■ファイト、国内国家(1-1) 15世紀後半から16世紀にかけて、東西日本列島が戦乱に向かって突き進んでいた頃、ヨーロッパではイベリア半島のレコンキスタが終息に向かっていた。 カスティーリャ女王イザベル1世とアラゴン王太子フェルナンドの結婚により、両国の同君連合による新国家「スペイン王国」が誕生した。1492年にはグラナダを征服、イベリア半島はスペインとポルトガルの二強国によって支配されるに至った。 スペインは1478年にカナリア諸島に進出、以後は植民地経営と交易を経済の両輪に据えた大航海時代の新国家として世界に羽ばたいてゆく。 まさに、ぎりぎりまで引き絞られた弓のごとき危険なパワーに満ちたヨーロッパが、眉庇の影からぎらぎらと強い想いを秘めて、世界に鋭い視線を向けている。 戦乱相次ぐ不毛のヨーロッパから海を渡ってやってきた白い肌の友達は、にこやかに銃口をつきつける。彼らの通った後には流血と屍が、そして彼らの行く手には産業化とナショナリズムが不気味に金属的な不協和音を響かせる、更に激しい戦争の時代が待ち受けよう。 友遠方より来る有り、また悦しからずや。ちょっと待った、その白い肌のおトモダチは押し込み強盗ですよ。 東アジアのちょっとした地域大国が流血の内戦に乗り出そうとしていたのは、そんな時代だった。 大東国が統一され、政治的にも安定し、技術的にも東アジア中華文明圏の標準レベルまで進歩したのが、14世紀のことであった。日本との2度の戦争を経験し、軍備による財政の圧迫、技術力の限界による人口の飽和、そして行政システムの腐敗と貴族中心主義の悪弊までも経験した。つまりは、当時の文明国に必要な経験を一通り積んだということだ。 そして、悪政の不満は民衆レベルでの好戦主義を醸成し、ダイナミズムに満ちた戦国時代が日本と大東の両国でほぼ同時にみられるようになった。 ■16世紀初頭の日本/大東 ■人口学的側面 一般に、日本の戦国時代において、西日本列島全体の人口規模は増大し、経済力は持続的に発展していたと認識されている。室町幕府が任命する守護職が守護大名として領国を支配していたが、やがて守護大名は戦国大名へと進化を遂げた。 支配の正統性を付与する幕府の権限を無視し、下克上によってより優秀な者が領国を支配し、領内限定で中央集権的かつ一元的な支配体制を確立するケースがみられた。 戦国大名化したのは、領国を直接支配していた守護大名であったり、京から支配の代行を任せられた守護代であったり、地元の国人、公家、宗教勢力であったりと多種多様であった。 日本が地方分権の極致ともいうべき国内国家の分立状態に陥った時代、それを戦国時代と呼んだ。 戦国大名は、他国に負けないため、もしくは領地拡大のために軍役を創設し、軍事力を養成した。 軍事力を維持するためには経済力が不可欠だ。領内の治水や街道などのインフラを整え、災害から領民を守った。室町幕府から任命された守護代はいわばサラリーマンだったが、戦国大名は中小企業のようなもの、経営にかける意気込みがそもそも違うのだ。 過去の伝統に囚われずに規制を撤廃して産業を新興させ、兵役資源の供給源となる農民の安全を守り、国人などの在地社会による租税資源の中間搾取を減らすために、中央集権化を推し進めた。それらの結果が、戦国時代の人口増加に結びついたのだ。 戦争は人口を消耗させるが、そもそも産業革命以前の人間はすべからく厳しい淘汰圧力に晒されて続けており、大人になるまで生き延びる確率はせいぜい5割だった。多くは戦争ではなく、疫病や怪我で死んでゆく。当時の人々にとって老衰や癌、成人病などという上品な病は、とうてい手の届かない贅沢の結果だったのだ。 戦国大名の登場により、村落で分断された地域社会レベルの相互扶助は領国全体から受けられるようになった。物流の障壁は低くなり、商業ルート上で物資を相互に活発に売買できるようになった。 食糧供給の安定化は、疫病の脅威を大幅に押し下げる。飽食の時代の者から見れば、医療の欠如の方が深刻な脅威に見えるかもしれないが、ふんだんな食料は医療以前に最も必要な対症療法になり得るのだ。 激しく争いながらも人口が増えたのは、そういう理由もあったのだ。 そして、生存をかけた戦争ほど、改革を促す原動力もない。 国人や被官層から成る在地社会の結合は100年の戦乱が続くうちに次第に解体され、やがて大名も統合されて巨大な国内国家が誕生してゆく。その代表例が織田氏だ。 最終的には織田氏の支配領域の石高は、約800万石に達した。人一人が一年に消費する米が大体1石なので、石高は即ち扶養可能な人口に近い。よって、織田氏は約800万の人口を有する大国だったのだ。 戦国時代に人口が増加したと述べたが、逆にいえば、この人口学的側面が戦争を長引かせたともいえるだろう。 古今東西、戦争は若者が担うものだ。 若年人口が多いにも関わらず、主に産業の未発達により職にあぶれる若者が多い社会ほど、戦争圧力が高まる。 新しい技術により、土地の持つ人口扶養上限が緩んだ場合に人口は増える。もしくは、社会の安定により生活基盤が破壊されなくなった場合にも。 そして、その人口増加期は多産時代の若者と、少ない比率の高齢者から成るピラミッド型人口構成をとることになる。養うべき非生産人口は少なく、労働人口は極大。そして多くの場合において、若者に仕事は充分にない。 産業革命以前では、仕事がないとは、つまり兄弟が多すぎて、親から受け継ぐべき農地が不足している状態を指すといえる。何しろ全住民(労働者)の90%以上は農業に従事しているからだ。 戦国時代は、上記の人口学的側面から、戦争が継続しやすい環境だったのだろう。 Table.1 西暦1600年の日本及び大東の人口規模
Table.2 日本主要地域の人口
※東山:甲斐、信濃、飛騨 ※畿内:大和、山城、摂津、河内、和泉、近江、伊賀、伊瀬、志摩、紀伊、淡路、播磨
12世紀から16世紀末年までに人口拡大が最も大きかったのは近畿及びその周辺であり、およそ3倍に拡大している。これは近畿が古くから人の手によって開発されていた事と、日本列島の産業の中心地であり、新規技術の伝搬が最も速かったからだ。 東奥羽地方及び山陽地方・四国・有守は2倍に拡大している。 同時期の関東地方の人口増加はささやかなもので、近畿地方の優位は戦国末期に最大となった。 また、小さな島国でしかない琉球の人口は10万に満たないと推測されている。 Table.3 大東主要地域の人口
二者地方の人口のうち、旧大東島側が240万、新大東島側が150万とみられている。 1400年に800万だった旧大東島の人口は2倍に増加している。特に1360-1460年の100年間における人口増加は顕著であった。同期間に20年戦争があったことを想起してほしい。 征東の人口増加は1.5倍程度であったのに対し、遷鏡・越鏡・二者の3地方においては約3倍に増加した。 新大東島の人口は1400年の段階で460万であり、200年間で1.3倍に増加したに過ぎない。 1350年頃に”中世の温暖期”が終了し、新大東島の自然環境は殊更に厳しくなった。1480年頃には社会の混乱と共に人口も減少していった。 戦国時代に入ると一転して人口は増加し、600万にまで増加した。
fig.1 1600年頃の東日本列島 地域名
■中華世界との比較
これもよく言及されることだが、日本と中国歴代王朝の戦国時代の人口変遷は、好対照を示している。 中華世界では、統一王朝の失われる戦国時代が訪れるたびに、人口の急減を示しているのだ。その理由の一つには、平和な時代の人口過剰があげられる。つまり、戦国時代が到来して生活基盤が不安定化した地域から、食い詰めた余剰人口が死の淵へ雪崩れ落ちてしまうという図式になる。 次に中華世界が、特に平和な時代において過剰な人口増大を招く理由について少し説明しておこう。 端的にいうと、家系存続を第一義とする生存戦略を漢民族に選択させたことが原因の一つだろうと考えられている。 このような生存戦略は、儒教が持つ祖先崇拝の要素、直系の男子が先祖の祭祀を守ることを重視する要素から派生したのではなかろうか。 つまり、祖先を祀る子孫を残すのが最高の親孝行であり、現世利益でもある社会であったため、土地が養える限界を超えて人口を増やしてしまったのだ。 仮に。儒教が商業道徳として有用であったように、中華世界において儒教が個や拡大家族の利益を超えた隣人同士の相互扶助を促していれば問題は遥かに小さかったのだろうが、歴史は漢民族がそれに失敗し続けたことを示している。 ※念のため記しておくが、文明論的話題は本稿の意図するところではない。日本の戦国時代が人口増と経済成長を伴う特異なものであったことを明確に示すために比較しただけである。
■日本列島の「戦国時代」 「応仁の乱」によって「戦国時代」が到来したが、当初はそれこそ「応仁の乱」以外にそれほど激しい戦闘は行われなかった。将軍家の分裂と幕府権力の弱体化がみられた1493年以後、戦国時代は本格化していった。故に日本での戦国時代は、ほぼ百年間が本当の戦乱の時代だったと表現できるだろう。 戦乱によってそれまで大勢力を誇っていた細川氏や三好氏が隆盛しては衰退し、各地の国人・豪族は実力のある勢力の間で右往左往する状態になった。 大規模な戦国大名の登場はおおむね16世紀半ば以後の事だった。 中国地方では、それまで戦国最大と言われていた大内氏が裏切りによって消えた直後に毛利元就が台頭した。関東では鎌倉公方が古河御所に逃れ古河公方となり、関東管領上杉氏と争った。そしてその前後に、出自も明らかでない北条早雲が登場して関東平定へと着実な歩みを重ねていく。 北陸は、「軍神」とすら恐れられた上杉謙信(景虎)が統一し、甲信では有名な「風林火山」をかかげた武田信玄(晴信)が成長を遂げた。四国は戦国化が遅れたために、長宗我部元親が1582年に統一事業完成間近まで到達する。九州では大友氏が日本最南端の島津氏に破れ、最終的に島津が大勢力化していった。 1560年代以後は、国人・豪族など在地勢力を取り込んだメジャープレーヤーが登場し、華々しい活躍を示すようになった時代だった。代表例としては、織田信長、武田信玄、上杉謙信、北条氏康、大友宗麟などの戦国大名たちだ。 彼らよりも若干遅れて、伊達政宗、島津義久、長宗我部元親、真田昌幸などが登場する。
◆◆◆分岐(1)◆◆◆ ■「魔王」信長の出現 あらゆる戦国大名の中で、最も有名で破天荒なのは(議論は果てないだろうが)織田信長(1534-1616)だろう。宗教勢力に厳しく当たったり多くの同族殺しをするなど、当時から「第六天魔王」と言われるが、戦争での天才性は疑うべくもない。 桶狭間の戦いでは「少数で多数を撃破する」という禁じ手を弄して完勝している。 言うまでもないが、奇策は敗北に至る確率が高いため、”常勝の”と修飾詞が飾られるような軍事的天才が常用することはない。 1570年代の信長包囲網結成時には、「二方面作戦を避けよ」の鉄則に背きながらも敵を各個撃破していった。 信長は少数の例外を除いて、常に「物量戦」のドクトリンを愛用していたし、そもそも戦略的に勝利できる環境を創りだす能力が秀でていた。戦いの勝敗を開戦前に決するのだ。常にライバルをリードし、敵を振り回す。壮麗な”見せる”城、安土城。鉄甲軍船。どれも信長が真っ先に考えたことではないだろうが、他人のアイデアを過去に例のない規模で本当に実行してしまうのが彼だった。 1568年、上洛直後に大津・堺・山崎など商業都市を直轄地としたり、楽市楽座制を敷いたのも経済でリードするため。新時代の軍隊……兵農分離、鉄砲の量産と弾薬の補充、すべて経済力が肝要だった。 金ヶ崎の戦いや三方ヶ原の戦いでは織田軍が敗北するも、「戦略的不利は戦術的勝利の積み重ねで克服できない」という原則に従えば、長期戦が信長包囲網に不利なのは明らかだ。国力に勝る織田側は姉川の戦いで浅井・朝倉連合軍を破り、武田氏も信玄亡き後に長篠の戦いで破った。 足利義昭を伴っての京への上洛は、各地の大戦国大名を刺激した。残り時間が乏しくなりつつあることが、誰の目にも明らかになったのだ。小戦国大名や国人・豪族の統合は更に激しさを増した。 ■天下統一 織田氏は国内国家として日本の過半を占めても尚、信長を頂点とする中央集権国家建設に向け武力による統一を推進していた。もし、信長が単なる征夷大将軍になりたいのなら、1570年代に充分に可能だった。 大東が既に実現しているように、一重権力体制の社会を建設して自らが皇帝の座につく。「日本国」という小さい殻を守るための天皇と朝廷は歴史的役割を終えた。そのように考えていたのかもしれない。 1582年は織田氏にとって輝かしい年となった。かつては強大だった武田氏は勝頼の時代になってから斜陽化が進み、この年の3月に滅亡した。 6月には、明智光秀の軍勢と時を同じくして、池田恒興らの近畿勢(直衛軍)を合わせた約4万と共に山陽道を西進して羽柴秀吉が率いる3万と合流した。 この時点で、毛利方は織田軍の援軍接近の報により敗北を受け入れ5ヶ国を割譲していた。この時の講和は羽柴秀吉が半ば独自に進めていたため、秀吉自身は信長から表向き激しい叱責を一度受けているが、それ以上の咎めは無かったので、この講和案が信長の求めていた状況に近い事を示していた。 そうした毛利との講和条件の一つに、毛利水軍による瀬戸内航行の安全保障があった。織田氏は瀬戸内海を内水化し、四国攻略を確実なものにしたのだ。当然先鋒は、降軍である毛利が行い、兵站面の負担も毛利が賄った。 同6月、北陸の上杉氏(上杉景勝)は、春日山城からの救援も間に合わず柴田勝家率いる4万の軍勢に越中の魚津城を陥とされた。更に越後には、武田氏を討伐した森長可率いる織田軍が侵入していた。 上杉家臣新発田重家の寝返りもあり、9月には既に春日山城で四面楚歌状態の上杉は降伏を決意した。和議では信濃の一部を含む越中の割譲を受け入れることになる。 そのすぐ後に上杉氏は佐渡に転封、越後は新発田氏に与えられたが、同時点では佐渡を上杉氏は支配していなかった。 非常に過酷な仕置き(戦後処理)である。 それでも滅亡させなかっただけ穏便ともいえるが、これは関東管領の上杉という名を政治的に残す意義があったからだと言える。 同年7月、織田信孝(副将:丹羽長秀)率いる四国攻略軍1万5000が阿波の三好康長と合流、長宗我部元親討伐を開始。毛利水軍と織田水軍に守られ、北からも羽柴軍の宇喜田勢を先頭に織田軍が上陸、長宗我部方の城を相次いで攻略した。 河野通直は上陸した織田軍の先導を申し出たが、信長は伊予を召し上げると通告した。河野軍は湯築城にて防戦するも、7月中に開城した。 8月、長宗我部軍は阿波海部の戦いで信孝軍と対戦し勝利するも、北からは土佐に織田軍が侵入しつつあり、野戦で対戦して織田軍に敗北し長宗我部無敗神話を汚す前に長宗我部元親は降伏した。 9月、信長は淡路に上陸し、四国仕置き。 その間8月に、石山本願寺跡地にて石山城の建設がはじまる。次の自らの政庁とするべく、実用性と見た目の双方を重視した巨大な規模だった。 12月、信長の圧力により、毛利氏が豊前を織田氏に割譲。毛利氏は来るべき九州征伐では軍船の提供だけが求められた。これは信長流の毛利家への優しさであった。 1583年 4月、織田軍による紀州攻め。 同月、降伏した長宗我部軍を先頭に九州攻略戦開始。 同月、織田信忠率いる北条攻略軍が木曾軍を先頭に上野から武蔵に侵攻。同時に、徳川家康率いる軍勢が東海道を小田原城に向け進撃。 九州には、肥後の隈部氏、肥前の有馬氏、筑後の筑紫氏などが存続していた。 島津氏は有馬氏と結んで竜造寺氏と対立しており、薩摩・大隅・日向・肥後の一部を領有していた。 竜造寺氏は肥前の大半、筑前や筑後、肥後の一部を領有していた。 織田氏による九州征伐に先立ち、信長の外交が展開される。 筑前・豊後を支配する大友氏は筑前を放棄することで存続を認められるも、対島津戦の先頭に立たされた。秋月氏と筑紫氏は転封となった。 島津・有馬・竜造寺氏以外は織田勢に恭順し、軍役を課せられた。 5月、竜造寺軍が久保田の戦いで大敗。 7月、白川の戦いで島津・有馬軍大敗。 8月、八代の戦いで島津軍敗北。島津降伏。 肥前・肥後は織田氏直轄となり、竜造寺氏と有馬氏は滅亡した。島津は辛うじて(誰も欲しがらない)薩摩を安堵された。九州の半分は織田氏家臣に再分配され、在地の織田氏に協力した戦国大名には一切恩賞はなかった。旧来の所領を安堵した事こそが、事実上の恩賞だったからだ。 なお、竜造寺氏、有馬氏滅亡の過程で、一部キリスト教徒が弾圧されたと言われているが、これは単に両氏に味方した武士、民衆の抵抗を排除したに過ぎない。だがこれ以後、九州でのキリスト教伝搬が大きく退勢したのも事実だった。 一方、北条攻略軍による北関東攻めは順調に推移していた。これは基本的に、関東がいまだ西日本列島での「田舎」だったからだ。 下野の宇都宮氏・小山氏、常陸の佐竹氏、下総の結城氏、上総の里見氏など織田側に付いた諸将軍が、北条方の城を相次いで攻略した。主力を率いた織田信忠と滝川一益は軍勢を二分し、武蔵の過半を6月までに制圧した。 徳川氏は小田原攻略を任じられていたが、織田軍が中部関東で快進撃を続けるのを指をくわえてみているしかなかった。小田原城が堅城であることを北条軍はよく知っており、徳川軍が得意な野戦には絶対に手を出さなかった。加えて言えば、小田原に至るまでの箱根を攻めるも難しく、所領から近いという表向きの理由をよそに、徳川氏は最も貧乏くじを引かされていた。 9月、信長直率軍が沼津に到着し徳川軍に合流、このとき織田信長は仕事が遅いと徳川家康を痛烈に批判した。もはや、表向きは対等な関係であるはずの同盟国の指導者に敬意を表する必要性がなくなった証だった。北条攻略の乗じて、厄介なお荷物と化した徳川氏を滅ぼす、もしくは勢力を減退させるための伏線を張るのが、信長が直接戦場にまで出陣した理由……信長の周りの誰もがそう思った。 同月、ついに北条氏の野戦軍は壊滅し、小田原城以外は全て織田勢に制圧された。織田勢の総兵力21万。田畑は刈り入れ時を迎え、食料は充分にあった。 一方、北条勢は小田原城内の大筒用火薬を全て使い切っており、もはや織田勢の一貫大筒が石垣山から打ち込まれるのに耐えるばかりだった(※ほぼ当時の大筒の最大射程での射撃だった)。 城内には籠城した6万もの北条軍が待機していたが、故郷の惨状が尾ひれ付きで城内に流布しており士気は低下していた。 1584年 1月、北条氏降伏。北条氏傍流が相模一国を与えられた。武蔵は織田氏直轄となり、当面は各地に代官が置かれた。 織田側についた宇都宮氏・小山氏、常陸の佐竹氏、下総の結城氏、上総の里見氏などに一切恩賞はなかった。こちらも状況は九州と同じだった。 陸奥では伊達政宗が家督を継いで領土拡張に着手し、戦国時代にありながら血縁で固まっていたが故に千日手状態になっていた陸奥に大規模な戦乱が巻き起こっていた。政宗は政戦両面で目覚しい成果を挙げつつあった。 北の離島である有守(島)では、渡島氏が札幌を中心に勢力を拡大していたが、未だ本格的な戦乱は起きていなかった。 5月、織田氏の居城が石山城に移転。”覇府”と別名で呼ばれるようになる。 まだ基礎工事の段階で本丸は建築中だったが、かつての石山本願寺には政務所が真っ先に建設されていた。 同月、信長は”日本帝国”の成立と、自身の”日本皇帝”への即位を宣言する。過去2つの幕府、鎌倉及び室町幕府は朝廷から征夷大将軍の称号を頂いて権威付けを図ったが、信長は自らの権威の拠り所を自らに求めたのだ。 ”王道”を歩む天皇家及び付随する朝廷勢力が、武家政権の”覇道”の権威付けになるという考えそのものがおかしいと信長は考えた。そして、自らの政権が覇道を歩むならば、明帝国・ティムール帝国・オスマン帝国・神聖ローマ帝国のように、”王国”に優越する政体としての”帝国”という称号を得るべきだった。 以後、”朝廷”とは独立して、日本の諸国主の主、”織田帝家”が皇帝の称号を得た。 また、東アジアにおいて”王”は中華帝国の冊封国を意味するため、信長は朝廷を含め、現存する大名家を”王”ではなく”国主”と呼称する内容の帝勅を下した。 ”国主”の称号を得られたのは帝家に任じられた一国以上の所領を支配する領域国家40国、そして天皇家であった。一国を複数の領域国家が分割する場合は”準国主”、帝国政府の地方行政機関や官職に与えられる”城主”の称号も創設された。一方、律令制における官位は消滅した。 1584年、織田氏、というより織田信長という一個人による日本での絶対帝政時代の幕開けである。 また織田信長による新国家成立宣言は、西日本列島に閉じこもっていた日本という世界の、世界に向けての拡張宣言でもあった。 ■日本帝国 信長が最初に発した帝勅は、「即時停戦命令」であった。違反する国主は、恭順しても相応に処罰されるか最悪の場合は容赦なく討伐された。 同時に、「統一国家」としての通貨制度、度量衡、民法・刑法を含む”帝国加制法”が制定された。この時の法制度整備は、当時の日本としてはあまりにも革新的だったため”信長憲法”とも呼ばれた。そして武士ばかりでなく、多くの知識人が織田信長という「魔王」の底知れぬ知性に恐れおののいた。 1585年、奥州の葦名氏から帝国に、伊達氏の帝勅違反の申し出が届けられる。 信長は諸国主に負担を強いる軍役法の制定を控え、伊達氏に煩わされるのを嫌い、政宗の拡張路線はしばし放置された。 1586年、「軍役法」の制定。これによって絶対王政に不可欠である常備軍となる「日本帝国軍」が創設される。 軍役法は、国主から自衛権を引き剥がす暴挙であるため、大きな反発が巻き起こった。更に、”鉄砲供出令”によって農民が武装する権利は奪われた。 封建主義的な見地からは、信長の命じた軍役法は”御恩と奉公”から成る封建体制そのものの崩壊を意味していた。ヨーロッパにおける”絶対王政”的な中央集権化と国軍への軍隊の統合と、ほぼ同じ政策であった。 各地に”軍役城主領”が設置され、広範な対象地域から兵を徴募する業務に携わった。軍役の基盤となるのは各国の石高とされた。1万石あたり200人の供出が定められ、1647年に人口の2厘(2%)以内と改訂されるまで続いた。 それまで水軍や海賊と言われていた水上戦闘組織も「海軍」という新たな名が与えられ、さらに海軍も皇帝が唯一命令権を持つ帝国海軍だけしか認められず各国主が石高に応じて賦役金を課せられた。 上記のような急進的な改革に多くの国主は拒否反応を示し、2つの暴発を招いた。徳川氏の内紛と伊達氏の対外拡張である。 だが暴発も、信長の計算の内であったと言われることが多い。 1586年、徳川氏は皇帝の命令により転封が命じられた。三河・遠江・駿河を放棄し、九州の日向・肥後を得るという条件に、徳川家臣団は驚愕した。長年、三河を中心に兵を養ってきた徳川氏にとって、到底受け入れがたい命令だった。しかし織田家にとって外様大名である徳川氏を日本の中心地から外すのは、国家としては当然の選択だった。実際、織田信長の家臣達は、かなり頻繁に領土替えを実施している。領地の削減も、北条攻め以後の不甲斐なさを見れば、極端に冷遇しているわけではない。 家康は受け入れる意向を示したところ、石川数正・大久保忠隣・本多正信らのグループは賛成し、徳川氏第一の功臣酒井忠次や本多忠勝らは反対した。家康の命令には絶対服従の家臣団が割れたことは、特に本多忠勝が反対したことは家康にとり大きな打撃となった。 更に、軍役法により私兵の保有が禁じられると、伊達・安東・渡島氏ら主に北日本の諸国主が徳川氏に接触を図った。 家康はあくまで信長に敵対するのを拒んだが、家臣の一部が私兵を以って甲斐の江尻領に越境してしまった。 これが皇帝である信長の怒りに触れ、徳川氏はお家お取りつぶしこそ免れるも日向一国に減封されて永久に再起の機会を失った。 伊達氏は大崎・葛西・二本松氏を併合し、会津から塩釜に至る広大な版図を築いていた。 1586年、伊達政宗は最上・蘆名・相馬氏を盟友に北日本連国を結成。天皇家の血筋の者を戴くことで正統性を主張した。 編成途上にある日本帝国軍は、白河国主領に関東一円で募った兵を集結させ、全国で動員体制が整うまで守勢を維持した。同期間、北日本連国軍は安東・南部氏を滅ぼし、北辺の安全確保に動いていた。 1587年、北日本連国は有守の4国主と陸奥の8国主を含む軍事同盟に発展していた。政宗は、これら”12連国の合力”を宣誓し、これらの国家群を”十二連合国”と呼んだ。 日本帝国軍は1万石あたり200人の供出を約しているので、諸国主領からの兵15万、直轄領から10万の動員可能兵力25万、そのうち20万を対北日本連国戦に投入可能だった。実際はまだ軍の大幅な改変中で数字通りにはいかなかったが、あらゆる意味での「国力」という面で相手を圧倒していた。 一方の十二連合国側は動員可能兵力10万。これは限界まで徴兵したとしての数値である。 十二連合国の弱点としては、未だ経済的に遅れた地域であるため、兵農分離は未発達、夏季・冬季しか作戦行動をとれないという制約がある上、海軍力は圧倒的に小規模だった。 数少ない利点としては、兵力の全力を対日本帝国戦に投入可能である点が挙げられる。 こうして、戦国時代最後の大規模な戦乱がはじまった。 1587年3月、まだ残雪が残る千代(仙台)東方海岸に、4万もの帝国軍別働隊が上陸した。 当時の軍船が沿岸から離れて行動するのは危険なため、銚子を出発した海軍が有守をいきなり突くことは不可能だった。風向きも逆風で操船が困難という理由もある。よって、伊達氏の本拠地を狙って上陸作戦を実施したのだった。 関東地方での諜報活動の結果、政宗は帝国軍の上陸作戦が迫っていることを認識していたが、上陸予想地点は陸奥の東海岸全域に広がっており、兵力の分散配置による迎撃は下策と判断していた。 政宗としては得意の野戦で決着をつけたかったが、専ら百戦錬磨の旧織田家臣団から成る帝国軍指揮官が乗ってくるはずもない。 白河に集結していた12万もの帝国軍は、巨大な囮だったのだ。 十二連合国軍のうち、陸奥で徴兵した7万が白河に集結していたが、背後を突かれたのだ。 政宗は即座に全軍に進撃を下命、白河城付近に守備隊を残して関東地方に侵入を試みた。 3月、「白河の戦い」。帝国軍12万 対 十二連合軍7万。帝国軍の勝利。 帝国軍は、大東軍の大隊規模の”戦力単位”軍編成と、スペインのテルシオ軍制を真似ていた。当時は指揮の効率という面で最適とみられた2000人単位の編成であった。常備軍としては編成されたばかりで練度、結束力共ともに、子飼いの兵から成る十二連合軍よりも劣っていた。火器装備率は高かったが十二連合軍より防具が簡略化されていたため動きは俊敏だった。 丸二日にも及んだ限界的な野戦の結果、十二連合軍は撤退した。帝国軍に追撃する力は残っていなかったが、後始末は帝国軍の別働隊がとってくれるはずだった。 同月、「名取の戦い」。帝国軍4万 対 十二連合軍4万。十二連合軍の勝利。 千代城の攻略が済まない段階で、十二連合軍2万6000が名取に布陣。十二連合軍の守備隊をかきあつめて1万の軍勢となっていた最上義康の別働隊が合流し、十二連合軍は3万6000となった。更に千代城には4000近くの城兵が詰めていた。 冷たい雨の中の合戦で、地の利を知り尽くす政宗の采配で辛勝する。城兵を指揮した片倉景綱のタイミングの良い反撃に助けられた。 帝国軍の敗残兵の半数は陸路または海路で撤退した。 5月、奥州街道を北上した帝国軍主力と十二連合軍が千代城付近にて激突。 「広瀬川の戦い」。帝国軍15万 対 十二連合軍5万。帝国軍の勝利。 政宗は降伏しこれを認められ、織田信長への謁見の後に準国主として関東に転封された。 6月、最上氏が降伏。旧南部・安東氏の北日本連国支配地域の回収。 7月、胆振の戦い。有守の北日本連国支配地域の回収。 8月、札幌の戦い。北日本連国の消滅。 北日本戦争の終結と日本再統一の完成。