●その11 ロシア革命未遂とバルカンの混乱

 1917年
・1月
・墺、「民主的連邦制」を約束。より複合的な国家連合の形成を画策。憲法、議会の改正を具体化。国内の諸民族は周辺状況から、独立よりも国家連合化を受け入れるも、逆に保守派、ドイツ派が反発。
・3月
・ロシア、「ロシア2月革命」発生。
・首都サンクトペテルブルクを中心に、深刻な飢饉に対するデモが大規模な革命運動に発展。軍隊の発砲で暴動化。民に銃を向けたとして兵士の離反も相次いで内戦化。
・裏に様々な革命政党と民族主義者、共産党の影がある。ロシア政府は「血の日曜日事件」の再来として本格的な鎮圧開始。しかし軍隊の深くにまで反乱が波及。ロシア国内は、大多数の帝国支持派と、社会主義・共産主義者、無政府主義者主導の一部貧民の間の争乱に発展。各地で激しい内乱状態となる。
・一時、当時国内巡視中だった皇帝一家が所在不明とされ、首都サンクトペテルブルクでは政府や軍の多くも機能しなくなり一時的に無政府状態となる。また首都では革命政府の成立が宣言され、国内の争乱状態はさらに拡大。
・各国がロシア帝国を正当なロシアとして、ロシアの安定のためという理由で干渉を決意。特にドイツはポーランド及びバルト海地域の要請があったとして大軍を派遣。ポーランド、エストニア、ラトビア、リトアニアに駐留。バルト三国からサンクトペテルブルクを伺う。また、混乱の最中にフィンランドが独立宣言。
・日本、英国、後清への治安維持出動をロシアに打診。
・トルコ、ロシアに宣戦布告。黒海沿岸部を艦砲射撃し、コーカサス地方に侵攻。各国から非難され、ロシア国内での団結も強まる。
・11月、
・「ロシア10月革命」。
・皇帝ニコライ二世が近衛軍と共に皇宮に戻り内乱を鎮定。革命政権の多くを粛正。合わせて、シベリアを含め国内の反動勢力の多くを粛正。一部で反発が強まるが、国家の統制は取り戻す。
・ニコライ二世、憲法制定を約束し帝政から立憲君主制への移行を宣言。また自らは混乱の責任をとって退位し、ミハイル・アレクサンドロヴィチ大公がミハイル一世として即位。
・憲法制定と民主議会開設を条文化。各種改革も約束。当面の革命の危機は去るが、民主化レベルは成立初期のドイツ程度。
・ロシアでの争乱後、フランスなど欧州を中心に世界中でも共産主義者の弾圧と排除が活発化。この時期欧州及びロシアでの共産主義、社会主義運動家の多くが消える。一部生き残りが北米に亡命。この時、スイスに亡命していたロシアの共産主義者の多くが、暗殺で命を落とす。
・12月
・「カリブ会議」(参加国:英、独、西、米北、米南)。カリブ海での軍事行動の禁止と相互不可侵の条約締結。実際は、対米北封じ込めのため、米北の反感強まる。
・ロシア、体勢を立て直してトルコ軍を撃退。トルコではスルタンの権威が失墜。青年トルコ党でも混乱が見られ、一部の勢力が勢いを増す。

 1918年
・ポーランド、フィンランド、エストニア、ラトビア、リトアニアの独立がロシア及び国際的に認められる。バルト三国はドイツより王族(公爵)を迎えて王国化。ポーランド、フィンランドは共和国化。ロシアの勢力は後退しロシアの反ドイツ傾向が強まるが、欧州列強は各国の独立を支持。独露間の緩衝地帯誕生で、欧州での反ロシア的動きは若干沈静下。ドイツの脅威が強まったと考えたフランスは親イギリス傾向を強める。
・米北、「アメリカ共産党」結成されるが、即非合法化され地下活動化。また共産党を利用して、小政党が勢力をさらに縮小して共和党の一党独裁体制が強まる。
・米北、ロシアの復興支援を約束。翌年からはロシアは技術、米北は市場と原料資源を得て経済が活況。
・墺、ロシアの混乱が波及。民族自治を求める声が強まり、帝国内の各民族地域のいっそうの自治化を約束。

 1919年
・「第三次バルカン戦争」。ギリシアの後ろにイギリス、ロシア、ブルガリアの後ろにオーストリア、ドイツが付いた代理戦争。第二次バルカン戦争の再開と言われ、ロシアの混乱が遠因となる。
・戦闘は小競り合いで泥沼化。ロシアが国内混乱ため干渉が最小限で、かえって戦乱が長期化。またここでも従来の王室外交は機能せず、またも起きた戦争に国際組織設立が急がれると共に各国の牽制合戦が行われる。
・中華、「五・四運動」。列強の進出に民衆が反発。大規模な暴動になり、中華民国では対処ができず政府の依頼を受けた列強の軍隊が都市部では出動。ロシアが裏から扇動したと言われるが、かえって列強の影響力が強まる。
・露、「三・一運動」。属領の朝鮮半島で大規模な暴動。ロシア軍が出動して徹底弾圧。その後朝鮮半島支配を強化。原住民のシベリアへの強制移住と、改革によりさらに減少した農奴の代わりの労働力としての送還が強化される。朝鮮人のイギリス領済州島と日本への亡命増加。日英共に亡命を規制するが流れてきた者は仕方なく受け入れる。一部の朝鮮亡命者は加州にも移民。
・米北、禁酒法公布(1920〜1933)。米南、カナダ、加州からの密輸が横行。北米大陸での関係がさらに悪化。

 1920年
・「ジュネーブ会議」。約束通り、国際機関設立の話し合いが持たれる。3年以内の機関設立を目指すことで合意。戦争外交が収まる気配がない事が後押し。
・米南、議員選挙で共和党が躍進。影響で遂に「奴隷解放」を行い、奴隷制度を法律上で禁止。しかし農業への機械力の導入で、奴隷の必要性が低下したのが経済面での理由となる。だが差別は根強く残り、黒人は米北や加州へ流れる。一方で米北の工作だとして米南世論が揺れる。
・英、初のラジオ放送。
・1920年代は、米北はエネルギー変革(石炭→石油)の影響で、当初は自国内の油田で賄うが徐々に露から石油を輸入するようになる。対照的に米南経済が石油時代到来で躍進。加州でも石油採掘が大規模化。大きな石油資源のない米北に強い焦り。

 1921年
・米北、ハーディングが大統領となる。以後十数年共和党のさらなる独裁体制が進む。
・「第三次バルカン戦争」拡大。
・ギリシアの攻勢でトルコとギリシアが国境を再び接して戦争拡大。トルコが領土奪回を旗印にギリシアに宣戦布告。ドイツ、オーストリアが強く後押し。イギリスはギリシア支援を強化。ロシアもギリシア支援強化と共に、セルビアを色々と支援してたきつける。これにオーストリアが警戒感を上昇。7年前の悪夢がよぎるも、大国の参戦はなかった。だが、セルビア、トルコが参戦。セルビアがギリシア側に、トルコがブルガリア側に参戦。
・ギリシア、トルコの有する英独製の巡洋戦艦が戦闘。独艦に軍配。英艦は1発の被弾で爆沈。各海軍列強に衝撃。またトルコの民族権利擁護団が活躍して大きく躍進し、反対に無策だった青年トルコ党が没落。無定見なスルタンの権威はさらに失墜。
・「パナマ運河」開通。英国が中心となり建設。理念通り国際管理運河となる。運河所属地はコロンビアのまま。大西洋諸国とアジア、オセアニアの交流が活発化。特に米南と日本のつながりが強くなり、関係各国の景気が拡大。米北は、日、米南双方の動きを強く警戒。
・米北、農業恐慌。農産物の過剰生産で価格が暴落。連動して大規模な不景気に突入。各国は米北の保護貿易主義の結果と冷淡。暴落した農作物の多くをロシアが輸入し、逆に石油や各種機械を輸出して関係が強まる。
・この頃から米北露(+後清)による「北方枢軸(ノーザン・アクシズ)」が言われるようになる。

 1922年
・「第三次バルカン戦争」終戦。ギリシアの敗北。トルコとブルガリアに領土を割譲。
・ロシアはギリシア支援で力を発揮できず、以後ギリシアはもう一つの支援国だったイギリスを頼るようになる。セルビアは大国の睨みの強さから結局大きな動きに出ず。
・土、スルタン制度を廃止。オスマン朝=トルコ滅亡。戦争中に活躍した青年トルコ党の改革派を中心にしてトルコ共和国が成立。また旧オスマン朝地域も各地に民族や地域ごとに自治政府を作り、トルコを中心とした「アラブ連邦共和国」となる。
・ドイツ、引き続きトルコ支援を表明。革新的なアラブ国家の出現にイギリス、ロシアが強く警戒。中東でのドイツの影響が強まる。また独墺の対露欧州包囲網により、ロシアの孤立化が進展し経済面で米北との関係を強める。
・伊、ムッソリーニのファシスタ党が躍進。未回復のイタリアの奪回を旗印に国民の人気を得る。しかし政権を取るには至らず、国民はファッショ(全体主義)を否定。
・日本、実用ラジオ放送開始。

 1923年
・「第二次ジュネーブ会議」。
・各国の調停の取れないままの予備会議の段階で紛糾。英、仏、伊、西、日は協調するも、独、露、墺、米北、米南が難色。また日本が提案した万民平等の理念に、多くの植民地を持つ国が難色。北米の二国は強く反発。民族自決でも、欧州の多くの国が難色。対立はむしろ表面化。
・結局話し合いはまとまらず、引き続き組織設立の会議を行う事と、各国間の協力を密にするという拘束力のない取り決めをするだけに終わる。
・唯一の成果は、スイス・ジュネーブに常設会議事務所の設置。列強各国が代表を置く。
・この頃、世界の列強は同盟関係で三分化。

・協商連合 =英、仏、日、米南、伊、西、中華(+他多数)
・新三国同盟=独、墺、土
・北方枢軸 =米北、露、後清
(※略名は国力順)

・米北、ハーディング大統領急死。クーリッジ大統領就任。以後、クーリッジ政権は政府と一部大企業へリソースが集中化。国内不景気と孤立主義の中で共和党を中心とする擬似的な全体主義化と国家資本主義化が進む。

・9月、日本で関東大震災。首都圏が壊滅的打撃。死者は10万人に達する未曾有の地震災害となる。日本のGNPはマイナス成長となり、翌年まで不景気が継続。さらに日本は同年と翌年の大幅な軍事費縮小を決定。
・しかし東京の大改造が震災の三ヶ月後には始動。莫大な資金を投入した近代都市建設が開始され、建設景気により持ち直す。一方で、資金捻出のために軍事費を削減し、初期の復興要員として軍を大量動員。


●その12 北米大戦前夜