■ファイト、国内国家たち(2-2)

 
「デス・イン・ランド(地上の死)」

のちに神道習合兵が、突撃前に発する一種の鬨の声である。

戦国大東の神道

 大東国の国教は仏教であったが、仏教を保護する理由は次第に薄れていた。明帝国は儒教化が進展したため、仏教を国教とする現実的な利益も薄れていた。
 隣国日本では仏教が神道以上に民衆に普及し、私兵として大規模な僧兵を保有する一向宗徒のような武装宗教組織まで出現していたのとは状況が異なった。
 大東朝廷は、明との外交・交易上の仏教の利点がほとんど失われた15世紀末から仏教の保護を停止し、いかなる金銭的・爵位上の便宜も図らなくなっていた。倭寇の出現と共に、警戒されるようになっていた日本商人に対し、ライバルの大東商人は相対的に明・朝鮮にとり重要な交易相手になっていた。

 16世紀の混乱した時代には、神道信徒が独自に修道国家を建設する例もみられた。これは、日本における仏教を中心とした宗教界の武装化の過程と似通っている。
 東日本列島の大小400もの領主(勲爵以上)は、民衆の操縦装置として神道に価値を見出すことは、表立っては試みなかった。身分制秩序の維持や道徳の公教育装置としての機能を組織的に利用するのは、”はしたない”とみられたのだ。
 神道とは、あくまで民間宗教だった。しかも大東の神道は、本来は西日本列島の有名神社の分社である。このため大東最大級の神社ですら「総本山」としての「格」や「威厳」に欠けていた。権威のない宗教など、権力者が欲しがる筈もなかった。

 一方で、本来、領主は爵位を天皇から拝領し、地方の行政区域を円滑に統治・防衛するために与えられた地位である。よって、大東の絶対君主である天皇に爵位を取り上げられれば、領地の支配権を失う。
 だが、各地の領主層が朝廷の統制を軽視し領主同士が争う時代が到来すると、天皇の爵位任命権は無視されるようになった。

 大東各地が戦国化し、領主の保護が失われた地域では、自衛のために農民自らが武装するケースがみられた。地元の神社を中心に各地の地頭(農民の自治的・地縁的村落結合組織のこと。日本の惣村に近い
在地社会を指す)が協力する形で一般的に”習合兵”と呼ばれる武装集団を形成した。
 習合兵の指揮をとったのは、大抵の場合は地爵の被官層であった”武士”たちであった。最下級の貴族である在地社会の武士は、大東軍で隊正や火長として従軍したことがある指揮経験者が多く存在した。
 ちなみに、大東の神道は民間信仰だったため、権威が低い反面、男性に権力や権威が集中する事はなかった。このため女性の巫女だけではなく、宮司や神主も一定程度の数が存在した。16世紀だと割合はせいぜい4対1程度だったとされるが、それでも男性社会ばかりでなかった事も確かだった。そうした素地があったためか、歴史上の習合兵の中には武装した巫女である「持梓巫女(じしみこ)」も事実存在しており、彼女らは”鎮神払侵神楽”を奉納した。

 古来から、神道は宗教とも認識されない多神教のゆるやかな宗教であり、自然崇拝に近いものだった。その存在意義の最大のものは、在地社会の守護であった。在地社会以上の、例えば国家を守護する、というような性質は持っていなかった。
 神道は現世利益主義的で、自然の身体感覚を重視し、祖霊崇拝性を有した。荒ぶる神も含まれる多神教であるが故に、自然の暴威に神の不在を感知することもない。一神教ならば「神は死んだ!」と叫ぶような凶事が人々の上に厚く重なっても、神道においては「そういう怖い神様も中にはいるよね」で済んでしまう。当然だが、宗教哲学としての側面もあまりなかった。おかげで大東では、哲学はあくまで学問として発展する事になる。

 とはいえ、人々は例え神を恨むことができなくても死を厭い、当然ながら回避しようとする。神道には、魂の救済という面で説得力が弱く、支配者層の人心操作装置としては不完全であった。そこで、戦国の世ならではの強引さで、神道にも”国家守護”と”魂の救済”の二つの要素を取り込む試みがなされた。似たような事は日本列島でも起きて、こちらは仏教の一派である浄土真宗がその役割を果たしていく。

 こうした背景から、1521年に二者臨界大社において、”天之御中主神(アマノミナカヌシノカミ=日本神話上での「最初の神」)”を創造神とする”主神道”が出現した。ついで1534年、征東地方は三峰北阪大社においては”天照大神(アマテラスオオミカミ=日本神話上での太陽神)”を最高神とする”照神道”が出現した。こうした神道分派は主に旧大東島で普及し、新大東島では戦国末期に至っても民衆に普及はしなかった。

 「地上の死」という創唱をいつ、誰がしたかは不明である。だが、1560年代には盛んに唱えられるようになっていた。
 地響きにも似た捨命救済の唱和が低く流れる戦場。対峙する大軍勢が銃を構える。次第に接近する両軍の前列に配置された銃兵が射撃を開始する。布陣中央部では、日本の足軽に相当する”刀兵”が突出して接近戦闘がはじまる。
 騎兵は互いの背後に回り敵大砲を破壊しようと、流体にも似た奔流と化して戦場を疾走する。500mほど背後では、火縄銃を大型化したような大砲が浅い仰角で敵銃兵の横隊を射撃する。
 これは、大東島での戦国時代末期の合戦の様子だ。

 
■海外貿易

 大坂、東京、南都、境都など大東島各所の大都市(=商業都市)は、自己の政治的自由のために団結して領主と戦い、多くの場合は金銭の力で自由を獲得していた。これは、日本の堺のような商業都市とほぼ同じ行動であった。
 商業都市において最も重要な基盤は”安定”である。
 政治的にも軍事的にも不安定な都市は”信用”という資源を失い、仮借ない商業戦争で敗北する運命にある。貴族同士がいくら戦争にのめりこもうとも、自らの都市には一切手出しをさせない。これは商業都市の永遠の目標であった。

 明帝国は一般的な自由貿易を制限し、朝貢貿易だけを認めていた。
 日本で1557年に大内氏が滅亡し日明貿易が途絶すると、日本の商人は密貿易を盛んに行うようになる。日本からは比較的小型の船でも明の沿岸までたどり着くことができたため、小型船しか手に入らない日本の中小商人が密貿易に多数参加するようになった。これらの船主はしばしば海賊に転身したため、彼らは「倭寇」特に「後期和冦」として取り締まられた。
 実際には、地方長官に充分な賄賂を送れない明帝国沿岸の漢民族商人が倭寇の中心であったのだが、自尊心が強い明の役人は、倭寇の呼び名を変えようとはしなかった。日本商人にとってはひどい濡れ衣である。実際は「倭寇」ではなく「漢寇」や「自寇」とでも表記すべきだろう。
 一方、大東商人の貿易船は距離の関係から一隻一隻が比較的大きく、明帝国が海禁策によって制限する入港船数の範囲内でもある程度の規模の交易が可能だった。また、日本ほど容易に明沿岸まで到達できなかったため、大東商人による密貿易はあまり行われていなかった。
 そして大きくて丈夫な船を持つ大東商人達は、船を持てるイコール大商人である為か、貿易相手を手広く広げた。
 1551年、ポルトガル人は明からマカオの居留権を獲得しており、日本・大東の商人はマカオで仲介交易する道を選択する者が増えた。日本・大東などの国は、明帝国のダブルスタンダードな行動を非難した。
 とはいえ悪いことばかりではなく、ポルトガル商船が出入りするマカオに頻繁に寄航するケースが増加したことは、ヨーロッパやインドの情報や、ヨーロッパ式キャラック船、火器に触れる機会を増やした。

 16世紀末には明帝国の統制は大きく緩み、明との密貿易は半ば公然と行われるようになる。その頃には、日本・大東双方が船首の縦帆と複数の横帆を備えたスペイン/ポルトガル型の大型ガレオン帆船である”直船(なおせん)”が出現し、南海貿易で活躍するようになっていた。

 なお、大東人もしくは日本人が東南アジアに最初に到達したのは、世界史上でも有名な明帝国の「鄭和の大航海」の第五回目だった。時に西暦1417年。このとき、大東島と日本がそれぞれ2隻の船を提供し、はじめて日本人・大東人がインド亜大陸の地を踏んでいる。さらに1421年の第六回目航海の時には、インド洋を横断してアフリカの東部海岸にまで至っている。
 その後自力での航海となるが、鄭和の大航海で得た技術を組み込んで自ら建造した大型船で、早くも15世紀半ばには再びマラッカ海峡やモルッカ諸島に至っていると考えられている。大東人が東南アジア航海を重視したのは、東南アジアで取り引きされている各種香辛料を安価に手に入れる為だった。中華系商人などを中継した場合非常に高くついたので、これを何とかしたいと考えたのだ。既に肉食が一般的に行われていた大東ならではと言えるだろう。

 また一方で、16世紀に入っての大東商人には、強い味方があった。それは自力で産出する黄金だった。


■金鉱の発見

 1504年、北部凍陰地方の野馬山地東部において大規模な金脈が発見された。西日本列島は火山が多く、自然の濃縮作用によって金脈も豊富にあったが、東日本列島ではこれまで大規模な金鉱はないものと考えられていたから、この報は驚きと共に受け止められた。しかし地球は数十億年間地表での運動を続けていたのだから、どこかの時期で濃縮されたものなのだろうというのが現代の評価となっている。
 しかし当時は非常に大きな驚きを持って迎えられた。何しろ現地の牧村勲爵領は、その図体だけは関東地方より大きいが、トナカイ放牧が経済の主役でしかない寒村に過ぎず、人口も1万程度であった。

 15世紀末に首都から商都となった大坂を中心に手広く商売を行う尼子氏の”尼子屋”が牧村勲爵領の城下町に進出、金物屋を営みはじめた。
 1503年、尼子屋は経営難に陥り、窮余の一策として、大金鉱が牧村領で見つかったと喧伝した。鉱業は金物屋の上得意の産業分野である。
 尼子屋は、日本の堺で新興豪商として台頭しつつあった今井氏の”納屋”に融資を依頼した。金鉱関連の金物需要で商売は右肩上がりになるとの予想を声高に広げる尼子屋は、嘘をついてでも回転資金が欲しかったのだ。
 予想外だったのは、尼子屋の嘘が嘘でなくなったことだった。
 尼子屋が流した噂にコロッと騙されて、選鉱なべを背負い現れた山師の一団が、野馬川の川原で大量の砂金を発見した。この知らせが、大東中に知れ渡るのに半月とかからなかった。
 今井納屋の主人は尼子屋の流してくれた情報に従い、大東の金産業のリーディンカンパニーになるチャンスをつかもうと試みた。日本中の金鉱で戦国大名が探鉱技術者を”保護”しているために人材探しに苦労したが、際どいヘッドハンティングで技術者を確保し、牧村領に送りこんだ。
 1年後には、牧村勲爵領には6〜7万人もの山師が日本、大東を問わずに殺到していた。発見された金が、今まで日本人、大東人が触れたこともないほど巨大な規模だったからだ。
 誰も気付かぬうちに、牧村氏の城下町は、それまでの”滑矢”から”金城”と改名していた。大型船の発着のために接岸埠頭の建設がはじまった。港が冬季には流氷に覆われるため、現地で不足する保存食の貯蔵倉庫も現れた。盗賊や海賊から身を守るため、今までは必要すらなかった強固な城壁や沿岸要塞が作られた。
 寒冷な気候をしのぐために、茶茂呂産の石炭が燃料として大量に持ち込まれた。森林資源が不足する大東特有の事情から、石炭の方が価格面で優位であったからだ。
 精錬には石見銀山で用いられていた灰吹法が導入され、金城には石炭を熱源とした鉛溶融炉が多数設置された。鉛の微粒子を含んだ煤煙に霞む金城には、多くの無宿人が臨時労働者として流入した。
 1520年頃には大東、日本連合の豪商達が採鉱権を獲得し、多くの山師は牧村領を去った。しかし金城は繁栄を続け、凍陰最大の都市となる。
 こうして、金鉱発見を契機に凍陰の人口は3倍に増加したのだった(それでも地域全体で20万人しかいないのだが)。

 なお、野馬金山などで見つかった黄金(Au)の量は、トン換算で約1400トン。ヨーロッパで一般的なフローリン金貨(黄金約3.53g)に換算すると約4億枚分となる。
 このうち約400トンが砂金で、初期採掘で根こそぎ採取された。この量がいかに巨大かは、日本列島で有名な佐渡金山の総採掘量が80トンだったという数字を示せば少しは分かるだろう。また金銀の重さでの交換比率が、10〜15倍という数字でも規模の大きさが分かるだろう。
 そしてその後豪商による金鉱採掘に移行するが、良質で巨大な金鉱は無尽蔵に金を吐き出し続け、さらに近隣の大鹿山地での別の巨大金鉱の発見もあって、向こう100年間の間に平均して年産10トンを記録し続けた。
 大東は、いちやく「黄金の国」となったのだ。

 この巨大な金が、大東経済さらには時代そのものに与えた影響は非常に大きかった。
 大東では、それまで通貨の流通が遅れていた。基本的に開拓国家だったためと、自力での鉱山(金銀銅)がなかったためだ。しかし巨大金鉱発見で全てが覆り、大東全域で一気に貨幣の流通が進み、経済的な発展も加速度的に速度を増した。海外との商取引にも大東の黄金が用いられ、非常に純度が高いため国際信用度も高かった。さらに黄金と交換で銀、銅も大量に輸入され、金貨、銀貨、銅貨による大東国での貨幣経済が短期間のうちに完成を見ることになる。
 なお大東金貨の片方の面は剣歯猫が意匠化されていたため「金虎貨(きんこか)」と呼ばれる事もあった。
 一方では、日本人社会の中に金が溢れすぎたため、相対的に金の価値が下落するという減少も起きた。

 そしてさらに、この巨大金鉱が枯渇し始めることで、自らの経済を支える為に近隣地域の海外進出にも手が付けられるようになる。
 さらにわずか一世紀で巨大金鉱が枯渇の危機に瀕したのは、17世紀後半に大東を巨大な戦乱が襲ったからだった。


fig.1 西日本列島資源所在地


■大東国の「戦国時代」

 大興天皇が1481年に天皇位を継いだ時点で、約200年間続いた大東国の爵位制度は曲がり角にきていた。
 創爵時には圧倒的に強力だった皇族領の武力は、かつてほどではなくなっていた。過去2世紀の急激な人口増で徴兵可能な兵数は増加していたし、税収も増加していた。しかし、公爵・伯爵領が近隣領主の爵位を飲み込んで巨大化した結果、相対的に弱体化していた。
 朝廷で信任を得た大貴族……血縁的にも官職上でも密接した関係にある田村氏・保科氏・高埜氏などが権力を持つようになっていた。つまり、縁故政治がはびこっていたのだ。
 皇族は自らの懐を痛めないよう、中小領主の爵位を召し上げては任意に再分配するという、いつの時代も変わらぬ職権濫用や贈収賄が蔓延した。そして、違法行為を糺すシステムそのものが機能不全に陥った状態、いわゆる政治の腐敗が進んでいたのだ。



fig.2 1560年の大東主要領主

■17世紀中頃の大東の領主達

■天皇領

 征東から遷鏡にまたがる和良平野の過半を治める天皇領は石高440万石。

 モザイク状に分割された皇族の領地である。皇族の大部分は、領地の経営を在地の徴税吏に任せ、東京で居住している。
 平時の大東軍団は各領主が維持費を払うが、天皇領では収益を極大化させるために最低限の軍事連絡組織を維持するに留めていた。即応可能なように動員訓練を行う規則はあったが、誰も守っていなかった(中には、夏の農閑期に指揮官を東京から呼び寄せ、農民を動員して訓練させる戦争ごっこが趣味の変わり者もいたが)。
 まるで、室町幕府衰退期の守護職が、領国経営を守護代に任せっきりで、自らは家族と共に都にいたのとそっくりの状況だった。

 南隣には名門の保科伯爵領(90万石)が配置され、茶茂呂人に対する防壁の役割を求められていたが、長い年月のうちに黒姫伯領と血縁関係を深め、1555年に保科-黒姫秘密同盟が結成されている。
 しかし天皇家には表向き忠誠を誓っている。

 片脇勲爵領は、数百年にわたる巨大な湿地の改良によって60万石規模に膨れ上がっている。過去に幾度も爵位剥奪の危機を乗り越えた外交力に優れた貴族である。

 加良勲爵領は、20年戦争の激戦地、小苗古戦場を領内に持つ。勲爵ながら伯爵に匹敵する勢力を持つ。石高50万石。


■高埜公爵領

 二者陸繋から仙頭台地に至る豊かな8万平方キロの平原を治める大東最大の貴族である高埜公爵領は石高350万石。
 小泉湾と入口湾に挟まれた境都と境東府を版図に収めており、新旧大東島の沿岸交易路の中心地を支配した。境都は陸繋の陸上交易路の要地として古くから発達し、摘麦産小麦の集散拠点でもあった。
 また、境都は新旧大東島の文化的結節点として、高い文化を誇り、高埜氏の重要な現金収入源となっていた。

 高埜公爵領は笹森・西原・長瀬・坂上伯領の4大国に囲まれ、これらと同盟関係を築いていた。4大国合わせた石高は120万石。またこれらの伯爵領は、日本の侵攻から大東の大地を守るという役割もあった。

■田村公爵領

 二者の新大東島側及び陸中にまたがる新州最大の貴族田村公爵領は石高180万石。
 面積としての版図の大きさでは、大東国1位の大国である。石高の約半分は、米ではなく小麦であるため、石高は小麦米換算後の合算値になっている。
 大型の蒙古馬の生産が盛んで、特産品は乳製品と肉類、木材。食糧生産の余剰分の多くは、駒城伯爵領や凍陰に移出している。

■草壁・守原伯領

 草壁95万石、守原70万石(小麦米換算)。
 守原氏が田村平野から逃れて定着したのは約50年前のことになる。「二十年戦争」時には協力関係にあった田村・守原両家だが、田村氏の相続争いに巻き込まれ、東京に強い繋がりを有す田村氏に領地替えを強いられた。
 以後、小領主が並立していた摘麦で勢力を回復し、1560年の段階で草壁・守原両氏が摘麦を二分する大勢力となっている。
 田村氏は草壁に好意的な中立姿勢を保っているが、境都の米座為替御用会所へ守原産小麦を移送中、田村公爵領を通過する際に何かと理由をつけて通行手続きを邪魔する動きをみせることもあった。

■多田野伯領

 名門多々野伯領は、大坂を含む豊かで温暖な地域を支配しており、石高80万石。
 戦国時代に入ってからは、照神道徒領の圧迫に苦しんでいる。大坂商人の資金援助によって照神道徒の討伐を行うが、天然の要害である三峰山脈に阻まれている。
 照神道徒領は、中小領主を滅ぼし74万石規模に膨れ上がっている。

■茶茂呂勲爵領・黒姫伯領

 かつて幾度も大東朝廷を悩ませてきた茶茂呂人が人口の多くを占める茶茂呂(ちゃもろ)氏は、爵位を勲爵に留められるなど朝廷に冷遇されてきた。
 16世紀に入ると、茶茂呂勲爵領は積極的に周囲の勲爵領を吸収し、大規模化していった。このため伯爵に匹敵する勢力を持つ。
 黒姫(こっき)伯領は、かつて歴史的経緯で朝廷側についた茶茂呂人居住地域である。茶茂呂人が多く住む旧大東島南端に蓋をするように配置された黒姫伯領は、再三にわたる朝廷の茶茂呂勲爵討伐令を受けながらも、何かと理由をつけては動かなかった。
 今や、朝廷の警戒心は専らこれら茶茂呂人に向けられている。

■駒城伯領

 駒城(こましろ)伯領は、陸中の孤島のような形状をしている。駒城山脈を包含するため、ゆるやかな傾斜地を利用しての放牧が盛んである。
 南東部で穂口平野を含んでおり、石高は40万石を有する。しかし牧畜などでも多数の人口を養うなど、実際の国力は石高よりもずっと高い。
 駒城山脈は幌辺川の源であり、駒城家東部で久須利川と運河で連結されている。冬季には、凍陰の海岸は流氷が張るため、運河は冬季の北周り内陸航路として、大きな経済的価値がある。
 駒城氏の冬の居城が建設されている大森は、年間を通じて木材集散地として活発な商業活動が営まれている。

 駒城伯領の周辺を河鹿・小牧・向坂・古室勲爵領が取り囲んでいる。日本の伊達氏と似た、地縁・血縁でがんじがらめになったハートランドの大国という位置付けといえよう。
 さらに北の利鏃、牧村などには、戦国大名として活動するだけの能力はない。

■松原・倉田・相良伯領

 龍嶺山地を挟んだ南は相良平野、北を真室平野と呼ぶ。松原伯領はより寒さの厳しい真室平野にある。主要な農作物は小麦・大麦など。また、大東島周辺海域は暖流と寒流の合流地点であるためにどこも良い漁場であるが、陸南東方の海域は特に豊かな漁場である。
 陸南は寒冷な気候ながら、古くから北府が設置され、北辺防御のために名門貴族が配されていた。
 戦国末期まで陸南の秩序を維持し、戦乱の影響を最も受けなかった地域である。

 ちなみに大東島には、西日本列島と異なり一つの活火山も見つかっていない。大東島の地質学的な環境から考えると、マントルがプレートに沈み込む収束型境界の手前に位置する大東島に活火山が存在しないのは当然だ。
 海溝から沈み込んだプレートがある一定の深さに到達したプレート境界に、火山は多くみられる。西日本列島がこの典型的な例である。
 しかし、奇妙なことに龍嶺山地の地下には熱源が地表近くまで迫っており、山地全体の表層を温めている。龍嶺山地から下る大苗川は水温が才吾川よりも高い。そのため、松原伯領でも稲作は可能であった。また、この地域には大東島唯一の温泉が存在する。

 余談であるが、20世紀末に大々的な起震探査が実施された。その研究成果から龍嶺山地地下の三次元マップが作成されたが、熱源の正体は未だはっきりしない。
 龍嶺山地直下でマグマ溜まりがマントルから乖離し、深部からマグマが供給されていない可能性が指摘されている。この”孤立マグマ説”の重大な欠陥として、継続的な熱の供給がなければマグマ溜まりはせいぜい数十年で冷えて固まるという点が指摘されている。
 しかし、蝦夷諸部族の口伝によると、龍嶺山地では遅くとも紀元5世紀頃から温泉が確認されている。
 この謎を解明するために2013年現在、精密な重力・磁場探査計画が実施されている。


Table.1 主要
領主の石高(1562年。麦作地帯は小麦米換算している)

地域名 人口(万人) 領主/石高(万石)
凍陰 20 牧村7 利鏃7
駒城 50 駒城40
陸中 95 田村50 川鹿・小牧・向坂・古室50
陸南 110 松原・倉田・相良88
摘麦 175 草壁95 守原70
二者 390 高埜150 田村130 主神道徒60 その他50
越鏡 350 高埜200 笹森・西原・長瀬・坂上120 その他20
遷鏡 650 天皇領380 保科90 片脇60 加良・椎名50 その他40
征東 230 多田野80 照神道徒74 天皇領60 その他10
茶茂呂 180 茶茂呂105 黒姫50
総計 2250 2136

 

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