴に代わり辺境住民を強制労働させる姿勢が、各地の民族主義者の反発を産む。同年、ロシア皇帝は批判の多かったラスプーチンを国外追放。 ・「伊土戦争」。イタリアがリビアの支配権を確立。
1912年 ・中華、南京で中華民国建国宣言。 ・列強は孫文ではなく袁世凱を支持。ロシア、米北は清王朝を支持。列強が支持する袁世凱は傀儡の独裁者だと強く非難。 ・北京を脱出した清皇帝(溥儀)が、旧都奉天(ムクデン/Mukden/満州語)への遷都(以後「新京」)を宣言。清末期に約束した憲法制定と議会設置を行い、立憲君主国の建国を宣言。ロシアが強く支援。 ・「後清帝国」成立。立憲君主国家とされ、北東アジア諸民族を漢民族国家の脅威から守ることを国是の一つとする。領土は、万里の長城以北となる満州、蒙古、内蒙古、東トルキスタン、西蔵の一部(青海地域)が所属。諸外国が反発し中華民国支援に動くが、袁世凱の独裁が進み混乱拡大。中華民国自身に力がないため後清が既成事実化。米北は後清地域への市場進出を条件にロシア側に付き、欧州諸国と日本を牽制。ロシアの勢力圏は史上最大となる。主に日英の対東アジア警戒感上昇。ロシアとの関係が再び疎遠となる。 ・英、インド権益防衛のため西蔵(チベット)への影響力を強化。中華民国は反発するが、ほとんどの列強が歓迎。 ・ドイツ、対ロシア警戒を強める。海軍増強の度合いを抑制し陸軍整備に力を入れ、東西への戦力シフトを目的とする機動力強化のため米北から膨大な量の自動車両を購入。今度は仏が独を警戒。 ・「第一次バルカン戦争」。トルコはバルカン半島の過半を喪失。 ・仏、モロッコ保護国化。 ・日本と米北、互いの首都にそれぞれの国を象徴した花(木)を贈り友好親善を行う。互いに関係改善をアピール。
1913年 ・「第二次バルカン戦争」。 ・オスマン朝=トルコはバルカン半島の殆どを喪失。戦後、オーストリアとセルビアの対立が激化。他バルカン諸国間の対立も激化。