●フェイズ05「支那事変(2)」


 1942年初夏の頃、既に日本軍は16個師団60万人を中華民国内に侵攻させていた。しかもさらに20万の部隊が日本本土及び満州国内で準備中で、三カ月以内に投入可能だった。その上日本陸軍は、戦争を短期決戦で終わらせるため、手持ちの戦力の八割以上を投入する覚悟すら持ち、実際準備を進めていた。つまり日本陸軍は、25個師団、100万の兵力を投入する意志を持っていた事になる。これは既に事実上の戦時動員が進んでいた日本軍120万人の8割以上に相当する。これ以外の日本軍には、大幅(約三倍)に増員された海軍の15万人があったが、世界中でも列強と呼ばれる国での100万人以上の兵力出現は世界大戦(グレート・ウォー)以来の出来事だった。
 また陸軍と海軍がそれぞれ持つ航空隊も強力であり、練習機以外の全ての運用機数を合わせれば1300機に達した。これはエチオピア侵攻で近代軍の威力を見せたイタリア空軍をしのぐ規模と戦力であり、遠距離での作戦可能機の多さでは既にアメリカを抜いて世界最大規模だった。また日本以外にイギリス、アメリカしか持たない本格的な航空母艦を多数保有し、しかもそれらを統合して有機的に運用するようになっている点は革新的で、第二次上海事変当初から大活躍していた。しかも各航空隊も急速な勢いで拡張が始められており、自力で兵器を生産できる国とできない国の差を見せつけていた。

 これに対して中華民国は、可能な限りの防戦の準備を行いつつも、諸外国に悲鳴を上げて泣きついた。しかし欧米各国は、冷淡だった。商売としての武器売買以外は、ほとんど取り合わなかった。しかも即金かバーターでの取引が主体であり、中には中華国内でのさらなる利権を求める国もあった。
 それでも需要を当て込んで香港経由で大量の武器弾薬が流れ込み、この時期の取引による特需のおかげでアメリカ中間選挙は自由放任主義を掲げる共和党の勝利に終わったと言われた。イギリスやフランスも相応の特需に沸いた。しかし資金力に欠ける中華民国では、買える兵器の量と質双方に限界があった。海外の中華勢力が集めた援助金も、高価な兵器の前には焼け石に水だった。まずは大量の歩兵に与える銃器とその弾薬が主となり、ついで火砲、航空機と続き、最後が装甲戦闘車両だった。軍艦については最初から考慮されていなかった。
 そうした中で、諸外国が試供品として無償供与したのが、自分たちの使っている戦闘機だった。数はどれも少数だったが、イギリスの《ホーカー・ハリケーン》、アメリカの《P-40ウォーホーク》、フランスの《ドボアチンD520》、イタリアの《マッキ・MC.200》などが中華民国空軍へ供与された。目的は自らの標準的な機体の実戦評価のためであり、また日本軍機の能力を調べるためだった。このため、軍事顧問という形で軍人や航空機技術者などが中華民国に入り込んだ。また、ロシアも他国と同じように航空機を供与したが、《オリョール》と呼ばれた当時のロシア空軍主力機は他国に数年遅れる性能しかないため、中華民国側も格安価格か無償供与以外は受け付けなかった。中華民国最大の武器売却国だったドイツについては、未だ自分自身の空軍すら持てないため、自分たち用に作った高射砲や機関砲の売却や少数供与で得点を上げていた。
 しかし現状での中華民国軍は、優良装備の過半を失った状態で、各国が中華民国に大量に武器弾薬を運んで来るには数ヶ月が必要だった。
 そしてこの時間を、日本軍は無駄にする気はなかった。

 日本軍は、中華民国首都南京を攻略した時点で、北支への全面侵攻も決意していた。なし崩しの全面戦争となっている以上、勝つために進まざるを得なかったからだ。
 しかし万里の長城で準備された部隊は、当初の段階で2個軍、5個師団に及んでいた。しかもうち1個軍は、世界初の機械化軍団だった。加えて、元が関東軍所属だったため支援部隊も最初から豊富に有していたし、備蓄弾薬も比較的多く持っていた。また日本本土からも1個軍が山東省方面から上陸する予定で動き始めており、その後数ヶ月間の北支での戦闘は一方的そのものだった。
 僅か5週間で、黄河以北の北支地域と山東省は日本軍占領下となった。中華民国軍は最初の戦闘で呆気なく敗れ、僅かな数の精鋭部隊が日本軍の機械化軍団に包囲されると総崩れとなり、後は逃げ散るだけとなった。地方軍閥の軍隊は、日本軍が進んでくるだけで逃げ出すような状況も数多く見られた。
 しかし、重慶を臨時首都とした中華民国政府は、全く屈服する気配がなかった。このため日本軍としては、敵野戦軍のさらなる撃滅という衝撃によって、中華民国を話し合いの席に着かせようと攻勢を続ける事になる。
 これで発起したのが、1942年8月から9月にかけて行われた「徐州会戦」だった。
 この作戦は北支方面軍、中支那派遣軍と改称されていた双方の総力を挙げたもので、南北からの挟撃により徐州方面に逃げ込んだ中華民国軍の主力野戦軍約40個師、約80万の兵力を包囲殲滅するのが作戦の骨子だった。
 しかし支那派遣軍自体は全部集めても16個師団と2個旅団しかなく、全てを戦闘に参加させる事もできなかった。このため戦闘には重武装部隊、快速部隊が可能な限り投入されており、「九七式中戦車」「九五式軽戦車」を中心にした戦車部隊、全ての兵が各種車両に乗る自動車化部隊が、包囲網の先陣を切る事になる。
 また、少しでも機動力を向上させるため、満州から多数応援に駆けつけた騎兵部隊も投入されることが決まり、各師団の部隊を合わせて合計10個連隊という世界大戦以来の大騎兵部隊も作戦に参加することになった。10個連隊もの騎兵部隊の実戦投入は日本陸軍始まって以来の事でもあり、日本陸軍全体の士気も非常に高かった。参加する師団数も、当初は7個師団と1個旅団だったが、各地からの緊急増援が間に合ったため、予定を当初から一週間遅らせてさらに3個師団が参加することになった。
 また、この頃には日本国内及び満州などから、臨時徴用を含めて持って来られるだけの自動車、自動貨車を支那に持ち込み、派遣されていた歩兵師団のうち3個が臨時の軽自動車化師団に改変され、輸送部隊も大幅に強化された。この作戦だけで、約1万5000両の各種自動車両が投入されていた。また威力が確認された戦車も可能な限り投入され、日本陸軍が有する8個の戦車連隊のうち7個がこの時の作戦に用意され、さらに数ヶ月前から増産の始まった戦車のうち間に合った新型戦車2個中隊分までが投入されていた。この時の新型戦車が「一式中戦車」で、「九七式中戦車」よりもエンジンと足回り、装甲を強化した車両だった。
 また海軍航空隊も、プライドと予算獲得のために大規模な航空戦力の投入を決定し、母艦航空隊を基地配備にするなどして、陸軍航空隊と合わせて500機以上の航空機が作戦参加予定となっていた。

 北支方面軍は8月27日、中支那派遣軍は9月5日ごろから作戦行動開始した。
 戦闘をそれぞれの機械化部隊が突進し、中華民国軍はほとんどまともに抵抗せずに逃げ散るだけだった。このため日本軍の進撃は順調に推移し、南北呼応して中華民国軍の退路を断つように分進合撃、徐州西方地区で9月13日頃に包囲網が完成した。
 作戦参加した日本軍部隊は、各種10個師団と1個旅団、10個騎兵連隊、2個重砲兵旅団と、輜重段列など様々な支援部隊を含め総数で40万人に達していた。また総予備として、陸海双方の空挺旅団がいつでも投入可能なように準備された。
 火力、装甲、機動力のどれも日本側が懸絶していた。現地の中華民国軍は、中隊から大隊規模になるであろう数百名が一団となって隊列を乱して敗走し、飛行機を見るや馬も車も放棄して麦畑の中に隠れてしまような有様だった。このため後の軍歌の「徐州、徐州と人馬は進む」の歌どおり、機動と行軍の連続であった。あまりに鮮烈な機動戦のため、この時初めて「電撃戦」という言葉が生まれた。稲妻のような進撃速度だったという例えだ。世界中の軍事関係者も、この時の大規模機動戦を非常に注目し、列強各国で機動戦、機甲戦を進めていた人々がこの戦いの多くの言葉や論文を残すことになる。
 しかし中華民国軍が、全く一方的にやられたわけでもなかった。一部精鋭部隊は地帯戦闘や反撃も実施しており、この戦いの最中に世界初の戦車同士の戦いも実施され、中華民国が装備していた世界各国の戦車や対戦車砲のため、日本軍戦車隊も少なくない損害を受けることになった。
 また、付近にいた中華民国軍は、総計約40個師、約80万人と日本軍の二倍もあった。しかも包囲した戦域は、直径で表現すると百数十キロ四方の大平原であった。このため呆気ない包囲作戦の後に、日本軍の合間を縫って脱出しようとする中華民国軍は後を絶たなかった。このため日本側の現地司令部は、空挺部隊の投入を決定。重要橋梁、鉄道の要所に、史上初の空挺降下作戦を実施した。加えて、降下した空挺部隊に対して、大規模な空中補給も行った。この空挺作戦は、軍事的にも世界初の出来事であり、これも世界の軍事関係者から注目を集めることになった。
 そして空挺部隊に主要な退路を抑えられた中華民国軍は、追撃してきた日本軍の機械化部隊に降伏せざるを得なくなり、包囲された部隊のうちの七割以上を撃破もしくは降伏させることに成功した。
 しかしそれでも包囲網から逃げる中華民国軍は多く、10月6日に中華民国軍は自ら黄河の南岸堤防を自ら破壊、大洪水を発生させ日本軍の前進を完全に停止させた。この時日本軍は洪水にのまれる前に安全地帯に移動したが、何の情報も与えられていなかった周辺住民は多くの被害を受けることになった。
 このため攻めている側の日本軍が、見かねて援助や救援の手をさしのべるも、中華民国側は逃げるばかりで何ら救済措置を取ることはなかった。この事は、既に多数入り込んでいた各国の観戦武官や報道関係者を通じて世界中に配信され、多くの物議を醸し出すことになる。日本軍に対する評価、中華民国軍に対する評価が変化する大きな事件となったのだ。

 こうして日本軍による、中華民国野戦軍の撃滅という作戦目的は達成されたが、政治的には何の変化もなかった。
 重慶に引きこもった中華民国政府は、依然として屈服する気配を見せていなかった。むしろ日本軍が奥地に進んでいる事で、自らが有利になっていると言いたげなほどだった。
 「徐州会戦」以外にも、華北方面では黄河の北側で鉄道の続く限り進撃が行われた。また、台湾対岸の福建省の福州、厦門の占領も行われた。
 しかしここで、日本軍は一旦息切れをしてしまう。平時に蓄えられていた武器弾薬を、ほぼ使い切ってしまったからだった。他にも兵力も編成途上を除いてほとんどが支那に注がれていた。この時日本本土には、後備旅団を除いて近衛師団しか実働状態の師団はいなくなっていた。満州でも、ロシアとの協議にによって3個師団にまで削減され、これに朝鮮の2個師団を除く、25個師団が予定通り支那の大地に入るか入りつつあった。
 現地部隊も、「支那総軍」として軍、方面軍のさらに上位の軍単位が設けられた。総軍とは、諸外国の軍単位の和訳での「軍集団」にあたるもので、陸軍の最上位に位置する兵力単位であった。
 だが大量の兵力を一気に注ぎ込んだため、息切れをしてしまっていた。
 このため日本では、本格的な総力戦体制構築に向けた準備を進めると共に、軍事的に中華民国を屈服させるための作戦が発動させる事になった。
 目標は二つ。重慶の門前にあたる武漢と、香港からの中華民国への武器弾薬の供給地となっている広東だ。
 しかし二つの作戦を行うためには、既に準戦時状態では不可能だった。そして泥縄式に始まった総力戦への移行が順次実施された。何しろ武漢作戦だけで、50万以上の兵力が投入予定だった。
 このため1942年8月には、「国家総動員法」、「電力国家管理法」が議会を通過。また総力戦に向けた内閣改造と省庁改変実施もきまり、内務省から厚生部門を切り離して新たな省となる厚生省を立てることが決まった。総力戦のために、厚生部門の強化が必要だったからだ。
 軍全体の兵力のさらなる増強も決まり、40万人の増員と24万人の新設部隊の編成が議会を通過した。
 軍事予算の方も鰻登りで、事変前からなまじ装備及び部隊の拡充が進んでいたため、事変直後の1942年初頭の戦面不拡大、軍備拡充を方針とした陸軍予算ですら40億円を超えていた。これに加えて、さらに40億円が事変に突っ込まれることになった。
 こうした軍需への大規模な国費投入は、一種の戦争景気を日本国内にもたらした。特に機械化が進んだ戦争のため、重工業の拡大に大きな恩恵をもたらした。世界中の企業も、日本軍が必要とする工業製品を売りにやって来た。
 なお、事変前の日本では、1930年代前半は高橋財政による積極経済政策で重工業が大きく上向き、これに五輪、万博の特需、さらなる軍備拡張による特需が加わっていたため、重工業の躍進が目立っていた。また五輪、万博は、社会資本の整備にも一定の財政投資が行われ、民間でも各種工業製品、自動車などの大衆消費財の需要が大幅に増加した。このため欧米列強に比べると、かなりの経済成長を記録していた。失業者も、兵隊と工業生産に吸い込まれ、かなりが街角から消えていった。
 単柔な工業総生産額比較では、大恐慌の起きる前の3倍以上の成長を遂げていたことになる。1942年の日本と満州を合わせた年間の粗鋼生産量も、700万トンを突破していた。この数字は、アメリカを例外とすれば、ドイツ、イギリスに次ぐ数字であり、しかも日本ではさらに拡大が続いていた。
 このためオリンピック開催の頃は、日本の好景気につられて欧米各国の対日外交が甘くなっていたほどだった。何しろこの頃のアメリカは、依然として大恐慌前の8割程度の工業生産力しかなかったし、ルーズベルトが執着したチャイナはアメリカの市場足り得ていなかったからだ。
 しかし事変以後の特需は所詮は自国の戦争特需でしかないため、いびつな面、不利な面も多かった。農村部は一番の働き手を兵士を出さなければならなくなり、貿易の停滞と重工業生産拡大のため日本の主力輸出産業の一つだった繊維産業は、日本国内の都合によって衰退を余儀なくされた。またドル=円の為替レートも、1ドル=3.3円程度で落ち着いていたものが、1942年夏には1ドル=4円に下落した。このため日本のGDPは戦争特需で大きく増えたのに、ドル建てで見たGDPはそれほど増えてはいなかった。
 だからこそ、一日も早く事変を終わらせる必要があった。

 1942年(昭和17年)10月18日、日本の大本営は武漢の片方である漢口(もう片方は武昌)の攻略準備を命令した。支那総軍の南翼にあたる中支那派遣軍は、揚子江及び准河の正面で逐次西方に地歩を占めて作戦準備を行った。また徐州方面から1個軍が移動したり、本土からの増援も送り込まれた。海軍の方も、多数の航空隊を南京近辺に進出させ、揚子江の大河川の海運を利用して、多数の輸送船ばかりか1万トンクラスの大型艦艇(水上機母艦)すらが川を遡上した。
 作戦発動予定は、和平工作との関連を重視して翌年1月上旬とされ、合わせて12個師団が参加する最も規模の大きな作戦になる予定だった。作戦期間は約一ヶ月を予定し、徐州作戦を上回る規模の機械化部隊、航空隊が投入予定だった。
 作戦は予定よりやや遅れて12月22日に発動され、大本営から中支那派遣軍には、漢口付近の要地の攻略、占領、可能な限りの敵戦力の撃破を命令。作戦参加部隊は一斉に動き始めた。参加したのは合わせて4個軍で、今回も機械化部隊や快速部隊が先陣を切ったが、中華民国軍による徹底的な道路破壊と、多数の河川、険峻な山地という自然障害により進撃は予定を遅延。それでもかなりの数の自動車両を用意したため補給などで極端な不足はなかったため、作戦は比較的順調に推移した。鉄道が破壊されていても、多数の自動車両がその失点をある程度補えた効果だった。また、工兵隊を機械化した上で増強していた事も、日本軍の進撃を容易なものとしていた。
 ここでも、旧態依然とした思考と装備しかなかった中華民国軍に対して、先進的な軍備と戦術を揃えることが出来た日本軍という差が影響していた。
 日本軍は約1ヶ月かけて漢口北方に進出し、その後は戦線を拡大。激しい空爆と快速部隊の急進により敵の撃破が主に北部の平原地帯で実施され、多くの中華民国軍が撃破もしくは包囲殲滅された。この影響では、日本軍が苦戦していた揚子江北岸にも影響し、頑強に抵抗していた中華民国軍は西に逃げる退路を断たれ、その後日本軍の総攻撃により一気に瓦解した。
 武漢作戦の終了は1943年3月10日で、その一週間前に漢口は陥落。日本では、陸軍記念日が重なった事もあって、南京陥落以来の提灯行列となった。
 なお中華民国軍は、この戦いに際して約50万の兵力を付近に配置していた。しかし日本軍の急進撃と空爆の前に簡単に崩れ、約半数に当たる約25万の将兵が戦死し、3万の捕虜を出して潰走した。
 潰走した多くは南部に向けて逃走したため、その後日本軍の一部部隊による追撃が実施された。漢口以西の奥地に鉄道は敷設されていなかったが、日本側は自動車を多用すること、追撃部隊を重装備の精鋭部隊に限った事で追撃を何とか可能にし、一気に四川盆地の出口にあたる宜昌にまで攻め上った。これにより揚子江からの中華民国軍の撤退は完全に不可能となり、これまでの敵野戦軍壊滅もあって、一時的に再起不能に追いやられる。
 しかも中華民国にとって凶報は続き、1943年1月中頃に広東方面を日本軍が急襲し、一ヶ月足らずで付近の中華民国軍は壊滅・敗走し、広東周辺部は日本軍の占領するところとなった。
 この結果中華民国は、残存する野戦軍の主力を全て失い、さらに外国からの武器弾薬の最大の供給先も失うことになった。しかも日本に沿岸部の主要都市全てが占領され、そこでの工業生産も自分たちが手にすることが不可能となった。
 日本が、これで事変は決したと考えても、何ら不思議はないだろう。日本人にすれば、王手飛車取りと言ったところだったことだろう。
 だが、実際は違っていた。



●フェイズ06「支那事変(3)」