●フェイズ07「支那事変(4)」

 1943年11月4日、内陸部の西安が日本軍の手に帰した。
 事変での定番となりつつあった、日本軍精鋭部隊による機甲突破と空軍力の差による勝利であり、近代戦の威力を見せつける戦いだった。だが今度は、政治的効果が大きかった。何しろ華北奥地の西安は、事変の首謀者とすら言える張学良の拠点だったからだ。戦闘には、敵軍の逃亡を阻止するために、この戦争始まって以来の規模となる空挺部隊までが投入されていた。
 張学良と彼の率いる軍閥の残存部隊は、さらに奥地へと後退しようとしたが、空挺部隊に退路を断たれた張学良軍主力は壊滅的打撃を受けた。そして同方面を支援していたロシア人が中華民国側の敗北で戦争介入の手段を大きく殺がれたため、以後は急速に勢力を縮小させていく事になる。
 この時の戦闘では、西安のさらに奥地にある宝鶏と呼ばれる都市まで日本軍は占領地を広げたのだが、宝鶏は「西北ルート」と呼ばれるシルクロードをなぞるロシアによる対中援助ルートの到着点だった。このため以後ロシアの対中援助は、事実上途絶えることになったのだ。日本側の西安・宝鶏攻撃の理由も、張学良軍の撃滅よりもロシアの支援ルートを物理的に絶つことにあった。そして中華民国を支援できなくなったロシアは、以後対日外交を大きく親日寄りにしていくことになる。ここでの勝利は、日本にとって非常に価値があったと言えるだろう。
 だが、これでも事変終結の決定打とはならなかった。
 ビルマもしくはインドシナから昆明に向かう貿易、支援ルートは依然として機能していたし、張学良軍閥の勢力減退は国民党にとってはむしろ厄介払いでしかなかった。ただ、張学良軍閥を日本軍が攻撃した事は、国民党への一つのメッセージとなっていた点は無視できない。しかしそれは現状での解決を意味するものではなく、泥沼は依然続いていた。
 このため日本の大本営は、現状以上に占領地の拡大を止め、占領地域での治安安定と占領政策の実施を決定。また占領地域を統治地域と作戦地域に分けて、それぞれの方針で作戦を展開することになった。

 なお1943年春の時点で、日本軍の占拠地域は約130万平方キロメートルを越えていた。占領地域内の人口は1億7000万人を数え、総数100万人を越える現地日本軍は主要都市、交通網を確保し、その他は細かく分割した部隊による機動によって勢力圏を維持していた。つまりは、「点」と「線」を維持しているに過ぎなかった。地域内での食料が自給でき、日本軍がある程度市場もしくは食料及び資源供給地として使える利点はあったが、投資した費用に対する効果は全くの赤字だった。また、事変に投入した直接の軍事費だけでも既に40億円を超え、日本国内は今のところ都市部を中心に戦争特需に沸いていたが、国の借金上の景気が持続するのは後一年が限界だった。戦死者の数も5万人を越え、これは絶対数で日露戦争を越える数字となり、多くの日本人に事変が苦しいものである事を伝えていた。
 これに対して中華民国側は、軍事的には諸外国からの援助のおかげで初期の打撃からある程度立ち直っているとされていた。それを現すように、日本側の守勢への転換を見て、散発的な反抗を実施するようになっていた。しかし機動力、火力、制空権など全ての面で優越する日本軍の敵ではなかった。150万も失われた兵力の低下も、中華民国が宣伝したような力を取り戻してはいなかった。数だけ戻した兵隊達の殆どは、以前にも増して野党やゴロツキの類が増えていた。
 しかも中華民国軍全体の士気は依然として低く、義勇兵としてやって来たアメリカ人将校達が施そうとしたシステマティックな軍事教育は、受け入れの段階からまるで効果がなかった。教育するなら心理面、基礎の面から鍛えねばならず、とてもそのような時間はなかった。それ以前に、兵士達の教育程度、民度が、アメリカ式のシステマティックな軍事教育を受けるにはあまりにも低かった。
 また中華民国は、日本軍占領地内での匪賊(ゲリラ)活動を行い、民衆の抗日運動を誘導した。匪賊活動は、今までの中華民国の対日戦がことごとく失敗して、中華民国(国民党)軍は大きな打撃を受け、占領地の行政組織が破壊されたためだった。つまりは、正面から戦争を遂行する能力を既に無くしていた事になる。散発的な反抗の多くもゲリラ戦で、軍としての規模での反抗も、地方軍閥が自らの存続のために行うという状況が殆どだった。
 しかも沿岸部の中華系民族資本も、その殆どが日本の軍門に降るか破壊されており、国民党の資金力、政治的影響力は時を経ることに低下していた。このため国民党は、戦争遂行のために保持している地域での増税と紙幣乱造、さらには徴発を実施し、いまだ維持している地域での民心低下を招くという悪循環に陥っていた。
 これに対して日本は、強硬派でも中華民国領の領有や日本への割譲までは考えていないため、占領地での徴税など行うわけなかった。しかも治安維持には必要十分には熱心で、占領統治も比較的公正で穏便だった。その方がコスト低下につながるからだ。
 占領地内での日本との貿易と日本資本の進出も、民衆の排日運動よりも治安の安定化に好影響を与えていた。現状では、中華民国政府の統治の方が酷いからだ。
 民衆の一部の間には、日本が新しい「中華王朝」を作るのではないかという雰囲気すらできつつあった。もしそうなれば日本も中華の一部になるので、これまでのように日本を排除する必要が無くなることを意味していた。
 こうした民衆心理もあって、日本軍占領地の主要部では民心はむしろ安定に向かい、国民党のゲリラ組織の方が日本軍憲兵に突き出される事態まで発生した。
 そして日本軍の討伐行動、治安工作は沿岸部を起点として順調に進められるようになった。それに従い日本軍各部隊は逐次分散配置し、「点と線」の治安地域が「面」に拡大していった。中華民国の両よりも日本の円や軍票の方が、貨幣としての信頼を得ていたほどだった(※ただし、ポンドやドルの信用の方が遙かに高かった。)。

 そうして徐々に追いつめられていた中華民国軍は、1943年12月に全土で一斉に出撃してきた。反撃の準備が整ったからではなく、これ以上追いつめられないための戦闘をしかけ、日本軍及び日本軍占領地を混乱させるのが主な目的だった。要するに、戦争の泥沼化の助長こそが作戦目的だった。
 しかし日本軍も中華民国軍の反撃はある程度予測しており、そのための準備と兵力配置を行い、この時の戦闘を迎えていた。
 結果、中華民国軍の攻勢はすべて撃退され、中華民国軍は大打撃を受けて後退した。だが、中華民国軍の冬期攻勢の規模と戦意は日本軍の予想を上回り、支那事変解決がいよいよ厳しいことを日本側に痛感させる事になる。
 もっとも日本国内では、既に国力の限界を超えつつあるのが理解される事は殆どなく、戦果と犠牲、大陸に築いた経済的、政治的権益保持の希望などから、講和条件をつり上げる声が高まる一方で、加え事変解決の目途はまったく立たなかった。
 一方の大本営では、この時の戦闘で自らの能力を超える戦争がいっそう痛感されていたため、自主的に事変を縮小、終結させようとという動きが既に出始めていた。政府中央では1944年(昭和19年)度陸軍予算で、在支兵力を約100万から70万に削減することが真剣に話されていた。
 また一方では、日本国民に対する戦時統制と総力戦に向けた体制はいよいよ強化されていった。1943年7月に「賃金統制令」、同年11月「国民徴用令」、翌1944年2月「価格統制令」、同年4月「小作料統制令」が出された。また戦費調達のために、国民に対して貯蓄が奨励され、銀行などに貯まった膨大な資金で国債を購入し、さらには国民に消費させない事でインフレを抑制するという政策も推進された。巷の噂では、一部物資の配給が始まるのも時間の問題だと言われた。
 なお、「賃金統制令」、「小作料統制令」の2つは、日本の政治制度、社会保障制度の進展と近代化のためにゆくゆくは必要とされるもので、この点のメリットは大きかった。しかしそれ以外は総力戦という国が国民を締め付けて無理矢理戦争を行わせるために国民を保護するという政策であり、日本人の感じる逼塞感情も徐々に強まりつつあった。
 しかし日本に棚からぼた餅が落ちてくる。
 国民党首班の汪兆銘(汪精衛)が倒れたのだ。

 汪兆銘の入院は1944年3月の事で、1935年の暗殺未遂で受け体に残っていた銃弾の箇所から悪化しての事だった。しかも病状は非常に重く、先は長くないと言う観測が無責任な欧米メディアから世界に向けて発信されることになった。掛かり付けの医師団からも、重慶の貧弱な医療施設ではなくもっと高度な施設が必要だという言葉が漏れていた。
 この情報をリークしたのは、イギリスだったと言われている。
 日本はまったく関知しない事だったが、1943年秋以降イギリスが自国でのオリンピック開催に悪影響を与えたくないため、動き始めた大きな一歩だった。しかも既にイギリスは、中華民国の無償支援に嫌気がさし始めていた。フランスは既に自分の財布をこれ以上傷める気を無くしているため、援助ルートこそ提供していたがそれ以上の行動はほとんどしなくなっていた。既に自国兵器のデータ収集も終わったし、日本の国力も適度に疲弊しているので、ヨーロッパ的大国外交の視点から見て、そろそろ潮時と考えていた。アメリカでは、一部の義侠心もしくは脳天気さから援助や支援は続いていたが、支援の多くは支那市場を得たいという欲から出ているものであり、日本が一年以上も支配した後の支那市場が魅力的なのかと言われると、非常に疑問を感じ始めていた。何しろ、既にアメリカと懇意にしていた中華沿岸部の中華民族資本は壊滅的打撃を受けていた。加えて言えば、アメリカにとっては日本も貿易上でのお得意さまだった。これ以上関係が悪化することを嫌う企業もそれなりの数に上り、そうした所からの意見も共和党政権は汲まねばならなかった。
 いまだ軍備と重工業が貧弱なロシアに至っては、もうこれ以上東アジアで波風を立てたくないと言う悲鳴にも似た感情を持ちつつあった。日本陸軍がこれ以上強大化して、戦争終了と共に満州に戻ってくる事は悪夢でしかなかった。故に親日政策に動いていたほどだ。
 それら各国の空気を感じ取ったイギリスの行動が、中華民国首班が倒れたという情報のリークだったのだ。

 しかもイギリスは、ビルマルートという険しい山道をトラックで数千キロも走らねばならない援助ルートに対して、中華民国政府に「弱音」を伝えるようになっていた。日本の侵略行為は許し難いが、両者が国際法上正式な戦争状態にないため、イギリス国民が過度の中華民国支援に疑問を感じている、と。
 一方でイギリスは、事変開始以後もずっと表面的には親日姿勢を維持していた。日本の需要に応えるための主に経済面での繋がりが切っ掛けだが、戦乱に強いイギリス外交の面目躍如たる動きだった。当然ながら、欧米列強の中で一番日本との関係を太く維持している国がイギリスだった。このため日本政府上層部との接触が俄に増えるようになった。
 そうしていつしか、イギリスを仲介とした日中両者による会談が水面下で行われるようになる。
 両者の争点は、「満州国及び内蒙古自治連合政府の正式承認」だった。それ以外の、日本が最初に停戦条件とした諸々については、中華民国側も受け入れる姿勢を示すようになっていた。日本側も、戦勝と膨大な戦費、そして戦争で得た新たな権利の存続については、「事変前への復帰」という形で国論をまとめるという意志を見せていた。戦争状態を続けたまま抱え込む負債と、負債に対して得られる僅かな利益の差を考えたら、手放す方が遙かに利口な事ぐらい、少し高みから客観的に見れば誰にでも分かることだったからだ。
 ただし、中華民国内、日本国内双方に強硬派はいた。そしてより問題だったのが、諸外国の支援が危うくなって弱腰となっている中華民国側ではなく、「勝っている」日本側だった。
 軍人会、遺族会をバックにした戦争で利益を得ている人々は、「勝利によって」戦争を止めるのは賛成だが、権益の確保と賠償の請求は譲れないとシュプレヒコールを上げていた。陸軍参謀本部の一部では、今度こそ決定的成果を上げるため仮称「一号作戦」という大規模な軍事作戦の準備を暖めていた。また事変以来陰の薄くなっていた日本海軍は、今度こそ自分たちの力で中華民国を屈服させようと、44年5月から再び重慶爆撃を行う準備を着々と進めていた。こうした中で一番タチが悪かったのは、日本政府が何も得ることもない講和をしそうなら、武力を用いてでも講和を阻止すると息巻いている一部若手将校と国士と自称する人々だった。彼らは、テロリスト予備軍といえるの存在だったからだ。
 しかし、日一日とイギリスによる講和又は停戦を促すメッセージが強まっていた。日本政府もこれが最後のチャンスと考え、講和に向けて強く動き出すことになる。流石の日本政府も、これまでの失敗に懲りていた。
 そこでまずは陸軍中央に救っている若手将校を最前線や僻地に人事異動させ、万が一彼らがクーデターを起こした際に使いそうな帝都近辺の部隊を根こそぎ支那に送りつけていった。近衛師団の人事までが大幅に動かされた程だった。そしてデカイ口を叩くなら、一兵でも支那兵を倒してこいと命令系統を使って言われては、軍人である少壮将校達も反論のしようがなかった。
 この間一部の者が短絡的に実力行使に出ようとしたが、憲兵隊がこれを阻止。暗殺未遂やクーデター未遂として、犯人以外にも何人かの将校が見せしめの形でかなり厳しく処罰もしくはパージされた。この事は、国家のエリートを自認していた陸軍若手将校の心理に少なくない衝撃を与えた。
 市井の国士についても、警察と憲兵が当人達の軋轢を越えて連携して押さえ付け、場合によっては予備拘束などを行った。一部の過激な報道についても、可能な限り目を光らせた。
 そうして本物の馬鹿がどうなるかを見せられた人々も沈黙せざるを得なくなり、陸軍は事変でせっかく上がった国内人気を自ら低下させたため、そうなった原因である少壮将校達の軍内部での力は激減した。こうして、日本側の講和に向けての道筋は、急速に整えられてく事になる。

 一方の中華民国側は、先にも書いた通り諸外国の支援や援助が先細りになるという面で、上層部は既に士気は大きく低下していた。下級兵士については、何をしても日本軍に勝てないし、戦争下の暴政で国民党が民心を失っている事を一番実感していた。
 しかもアメリカのジャーナリズムに、国民党幹部の一部が援助としてもらったドルを私的に着服していることが暴露されると、士気は総崩れとなった。この最後の一撃となったゴシップは、アメリカ政府が次の選挙を睨んだ行動で、アメリカ国民に中華民国支援の無益さを訴えるものだった。アメリカとしては、長期の戦闘で日本がそれなりに疲弊してくれた以上、国民党及び現状の中華民国政府の役割は終わったも同然だった。あとは、可能な限り音便に日本軍を撤退させ、日本自らの手で国家財政再建の為に軍縮をしてもらった後で、中華市場を自らの経済力を用いてゆっくりと飲み込んでいくつもりだった。ルーズベルト政権がこだわった満州国問題も、ヨーロッパ諸国が自分たちの市場と同じタイミングで市場開放するならという付帯条件で認める向きを強めている以上、アメリカも一口乗るのが外交だという事ぐらいは認識していた。
 こうして、「満州国及び内蒙古自治連合政府の正式承認」と「それ以外の事変前への復帰」、「賠償金なし」を骨子として正式な話し合いが、シンガポールのラッフルズ・ホテルで開始された。
 上記した条件以外では、日本軍の早期撤退、上海の日本租界の承認、上海及び万里の長城付近での非武装地帯、中立地帯の再度の設定、双方の捕虜の全面開放、国交通商の回復などが話し合われた。領土割譲については、内蒙古自治連合政府が事実上の領土割譲となった。

 そして1944年4月8日、日中間に事実上の講和条約が成立して、不毛な戦乱は終息する。


●フェイズ08「事変後の軍縮」