■インスパイア・ファイル05「帝国の守護者 in19世紀」
 ●原典:「皇国の守護者」

 『皇国の守護者』(こうこくのしゅごしゃ、IMPERIAL GUARDS)は佐藤大輔によって書かれた、架空世界を舞台とする戦記小説である。現在9巻。また伊藤悠によって漫画化されている。

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

 小説という、サブカルチャー的視点ではマイナージャンルになる作品からのインスパイアなので、原典の設定、登場人物などは割愛します。
 また、原典のある状況再現を目指すため、日本の祖国防衛戦争は二度行います。このため、長丁場になるでしょう。途中、あり得たかもしれない歴史を見ていくので、本来のインスパイアは、序盤三分の一程度になると思います。

●インスパイアへ

 田沼時代に開国を経験した日本を土台として、その後史実とは少し違う歴史を歩んでいくとする。
 これで時代的なインスパイアはほぼ完全となる。ナポレオニックな時代の近代日本ほど、原典のインスパイアに相応しい環境はないだろう。
 あとは、敵となる「帝国」の役割を担うロシアを、早期に日本に殴りかからせれば状況は完成だ。
 原典に近くするなら、「帝国」はドイツを飲み込んだ白色帝国としなければならないが、この再現まですると気の遠くなるような時間犯罪を必要とするので、今回の「帝国」役は史実通りのロシアのみとする。
 当然だが、原典に登場する龍や導術、剣牙虎などのファンタジー的要素は全て無視する。

・歴史的前提条件
 ロシア人ラクスマンが来た時点で、日本政府が開国に転じる。
 上記の前提を満たす条件として、重商主義派の田沼親子がこの時点ではまだ失脚せず、逆に農業重視で保守派の松平定信が失脚しているとする。
 時代は日本型重商主義のまま推移。松平定信の倹約政治にはならないまま、田沼流重商主義を経て放漫経営の大御所政治に雪崩れ込む。
 早期の開国も重なって、日本国内で消費経済が発展。農業基本の封建体制に大きな亀裂。大きな変化により社会不安も同時に到来。半世紀早い近代化へと向かう。

 1792年(寛政4)田沼意知(田沼意次の息子)が老中になり、時を同じくして大黒屋光太夫がロシアから帰国。彼を連れてきたロシア特使のラクスマンが江戸幕府に通商を求める。
 田沼意知は、国内の消費経済発展で力を持ち始めていた商人達を後押しを受け、武士階級には近代化による国防促進を理由に、日本を開国させる。
 1797年(寛政9)日露通商条約締結。函館、新潟がまず開港。ロシア公館もいち早く設置される。

 これで開国は史実より60年近く早くなり、しかもロシア以外の列強でアジアにまで手が伸びているのは、せいぜい英国だけ。
 英国を「アスローン」とすると、役者が全て揃うことになる。
 いっぽう、日本の開国は半世紀以上早く始まり、近代化、西欧化も前倒し。しかも時代を反映して、前近代的なものを引きずったままの近代化とする。
 もちろん倒幕運動も早く訪れるが、天皇を名目上の元首としつつも、徳川を含めた雄藩を中心にした300諸侯による合藩連合のような連合国家とする。(徳川慶喜が目指したものに近い形)

 日露の戦争は1850年代後半。期間は1857年から2年半。
 史実のクリミア戦争からアメリカ南北戦争の間なので、原典同様に前近代と近代の間のような戦争になり、ライフルも蒸気船も登場可能。
 この時期は幕末の初期の頃だが、幕末の英雄達も登場させてしまえば、エンターテイメントとしても成立しうる筈だ。幕末で30歳ぐらいの人で二十歳前後となるが、登場させることは十分に可能だろう(新撰組幹部が、平民将校の新米少尉になるなど)。
 いっぽうクリミア戦争で活躍したロシア人などはそのまま登場できる。かのナイチンゲールの登場も可能だ(極東は少しばかり遠すぎるかな)。

 なお日本の近代化を促進させた雄藩は、幕府を返上した徳川家と徳川二百年の治世の末期に財政改革に成功した四つの藩を中心として、強引に五将家と呼ばせる。そして、この新たな政府が成立したのが1831年の事とする。
 これ以後日本は、日本の古き良き部分を多く残しつつも、急速な西欧化の道を進むようになる。

※1 五将家
 中央=徳川、奥州=松平、西日本=毛利、四国=山内、九州=島津

※2 史実関連資料:
 アヘン戦争  1840年
 クリミア戦争 1853年〜1856年
 アロー戦争  1857年〜1860年
1858年 アイグン(愛琿)条約
 アルグン川・黒龍江(アムール川)を露清両国国境とする。
1860年 北京条約 ロシア帝国は沿海州一帯を清から獲得
 アメリカ南北戦争 1861〜65年
 明治維新 1867年
 西南戦争 1877年

●プロット

 西暦1853年、ロシアは黒海でトルコと対立したが、翌年の英仏のトルコ側での参戦とニコライ一世の急死による新たなツァーリの英断によって早期収拾する。
 だがロシアは、どこかで失点を取り返さなくてはならない。ロシアの威光は、軍事力によってのみ成り立っているのだ。
 ツァーリは、外交的失点を取り返すべき政策を練る。
 新たにツァーリとなったアレクサンドル2世は、農奴解放など行った開明的君主だったが、彼もロシアのツァーリだ。軍事力行使に躊躇することなどあり得ない。
 しかし、欧州は危険だ。中東もイギリスの目が厳しい。
 となれば、今まさに英仏が食指を伸ばしつつあるアジアにこそ目を向けるべき。それが新たなツァーリの結論だった。

 アジアに目を向けてみるが、そこはまだつかみ取りやすい場所とは言い切れなかった。
 清と呼ばれる中華帝国は、1840年のアヘン戦争でイギリスに大敗したが、清は人口数億を抱える大国。戦後のイギリスも、貿易で利益を得ているとは言えなかった。チャンスを捉えて進出するのが最良だ。
 だが、清以外でロシアが手を出せるアジアの国となると、あと一つしかない。
 島国日本だ。
 極東の端にあるちっぽけな島国日本は、二十年ほど前に封建態勢を立て直し、西欧のような近代国家となりつつある新興の有色人種国家だ。すでに近代憲法の発布直前にまでこぎ着け、近代的な制度、軍隊を有するが、しょせん小さな島国。
 黒海を制覇できなかったロシアの精鋭を使えば、不凍港を持つ島の一つを得ることは容易いだろう。
 しかもこしゃくな事に、極東の島国は盛んに大陸への進出を強化。清帝国と朝鮮半島の影響力確保を争っていた。
 開戦理由などいくらでもある。
 しかも好都合な事に、英仏は清とアロー号戦争を始める。
 アジアでロシアの南進を止める者はいなくなっていた。

 かくして、日本に無茶な外交要求を突きつけ、はね除けられると、まずは日本領土となっていた樺太(露名サハリン)島に電撃的に侵攻。一方的に日本との戦端を開く。
 時に1857年冬の事だった。

 ロシアの横暴に日本は恐怖した。
 何しろ自らの国力は、近代国家として列強最低レベル。
 諸外国に援助を求めるも、遠く極東の事なので動きは低調。
 いかにロシアが(欧州)世界の嫌われ者とはいえ、極東は欧州からは遠すぎた。
 アメリカも、ほんの数年前に外輪船でやって来たばかり。民衆レベルでは新大陸人特有の楽天的な義侠心こそ見せるが、軍事的にアジアでは何の役にも立たない。フランスもようやくアジアに足場を築こうとしているに過ぎない。長年の友人だったオランダも、かつてのような勢いはない。落日の帝国スペインを戦友とするのはもはや論外だ。それ以外は、アジアに足すら届かない国々ばかり。日本と同じくロシアの脅威に怯える国々は、同情の言葉こそ無制限に贈ってくれたが、それ以上のものではなかった。
 実のある助けは、いまだドイツ統一を果たせずロシアの脅威にも直面しているプロイセンが、優先的に自国クルップ社の火砲を融通してくれたぐらい。たとえプロイセンの思惑がどこにあろうとも、感謝すべき事と記憶される程の事件と言われたほどだ。
 結局、日本が国家として頼れたのは、「日の沈むことのない帝国」英連合王国だけ。
 英国は、アロー号戦争に便乗してロシアが清への圧力に血圧を上げている。これは、日本にとって幸運以外の何者でもなかった。
 しかし大英帝国を以てしても、遠く極東でできる事に限界はある。新鋭艦の日本への優先的売却と欧州方面の情報提供、戦争面以外での嫌がらせ、そして戦時国債の購入をしたに止まっていた。

 そうした中、冬の樺太会戦を迎える。
 戦力的には、ロシア軍が約一個師団、日本が約二個師団程度。
 戦闘は日本軍有利かと思われたが、冬に馴れた迅速な用兵とコサック騎兵を駆使するロシアの圧勝で終わる。
 徳川氏を主将とする日本軍は惨敗。数万の大軍が敗残兵の群となって、真岡、大泊へと落ちのびていった。
 そしてこの日本軍敗北後、会津松平家に属するそれまで全く目立つことなかった騎兵将校が頭角を現す。

 彼は、この当時の日本軍では珍しい西洋馬による騎兵部隊に属する将校だった。彼の宗家である松平家が騎兵部隊を持つのは、岩手、北海道という良馬の産地を牛耳っているからだ。
 しかし日本の騎兵運用方法は、まだまだ確立されていない。なのに相手は世界最大の陸軍国ロシアだ。彼を含めた騎兵部隊は、ロシアン・コサック相手に役に立つかどうかも分からない戦力として後方に拘置されたため壊滅を免れ、敗退後も部隊を維持していた。だが、部隊を維持していたが故に彼らに殿軍が任せられる。たった一個大隊で。
 後衛戦闘は、浅井・朝倉に包囲された時の織田信長よりも絶望的な戦いだった。
 一度の激突、戦場での混乱、部隊の壊滅を経て、下級将校に過ぎない彼は、当時中尉だったにも関わらず樺太から逃げ出す全日本軍のしんがりを任される事になる。
 この時彼は、俄仕立ての三兵編成とした大隊を縦横に指揮。
 日本軍脱出までの貴重な時間を作りだすも、部隊は壊滅し彼自身も僅かな生き残りの部下と共に捕虜となる。

 その後、ロシア側が提案した休戦により戦争は半年ほど停滞。
 休戦期間の捕虜送還で、くだんの騎兵将校は日本が敗北したが故に英雄として凱旋。
 皇室の覚えもめでたく、新たに近衛混成大隊の大隊長に抜擢される。
 いっぽうのロシア軍は、休戦期間を利用して清から割譲したばかりのアムール川経由で、日本の全軍に匹敵する二十万人もの大部隊を樺太に集結させる。

 翌年の1858年夏、開発の進む北海道北部にロシア軍が殺到。
 次なる戦いの幕が上がる。
 この時の戦闘でも、くだんの騎兵将校は活躍を示すが、ロシア軍の騎兵を用いた大胆な包囲作戦の前に、水際撃滅を企図した日本軍そのものが敗退。
 日本軍は、札幌への後退戦から潰走へとつながる。
 それでも騎兵将校は活躍した。騎兵団を率いて遊撃戦を展開。多大な戦果を挙げる。さらには旭川前面に建設されていた、やや旧式の西洋型要塞で獅子奮迅の活躍を示した。
 要塞での防戦において、彼はロシア軍を長きにわたり足止めするばかりか大きな損害を与え、さらには脱出作戦の際、戦場視察に訪れていたロシア皇族すら捕虜として帝都に凱旋。彼は、たった一年で三階級の特進を果たし、ついには旅団を手に入れる。
 その年の秋から冬にかけての戦線は、ロシア帝国軍の進撃と日本軍の後退によって石狩平野手前の山に挟まれた狭隘な土地で両軍が睨み合うところで固定していた。例年にない豪雪が、ロシア軍の進撃を止めてしまったのだ。
 もっとも日本にとって、ここを突破されれば防戦に適した場所は、道南の狭い半島部まで皆無。半島部まで押し込められれば北海道を失ったも同然の場所。ここでの敗北は、北海道割譲による講和という悪夢の現出を意味する、近代国家としての日本の死命を制する最終防衛線だった。
 だが冬を迎えようという頃、帝都では権力者達の饗宴が始まろうとしていた。

 大国ロシアを敵とした祖国防衛戦争。実質的に歴史上初めての本土防衛戦。「元寇」以上の国難。その重みが、日本国民全ての上に重くのしかかっていた。
 しかし今回の戦いの主役は、かつての武士達ではない。近代化以後、平民達によって編成されつつあった国民軍だ。産業の近代化と兵器の進歩による戦費の大幅な増大と戦時の組織肥大化が、旧来の武士や大名による兵制を否定した存在たちだった。
 そして未曾有の国難に際した平民達は、自らの旗として天皇家へ強く目を向けるようになる。しかも平民達は、勝つつもり満々だった。勝って日本を守り、日本の全てを自分たちの手に握るつもりだったのだ。
 そんな平民達を前に、敗北が続く五将家、特に保守勢力の頭目である徳川家は焦りを強くする。
 国が勝てば自分たちの手から覇権が滑り落ちる。ならば負けて講和した方が良い。ロシアの間接的支配により、自分たちの権力が維持できる可能性の方が高いと判断されたからだ。
 そんな本末転倒な回答を導き出すほど焦る五将家の槍玉に上げられたのが、敗戦の中にあって胸の透くような活躍を続けるくだんの騎兵将校。それは彼が、松平家に属するも出自そのものはどことも知れぬ平民であるため、平民達の先達と見られたからだ。

 かくしてまき起こるクーデター。その渦中の中心に立つ騎兵将校。様々な思惑を持ちながら動くそれぞれの勢力。祖国防衛戦争の中、魑魅魍魎の跋扈する帝都でのクーデターという国難を乗り切った帝国は、天皇への求心力を急速に強めつつ、大軍であるが故に補給面で息切れが見えるロシア軍への反撃を開始する。
 もちろん反撃の先頭に立つのは、保守派の奸計をことごとく食い破ったあの騎兵将校だ。
 そして今ここに、国民軍となった日本軍の反撃が始まる。

 

刮目して待て、以下次号!