■ゲットピース トゥ リーヴ、ND WAR 2nd(1)

 ヨーロッパ世界で、イングランドのエドワード3世がフランスにおいて百年戦争をたしなんでいた頃、日本と大東でも大規模な戦乱の準備が整っていた。

 
■中世の日本・大東両国の政治体制について

 日本人社会、つまり広義には「日本」という曖昧な地域に帰属意識を持ち、さらに日本語を話す民族集団は、日本列島と大東島を自らの「天下」つまり「世界」と認識していた。しかし、「天下」は一つではなく、また統治者はかつての「天皇」や「公家」ではなくなっていた。
 武士が中心となり、2つ目の武家政権が誕生した。
 
天皇を中心とした中央集権制が確立して親政が行われた大東。
 もともとは王権=天皇家だったのに、やがて武家政権=幕府との二重政権に陥り、互いに利用し合う事でなんとなく共存するに至った日本の天皇制は、世界でも珍しい政治体制だった。
 鎌倉幕府以降、武家政権が自己の統治体制の正統性を主張したいと望んだ時に、天皇の権威に依存するという体質がいつの間にか醸成されてきた。ただただ長いこと生きのびてきた超越的裁定者機関、それが天皇制度だったとも言えるだろう。日本人はおくゆかしいため、ヨーロッパにおける絶対王制やアジアの王朝に見られる専制主義のような専横的な振舞いを躊躇するため、そのような第三者的価値判定システムが必要になったとの見方もある。
 一方、大東国では律令時代から引き継いだ一重権力天皇制度が存続しており、「天皇=大東皇帝」と考えればよい。単純さを好む大東人らしい統治システムと言える。
 国家の成り立ちからして、短時間で異民族である蝦夷(アイヌ)や茶茂呂、異文化の古大東人を吸収してきたため、誰の目にも単純明快な権力・正義・道徳が求められたのは自然な流れといえよう。

 簡明さを追い求めた結果、元の爵位制度(国公・郡公・郡伯の三等に分かれていた)に倣い、大東歴大安8年(西暦1295年)、新たな爵位制度が発足した。
 階位などは以下のようになる。

・皇族: 以仁天皇の血族とされるが、大東平氏なども含まれている。
・公爵: 広大な地域を領有する貴族。公爵の中には皇族血縁者が多くいた。
・伯爵: 地方官級貴族。日本列島の守護(守護大名)に相当するが、規模は日本のものよりも大きい場合はほとんど。
・勲爵: 辺境貴族。領主再編成が遅れた新大東島に多い。位は伯爵より格下だが、広い領域を治める場合もある。
・地爵: ごく小規模な地頭貴族。
・武士: 村落規模の在郷領主。日本の武士よりもヨーロッパの騎士に近い役割を持つ。

 創爵の理由は、爵位(官職)と血脈の分離のためだったと言われる。
 本来、日本に存在した官位制は、官位が示す政府における業務内容に直結しており、個人に与えられる資格・権限であった。しかし、時代が下るにつれ官職と位階は身分や家格を示す基準となってゆき、血脈的な尊卑をも表現する道具となった。
 そのような制度は官僚組織の肥大化と共にどうでもいい枝葉末節にまで分裂する非効率の温床になると、当時の大東天皇は判断した。また、爵位制度には蝦夷系領主の反乱を未然に防ぐ効果もあったと考えられている。実際、多くの古大東・蝦夷系領主が任じられていた。
 そして古代中華王朝がそうだったように、任官に際しては爵位に応じた金属製の「爵」つまり盃が下賜された。

 大東国の爵位は家系・血脈そのものに対して与えられているのではなく、爵位(官職)が示す行政区域(公爵領、伯爵領、勲爵領など)に対して与えられた。
 もし、爵位が示す領域の実効支配ができていないなら、その爵位は剥奪されるし、実力を以って他者が奪うこともある。近世日本の封建領主制度における”大名”ほどの自由度はないが、”戦国大名”以上の強固な領国支配権限を持った存在と言えよう。
 ”大名”に相当する爵位は、”伯爵”位になる。一つの州を支配する程の実力者は”公爵”と呼ばれる。当初は「国」ごとにおかれたが、時代の流れの中で統廃合が進んでいく。それぞれの地方統治を任された高埜家、田村家は「旧州公」、「新州公」とも呼ばれる。また”公爵”の中には、都に住まう皇族としての名誉階級としての”公爵”も存在していた。

fig.1 1380年頃の東西日本列島

 

■建国後の大東国

 日本列島での「源平合戦」の最中に自存自立を決意し、その後日本の政治からは完全に切り離された国家として「大東国」は歩んでいた。
 日本列島の支配層からしたら許されざる行為だったが、最短でも100里(400キロメートル)も荒い海で隔てられた大地に対して、当時の技術力、日本の国力では安易に「討伐」する事は出来なかった。しかもそこには日本列島を越える「蛮族」が住んでいるとなれば尚更だった。
 そして大東国は、建国当初から侮れない国力と武力を有していた。
 なお、日本列島の朝廷、鎌倉幕府共に、当時の大東国を独立国とは認めていなかった。彼らの中では、あくまで「反徒」であり「逆賊」であり「反乱勢力」でしかなかった。その証拠に、大東の地名を冠する官位が朝廷内には存在し続けていた。
 しかし大東国は、日本の朝廷、鎌倉幕府の双方から完全に独立しており、そればかりか日本列島の倍近い面積を持つ大東島全土を支配し、領域内の総人口は日本列島を完全に上回っていた。つまり日本よりも大きな国土と国力を有する、東アジア有数の国家だった。だが、本格的に人の手による文明化が始まったのが遅かった為、その大地の多くが手付かずのままだった。新大東州を中心にして広大な原生林が広がり、人の手が比較的入った旧大東州でも黒々としたブナの原生林は一般的な情景だった。一般的な景観としては、となりの日本列島よりは同時期のヨーロッパの方が近いだろう。

 そして建国から100年も経過すると、国内の開発も一定段階を過ぎて国力も充実し、海外にも目を向けるようになる。だが周囲を大東洋と東日本海にかこまれた大東国にとっての一番の「外国」とは常に日本列島だった。だが日本は明確な敵であり、密貿易や密航を除いて平和的に交流を行う相手ではなかった。このため大東の視線は、自然と中華大陸を指向した。13世紀後半日本を襲った「元寇」の原因の一つも、大東国の外交と貿易姿勢が影響している。
 14世紀に入ると、元帝国は北東アジアにおいては戦争よりも貿易の実利を重視した。その中で大東もついに大陸との直接貿易を実現した。この流れは元帝国が滅びて明帝国が勃興そして繁栄しても続いた。大東国は自らの大地に鉱産資源が少ない為、銅銭が必要だし、文明的、文化的にもまだまだ遅れていたので、大陸の優れた文物が必要だったからだ。輸出品としては、相変わらず剣歯猫、アルキナマコ、動物の毛皮などしかなかったが、それでも主に大陸との円滑な貿易は拡大していった。
 だが、中華大陸の貿易において、大東と日本は競い合う関係だった。これが次への戦乱の道しるべとなった。
 実際1307年 には、大仁日寇」と呼ばれる日本側の大東への侵略行為が実施された。これは基本的に大東西岸に対する海賊的掠奪ばかりだったのだが、大東と日本にとっては決別以来初の戦争となった。そしてこの時は日本側がまともに侵略する気がなく、大東側には場当たり的に対処する以外の力がなかったため、これ以上拡大する事はなかった。
 しかし大東と日本が互いへの認識を深めるのには大きな役割を果たした。

 
■戦争への道

 西暦1372年、既に明帝国との公式な貿易チャンネルを有していた大東国の大明貿易を、日本が実力で阻止しようとした事件が起きた。大東の交易船を軍船を用いて襲撃したり、大東が中継点に使っている琉球などの泊地を襲ったりしたのだ。この時期はまだ「前期和冦」が猛威を振るい同じ者達が大東の船も襲撃した事から、これを「大東和冦」と呼ぶこともある。
 ようやく安定を見た日本の室町幕府が、自らの貿易拡大を図る為と、大東に対する軍事的行動で権威と権力を見せるために行った政策の結果だった。この政策は、室町幕府の若き三代将軍足利義満の行った、若さの覇気が悪い方向で出た政策の一つとされる。
 室町幕府は、襲撃する船を武士が率いる軍船に限らず、全ての者に免状を出す形で襲撃を助長した。この免状がいわゆる「私掠免状」である。そしてこの日本の海賊行為の為に、北東アジアの海では、それぞれの船が自らの旗幟を明らかにする事が一般的となり、これが北東アジアでの「国旗」の第一歩となっていった。

 日本の海賊行為によって、大東国の海上貿易は大きな損失を被った。大東側も軍船を出したり商船を武装するなどの対応に出たが、大東側の距離における不利と数の違いの結果、大東の不利は免れなかった。
 そして更に日本が海賊行為を奨励するようになると、大東は明に助けを求める。明帝国へは大東国からの朝貢貿易の途絶を”日本による戦争行為の結果”であると伝えた。その後、明帝国の洪武帝は日本への海禁政策を採るようになった。
 結果、日本の貿易商はひどい打撃を被った。室町幕府が狙っていた大東を退けることによる交易拡大は最悪の結果を迎えた形になる。
 さらに朝鮮は既に長く倭寇の被害を受けており、明帝国へは朝鮮からも対日制裁の要請があった。
 対馬・隠岐・松浦・五島列島出身者を中心とする倭寇は、それらの地域の貧しさと人口過剰に起因していた。大東を襲撃させたのも、こうした理由が重なっていた。
 そして室町幕府は、貿易拡大による商業発展とその先にある国力増大、そして民心安定ができない以上、別の政策を取るしかなくなる。
 歴史上、古今東西どこでも見られた情景ではあったが、戦争によるガス抜き、侵略による掠奪、そして人減らしの意味も込めて外征を決定したのだ。
 
 日本にとって外征先は、一つしかなかった。
 日本にとっては未だに”未回収の東国”である大東国だ。
 大陸国家と戦争する事は、当時の日本人には想像の外にある事柄だった。近隣の朝鮮半島も基本的には大陸国家の属国であるため、大陸国家と戦争することを意味するので行われる筈がなかった。これにたいして大東国は、海の距離は朝鮮半島よりも遠いが、彼らの観点の中では日本人の住む土地であり、一度は侵略し支配した土地だった。そして日本人の支配層の一部にとっては、自分たちが持っていて当然の土地でもある。侵略するに際して、精神的な重荷は皆無だった。
 だが大東は巨大な島であり、「反乱勢力」も強大だった。大東島近辺に対する海賊行為では、何度も苦渋を舐めていた。だからこそ相応の準備を進め、そして一気になだれ込んでいった。

 
■軍隊の編成

 ■大東軍の編成


 律令時代日本の朝廷は、貴族層を国司として派遣するとともに、現地で徴兵された人員より成る軍団を国司の下に置いた。これを軍団制といった。後世の国民国家における徴兵制に近似している面もある。
 大東軍の兵制は、平安時代の”軍団”制度を直接の祖先としている。大東国でも11世紀ごろには、のちに武士とよばれるようになる集団が形成されつつあったが、日本における武士のように政権を取るほどまでに力は持っていなかった。
 大東国成立後は、再編された身分制度をもとに、国司に代わり領主に軍事力の運用権限を担わせるようになり、武士もその制度に取り込まれた。 
 指揮制度は、同時期の日本のそれに比べ簡略かつ合理的だった。同一単位の戦力が基本とされ、必要に応じて上位の戦力単位が編成された。
 平時の軍団は各領主の下に置かれた。標準的な1個軍団は千人であり、大毅一名が率いた。これを後に”大隊”と呼ぶようになる。

指揮官名称 - 単位戦力(名)
 大毅 - 1000    
 少毅 - 200〜400
 校尉 - 200
 旅帥 - 100
 隊正 - 50
 火長 - 10
 伍長 - 5


 人数などは違うが、近代以後の軍制での火長は”分隊”、隊正は”小隊”、旅帥と校尉が”中隊”に相当する。
 これらの兵力は、動員を知らせる旅帥の伝令が来ると、大抵の場合、一つの農村からは村の武士・村長の子息が火長として徴用されて出陣した。指揮官の大毅と少毅は爵位を有する領主層出身者で占められていたが、必ずしも将の出身地と兵の出身地は同一ではなかった。

 この時代の兵団の基本単位は後世でいうところの”大隊”単位となる。大東国の騎兵1個大隊は200人、騎馬200騎弱より成った。歩兵1個大隊が約1000人より構成された。日本・大東軍ともに、騎兵はロングボウ(長弓)を主用兵器とする弓騎兵が中心だった。歩兵は当然ながら刀か槍が中心となった。もちろん、大東貴族の子息は騎兵が多くなっている。

 大東国の軍制は取捨選択を経て、16世紀にはスペインのテルシオのような強力な戦力単位に成長していく。後に日本軍も真似することになる軍制だったが、明白な利点があってのことだ。
 まず、指揮官の代替が容易なこと。ある大毅が戦死しても、代わりの指揮官をあてがえば短期間で再利用できる。軍団は領主の私兵ではなく、一個の戦力単位として訓練されているため、このようなことが可能だった。
 欠点もある。私兵でないため、大規模なクーデターなどで国家転覆の危機になった場合、敵対勢力にとっても既存の政府軍を利用しやすくなるとい点だ。
 もう一つは、よく領主になついた兵の士気に比べ、どうしても士気が下がる欠点がある(少なくとも歩兵部隊では)。同じ共同体の防衛のためなら同一地域の出身者は仲間意識と目的意識を持って戦えるだろう。だが、大東軍はあまり知らない指揮官に率いられ、遠くの戦場まで駆り出されるのだ。
 よって、大東の軍制の下では、軍人事が重要性を増した。指導力のある指揮官が、出身地の違いを乗り越えて朝廷のために兵に戦わせなくてはならないからだ。この必要性が、数世紀後に各種軍学校と補佐本部の創設に結びつく。この時代においても、大坂で貴族達は様々な事を専門家から学ぶようになっていた。

■大東国中央政府が常時扶養可能な軍団(括弧内は農閑期の最大動員兵力)

 歩兵:19個大隊・約2万名(200個大隊20万名)
 騎兵:4個大隊・800騎(1万騎)

 この数字は、一カ所に集中できる数ではない。大坂などの重要拠点を中心に、広大な大東各地に分散配置されている。
 騎兵の場合いざ戦争となって動員を増やせば、大東国軍は1万騎を調達できるが、活動できるのは夏に限られる。飼葉を大量に得られる季節であり、同時に農閑期でなければならない。
 通常の騎兵の運用方法は、30-200騎での荷駄(輸送部隊)の襲撃や小規模な敵歩兵野営地の奇襲などだった。また、大規模な運用をする際には、騎兵による攻撃側は兵站上の問題から、常に先手を打って野戦に持ち込もうとした。馬は大量の飼葉を消費するからだ。
 しかし、貴族や武士となれば馬を持つのは当然の事であり、各貴族は自らの臣下に向けた軍事力の整備を常に心がけていた。

■日本軍の編成

 大東遠征に際して室町幕府は、大東島を切り取り放題の”新恩の地”と宣伝し、西日本列島全体から兵を集めた。いまだ「戦国時代」が到来していないため、「足軽」と呼ばれる歩兵はないので、それぞれの武士や守護が率いる一族郎党だけで、大規模な侵略部隊を編成できない為だ。
 そして呼びかけに応じて、各地の浪人や食い詰めた小作農、国人の次男坊以下の武士たちも”国軍”として参加した。
 守護領国制度により、鎌倉幕府時代に比べ高い独立性を確保していた領主層も応分の負担を命じられた。
 関東の上杉氏・三浦氏・千葉氏・佐竹氏、東海の今川氏・斯波氏・細川氏・一色氏、四国の細川氏、対馬の宗氏、五島氏などが中心となって兵を拠出した。西国の守護が動員されたのは、船の運航を行うためだった。
 奥州からは大崎氏・伊達氏・南部氏、有守州からは渡島氏・庶野氏・陸中氏などが参加したが、造船用木材の供出で兵の代わりとしたため、実際に大東島に上陸した人数は数百名と考えられている。
 総兵力は、最大時で6万とみられている。同時期のヨーロッパにおける戦争に比べ、大人数での戦闘が行われていた。これは、ヨーロッパより日本の方が基本的に人口密度が高いためだ。


■大東島の防衛戦略

 大東島の地形は、防御には向いていない。
 西日本列島のような峻険な山岳がほとんどないため、日本における山城のような城は、太虎山地や黒石山地で若干数あるだけである。
 日本では平城が少ないのに対し、大東国ではほとんどの城が河川に面した河川要塞として建設されている。水濠と煉瓦を積んだ城壁から成る大東城構えは、大陸の中原で見られる城のように、赤茶けた色合いをしている。
 日本と違い、大東を流れる河川は流れが緩やかで川幅も広い。大規模な水運は昔から発達しており、水上からの補給ができる河川要塞が自然に発達してきた。
 また、この特徴は攻城側にも当てはまる。軍隊は河川が利用できる時だけ、大規模な補給を受ける可能性があった。大東周辺の海洋において勝利し、河口を支配したならば、日本軍の補給は格段に有利になるだろう。
 もし、河川の支配権がないならば、攻城側に勝ち目はあまりない。
 なぜなら、当時の軍隊は全て”移動性軍隊”だったからだ。
 当時の軍隊は、大量の補給品を載せた輜重隊(小荷駄隊=輸送部隊)が本隊の後に続いて進軍する、という形をとってはいなかった。輜重隊はあったとしても小規模か補給源が近距離にある場合だけだった。
 軍隊は例外的な場合を除いて現地徴発を行い、敵地を疲弊させ祖国の負担を軽くした。
 万を超える大規模な軍隊は、基本的に敵地から食料を分捕らなければ維持できなかった。そもそも、自国の軍隊を腹いっぱい食わせられるだけの兵糧を用意し、はるばる敵国まで輸送できるだけの財政的余裕など大抵の国にはなかった。
 それに輜重隊を構成する馬匹(輸送用の馬やロバ)は、飼葉を消費する上に速度も遅いから移動するうちに彼ら自身も物資を消費する。輜重隊は自らを維持するための物資を運ぶだけの存在と、当時の軍隊指揮官が考えたとしても無理はない。
 軍隊は次から次へと田野を食いつくして移動するイナゴのような存在だった。よって、移動する軍隊の補給線を断つことは(そもそも根拠地から伸びる補給線がないために)絶つことはできなかった。
 唯一可能な補給破壊活動は、敵軍が略奪する前に、防衛側が地域の物資を徴発するか買取ることだった。

 そうした視点から見ると、要塞の存在価値も分かってくる。
 近世以前の軍隊が要塞を包囲できるのは、要塞周辺の食料が底を突くまでの間だけである。攻城側の数が多いことは、早く略奪品を消費してくれることを意味していた。
 逆に言うと、守備側は敵軍の略奪品が尽きるまで城を守れれば良いのだ。
 こうした観点から、当時まだ人口密度が低く、陸稲や小麦の作付け比率も高い大東国の城壁は、町民が多く住む市街をすっぽり包む城壁都市が主流となった。
 大東での城壁都市の規模は、大坂や東京で周囲10キロ近くに達するが、たいていは1キロ四方もあるかどうかだが、当時の都市の規模は人口1万人もあれば十分大都市のため、これで十分だった。また街の内部の建造物は、城壁に近いほど不燃性の高い石や焼き煉瓦など用いた建造物が多く、これらの建造物は健在の関係上で恒久的なものが多い。このため城壁共々現在にも遺構が残されている事が多い。

 単位面積当たり収量が多く、保存性にも優れるコメという食料が存在する東洋諸国では、同時期のヨーロッパよりも大規模な軍隊が長期にわたって攻城戦が可能だった。荷駄の有効性もヨーロッパにおけるそれよりは高かった。それは、高い人口密度とコメの作物としての優位性(収量・カロリー・保存性など)に依存していた。
 一応荷駄があったとはいえ、同時期の日本国内でも兵糧は領民から個々の村々に対して石高に応じて徴発され、小荷駄に用いる駄馬と人足も徴発された。徴発といえば聞こえがいいが、合法性があるように見える略奪のようなものだ。

 人口密度が相対的に少なく、従って徴発できる物資が面積に対して少なく、略奪しても小麦を加工して主食のパンにするには手間隙がかかるヨーロッパの軍隊の方が、兵站(ロジスティクス)に対する必要性が大きかったことになる。
 17世紀前後にヨーロッパで軍事革命が起きてからは、ヨーロッパの軍隊の扶養できる軍隊の規模は急拡大した。ナポレオン時代には、50万もの軍隊を作戦行動させられる位に兵站能力は向上した。
 また、火器(特に攻城兵器)の発達がヨーロッパにおいて早かったのは、人口密度が低く長期の攻城戦が難しかったことも理由の一つだろう。攻城迅速化のために、火器は非常に有効だった。
 火器普及後は、城の高さは重要性を失った。それまでは高い櫓から攻城軍を監視できたし、弓矢は重力加速度の分、威力を増した。
 一方、大砲は櫓を破壊できた。よって、要塞は高さよりも大砲の攻撃に耐える厚さを重視するようになった。城の優位は火器の普及によって着実に低下していった(火縄銃が普及してから暫くの間は、城壁に銃眼が作られ、防御力が増した時期もあった)。
 第二次日本大東戦争が戦われた時代には、まだ日本・大東に火器は伝来しておらず、大東国でも従来型の高い城壁を巡らす城壁都市全盛期であった。

 大東国においては、水資源の不足に対応して、大陸における華北平原と同じく粟・麦の作付けが近代に至るまで多かった。近代になり、水路の構築などのインフラ整備が進み、農法も進歩するに従い、米作も増加した。
 つまり、東洋にあるにも関わらず、ヨーロッパ的な気候風土が、日本とは違った軍隊を組織する下地となっていた。

 当然ながら、大東国の初期の戦略は防衛的なものだった。
 大東軍は、日本軍が作物を食い尽くすまで城に篭り、もし騎兵が外部から援軍に来るなどして自軍優位になれば、城から打って出て反撃する。
 敵軍は一度通った地域を二度と通らないため、守備側は敵が去るまで待てれば勝利できる。
 また、敵軍は道沿いに幅20km以上遠くまで移動して略奪しない。
 そして要塞都市が占領されない限り、周辺部の恒久的占領はあり得なかった。「守れば勝ち」なのだ。

 主要道路から離れた各地の村々には、敵軍に一撃離脱を試みる地爵が一族郎党を引き連れて腕を磨いていた。


■大東国の国力

表.1 西暦1400年の日本及び大東の人口規模

面積(万km2) 人口密度(人/km2) 人口
西日本列島 36 28 1000万
新大東島 46 10 460万
旧大東島 23 35 800万


 日本は荘園制度移行後の人口停滞期から抜け出していない。日本の国土面積は、有守州を含む当時の主要4島のもの。
 日本の国土の7割が山岳地帯のため、平野部に限っての人口密度は約80(人/km2)と推定される。
 旧大東州に限ってみると、古くから日本人の移住が見られたため農地の開発も進んでおり、人口密度は日本の1.25倍程度まで増加している。しかし、大東島は国土の大部分が平野であることから、実質的な人口密度は日本の平野部の人口密度と比較するのが妥当だろう。その場合、旧大東島の人口密度は日本の2分の1以下となる。
 1400年の時点では大東国の総人口は1260万人前後に達しており、日本のそれを上回っている。人口扶養能力が高い平野ばかりの地形のため、今後東日本列島の人口は西日本のそれを下回ることはないだろう。


■動物兵器

 人類にとっての一番の動物兵器とは「馬」だった。兵器という言葉を聞いて意外に感じられる方もいるかもしれないが、「馬」こそが近代に入るまでの最良の移動手段であり機動兵器だったのだ。
 当時、大東馬は日本馬よりも大柄で飼料がより多く必要だった。馬50頭は1日に2km四方(4平方キロ)の天然飼葉を必要とした。
 牧場ならばもっと狭くても同数の馬を養えるだろう。また、天然飼葉は土地を休ませれば数週間後には再度利用できた。
広大な牧場が多くある大東島だから、多くの馬を養うことができた。日本においては、未だに騎兵は偵察や連絡用部隊が専らの用途だったのだが、大東国の武士たちは随分とアクティヴに騎兵を運用している。
 騎兵の発達には、大東島で10世紀頃から徐々に発達してきた新農法についての説明をしなくてはならない。

 新大東州の気候風土は、夏雨型・比較的寒冷な北ヨーロッパ型に近い。
 低温と日照時間の短さのために土地の生産力は低く、山地が少ないために降水が積雪の形で保持されることもないため水資源も偏在している。よって、水不足に比較的強い麦類の生産が行われてきた。
 似たような気候の中世北ヨーロッパでは、三圃制と呼ばれる農業方式が発達していた。冬穀(小麦など)・夏穀(大麦・ライ麦など)・休耕地(放牧地)と、ローテーションを組んで土地を利用した。休耕地では家畜が放牧され、その排泄物が肥料になった。また北ヨーロッパは最後の氷河期が終わるときに、氷河が北に去るときに土をまるごと持ち去った為、土地が痩せていた。この事も三圃式農業が行われる理由となっていた。
 大東国でも、新大東島の一部で三圃制に近い農法の痕跡があるが、本格的に土地を酷使するようになるには、あと数世紀を待つ必要がある。大東島はまだ土地に対して人口が少なく、農業するには効率の悪い土地を放牧専用の土地にしてもまだまだお釣りがくるほど土地があった。加えて大東島の土は比較的肥沃なため、一つの土地で毎年作物を育てても特に地力(土地の滋養分)が衰える事もなかった。

 家畜の飼育の方は、古くは隠鼠人のトナカイ放牧にはじまる歴史があるため、新大東島での生活様式を模索してきた古大東人も放牧を生活に取り入れるのは容易だったと考えられている。むしろ、最初に放牧があり、気候の温暖化に伴い、その合間に農作物の栽培がはじまったのではないかとの説もある。
 そして麦の栽培すら難しい北の大地では、草さえあれば何とかなる牧畜は魅力的な農業だった。
 本格的な牧場の造営は、年貢米の代わりに牛馬の納入の記録がある11世紀頃にはじまったのではないかと推定されている。農業に適さない土地を中心に牧場が建設され、唐の時代に古大東人に伝わった騎馬民族系乳製品の酥、酪、醍醐(原始的なヨーグルトとバター)が安定的に生産されるようになった。さらに数世紀後には、恐らく独自の発展によって、より保存に適したチーズの生産も開始された。
 各種乳製品とトナカイなどの各種保存肉(薫製または塩漬け)は農作物とバーター(物々交換)で取引され、大東人の食生活を変えていった。トナカイ放牧は最も北東地域でのみ存続していた。
 また、剣歯猫は牧畜の発達とともに頭数を増やしてきた。牧畜猫として、ヨーロッパにおける牧羊犬のように活用されてきた。もっとも、基本的に猫科のため、時には家畜を食べてしまうこともあった。

 14世紀には犂(牛馬に引かせる耕作道具)が元から日本に伝わり、日本では定着せずに大東国に伝わった。この違いは、大東島が平坦で各農地も広い区割りがされているため、犂の使用に適していたためだった。15世紀には日本から大東に輸入された犂はけっきょくは「唐犂」と呼ばれ、鉄製農具として鉄犂が利用されている。これは1730年にイギリスで開発されたロザラム犂に酷似している。
 そして犂用の農耕馬として、荷駄用の駄馬として、乳製品の供給源として、軍馬として馬が活用される事になった。軍馬としての需要は戦時以外にはさほどではなかったが、潜在的な馬の供給能力は非常に大きかった。
 加えて大東島では、日本列島と違って馬車の利用が一般的だった。理由は簡単で、土地が広くどこまでも平坦だったからだ。そして馬車の利用も馬が広く使われる大きな要員となっている。
 そして大東での馬は様々な用途で使われるため、より目的に合致した品種の改良がほぼ独自で開始されるようになる。大東の馬は、北東アジア特有の足と首の短い、一見小柄な馬である。そして島での暮らしがさらに体格を小さくさせていたため、大東馬は日本馬ほどではないがモンゴル馬よりも小さかった。しかし小さいからと言っても、力が弱いわけではない。足が短いので走る速度はサラブレッドやアラブ種に比べるべくもなかったが、これらの馬と体重や体格は同程度あった。馬力も相応にあり、軍用、産業用としては十分な力を持っていた。それを大東人達は、優良な品種同士を掛け合わせて、様々な亜種と呼べる種類を作り出した。中には「重種」とすら呼べそうな大型馬も生まれたほどだ。
 大東人にとっての馬とは、それだけの努力を傾ける価値のある動物、家畜だったのだ。

 二大家畜である剣歯猫と馬は、戦虎小屋と馬小屋として併設して飼われる例がしばしば見受けられた。人の居住スペースと重複していることも間々あることだった(剣歯猫は価値ある換金動物だった)。そのためか大東馬は戦虎の鳴き声にも頓着しないという性質を獲得している。大東馬自体が、性格的に安定した(悪く言うと頭が悪い)馬であることも寄与しているだろう。こうした要因も、剣歯猫の家畜化を助長した。そして剣歯猫は、家畜の中でも軍用家畜として重宝された。

 見た目から「動物兵器」の代名詞とされる戦虎こと剣歯猫だが、こちらも家畜として数を増やすと共に軍事組織でも集団で運用されるようになる。数が増えた事で、兵器としてのコストも低下し、供給が容易くなった為だ。
 だが、戦虎はせいぜい10頭程度から編成された中隊規模の運用しかされていなかった。また、オス同士、メス同士でしか戦わせなかった。基本的に「陸の鯱」と言われるほど頭がいい動物だったが、剣歯猫を操る「戦虎匠」以外の人間の言うことを聞かない個体も多いため戦術的には損耗に弱かった。よって大規模な戦闘で使われた例は戦史でも少ない。主な使用方法は小数での奇襲、遊撃戦、戦場偵察で、それも遮蔽物の多い場所での運用が多かった。剣歯猫の嗅覚による「捜索能力」が高く兵士も熟練者が多いので、通常は嫌われる森林での行動も日常的に実施された。
 古大東人や蝦夷の隠れ里では戦虎専門の戦闘部隊もおり、特殊戦では傭兵として戦った記録は数多く残されている。日本列島の「忍者」と並んで時代物の映画などではお馴染みの「虎匠」がこれに当たる。
 補給線の破壊活動が有効な戦術となる16世紀後半の戦国時代以降には、戦虎は遊撃隊に配属されて威力を発揮した。特に夜間戦闘が得意な戦虎は、たった1対(1頭の剣歯猫とその戦虎匠)だけで使い手の能力次第で100人の護衛から成る輸送中隊を全滅させる事例もあった。
 だが、14世紀後半の時点では、まだ有効な戦術兵器として戦虎は見られていなかった。


(2)へ続く