■ファイト、国内国家たち(3)

 大東と日本に共に訪れた「戦国時代」。しかし大東と日本には、一つの違いがあった。
 日本の戦国時代には、織田信長、豊臣秀吉、徳川家康に代表される個人としての英雄が数多存在した。だが大東の戦国時代の最終的な統一には、飛び抜けた英雄が存在しなかった。戦乱の途中での有名人、著名人はいくらでも見付けることが出来るが、最後を締めた「この人」と呼ぶべき人物を捜すのに苦労する事が多い。
 

■皇族の離散・戦国の幕開け

 戦国時代が、それまでの水面下の闘争から中央政府の打倒をも目指すサバイバルに発展したのは1562年であった。

 旧大東島の半分(直轄地は4分の1程度)を支配下においてきた天皇領には、血縁で繋がった皇族貴族が千氏以上も集中していた。長子相続の抑制はとうに失われ、子の全てに爵位と領地を与えようとした親心が招いた事態だった。
 天皇領には、爵位を剥奪された地頭有力者が不満を鬱積させ、民衆レベルの不満が1562年の「壬戌大良五年の役」の原動力となった。
 有力地頭が各地で蜂起し、朝廷の要請により大東軍の召集命令が発せられた。
 これに応える形で近隣の保科氏が軍勢を率い、天皇領各地に展開した。天皇領の主要な城や町を短期間で支配下に置くと、保科軍は大東政府の軍政当局に指揮権の委譲を拒否した。
 事態がここに至って、領地から弾き出されなかった有力皇族は危機感を意識し、自領の兵の動員をはじめた。
 保科領の南隣に位置する黒姫伯領でも米の大量購入がみられ、保科軍は天皇領から撤退せざるを得ない。皇族は東京に逼塞しながらも事態を楽観していたが、この期待は木っ端微塵になった。
 保科軍は黒姫軍の領内通過を認めたのだ。いや、それどころか同盟関係にあった。

 天皇領が決定的に崩壊したのは、古くから朝廷に官職を得て、皇族とも浅からぬ関係にあった坂上伯の天皇領侵攻だった。
 1563年、北部天皇領は坂上軍により失われ、西部天皇領は照神道信徒が蜂起することで失われた。
 脱出する決断が遅れた中小皇族の、家族と金銀財宝を満載した馬車が各地で襲撃・掠奪された。多数の皇族が慌てて東京に逃れる過程で命を落とした。
 大東天皇は、騒乱鎮圧のために全国に叛徒討伐の詔を発したが、それは大東政府の命令ではなく、皇族という一つの爵位を持つ貴族の”要請”という形態をとった。なぜなら、大東国皇帝としての軍召集命令と反乱鎮圧命令はとうに発せられていたからだ。
 この二重命令は、才覚次第で領土を切り取り放題の戦国の世の到来を実感させるものだった。


■馬名行義の台頭と栄光、そして退場

 日本の織田信長と同列かそれ以上に語られる事が多いのが、戦乱初期に活躍した馬名行義という戦国武将だった。
 行義は幼い頃から人当たりの良い人格者とみられていた。自信に満ちた態度と、耳に心地よい声の美男子。広く家臣や民の声に耳を傾け、落ち着いた目で真実を容易に見分ける英主。しかも一度決断すると躊躇なく果敢に相手をねじふせる行動力をも具有した。
 また、権力者が得てして不得手な弱者の感情の理解も深く、常に有用な人生訓を二つ三つ用意しながら喋る優秀な頭脳と併せて、誰もが従う指導者の器であった。
 加えて、兵法・経済・漢文や詩に通じ、ギリシャ起源の幾何学にも詳しいという「万能の天才」だった。
 噂程度の話しとして一種の異常性愛者や精神異常者だったとも言われるが、彼が残した業績には文句の付けようはない。
 しかし彼は、織田信長と同程度か下回る運しか持ち合わせていなかった。それが大東近世史の悲劇だったと言われる事が多い。


・1563年
 加良勲爵は大東政府の召集命令に応じて兵を動員したが、同年の坂上伯による天皇領侵攻に際して踏み潰され、そのまま再起不能になっていた。
 加良氏の当主は、無謀にも坂上伯に城付きの騎馬隊だけで立ち向かい討ち死にしていた。その後の加良氏の混乱を鎮めたのが、当時19歳の若き当主だった馬名行義であった。

 馬名氏は、加良勲爵領内の地方行政区域を統治する地爵であった。古州街道・小苗街道といった主要街道の分岐点の整備と関所の管理を代々の官職としていた。
 行義は境都・永浜から大消費地東京につながる内陸交通路を管理するだけあって、経済感覚に優れていた。また、優秀な船乗りを多く輩出する素島勲爵の娘が輿入れし、妻となっている。このため海に関しても深い理解を持っていた。

・1564年
 馬名行義は加良勲爵内の同爵位の敵対勢力を次々と下し、勲爵の地位を獲得する。この時点で、人々は「若き英雄」の登場に喝采を叫んだ。

・1565年
 馬名行義は坂上伯の領内通行を禁じ、高埜公と同盟を結び挟撃することで坂上伯は衰退した。坂上伯領の半分を獲得し、更に旧天皇領を吸収することで馬名氏は100万石を超える大国に成長した。その後坂上氏は、貴族としての命脈は辛うじて存続するが伯爵の位も名実共に失う事になる。

・1568年
 高埜公は馬名氏の先導で首都東京城に入り、朝廷の再建と大東国の行政刷新を成し遂げた。
 馬名氏は功績により勲爵から伯爵に取り立てられ、朝廷内で重要な官職を得た。
 大良天皇の正妻は若すぎる死を遂げ、高埜氏の娘が大良天皇と再婚した。こうして、高埜朝大東国の基盤が着々と整いつつあった。

・1570年
 高埜氏が復興した朝廷を偽朝と断じる田村公は、全国に偽朝打倒の檄を飛ばした。
 高埜包囲網が結成され、高埜公は田村・草壁・保科・黒姫・笹森・西原・長瀬の包囲攻撃を受けることになった。
 馬名氏は、主に遷鏡南部の保科・黒姫を相手どり、苦しい戦いをすることになる。

・1571年
 馬名氏は征東の大国である多田野氏と同盟。
 大坂の富豪たちの意向は、多田野氏が馬名と同盟して、素島海軍の力を得ることを当てにしていた。
 大東海軍における反乱の結果、海軍艦艇の多くは馬名-素島同盟が掌握していた。だが海軍維持費に困りほとんど活動できずにいた。そこに富裕な大阪が素島海軍に金を提供すると約束したのだから、馬名氏にとれば渡りに船であった。
 大坂は、南都商人の支援で強大化する茶茂呂海軍の海賊活動で損害を受けていた。また、南都は琉球経由の南海貿易で伝統的に有利な立場にあった。大東で当時まだとれなかった砂糖や明の生糸・織物の貿易競争で劣勢に立ち、大阪は危機感を抱いていたのだ。

 同年、名門貴族の椎名氏が滅亡。

・1572年
 「鳥島沖海戦」。素島海軍と茶茂呂海軍が戦う。以後、海上の覇権は大坂側が得る。この海戦は、西欧と同程度の直船(ガレオン船)同士が、大砲の舷側砲火の応酬を行い、その後に切り込み合うという戦いをした最初の例となった。以後、従来型の戦闘よりも大砲を撃ち合う近世的な戦い方が主流となっていく。

 同年、馬名・多田野同盟と保科・黒姫・茶茂呂同盟が「亜麻畑の戦い」で交戦。馬名・多田野同盟が勝利。
 馬名軍は、大坂・東京の二大都市で町民を徴募した民兵と火縄銃を組み合わせた”軽装銃兵”を投入した。鎧をほとんど身に着けず、剣技の教育は一切ないため銃と槍しか使えない。一方で、指揮を円滑化するために、士官の数は一般的軍団の倍とした。
 金で集めた民兵であるためほとんど実戦力として期待されなかったが、密集隊形で運用した際は、意外な頑強さを発揮することがわかった。

 1573年
 高埜氏が頼りにする境東府が、総力を挙げた田村氏らの軍勢によって攻略される。この戦いでは、多数の大砲が使用されており、大東の新大東州の人々が火力増強に大きな努力を図っていた事を見て取ることができる。
 強大な騎兵を有する田村氏に、高埜氏は野戦では勝てない。
 「境都の戦い」で高埜軍と田村軍が激突し、予想通り田村軍が大勝した。この戦いでも、騎馬や剣歯猫だけでなく、大砲、鉄砲も大いに活躍した。この頃田村家に仕え「鉄砲馬鹿」と呼ばれた太田二郎左右衛門が、境東府攻略以後の戦いを担い、そして多くの勝利をもたらす事になる。
 敗北後、高埜氏は馬名氏に援軍を要請したが、馬名行義は援軍を送らなかった。

・1574年
 高埜包囲網は狭まり、片脇氏までも高埜氏を攻撃した。東京近辺の高埜公爵領からも兵が抽出され、馬名領を通過して包囲網に必死で抗戦した。

 同年夏、馬名氏は高埜氏との同盟を破棄。
 断末魔の高埜氏を滅ぼしたのは、もと同盟国である馬名氏による侵攻であった。自分の身を守れぬ国が同盟国からも見捨てられるのは、歴史が証明するところである。
馬名氏は、東京周辺の高埜領を次々と併呑した。東京御所と政庁も馬名氏の支配下に入り、その石高は400万石を上回った。

 今や1000万石近い領域を支配する巨大な同盟体となった高埜包囲網。田村氏を議長とする論功行賞会議は、高埜領分割で大きく揺れた。
 このような分割競争では、誰もが満足する論功行賞など不可能である。不満を持った貴族が次々と会議を中座するなか、会議は物別れに終わった。
 田村氏は、次なる敵をつくることで同盟の結束を図ろうとしたが、そんな展開はとうに行義が読んでいた。次なる敵として最適なのは、もちろん東京を押える馬名氏だからだ。
 馬名氏と田村氏の密使が全国を飛び交い、1576年までに大東島の主要領主は2大勢力に取り込まれた。
 これ以後、大東の二つの勢力はそれぞれの主要地域から単に「北軍」、「南軍」と呼ばれるようになる。

 照神道と主神道は、それぞれ馬名氏と田村氏の支援を受けるようになった。両宗派がつく2大勢力のうち、勝った方が新しい大東国の国教となる約束を、それぞれのパトロンと交わしていた。

・1576年
 ”大東の「長篠の戦い」”とも呼ばれる「礼奈須の戦い」が発生。ある意味において、大東の命運を決した戦いとも言われる。
 日本での鉄砲戦術を追跡研究していた田村氏は、長篠での惨事を重大に受け止めて騎馬戦術を練っていた。また夜襲も考慮した布陣を実施し、域内で大量調達した戦虎で編成された鉄虎部隊を時期を見て大量投入するつもりだった。
 同様に馬名氏も鉄砲を中心とする火力戦の研究を続け、”礼奈須の戦い”に至った。
 織田信長と
馬名行義の違いは、馬名行義が大砲も実戦投入した点になるだろう。しかし火力に対する歴史の浅い大東において、技術、教訓共に不足していた。
 対して騎兵運用に関しては円熟の域に達していたし、田村氏の武将や軍師達は非常に良く研究していた。そして何より、北の騎兵は勇敢で狡猾だった。

 当日の戦闘は、互いに鉄砲兵を全面に押し出した銃撃戦となり互いに一歩も譲らず戦った。
 このため長篠の戦いのように、一方がもう一方の野戦陣地に正面から突撃するという事はなく、投入された戦力密度の違いによって戦場が動いた。そして当然のように膠着状態に陥る。こうなっては軍事の天才であろうとも、何かが出来る余地は少ない。そこを3万の数を揃えた田村氏を中心とする北軍の騎馬集団が、戦場の迂回に成功。馬名行義率いる南軍もこの迂回突破を予測していたが、相手側の戦力が予想を上回っていた為と、相手側の戦虎部隊による陽動に戦力を取られ後方を攪乱され過ぎた為、北軍の攻撃は成功した。
 この結果、南軍右翼は総崩れとなり、馬名行義はいつも通りの素早く賢明な判断によって総退却を決意。
 ここまでは問題なく、その日の戦闘は南軍殿のがんばりもあって南軍惨敗は何とか回避された。

 しかしその日の深夜、事件が起きる。
 退却の途中で薄く伸びる隊列に、北軍の誇る戦虎遊撃部隊が総力を挙げて襲いかかった。剣歯猫の数は6個鉄虎大隊、2個戦虎大隊の合わせて1100匹に達したと記録されている。戦虎が千虎となって襲いかかったと記録される夜襲だった。
 自らの犠牲と今後の戦いすら省みないような投入に対して、十分警戒していた南軍は各所で襲撃を受けて混乱した。
 そしてその混乱の中、最精鋭の戦虎部隊が馬名行義の本陣と疑われる場所を数カ所攻撃した。
 こうした場合に備えて偽の本陣や影武者を用意していたが、この時ばかりは北軍の物量戦がものを言った。

 翌日、朝日が昇るまでに北軍は引き上げたが、南軍では混乱が続いていた。
 馬名行義の姿が見えなくなっていたからだ。それでもまだ、戦場で消えた後に後方で合流した事例も有ったため、この時南軍は辛うじて崩れず後方の陣地及び城塞へと後退した。
 そうして数日さらに一週間以上経っても、馬名行義は人々の前に姿を現さなかった。
 人々は一人の英雄が消え去ったことを実感した。

 後世の判断は一部で分かれているが、馬名行義は決戦の深夜の夜襲で戦死したものと考えられている。
 そして一人の英雄の死は、その後数万、数十万の同胞の血でもってあがなわれる事になる。
 大東での戦国時代は、馬名行義の強制退場によって新たな局面を迎えることになったのだ。
 
 
■戦国の南北戦争

 馬名行義の舞台からの退場によって、南北陣営に分かれたばかりの双方の陣営は混乱した。
 基本的に「南軍」は、善良な独裁者とも言われた馬名行義によって成立していた。対する北軍も盟主こそ田村公爵家だったが、実体は「反馬名行義」同盟だった。
 このため双方ともに軸となる部分を失い、一事休戦状態となり、このまま戦乱ごと霧散してしまうのではないかと思われた。
 だがこの頃の中央行政も、馬名行義によって成立した部分が少なくなく、戦乱を治めるにはどちらかの軍事陣営が勝利を掴むより他無かった。また、旧高埜領の分割を含めて領土問題も数多く残り、さらに10年ほど続いた戦争での恨み辛みもある。さらには、巨大勢力となった照神道と主神道が、互いの主導権を巡って対立を深めていた。

 北軍、南軍で分かれたとき以下のように分かれたそれぞれの諸侯だったが、結局は大きな変化はなかった。
 唯一の違いは、馬名氏にもはや馬名行義の姿はなく、馬名行義亡き後の馬名家と家臣団に代わりを担える武将が存在しないと言う事だった。

 格軍陣営と勢力(1576年時点)
北軍: 総石高1030万石  大諸侯: 田村・草壁・笹森・西原・長瀬・茶茂呂・(河鹿・小牧・向坂・古室)
南軍: 総石高964万石   大諸侯:  馬名・多田野・黒姫・保科・守原・利波・片脇
中立: 大諸侯:  駒城・松原・倉田・相良

 なお、日本の戦国時代が早く始まったのに、天然の要害、峻険な山岳や河川、海で分断されたため有力な軍事勢力の巨大化が遅れていた。そして織田信長の登場で、ようやく二大勢力といえる形が出来たと言える。
 一方、国土が平坦な大東島では、日本に比して短時間で敗北した領域国家が地上から消されてしまう。
 早くも二大勢力化した大東では、戦闘に投入される資源も飛躍的に増大しており、合戦はヨーロッパや日本でみられるどんな戦いよりも巨大なものになっていた。近似値は中華大陸中原での王朝交代時期に見られる大規模な戦闘だが、近世的というより火薬式前方投射兵器を用いる戦闘はいまだ似たような事例が見られない為、この時期としては世界で唯一大東島のみで行われた戦闘といえる。
 両軍の主力部隊が犇めいた旧大東州の中原である和良平野は、双方30万の兵力が布陣、そして激突する戦場となった。

 南軍は、その経済力にものをいわせた総力戦を得意とした。優勢な海軍力を縦横に駆使し、北軍がその兵力を沿岸防備に割かざるを得ないように仕向けた。このときの南軍の戦術は、日本において織田信長や豊臣秀吉などもよく研究したという。
 大坂は従来の青銅による鋳造式よりも進んだ、鍛造式の鋼製大砲(日本でいう大筒)の一大生産拠点になった。砂鉄資源はともかく青銅の材料となる銅と錫資源のない大東では、鉄を用いた大砲製造の研究・開発、そして量産化が日本列島より早かった。また大東は、一部ではヨーロッパ並に家畜を有するため、人造硝石の取得が日本よりずっと容易かった事が、大砲の普及を促進する大きな材料となった。
 そして当初は要塞防御用に運用された大砲だったが、16世紀末には積極的に野戦でも活用された。帆走式の直船が主力となった軍船にも盛んに搭載された。

 北軍は騎兵、火竜兵(鉄砲騎馬)と共に、戦虎遊撃隊を積極的に活用し、両軍の勢力が拮抗した仙頭台地周辺が主戦場になった。
 南軍は海上輸送を以って出来る限りの軍需物資輸送を計画したが、内陸部の輸送網は馬車などを用いた輜重隊に頼るしかない。そして、総延長数千kmの輸送路全てに充分な護衛を付き添わせるのは不可能だった。ここに戦虎の活躍場所があった。
 また、北軍は騎馬の豊富な供給を活用し、騎馬突撃を主戦法とした。
 旧来の騎馬弓兵や騎馬槍兵に代わり騎馬鉄砲隊も組織された。騎馬鉄砲隊を配備するには火薬の原料である硝石の供給が必要だったため、牛馬の屎尿から大量生産が図られた。
 そして巨大化した戦争に対して、より物量戦に傾いた南軍は、中央からの指導があまりうまく行かなかった。
 主な原因は、戦争全体を一段高い場所から客観的に見ることの出来る指揮官、参謀の不在にあった。また中心に座る指導者が事実上いないため、諸侯間の連携が取れないことが年々増えていく事になる。
 北軍も決して一枚岩ではないし優秀な指揮官に恵まれたわけでもなかったが、少なくとも田村公爵家を中心として動いており、また北の兵士は勇猛な事で知られていた。


・1577年
 「小泉湾砲戦」、「南々実の戦い」及び「登麦の戦い」。
 二者山脈は比較的傾斜の強い山脈で、大部隊が越えることが不可能だった。また陸南の倉田伯領が中立国の壁であったことから、孤立していた守原氏は割と有利に同じ平野に領土を持つ草壁氏と戦ってきた。
 摘麦を二分する草壁氏は、田村氏の支援を受けてはいたが、南軍の海上封鎖で主要産品の麦の搬出が滞って経済的な苦境に陥っていた。
 窮地に陥っていた草壁氏の援軍として、田村氏は境東府から8万から成る軍団を進発させた。
 そして北軍の行動に対して、意見の統一と兵力の派遣が遅れた南軍は一歩出遅れた。
 南軍が遅れて派遣した艦隊は、待ちかまえていた北軍の艦隊に阻止された。さらに北軍艦隊は南軍の海上封鎖を破り、草壁氏は一息つく事になる。
 そして田村軍主力と草壁軍は、連携を取りながら分進合撃を実施。想定を上回る大軍を前に内戦防御の優位を活かせなくなった守原軍は、まともに戦う事無く後退を続け、強いられた決戦である「南々実の戦い」及び「登麦の戦い」によって壊滅的打撃を受ける。

 一連の戦闘の結果、守原氏は北軍に降伏。北軍もこれを受け入れ、守原氏当主の守原宗弘の追放、守原伯領の大幅割譲、守原氏の北軍参加をもって幕を閉じた。
 戦闘の結果、ほぼ同じだった南北軍の戦力均衡は、戦線の整理もあいまって以後北軍に有利(10.5対9.5→11対9)になっていく。

・1579年
 「向日葵の戦い」。
 名称に反して、人の背丈の1.5倍の高さに茂る大東ヒマワリの畑は地獄と化した。
 新大東州をほぼ平定した北軍は、いよいよ南軍への攻撃を本格化。その最初の戦いがこの戦闘だった。
 そして南軍も、ここで北軍を押しとどめ、さらには勝利することで戦略的優位を得ようとした。このため双方20万以上の大軍を投入する、極めて大規模な戦闘となる。双方の陣営に与した神道習合兵も多数参加した。
 日本の淡路島の半分ほどの広さの畑の中での遭遇戦が発展し、機動性を与えられた大砲も投入した戦いになった。
 目の前に突如として現れる北軍兵に、至近距離から南軍砲兵の半貫散弾が火を噴き、砲兵は背後から戦虎に引き裂かれる。怯えた銃兵のつくる円陣の周りを素早い戦虎の影が踊り、物音ひとつさせない一撃離脱で一人ずつ兵が食いちぎられてゆく。銃兵横隊は、相手のまばたきが見える距離で火縄銃を撃ちあう。
 戦場は混沌としたまま推移し、結局勝者のない戦闘となった。

 そしてこの時の戦闘は、大東での戦闘を象徴するものだった。
 当時の国家は経済力が弱体で、同時に金融システムも未発達であるために絶え間ない戦争は不可能であった。だが、人口密度と経済力の高い大東で二大勢力化した結果、双方の勢力がある程度の規模の常備軍を維持し動かし続けることが可能になっていた。
 半世紀後、凄惨な「30年戦争」がヨーロッパ中部を荒廃させるまで、大東における南北戦争に匹敵し得る戦争は世界中探してもみられなかったほどだ。
 とはいえ、巨大な軍隊が戦うためには食料や火薬、鉛など大量の物資が必要となる。馬にも飼い葉が、戦虎にも多くの肉がいる。当然ながら、大規模な戦闘には金がかかった。そしてさらに、鉄砲などの前方投射兵器を用いた戦闘は、今までの戦闘では考えられないほどの死傷者、いや戦死者を発生された。「向日葵の戦い」でも、両軍合わせて40万人以上戦闘参加したうち、全体の10%近くが最終的に戦死していた。負傷者を含めるとその数は全体の3割にも達した。訓練度の低い神道習合兵による無茶な突撃が死傷者を増やした原因のかなりを占めてはいたが、だからといって戦闘を頻発させたくなる損害率ではなかった。
 このため双方の陣営は、従来の城塞都市や戦場での野戦築城を発展させた戦闘形式の研究を行ったが、この時代要塞に依った戦闘を確立するには至らなかった。大規模な塹壕戦など論外だし、概念すらなかった。
 仕方なく従来通りの野戦で決着を付けることとしたのだが、自らが有利になる戦闘を求めると必然的に大軍を積み上げることになる。そして双方が似たような事をする為、戦われる戦場での兵力差はどちらも決定的にはならなかった。しかも戦闘が起きても、当時の技術的な限界から大平原に布陣する双方数十万の大軍を、軍事的意味のある有機性をもって動かすことは至難の業だった。仮に天才軍師や武将がいても、命令伝達がうまくいかない事が多いのだ。これでは、相手戦力の撃滅を狙った決戦の意味も低下してしまう。
 結果、両者共に「決戦」に臆病となり、我慢の限界に達した陣営が動くことで「決戦」が発生した。
 しかし一つの戦闘で数万の犠牲者が出ても、双方の陣営は損害を短期間で埋めるだけの国力を有しており、戦争の決着はまったく見えず泥沼化した。

 そして戦闘をしない間は謀略合戦となり、双方の陣営が相手の足を引っ張ったり交渉ごとを行った。
 そうした出口のない戦いは断続的に10年近く続き、その間派手なだけの戦闘が年何度も発生した。戦闘は記録に残されているだけで14回。それ以外の小さな戦いを全て含めると数百、数千の小競り合いが実施されたと考えられている。これらの戦いでは、誰がどこで戦ったのか、戦闘自体の結果がどうだったのか、という点はあまり重要ではなかった。それが大東島での戦国時代中期の状態だった。

・1589年
 「半月湾の戦い」。
 南都を巡る合戦で最大の戦い。
 豊臣秀吉が日本列島の統一に王手をかけようとしていた頃、大東島での海上戦闘は最終局面を迎えようとしていた。
 基本的に海上では、経済力と海運力に優れた南軍が優勢だった。しかし新大東州が平定されて以後、余力のできた北軍は海軍力の整備に一定以上の努力を傾けるようになった。そして今まで旧大東州に占められていた海外貿易の権利獲得を狙う北部の商人達も、北軍の海軍力整備に積極的に協力した。
 この結果、この時までに北軍は有力な水上戦力を保有するようになる。数年前に行われた小規模な戦闘でも、北軍海軍は南軍海軍に対して対等に戦えるようになっていた。しかし流石に大東島南端にまで、その勢力をなかなか伸ばせずにいた。

 今まで南軍が大東島全土にいつでも上陸可能だったのに対し、北軍の茶茂呂氏は孤立していた。
 同族から出た裏切り者の黒姫氏に圧迫され、10年にわたり黒岩山脈を防衛ラインに陣をひき防御に徹してきたが、海上封鎖で貿易は途絶。領内の不満は高まっていた。
 この状態を、北軍の側がうち破りに来たのだ。
 当然、北軍の行動を阻止するべく南軍も動き、ここに「半月湾の戦い」が発生する。
 情報入手が早かったため根こそぎ戦力を集め、さらに訓練度が高いため、戦闘初期は北軍が戦況を優位に運んだ。
 しかし
馬名行義亡き後、不遇を強いられていた素島水軍が、決定的瞬間で南軍に対して反旗を翻す。しかもここで、茶茂呂氏の誇る優秀な造船技術で建造された、当時大東最大を誇る三檣型の”直船”による艦隊が南軍艦隊に突撃を実施。予期せぬ状況の連続に南軍艦隊は瓦解し、多くの船を拿捕されて大敗を喫する。

 これで南北の制海権も逆転し、今度は北軍が南軍の制海権を脅かし、地域によっては海上封鎖を実施するようになる。特に素島水軍の拠点に近い首都東京は、基本的に南軍の支配を受けていたため海上封鎖の対象とされる。陸路が残っているため孤立するわけではないが、これで南軍の資金源の一つとなっていた東京の商人達は大打撃を受けることになる。しかもそれ以上に政治的効果は高かった。
 首都東京の御所にいるまだ若い大展天皇や皇族、王族は、戦乱でどちらが有利かを即物的に見る傾向が強まり、馬名行義もなく戦闘にも負けてばかりの南軍に対して、一つの「意見」を突きつける。「そろそろ講和してはどうか」と。
 しかしこの状況での講和は、南軍諸将の敗北を意味するため、この時は断固として断る。

 「水地島の戦い」。
 この年二度目の大規模な海上戦闘。後のない南軍及び大坂、東京の商人達が総力を傾けた艦隊による物量戦が功を奏し、東京の包囲の輪は解かれる事になる。
 しかし南軍の損害も少なくなく、以後双方の海軍戦力が大きく低下したまま海上での戦いも膠着状態に陥る。

・1590年
 「和倉湖会戦」。
 北軍による大攻勢。東京封鎖失敗を受けて、一度地上での兵力を再編成して改めて大軍を整えた進軍となった。
 南軍も大軍を集めて互いに相手を認めつつ進軍したため、双方合意の上での戦闘である「会戦」となった。
 参加兵力は双方合計で50万人を越えたが、30万近い兵力を揃えた北軍が優勢だった。
 兵力の質も、既に財力で均衡しているため火力装備は似たようなもので、騎兵の優位、北軍固有といえる戦虎を有する北軍の優位にあった。
 このため南軍は、一部を片脇氏が作り上げた水路の中に野戦築城で布陣させこれを予備兵力とすることで、南軍の騎兵が容易に使えない状態を作った。さらに全軍の野戦陣地をより強固にする事で防戦姿勢を強め、少なくとも負けない戦闘を作り出そうとする。
 この南軍の意図は当たり、双方巨大すぎる軍隊の統制がうまくいかない事も重なって、戦闘は規模に対してしまりのないものとなった。

 結局この戦いでも南北双方の決着は付かず、双方膨大な損害を積み上げ疲弊しただけだった。
 そして戦いの後、東京御所から双方に使いが出た。今度は勅書だった。
 内容は依然と同じで「いいかげん民の事を考えて講和しろ」だった。そしてこの時は、天皇から民の言葉が出たことが重要だった。すべてが形式化していようとも、全ての民を統べるのが大東天皇であり、民を代表しての言葉を諸侯は完全に無視も出来なかった。
 双方の陣営は、例え形だけの茶番劇でも一度話し合いの席に座らなければならない。
 こうして一事休戦と東京での会議が開催される運びとなる。

・1591年
 「東京大火」。
 天皇の勅書を受けて諸侯が集まりつつあった東京で、突如大火事が発生した。
 大東の建造物は煉瓦造りが多いといっても、多くの木材を使用する。そして一度に複数箇所で大規模な火災が発生すると、主に民間レベルだった消防機能は一瞬で麻痺した。首都として火事対策で道幅が広く取られていた東京だったが、折からの北風に煽られる形で短時間の間に火災はほぼ全市街に広がった。特に火事は、それぞれの御門、つまり城塞都市の主要な門扉付近で起きており、街から逃げ出すことは難しく、人々は大混乱に陥った。
 火事は文字通り三日三晩燃え続け、「その様天を焦がすがごとく」と揶揄された。

 そして火事が収まってみると、未曾有の災害が人々を襲った事が分かった。
 火事の災禍は貴賤を問わず、特に東京の地理に不案内な地方領主達に多く出た。これは南軍、北軍違いないが、地理的関係から南軍諸将の方が東京に来た事が多いため、北軍の方により多くの死傷者が出てしまう。
 そして火事が起きた初期の頃から、この火事が謀略によるものだという噂が大東中を飛び交った。
 北軍は南軍を南軍は北軍を非難した。これでは会議どころではなく、辛うじて離宮に非難した天皇や皇族は何も出来なかった。
 しかもこれが謀略だとした場合、天皇の言葉を完全に裏切った事になり、その罪は非常に重く、誰もが別の者が犯人だと言い立てるしかなかった。

 しかしこの時の犯人は、大東人ではないという説が強い。
 後世の多くの研究者は、大東の権威を全く意に介さない日本人こそが真犯人だというのだ。

 なにしろ、この頃日本列島では、着々と大東大遠征の準備が整えられつつあったからだ。

 

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