●プロット

●「帝国の守護者 in19世紀」 其の二

 1857年から2年半続いた日露戦争は、予想外の結末を迎える。
 ロシア敗北を以て。
 講和の仲介は、反露政策から親日姿勢を維持した英国。
 しかし、英ポーツマスで行われた講和会議は、簡単には終わらなかった。
 主な理由は、白人国家が有色人種国家に敗北したからだ。

 戦争後半、ロシア軍は日本軍のアムール川流域への逆侵攻すら許し、補給線を完全に絶たれた対日侵攻兵団は、餓死から逃れるため樺太での全面降伏を余儀なくされていた。
 しかも鉄道無きシベリアや極東に、急ぎ増援を送る事など不可能。対する日本は、真冬以外は船でシベリアのどこにでも軍隊を送り込むことができる。だからこそ、ロシアの対日侵攻軍降伏が戦争の決め手となったのだ。
 講和会議において日本側は、自国領土が侵された事もあり、戦費の賠償以外に占領地域を元手とした領土賠償も要求。
 日本側の要求は、一般的な西欧の戦争ルールから外れるものではなかったが、有色人種の側から出された要求だったことが問題となった。
 だが数百万ルーブルの戦費を浪費し、十万もの死者、負傷者、ほぼ同じ数の捕虜を出したロシアにしばらく戦う力はない。戦費がないのは日本も同じだが、日本にはまだ兵力が残されている。
 しかも東シベリアに進撃した日本軍先鋒を率いるのは、この戦争で一躍世界的に有名になったくだんの騎兵将校だ。
 結局これが、感情面での決め手となったと言われた。
 講和会議においてロシアは、日本軍が占領を続ける東シベリア、アムール川流域と交換の形と日本への戦費賠償の代換えとして、飛び地のアラスカとカムチャッカ半島、アリューシャン列島を日本に割譲する。もはやアジアでの南進など夢物語だった。
 日本も、東シベリアやアムールの維持をできる軍事力、国力がないためロシア側の提案を受け入れる。
 講和後の日本では、多く血の代償が世界最大の氷室とは何事かと非難が上がったが、とにもかくにも日露戦争に幕は降りた。

 その後世界は、日露戦争と同時期に開始された清と英仏によるアロー戦争、アメリカ南北戦争、列強による各地の植民地化など、アジア・太平洋地域でも争乱が吹き荒れるようになる。
 その中でロシアに勝利した日本は国威を上げ、また国内で達成されつつある近代化の成果として作り出された製品で戦時特需を作りだし、国家の膨脹を開始していく。
 なお、日露戦争で活躍したくだんの騎兵将校は、機動戦、火力戦を得意とした事から海外からドラグーン・ジェネラル、龍騎兵将軍と呼ばれた。そして以後四十年以上にわたり各地で活躍。近代日本陸軍の父と呼ばれるようになる。
 しかも彼の戦歴は、その後も華やかそのものだった。

 アメリカ南北戦争(1861〜65)では、日本の外貨獲得のための傭兵派遣に際して派遣軍司令(少将)として赴き、南軍リー将軍の騎兵部隊とともにゲティスバークでの迂回突破を成功させた。
 最初彼の立場は、日露戦争終了で余った武器売買のための軍事顧問団長に過ぎなかった。彼が選ばれたのは、日本国内で人気が高くなりすぎた為の左遷人事に近かった。出る杭は打たれる。それが日本人の感情的行動原理だ。
 しかも派遣されたのは人種偏見の強い南部。当初彼はどこからも不遇の扱いを受けるが、持ち前の馬力と軍事的手腕で白人達の評価を覆し、ゲティスバークでの決戦までにはリー将軍が最も信頼する程となっていた。サムライ・ブリゲードは、南軍精鋭部隊名として現在も名称が残っているほどだ。
 そして彼の北米での活躍が、結果としてアメリカ南北分断を演出。彼の名は国内外に轟きわたった。「龍騎兵将軍、又も亡國を救う!」と。
 当然だが、彼は英雄として日本国民の前に返り咲いてしまう。
 もはや誰も止めることはできなくなっていた。
 帰国後は中将に昇進。史上最年少の師団長となる。しかも数々の戦功を認められ男爵の階位も与えられた。
 しかし、彼の個人的影響力拡大を懸念する軍官僚と政治家達は諦めなかった。彼は日本人の規格から外れすぎているのだ。
 軍首脳部は、彼を武官兼軍事顧問として当時友好関係構築を進めていたオスマン朝トルコに派遣する。暗殺を是としないなら、どこか日本から遠い辺境で埋没させるしか方法が残っていなかったのだ。彼が国内にいては、放っておいても組織を越えた存在になりかねない。
 だが運命は、異国の大地でも彼に戦争、しかも大戦争を強要した。

 トルコ派遣から数年後、第二次クリミア戦争(露土戦争)が勃発(1868〜69)。
 露土戦争は、10年遅れで訪れたクリミア戦争の最盛期とされ、彼の名声がただの傍観者である事を許さなかった。
 彼はオスマン皇帝に請われて臨時にトルコ軍の傭兵将軍となり、いくつもの奇蹟を戦場で現出させる。外様の将軍ということもあって、最前線での自ら剣を振るっての活躍場所は限られたが、彼の名は欧州でも知らぬ者はなくなるほどだった。
 同盟国となったトルコでは次の皇帝にと民衆に請われる程の英雄となり、トルコと同盟関係だった英仏の将軍・政治家たちも手放しで賞賛。再び敵となったロシア人ですら、彼を褒め称えて止まないと言われたほどだった。
 戦後彼は、何度目かの英雄として日本に凱旋。国際的な名声を得すぎた彼を、軍官僚や政治家たちも日本一の英雄として担ぎ上げる他なくなっていた。
 もはや為す術無し。そう判断した日本中枢は、今度は彼を自分たちの中に取り込むことを決意。日本最高の名誉勲章と世襲できる伯爵の地位まで与えるという無条件降伏の姿勢を示して懐柔を試みた。
 しかし凱旋後の彼は、自らの職務、職責以外では至って地味な活動しかしなかった。国民と一部軍人からの人気はさておき、政治的には取るに足らぬ地位に甘んじる。
 彼の行動を、戦国時代の武将竹中半兵衛になぞらえるもの、どこかで行動を起こすための雌伏の時間と不気味に眺める者と二派に分かれるも半ば傍観。彼が隙を見せることもないので、政治的失脚もないまま数年が過ぎ去っていく。
 この頃の雌伏の真の理由が、彼個人の家庭的平穏を求めた末だったと戦後の手記と近親者の証言から判明したが、けっきょく彼に平穏な日々は短いものに終わった。
 露土戦争からさらに約5年後。朝鮮独立問題から、清との間についに日清戦争(1874〜75)が勃発。
 当代きっての軍人が傍観者で過ごせる筈もなく、彼は派遣軍司令官に抜擢。帝国陸軍において史上最年少の大将となる。
 だが、もう誰もを驚かない。それどころか、当然の事として日本人全てに受け入れられ、勝利と国家の利益を約束する将軍として、彼は戦役にのぞまなければならなかった。

 三度大陸に渡った彼は、自ら育て上げた騎兵軍団と砲兵部隊を手足のごとく差配して清国軍を圧倒。士気、装備に大いに問題のある清国軍を相手に、日本軍に連戦連勝をもたらす。しかも日本軍は規律正しく、大陸の民衆からも大いに歓迎された。
 一時期、このまま彼が新たな中華帝国を作り上げるのではと、冗談交じりに言われたほどの快進撃ぶりだった。短期間での北京包囲がその象徴だ。
 この大勝により日本は、清から莫大な賠償金と共に台湾島と海南島、満州の半分を割譲。満州全土の利権も獲得。
 最大の功労者が誰かは言うまでもなかった。
 しかもこの時、自らの乱費によりこの戦争を招いた清帝国の実質的支配者西太后を排斥しようとした清官僚達を、彼が暗に支援したと言われた。帰国時、中国の美姫を連れ戻ってきたことで新聞を賑わしたことも有名な話だ。
 今我々が「後清」と呼ばれる華北地方の立憲君主国を隣国に持つのがその名残だ。

 その後のくだんの騎兵将校は、安定期に入った日本国内で火力重視の軍制改革に努め、軍政家としても不動の地位を築き上げるも、軍閥を作るつもりはないと公言して、たびたび推薦された元帥位を固辞。前後して、軍政家として頭角を現していた山県有朋を失脚させると、定年を待たずして早々に退役する。
 首相にとすら請われるほど国民全てから惜しまれたが、彼の自主退役は彼が自らの存在が大きくなりすぎたと判断したが故だった。
 もっとも、早すぎる舞台からの退場も、彼の名声を高めるだけに終わったと言われた。
 退役後、彼の元を訪れる人の数が増えたのがその証だ。
 しかも彼は、晩年においても戦乱から離れることは出来なかった。いや、ここまでくると戦争の方から愛されていたと表現する方が正しく思えてくる。
 彼は細君と晩年を迎えるべく、気候の穏やかなハワイ王国で過ごすが、ここで北軍の陰謀に巻き込まれる。
 白人移民の起こしたクーデターによってあわやハワイ王国消滅かと言うとき、老練な彼の知謀は老いてなおも冴えわたった。
 僅かな数の一族、同士とハワイにいた日本人移民達を使い、瞬く間に一部の白人が起こしたクーデターを鎮圧。彼の機転によりハワイに来援した日本海軍艦艇の存在によって、北軍艦隊も撤退を余儀なくされたのだった。
 もちろんその後、日本とハワイが友好関係を結んだことは言うまでもない。

 そして、彼自身が最後の晴れ舞台と感じたとされるオワフ島での争乱が、再び彼を日本本土に呼び戻す事になる。

 

刮目して待て、以下次号!