●フェイズ06「支那事変(3)」
 

 1943年春、中華地域での戦乱はまだ続いていた。と言うよりも、誰も終わらせるための方法が思いつかない状況に追い込まれていた。日本側は、主要都市をほとんど全て占領して敵野戦軍を撃滅したことで、戦争の決着はついたと考えていた。しかし中華民国側は、敵に領土深く攻め込まれた上に軍主力が壊滅しても、内政外交双方の理由で止められなかった。中華民国の支配権を握る国民党の汪兆銘(汪精衛)が、国民党内の政治的圧力に屈する形で先の展望のないまま場当たり的に徹底抗戦を全世界に表明しているためだ。
 汪兆銘がもしここで日本との講和を図れば、国内の軍閥、国民からの支持を失うことは明らかなのが主な理由だった。しかし事態は、中華民国にやや有利に動いた。
 外国勢力が日本の実質的な侵略をようやく認めて、商売から援助へと移行する国が出始めたからだ。そして中華民国としては、ここまで負けてしまった以上、海外勢力を利用して抵抗を続け、日本が疲弊しきって自ら退却するまで抵抗を続ける他に戦い続ける事はほぼ不可能だった。
 また中華民国の抵抗が可能な要素として、武漢での戦闘の終了で日本が攻勢終末点に達したと判断された事も、中華民国政府の側から日本と講和する道を閉ざしていた。鉄道が敷設されていない狭隘な山間の道を抜けなければ、臨時首都重慶のある四川盆地に攻め込むことが不可能だからだ。
 そして攻める側の日本も、中華民国が判断したように現時点ではほぼ攻勢終末点に達していた。
 1943年春の時点で日本陸軍の師団数は、さらに5個増えてて36個師団に増強されていた。しかも戦車師団が2個、自動車化師団が4個になり、各歩兵師団の自動車化と重武装化も進められた。空挺部隊もようやく連隊編成へと強化された。その分騎兵が減らされたが、これは日本陸軍内でも時代の流れだと理解された。そして36個のうち30個師団が戦場に投入されており、駐留兵力総数は120万人に達していた。そして大戦力を短期間に投入しすぎたため、兵站面、国内の弾薬、物資、兵器の生産面で半年近く行動が難しい状況に追い込まれていた。日本は、何の準備もないままに、第一次世界大戦を越えるほどの総力戦へとのめり込んでしまったのだ。
 しかし事変開始から二年が経過し、日本国内の戦時生産はかなりの規模で拡大していた。先の世界大戦での欧米諸国ほどの力はまだ入れられていなかったが、国内の産業は戦争特需によって重工業を中心にして活況を呈していた。しかし同時に、日本の限界も現していた。国家財政を本格的に傾かせない上で戦えるのは後一年が限度で、国が傾いてでも戦い続けようとしても1947年には自主的に撤退しなければならなかった。この数字は企画院で示されたもので、日本の政財界そして軍部すらも震撼させた。自分たちが泥沼に嵌ったことが、明確に示されたからだ。

 そして事実上の全面戦争のおかげで軍事力が突出してしまった日本の足を引っ張らないといけないのが、欧米諸国、特に日本と陸で境界線を接しているロシアだった。だがロシア自身には、自らを原因とする問題が山積みのままだった。
 ロシアの国力と経済は、ロシア帝国終末期から続く、というよりもロシア帝国時代よりも悪化した状態だった。当然ながら、根本的な国家予算と国内資本の不足、国内工業力の不足のため、日本が作り始めた機械化部隊を大規模に導入することは難しかった。加えて言えば、国内産業、国内企業の問題から、高度技術製品の大量生産が望める状態ではなかった。ロシアは、列強(グレート・パワー)と呼ばれる国の中で、産業的に最も遅れたままの国だった。
 しかも仮にロシア軍内に先進的な機械化部隊を導入したら、ヨーロッパ諸国が騒ぎ出し、ドイツの本格的再軍備を他の国々が容認する可能性が高くなるのは確実だった。ドイツの軍備制限は、ロシアの低い国力と軍事力があるからこそ成立しているヨーロッパ外交に過ぎない。フランスは自国の安全保障のために、ロシアの肩を持つと考えられたが、それも程度問題だった。ドイツを抑えるため、ロシアを見限るのはほぼ規定事項だった。
 故にロシアがこの時点で選択できるのは、可能な限り中華の泥沼に日本を引き入れておく事だった。
 そしてヨーロッパ諸国やアメリカなど他の国々にとっても、日本が中華の泥沼に浸かっている事は望ましかった。経済力と軍事力を拡大させつつある有色人種国家は、世界のゲームプレイヤーとして相応しくないからだ。
 ただし、イギリスの意見は若干違っていた。それは1944年夏にロンドンオリンピック開催が迫っていたからだ。
 平和の祭典を行うためには、たとえヨーロッパ世界から遠く離れていようとも、列強や大国と呼ばれる国が事実上の全面戦争状態なのは望ましくなかった。ましてや世界の覇権国家を自認するイギリスでの開催のため、イギリスとしては政治的に動かざるを得なかった。誰のためでもなく、イギリスの沽券に関わるからだ。
 このためイギリスは、1943年春頃から日本、中華民国双方との接触を増やし、最低でもオリンピックの間だけでも停戦もしくは休戦出来ないかと画策するようになった。日中双方に対しては、両者の条件を下げることでの講和の画策すら行った。
 そしてイギリスの誘いに最初に乗ったのが日本だった。日本としては、武漢、広東での勝利で戦争に決着が付いたと考え講和の時期だと捉えていたから、イギリスの接触は渡りに船だった。実に当時の日本らしい身勝手さだが、だからこそ積極的となっていた。
 このため日本は、先に中華民国に提示していた要求の中から、「日本軍占領地域を非武装地帯とする」、「賠償の支払い」の二つを取り下げる用意があることを伝えていた。
 日本も二年ほどの戦いで、中華を抱えきれない事は十分以上に認識していたし、本当に抱えたいとも考えなかった何よりの証拠だった。ただし中華民国が認めたくない「満州国の正式承認」を取り下げなかったところは、まだ勝利に浮かれていたと言えるだろう。そして当然というべきか最初の講和に向けた調整は失敗し、日中の戦いは続くことになった。

 そうして続いた戦いの中で日本軍が問題視したのが、ついに本格化し始めた諸外国の対中援助、通称「援中ルート」の存在だった。
 しかしそれぞれの国の思惑から、中華民国を援助もしくは支援、さらにはバーター貿易を行った欧米各国は、足並みを揃えてチャイナを援助しジャパンを叩いていたわけではなかった。当事者でなく危機感も薄いため、誰もが身勝手に動いていた。
 イギリスとアメリカは、従来極東政策では互いに不信感が強く、不一致の行動を取っていた。そしてイギリス、アメリカ双方ともに、日本の足を引っ張るという一点で中華民国を支援したため、援助というよりは消極的な競争に近い状態だった。正直、中華民国そのものがどうなっても構わない、というのが両者の究極的な答えの一つですらあった。これに対して日本は、貿易で国が成り立つ日本にとって両国は最重要の貿易相手国であるため、日本外交も事変が始まってからは英米両国に最も気を遣っていた。そして共和党政権下のアメリカ世論が、中華民国への商売以外での支援や援助に冷淡というか無関心だった事を利用して、アメリカとの対立要素を減らすよう多少なりとも努力が図られた。
 他では、ロシアが対中援助を増やしていたが、遠く中央アジアから陸路トラックで行える援助は知れていた。ロシアから中華に伸びる鉄道が、この頃満州を経由するルートしかなかったし、ロシア、中華双方に新たに鉄道を敷設するほどの力はなかったからだ。しかも、ロシアの兵器は低性能な上に、予算の問題から規模が限られているため、無駄な浪費の激しい中華民国軍の強化には、あまり貢献していなかった。
 ドイツは自国の外交戦略に従い、純粋な商売以外からは殆ど手を引いていた。日本との外交にも気を遣い、公平で公正な商売以上に手を出してはいなかった。とはいえ、中華民国軍はドイツ兵器を殊の外好んでおり、中華民国軍の使うドイツ兵器は日本軍に少なくない損害を与えていた。
 フランスは、広東ルートが途絶してからはインドシナの援助、貿易ルートを各国に解放していたが、日本とのチャンネルも持って中華民国に一方的に肩入れすることはなかった。フランスは商売面では他の国々に負けているし、中華民国を支援しているのも中華民国が劣勢だからに過ぎなかったからだ。加えて言えば、日本と中華が足を引っ張り合う状況は、インドシナを有するフランスにとってはかなり都合が良かった。
 そして他の国々も、似たり寄ったり同じ事を考えていた。
 それでも近代工業に乏しくしかも日本軍により僅かな工業都市を奪われた中華民国が、世界有数の軍事強国である日本に長期間戦争を続けることが出来たのは、欧米諸国の支援と貿易があればこそだった。
 なお以下が戦争中に使われた、主な「援中ルート」となる。

 1. 「仏印ルート」ベトナムのハイフォンから入る
 2. 「ビルマルート」ラングーンから昆明に向う
 3. 「南支ルート」寧波、香港、広州などを経由
 4. 「西北ルート」ロシアから東トルキスタンを経て入る

 このうち南支ルートは最も大規模なルートだったが、1943年初めに日本軍の広東占領によって途絶した。この時、大量の武器や兵站物資が、日本軍の手に落ちてもいた。残り三つのうち、仏印ルートは国境を越えてしばらくは鉄道が使えるため、その後一番のルートとなった。他の二つは全てが鉄道のないルートのため、それぞれの地域を有する国以外は使かっていなかった。そして「援中ルート」で最も入り用となった工業製品は、品々を運ぶためのトラックとなっていた。このためアメリカは、トラックを世界各国に安価で輸出することで、国民に対しては武器を売らない平和的貿易をアピールしながらも、かなりの利益を上げることができた。
 しかし日本軍も黙って見ているわけではなかった。
 1943年秋には、インドシナ国境付近の南寧を中心とする一帯も日本軍の占領するところとなった。ここでは多数の武器や物資、輸送車両が日本軍の手に落ち、いやが上にも日本軍に戦争の実体を伝えることになった。
 しかし1943年下半期から諸外国の援助が増えたのには、今までの支援や貿易以外に大きな理由があった。
 日本軍が中華民国政府が逃げ込んだ重慶に対して、陸路の侵攻が事実上不可能なため空からの攻撃、つまりは都市無差別爆撃を開始したからだった。

 いわゆる「重慶爆撃」は、1942年5月に開始された。
 しかし最初の爆撃は、日本側の出撃拠点が目標から遠くしかも準備不足だったため、散発的に行われただけに過ぎなかった。事実上の嫌がらせや講和を促すための脅しに過ぎなかった。
 しかも重慶のある四川盆地は、冬の間は霧で空が閉ざされるため、余程大規模な無差別爆撃でも選択しない限り、5月から10月の半年間程度しかまともな爆撃が出来ない地理条件にあった。
 だが陸上での軍事作戦で中華民国政府が屈服しないと分かると、日本側は1943年5月から重慶に対する本格的な戦略爆撃の実施を決めた。
 日本陸海軍の各航空隊は大挙武漢周辺に進出し、戦時計画と戦時生産の効果もあって、合わせて数百機の重爆撃機と護衛の長距離戦闘機が集結する事になる。
 主な機体は、日本海軍航空隊が《一式陸上攻撃機22型》《零式艦上戦闘機22型》で、陸軍航空隊は《一式重爆撃機(呑龍)》《九七式重爆撃機》《一式戦闘機II型(隼)》だった。他にも旧式機が何種類か進出していたが、戦時生産されたこれらの機体が多数を占めていた。また他にも、一部試験的な機体が小数持ち込まれていた。
 一方の中華民国空軍は、この時約100機の機体を重慶近辺に集めていた。全ての機体が各国からの援助もしくは購入して得たもので、主力はこの時期大量に援助されたロシア製の戦闘機だった。しかしロシアの戦闘機は依然として各国に劣る機体でしかなく、他の国々が中華民国に与えた機体のほとんどが、自分たちの持つ機体よりも一世代前のものばかりだった。しかも日本が事実上の戦争による予算投入で兵器生産力、開発力が上がっているのに対して、欧米諸国は平時のままなので兵器の開発速度、更新速度、さらには製造速度が遅いままで、当然援助や貿易にも響いていた。加えて、中華民国が貿易によって兵器を購入する能力に欠けていたため、各国政府はともかく欧米の航空機企業もあまり乗り気ではなかった。実戦による兵器実験はできても、商売にならなければ意味がないからだ。このため中華民国の兵器は、各国政府が購入したものが流れ込む形になっていた。
 それでも初期の頃に試験的にもらったイギリスの《ホーカー・ハリケーン》、アメリカの《カーチスP-40ウォーホーク》、フランスの《ドボアチンD520》、イタリアの《マッキ・MC.200》以外にも、イギリスは《スーパーマリン・スピットファイア》、アメリカは《ベルP-39》を持ち込んだ。もっともどれも数は限られており、多くが中隊単位、新鋭機だと実験用の小隊規模でしか配備されなかった。しかもパイロットの中には、スペイン内戦での人民義勇軍のように義勇兵として中華民国空軍に参加している者もいた。日本と中華の事実上の戦争はともかく、無差別爆撃は許せないと言うヨーロピアンは、当時かなり多かった。
 このため先の大戦でドイツ軍の爆撃や砲撃を受けた、イギリス人、フランス人、そしてある種脳天気なアメリカ人が義勇軍として参加していた。しかしこの中には、各国の軍や政府が派遣した戦訓と情報の獲得目的の者がかなり含まれていた。一方では、多くの機体を供与していたロシア人、かつて多くの武器を売却していたドイツ人の姿はなくなっていた。両国とも、自国人の戦争参加は例え義勇兵であっても、政府が強く禁じていたからだ。
 またこの戦いでは、イギリスが持ち込んだRDFが初めて戦闘で使用された戦いとなり、RDFと無線を活用した一部の中華民国空軍の活躍の原動力となった。とはいえ運用は現地に赴いたイギリス人義勇兵が扱い、使用も極めて限定的でしかなかった。欧米各国にとっての重慶は、空の戦いの実験場でしかなかった。そして、戦争で最も必要な物量という一番の要素で、日本軍が圧倒していた。

 最終的に武漢近辺に集まった日本軍航空機の数は、陸海軍合わせて各種爆撃機合計約400機、長距離戦闘機250機にも達した。しかも日本軍は、作戦開始一週間ほどは、連日100機単位の戦爆連合編隊を集中的に投入した。そして中華民国空軍の充実をある程度把握していたため、相手の能力を測り尚かつ戦力を消耗させるため、戦闘機だけの襲撃すら行った。中華民国軍に導入された事になっている新兵器のRDFも、相手がどんな兵器か見分けることは難しかった。
 こうして初期の戦闘は、都市無差別爆撃もしくは戦略爆撃というよりは、航空撃滅戦と呼ぶべき戦いとなった。そして基本的な物量差と個々のパイロットの質の差、そして軍組織としての決定的な差から、日本軍の圧倒的優位で戦況は推移した。中華民国空軍も寡兵ながら奮闘したのだが、組織的な欠損と補充能力の差もあって長期戦を戦うだけの力はなかった。
 戦闘は5月の初期以外は一旦停滞するも、6月から再び活発化。しかも日本軍は次々に新手を交代で送り込み、中華民国空軍に疲労を強いた。各国の支援により中華民国空軍も一定の補充を受けていたのだが、初期の大規模戦闘での大きな損害と打撃もあって徐々に消耗し、同年10月頃には数機単位でしか飛行させられなくなっていた。そして飛んでも日本軍機に落とされるだけなので活動も低調になり、日本軍が大規模に実施した秋の爆撃では遂に中華民国空軍の迎撃機が出撃することはなくなった。各国の義勇兵達のほとんども、中華民国側の不利が強まると本国の訓令で飛ばなくなった。
 一方日本軍による爆撃だが、基本的に日本の攻撃機、爆撃機は他国機に比べて搭載量が低かった。機体名称に「重」という文字を冠していても、低いもので750kg、積載量が多くても1トンまでだった。速度性能や航続距離が優れている機体は多かったが、防御力が不足する機体が殆どを占めていた。
 このため制空隊が突破されると脆く、何度か手痛い損害を受けていた。しかし基本的に物量で圧倒しているため、爆撃そのものは順調だった。主な爆撃方法は絨毯爆撃で、通常爆弾だけでなく焼夷弾も一般的に使用された。
 こうして空での戦いも、新たな時代を伝える戦いとなったのだが、日本軍による戦略爆撃自体は戦術的にはともかく戦略的、政略的には失敗となった。約150機の中華民国空軍機を撃墜もしくは破壊し、都合5000トンの爆弾が投下し、重慶市の三割を破壊し、中華民国は6000名の一般人の死者を出した。
 だが、それだけだった。

 しかし、思わぬ所から事態は進展していくことになる。



●フェイズ07「支那事変(4)」