●その10 欧州戦争

 1914年
・5月、中華民国、袁世凱が事実上の独裁化。後清の存在から国内外も消極的に受け入れ。ロシアは反発して後清領内に大軍駐留。後清の近代化政策や軍備増強も急ぎ進める。米北は袁世凱を強く非難し後清への援助強める。
・6月、
・「サラエボ事件」。オーストリア皇太子暗殺。オーストリアが、セルビアへの強い態度に出る。ヨーロッパ全土に強い貴重が走る。
・7月、
・東アジアに傾倒し過ぎていたロシアが、ドイツへの恐怖心から動員令を発令。列強がなし崩しに総動員態勢に移行。
・8月、
・欧州列強が互いに宣戦布告。
・「欧州戦争」勃発。
・米南、英国との攻守同盟に従い自動的にドイツに宣戦布告。
・日本、欧州諸国の対中警戒感緩和のため参戦を当面見合わせ。英国並びに協商各国も承認。日本は各国との調整急ぐ。
・米北、中立宣言。北米大陸への戦争波及を恐れ米南の行動を非難。
・ロシア、後清に肩入れしすぎ現役兵が不足し、東アジアに肩入れ過ぎていた事から来る混乱もあり即時動員が遅れる。
・ドイツ、ロシアの動きを見つつ、ほぼ全軍を西部戦線に投入。中立国のベルギーに侵攻。奇襲攻撃に成功するが国際非難を浴びる。
・9月、
・「パリ包囲」。ドイツのシュリューフェン・プラン成功。現役兵中心の英仏軍主力は大打撃を受け、フランスの首都パリが包囲される。
・英仏軍によるパリ包囲打破作戦は、パリ包囲による統制の乱れから失敗。ただし英仏独のそれぞれに大損害。停戦機運増大。
・10月、
・「パリ陥落」。英仏はドイツとの停戦に合意。
・「タンネンベルクの戦い」。ロシア軍、遅れてドイツ領内に侵攻するが、西欧から一部シフトしてきたドイツ軍に各個撃破され大敗。ロシアの軍事力が否定され大きく動揺。
・戦闘後、ロシアも同盟側と交渉を行いドイツとの停戦が成立。しかしオーストリアはセルビアを許せないとして譲らず、セルビア攻撃を実施。しかしセルビアへの攻撃は失敗し、既に停戦した国々の説得と圧力で11月までに欧州各地での戦闘は完全停止。
・「欧州戦争」終戦。各国軍は、年内に戦前の国境線、勢力境界線まで引き上げ。クリスマスには、元前線で別れを惜しんだ宴会やスポーツなどの催しが各地で行われる(※「クリスマスまでに戦争が終わった」)。
・戦争は、事実上ドイツの一人勝ちに終わる。戦闘自体は実質的にわずか三ヶ月の出来事なので、「大戦」の名に値しないと言われ、各国が宣戦布告したので「欧州戦争(ユーロ・ウォー)」の呼称が定着。また撤退間際の各国間の催しが契機となり、フットボールの国際試合が後に定期的に開催されるようになり、相互理解と国際平和に貢献する。

 1915年
・1月
・「パリ講和会議」

・(ドイツ、オーストリア、イギリス、フランス、ロシア、ベルギー、セルビアが出席。アメリカ連合国は参戦するが実質何もしなかったため、事実上のオブザーバー参加。次の会議参加のため、日本を始め非参戦の列強もオブザーバー参加。)
・戦争の勝利者となったドイツの戦費賠償金要求に対して、各国は領土割譲か利権譲渡を提案。またイギリス、フランスは、中立国ベルギーへの侵略でドイツを非難して対抗。結局、フランスは数年前の係争地だったモロッコをドイツに割譲。ロシアはドイツ側の要求で、ロシア領内のポーランドとバルト海地方の民族自治を認めさせ、ロシアの勢力圏を実質的に後退し独露間に緩衝地帯が形成。イギリスのみ賠償金で対応。また各国がドイツへの市場開放を約束。被害国のベルギーは独立を回復しドイツから賠償も受けるがドイツの影響強まる。
・戦争勃発の責任があるとされたオーストリアは、戦勝国であるため大きな変化なし。
・一番の戦争責任を問われたセルビアが外交的に袋叩きにあい、国家中枢からスラブ系が排除。急進派も処罰される。セルビアはロシアの擁護で辛うじて独立は維持。しかしセルビアから、モンテネグロ、マケドニアが独立。ロシアのバルカンでの影響力も減少。
・また開戦原因だったバルカン問題では、オーストリアとロシアが和解。オーストリアの柔軟路線もあり問題は少しだけ沈静化。
・「パリ会議」。
・講和会議の延長線上として、今後の安全保障体制を決める会議を開催。席上でハーグ協定も改訂。使用禁止の兵器、戦術が規定される(毒ガス、生物兵器の禁止など)。
・また海軍軍縮会議の開催、各国間の外交密度の強化、戦時動員に関する厳格な通知と規制、欧州各国間でのみ相互監視条項を設ける事が決まる。英独は、戦争原因の一つともなった建艦競争で大幅な歩み寄りで合意。

 ※戦後
・ドイツの国威が上昇しフランス、ロシアの国威が若干低下するも、
・結局戦前とあまり変化はなかった。誰も大きな戦費を浪費していないため、どの列強も戦前からの動きに大きな変化なし。
・ドイツは、海外での動きはさらに活発化。トルコとの関係も強化。各国はドイツへの警戒をさらに強める。
・イタリアは、参戦しなかった事と反オーストリア政策により三国同盟から離脱して協商に合流。イギリスにとって、モロッコがドイツに渡った事への補完となる。
・オーストリアは、バルカン問題で大きな変化なし。しかし国内に対しては自らの体制維持が困難と判断し、かねてからの「民主的連邦制」を画策して各民族の自治を優先した立憲君主制への移行を開始。
・ロシアは欧州での現状維持路線。国威の回復と国力増強は国内の改革推進と近代化、そしてアジア経営の強化で対応しようとする。
・フランスは、自らの弱体化と対独政策のため今まで以上にイギリスとの関係強化。
・イギリスは各国との同盟関係を強化。イタリアを自陣営に引き入れた事で政治的失点を回復。またドイツとは関係改善を進め、対独、対露政策としてイラン、アラビア半島の支配強化を画策。
・トルコは親ドイツ傾向を強めバルカン問題は不介入路線を取るも、反露政策は変わらず。
・三国協商は、従来のイギリス、フランス、ロシアに加えて、イタリア、日英同盟による日本、英南同盟による米南を加えた大同盟「協商連合」へと拡大。事実上の対ドイツ大同盟となる。これでイギリスは、陸地の六割、世界の海洋のほとんど全てを掌中に収めた事になる。しかし対ドイツ以外では「協商連合」の結束が弱い。主にロシアのアジア政策が原因。
・北米二カ国は大きな変化なし。ドイツが関係強化を模索するが、米南はほとんどの列強との関係が強く果たせず。米北との関係がある程度進展。しかし似たような産業構造の国家のため、協力関係は希薄。米北は自らの産業、資源の補完のためロシアに接近。

・5月
・「ロンドン海軍軍縮会議」開催。

・(英、独、仏、伊、露の欧州諸国に加えて保有量の多い日本、米北が参加。保有量の少ない墺、米南、西はオブザーバー参加。)
・主力艦(戦艦、巡洋戦艦)の保有量制限、排水量、主砲口径の制限、建造公表義務などが設けられる。期間は10年間。改装は新造5年まで禁止で排水量の増加上限は3000トンまで。10年後に次の会議を開催。
・排水量は基準排水量で1万トン以上、主砲口径は8インチ以上が対象。
 上限は基準排水量で3万トン、主砲口径は15インチ砲。
・英国を(70万トン)100%として保有量制限。
・100%:英 60%:独 50%:仏、日本 33%:露、伊、米北
・(※オブザーバー参加国は20%を目安とする。)
・新造艦は会議で許可された数までで、廃棄予定の旧式艦は売却禁止される。独は当初50%とされていたが、独のごり押しで60%が認められる。
・また同会議では、国際問題を多国間で解決するための国際組織設立に関する会議を同時開催。準備委員会を設立し、5年以内に結論を出すことで決議。
・7月頃〜
・米北、欧州戦争での需要拡大のアテが外れ大きな不景気に襲われる。失業率が大きく増加し、国内で労働争議など頻発。また折からの人種差別が先鋭化。政府は、政情不安を米南との対立を煽ることでガス抜き。

 1916年
・「太平洋条約」
(参加国:英、日、仏、西、露、米北)。今後十年間の太平洋での現状維持を確認。
・別会議で日英同盟を強化改訂。完全な二国間の攻守同盟となる。
・中華民国、袁世凱死去。共和国家としての中華民国が再始動。しかし軍閥の跋扈と後清との対立、列強の蚕食によりまとまらず。
・欧州諸国は、取りあえず欧州の諸問題を棚上げして最後の市場である中華への比重増加。
・墺、フランツ・ヨーゼフ1世没(治世68年)。カール1世が即位。
・露、大寒波で飢饉発生。国内各所で抗議デモ相次ぐ。



●その11 ロシア革命未遂とバルカンの混乱