■ファイト、国内国家たち(4)

 大東と日本の「戦国時代」は、日本の豊臣秀吉が先にゴールの帯を切る事になった。
 しかし日本の独裁者に上り詰めた豊臣秀吉は、「真の日本統一」という次なるゲームを開始する。
 

■「第三次日本・大東戦争」

■文禄の役
(1592年〜93年)

 「第三次日本・大東戦争」は、西暦1592年から98年にかけて行われた。
 大東名は「七年戦争」もしくは「大展大乱」。日本名は「文禄・慶長の役」。

 戦争の発端は、1590年秋に豊臣秀吉が大東国に日本の天皇への「入貢」を求めたことが発端となる。この行為自体は、日本の歴代権力者が何度も行ってきた事なので、本来なら取るに足らない事件だった。しかしこの頃すでに、豊臣秀吉は大東島への大規模な侵攻を決意していた。その証拠として徳川家康の関東転封に連動して、関東各地沿岸部の港湾機能の強化や、江戸の街がある香取湾入り口に巨大な野戦陣地としての城塞建設を始めている。
 この事を大東側も商人などからの情報で伝え聞いていたが、自分たちの戦国時代で身動きできない事もあってほぼ無視された。
 しかも1591年3月に起きた「東京大火」で自体はさらに混沌とする。

 この火事で、大東の多くの有力諸侯が焼死したり大やけどを負った。せっかく再建された東京の中央行政組織も多くが破壊されてしまった。つまり大東の中央行政と地方行政の双方が、大打撃を受けたのだ。加えて火事の原因を南軍、北軍双方が相手に求めたため、沈静化の動きを見せていた大東の戦乱は再び燃え上がる気配を濃厚に見せていた。急進的な二つの武装神道の信徒も、再び増加に転じた。

 一方日本では、豊臣秀吉の号令のもとで「大東征伐」の準備が急速に進んだ。
 関東地方南部に、続々と日本中からの諸侯が集まり、天然の良港でもある横須賀村、浦賀村に造船所と多数の陣屋が作られた。徳川家の新たな本拠地となった江戸も、全国の諸将が手伝う形で急速に開発され、まずは新たな街としてではなく軍事拠点としての整備が進んだ。
 そして同年秋、再び日本から大東に使者が送り込まれる。
 この使者の持っていたのは勅書で、「入貢」と大東天皇の日本天皇への謁見を求めた極めて権高で一方的なものだった。加えて今回も、日本側が大東を国家とは認めず、相変わらず「反逆者」「蛮族」としていた。この時の文書でも「東夷」という言葉が使われていた。そしてこの文書では、要求に応じない場合は討伐軍を送り込んで残らず征服すると、この時代の言葉の強い調子で書かれていた。

・1592年
 同年3月、「日本丸」と名付けられた三檣型の巨大”直船”を総旗艦とした日本軍の「大東征伐軍」が香取湾口近くの横須賀を出撃。周辺部から多数の艦船、船舶が合流しつつ、既に中継拠点として完成していた八丈島城沖合で総数400隻もの大艦隊を編成した。
 最も巨大な船で、船員と兵士を合わせて約1000名。小型で外洋航行能力の低い小型船で30名程度。平均150名、合わせて6万の兵員を乗せた大侵攻部隊だった。上陸を予定する部隊だけで約4万名。船の規模に対して人の数が少ないのは、多数の武器、当面の補給物資、多数の馬を同乗させていたからだった。また戦闘艦艇の多くは多数の大砲や鉄砲で武装しており、ヨーロッパのガレオン戦列艦などと同様の戦法も十分に体得した優秀な艦隊だった。搭載火砲の数は、当時のヨーロッパの船舶よりもかなり少なかったが、相手が同程度の大東である以上、特に問題はなかった。
 この4年前に破滅したイスパニアの「無敵艦隊」に匹敵するとよく言われるが、無敵艦隊は水夫、陸兵を含めても約2万7000名、艦船合計130隻と、この時の日本艦隊の半分以下の規模でしかない。ヨーロッパの艦船の方が火砲の数、質では圧倒していたが、同じガレオン船を用いるので、やはりこの時の日本艦隊の方が強力と考えて問題ないだろう。しかも春の東日本海を乗り切るための日本の軍船や船舶は、当時のヨーロッパの一般的な艦船よりも航行能力が高いのが一般的だった。これは、日本、大東の間の長年の航海における技術の蓄積と、15世紀の大陸からの技術導入、そして17世紀に入ってからのヨーロッパ船舶の模倣によって形作られたものだった。
 侵攻に参加した大東征伐軍は、地理的条件から東海から奥州にかけての大名が主軸となった。このため新たに東海地方に封じられた豊臣恩顧の大名、有力大名の徳川、上杉、蒲生、伊達、佐竹などが主力となる。西国の諸大名も動員されるが、距離の関係もあって主に船舶方面のみとされた。

 そしてこの大艦隊は、洋上で特に大きな迎撃に会う事もなく大東島に上陸を実施。何とその上陸先は、大東最大の港湾都市にして旧都である大坂だった。自らが支えた南軍の窮地に連動した自らの商業的苦境に対して、大坂の商人達が自らの祖国を売ったのだ。しかも大坂の商人達は、豊臣秀吉(日本)による「真なる天下統一」の暁には、大東の貿易独占、日本、大東間の貿易独占を、裏切りに対する交換条件としていた。
 ある意味現世での利益追求を求める大東人らしい選択だったと言えるだろう。

 しかし、大東人による裏切りによって日本の大軍が大東の大地を踏んだ事に、大東人達は混乱に陥った。
 近隣の多々野氏は直ちに近隣と図って迎撃体勢を整えようとしたが、多々野氏にとっても最も重要な都市である大坂に入り込まれ、そのまま懐深く日本の軍勢が一気に攻めかかって来たため為す術がなかった。多くの戦力を北軍に指向していたため十分な迎撃体勢が取れなかった多々野氏は散々に破れ、自らの本拠地であり先祖伝来の土地だった倉峰城を奪われ、一族郎党は命からがら近隣の保科領へと落ち延びることになる。
 その間も日本本土からの増援部隊の投入と、旧大東州中原での進軍は続き、北軍にばかり目を向けていた南軍諸将を各個撃破の形で次々にうち破っていった。その様は快進撃と呼ぶに相応しく、秋がくるまでに保科伯、黒姫伯も敗れ、片倉勲爵は自らの領内での伝統的閉じこもり戦略に入って何とか耐え凌いだ。そして旧皇領、旧高埜公領は有力諸侯がまだ地盤を固めていない事もあって再び戦場となって日本軍に蹂躙された。
 夏までに15万人が送り込まれた日本軍は、僅か半年の間に旧大東州の約3分の1を地域を占領するに至る。
 この間、東京大火で当主を含めて多くの有力者を失ったばかりの大東各諸侯の動きは常に鈍かった。

 しかしこの夏、一つの小さな事件が戦争の転機となる。
 旧高埜領内で戦虎を連れた一人の持梓巫女(じしみこ)が、天照大神、
天之御中主神双方のお告げを聞いたという噂が広まったのだ。曰く「日の出づる東国(大東国)の信徒が皆手を携えた時のみ、死の国(西の国)より至る悪神を退ける事が出来る」というものだった。
 そしてこの言葉に、日本軍に囲まれた状態の照神道は飛びつき、
主神道も民心を得る為にも遅れてはならじと続く。そして両者は日本人を退ける間という期間限定ながら手を結び、こうして後世に名も残されていない一人の少女が大東の救世主に祭り上げられることになる。
 巫女は「大東のジャンヌダルク」と後に言われ、持梓巫女から取って「梓(あずさ)」と呼ばれた。またそれなりの血筋だった事もあって「梓の巫女姫」と呼んだとも伝えられている。
 そして彼女を名目上の指導者として、旧大東州の多くの信徒達が一斉に日本軍に対しての攻撃を開始する。
 ある者は武器を取り、ある者は情報を集め、ある者は服従したふりをして日本兵にウソを教え、ある者は日本兵を自らのワナに陥れた。
 当然日本側の反発は強まり、反発と日本兵の報復が強まれば強まるほど信徒達の抵抗も比例して強まった。
 そして何より、当時の大東の神道勢力は、神道習合兵という大東の大貴族すら凌駕する巨大兵団を持っていた。

 二つの神道勢力は、極めて短期間のうちに兵団を整え、大東の諸侯達を無視するかのように日本軍に対して反撃を開始する。神道勢力の権力者達の視線の先には、貴族達を形骸化し、自らこそが天皇のもとで権力を握るという未来を描いていたのだった。彼らにしてみれば、未曾有の国難の到来はヨーロッパ世界の「王権神授説」による絶対王政のような権力を作り出すための千載一遇の機会だったのだ。

 そして権力闘争や野望の事など何も知らない一人の巫女に率いられる形になった神道兵達によって、日本軍は大東島でも本願寺(一向宗)の戦いのような宗教勢力との不毛な戦いを強いられることになったのだ。しかも大東神道の習合兵達は、一向宗の門徒兵たちよりも攻撃的だった。全員がまるで根来寺の鉄砲僧兵のようで、習合兵の指揮官は全員傭兵隊長の鈴木孫一のように映ったと言われる。
 そうした中で、日本軍にとって苦難の時間である冬がやって来る。
 戦乱で荒れた大地の恵みは少なく、あっても大東人たちが日本軍が来る前に焼き払うか無理矢理収穫して街に籠もった。しかも日本軍には、大坂と大坂に習った一部の中小都市以外に、巨大な城塞都市は少なかった。最近焼け野原となった東京ですら、分厚い門扉を閉ざして籠城戦を続けていた。そして東京に代表されるように多くは籠城したままであり、単に籠城するだけならどの城塞都市も数年間は問題ないという、日本側にとって非常に厄介な状況だった。しかも農村部は狂信者(大東神道の信徒)で溢れ、日本人に安住の地はなかった。
 日本軍の活動は停滞し、自らを守るため各地に固まってしまうため、必然的に占領した土地はほとんど何もしないまま手放すことになった。

 そして日本軍の活動が停滞すると、旧大東州の大東各地の諸侯が息を吹き返し、神道習合兵に協力する形で日本軍を撃退する動きを各地で見せた。各地での大東側の反撃は12月に入ってから活発化し、次第に戦闘は大規模化していく。
 この状況に対して日本側は、これでは冬を越すことも難しいと考え、現状で数の上での主力となっている神道勢力の殲滅を企図する。
 大坂近在の照神道は三峯山脈での包囲行動を強化し、軍主力を主神道の本拠地である二者臨界大社に向けた。

・1593年
 「熱詞の戦い」。旧大東州北部の琉婚川中流域で発生。
 文禄の役最大規模の戦闘。大東軍、日本軍双方合わせて15万人が激突。
 大東側が数で圧倒しており、日本軍は上杉、蒲生を中心に徳川の武将本田忠勝が先鋒を務めていた。
 対する大東側の主力はあくまで神道習合兵で、全軍約10万のうち7万人を占めていた。大東の兵力は数だけなら日本側の二倍だったが、戦闘の熟練度では日本側に大きなアドバンテージがあった。
 そして戦国最強とも後世言われた本田忠勝が大東の戦虎部隊すら蹴散らす大活躍を示し、北の強兵で編成された日本軍の一転突破戦術が功を奏して戦闘は短時間で決着。日本軍の勝利に終わる。
 だがこれで追いつめられた大東側、特に自らの本拠地近くにまで攻め込まれていた形の主神道勢力は、さらに大戦力を無理矢理動員して日本軍の撃破を行おうとする。
 続く大規模戦闘は半月後に行われた。

「二者臨界大社の戦い」
 追い込まれた主神道領は「進めば天国、退けば地獄」と領民を脅し、近隣の勢力圏から数えで15歳から60歳までの成人男性を動員した。更には持梓巫女という形で、多くの女性も志願という名の動員をかけられた。これには全軍を率いている形の巫女姫ばかりか照神道も流石に反対し、多くの諸将も反発を示した。だが、宗教勢力を恐れる日本軍の積極的な攻勢を止めるための手段が他にないため、動員は認めざるをえなかった。
 戦いは前回の教訓を受けて、動員された彼ら・彼女らの背後では、ごつい神官が二十匁多連装銃を構え、死を恐れる卑怯者の信徒を”破門”する特権を行使する機会をうかがっていた。文字通りの「死兵」の群れであり、
捨命救済の唱和を皮肉り「進むも地獄、退くも地獄」と言われた。だが凄惨な戦闘のお陰もあり、日本軍は火力こそ高いが稚拙な戦闘に終始する大東軍を攻めきれず、自らの損害と消耗の積み重なりもあってついに攻撃を諦めた。
 戦争が完全に転換した瞬間だ。

 ちなみに、後世に伝わる持梓巫女の武装といえば弓か薙刀だが、1580年代には大東中に100万丁近い銃が蓄積していた火縄銃(マスケット)が主な武装になっていた。
 鍛造技術の向上に伴い軽量小口径の火縄銃が普及し、反動も少ないこれら新型銃が使用されていたようだ。比較的近距離での撃ち合いが銃兵の戦い方であることから、戦訓に従い大型の銃よりも資材節約になる小口径銃が選好されたのだ(少数の大型銃が別に進化の道を歩んでいる)。

 この戦い以後、冬の海を使った補給や増援が難しくなった日本側は戦線を大きく縮小して完全な冬ごもりに入り、戦闘自体も一事沈静化した。
 一方では、かつての戦い以上に頑強な抵抗を示した大東軍との間に和平を結ぼうという動きが、現地日本軍の間でほとんど独断で進められた。ものの見える日本人達からしたら、例え100万の兵を投じても大東の完全征服など夢物語だったからだ。

 現地日本軍の外交担当者にすれば、形式的な大東の日本への服従さえあれば、戦闘は即時停止してもよかった。
 形だけでも大東が日本に従えば、まさに形だけは豊臣秀吉による「真なる天下統一」は達成される。あとは、既に痴呆が進んでいたとも言われる秀吉に「唐征服」をそそのかせて、日本本土の準備を行う「ふり」をすれば良いのだ。これで日本軍は、取りあえず地獄のような大東島から引き上げる事ができる。
 大東側としても、自らを二分しての戦いの中での日本軍の侵略は一日も早く解消したかった。しかも神道勢力が勢いを増しているとあっては尚更だった。大東天皇も、傲慢な神道勢力に権威を保障などしてもらいたくはなかった。
 とはいえ大東側としては、たとえ形だけであっても日本人に頭など下げたくはなかった。
 そこで日本、大東双方の外交担当者が知恵を絞る。相互貿易の再開を貿易を朝貢と偽り、大東天皇が豊臣秀吉を関白として認めるというものだ。後は日本側の外交担当者が豊臣秀吉に「少しばかりのウソ」をつけば、話しは丸く治まる、はずだった。

 この作戦は当初はうまくいき、大東側が「献上」した宝物、金貨、剣歯猫、最上品質のアルキナマコなどを、豊臣秀吉は大いに喜んだ。親書にも秀吉を関白と認めると書いてあったので、大東が自らに服従したものと思いこんだ。しかしその後が不味かった。
 大方の予想通り豊臣秀吉は、すぐにも「唐入り」要するに中華大陸への出兵と征服を宣言したのだが、その際の兵力、物資、資金の拠出を大東にも強く求めたのだった。また大坂に自らの政権の奉行所の設置(大東探題)、自らの諸侯の転封すら求める。
 当然だが、大東側に秀吉の「命令」をきく気は皆無だった。このため再三再四出された命令を無視した大東に対して、秀吉は大東の「反乱分子」の鎮圧を、まだ大東に留まっていた軍主力に命じる。

 その頃の大東島は、少なくとも大東人の間で日本人を撃退する間は自分たちの戦争を休戦するという方向で意見の統一を見ていた。だが誰が兵力をどれだけ出すかという点で南北双方の対立は消えず、また自分たちの戦闘で消耗した海上戦力の不備もあり、有効な撃退手段を見いだせずにいた。
 結局日本軍と睨み合いをしていたのは、貴族達にかわって大東の覇権を手に入れようという野望を燃やす二つの武装神道勢力であり、その名目上の頂点というかこの頃には半ば偶像化されていた「巫女姫」が率いる形の軍勢だった。その数は農閑期になると激増し、最大で20万人に達した。
 そしてここで日本人と大東人双方が、とにかく講和を進めるため、武装神道勢力を秀吉に対しての「悪者」にしたてあげる。

 そうして狭いが確実に占領地を保持するべく固まっていた日本軍約10万は、自分たちが策源地にしている大坂近辺にある照神道の本拠・三峰北阪大社を狙った総攻撃を実施した。三峰北阪大社のある三峰山脈は大東としては複雑な地形の山間部の中にあり、神社に至るルートの全てに強固な要塞が複数構えているとはいえ、大東の山々のほとんどは日本の山河に比べたら平坦な地形だらけだった。城塞都市は恐ろしいが、山間部で急速に発展した武装神道勢力には、ほとんど有力な城塞がなかった。これまでは自分たちの戦力分散で捨て置いたが、ここでは手抜きをする積もりはなかった。

再び主神道の本拠地・二者臨界大社を目指した。今まで自分たちが策源地にしている大坂近辺にある照神道の本拠・三峰北阪大社を狙わなかったのは、三峰北阪大社が大東としては比較的複雑な地形の山間部の中にあり、神社に至るルートの全てに強固な要塞が複数構えているからだ。これを本気で攻略したければ、数年越しの本格的な要塞攻略戦が必要であり、対して二者臨界大社は一種の城塞都市となっているも山の麓の平地に構えられており、攻略が比較的容易かったからだ。

「三峯山麓の戦い」
 この戦いは、開始当初は日本軍が勝利するものと考えられていた。先の戦いで主神道が無理矢理動員した習合兵はほぼ壊滅しており、数において現地大東軍の主力にすらなれないまでに消耗していた。当然と言うべきか、戦場となった三峰山地に兵力を送るゆとりはない。現地大東軍の数も、数では戦闘力に劣るとされる巫女姫の率いる照神道を中心とした雑多な神道習合兵が主力で、戦列に参加していた周辺諸侯の軍勢を合わせても10万に達していなかった。
 しかもこの時の日本軍は、大東並かそれ以上の火力(火縄銃)で武装していた。戦闘は予想通り日本軍有利で推移し、初日の平野部での会戦は日本軍の順当な勝利で幕を閉じた。
 その後山間部での攻城戦となるが、この時までに敗残兵狩りや別の方面への後退、逃走などで大東側の戦える兵力は2万にまで減少していた。
 だが山岳戦に入った時、大東側に援軍が現れる。大東の北と南の果てからやって来た、茶茂呂海軍の巨大戦艦を露払いとして日本の封鎖線を突破してきた、北の名門駒城を中心とする精兵だった。

 これまで駒城氏は、大東戦国の戦いには正当性がないとして中立を貫いてきた。しかし日本軍の侵攻に対しては、日本軍が襲来する前から警鐘を鳴らしていた。実際の戦いの準備は、周辺に犇めく北軍諸侯の警戒感を引き上げないため最低限としていたが、日本軍上陸後に本格的な準備を始める。既に戦っている同胞にも援助の手を早くから差し伸べ、自らも「大東国を守る戦い」への参加を表明した。だが、周囲を囲む北軍諸侯としては様々な理由で駒城に動いて欲しくないため、明に暗に邪魔をし続けていた。そこで駒城は、自らの持つ外交力を駆使して、海路での援軍投入という劇的な演出を実現する事に成功する。
 三峰山地に投入された駒城を中心とする陸兵は約2万だったが、大東最強を謳われる騎兵、最新鋭の砲兵、そして新州が誇る戦虎部隊を中心としていた。部隊の指揮も嫡男の駒城忠宗が務め、将兵の全てが今まで戦乱に参加できなかった鬱憤を晴らすべく、そして侵略者の日本人を駆逐するべく戦意を燃やしていた。

 日本軍はまずは茶茂呂海軍の誇る巨大戦艦の痛烈な艦砲射撃の洗礼を、沿岸部の補給拠点、補給路、進撃路に受ける。小型の旧式軍船を中心とした艦隊も蹴散らされた。
 そして沿岸部への強襲上陸や陸路からの反撃を警戒していた日本軍に対して、山間部での夜襲が実施される。夜襲を行ったのは言わずと知れた戦虎遊撃部隊であり、夏の戦場は剣歯猫にとって最高の舞台だった。敵を追いつめていると思っていた日本軍の各部隊は不意を打たれて崩れ、攻撃していた山岳要塞から大東軍が打って出てきた事もあり退却を余儀なくされた。
 その後さらに平野部での騎兵戦にも破れた日本軍は、そのままこの戦いでの物資集積所を破壊されたこともあり戦闘を全面的に中断せざるを得なかった。日本軍の死傷者の数はそれほど多くはなかったのだが、この場合大東側の三峰神社を救うという目的に絞った戦闘が巧みだった。

交渉決裂と再出兵
 主に日本側が戦争を収めどころだと考え、講和会議が本格化した。
 だが、日本の独裁者豊臣秀吉は、旧大東州の征東国、遷鏡国二国の割譲を求めるなど強硬な姿勢を崩さなかった。これではラチがあかないので、日本、大東の外交担当者はさらに一計を案じる。日本側は秀吉に入貢受け入れを伝え、さらに大東側が貢ぎ物を持った使者を使わすと伝えた。大東側は、自らの行いを日本が大東との国家間の貿易再開を認めた事への感謝を伝える行為とした。
 大東の使節派遣は、天皇家や大東御所の困窮のためなかなか進まなかったが、大東各諸侯が資金や文物を拠出する事で何とか整え、1595年に日本に使者を派遣した。派遣先は伏見であり、京の御所ではなかった。これは大東側が日本の落ちぶれた天皇に入貢する気がない為だが、秀吉の家臣達は大東が豊臣秀吉こそを日本の絶対者だと認めたためだと秀吉に説明した。
 だが、大東の使節に謁見した秀吉は、自らの要求がほぼ受け入れられていないことに激怒する。大東の使節を罵倒、即刻立ち去るよう怒り狂った。
 そして怒りのまま大東への再度の出兵を決める。

 
■慶長の役(1596年〜98年)

 和平交渉が失敗すると、豊臣秀吉は再び日本中の諸侯に動員を命じた。
 1596年(慶長元年)に再度の侵攻が実施される。
 日本軍の侵攻は、今回も大坂が大東の策源地となった。大坂の商人としては、一度同胞を裏切った以上日本側になんとしても一定程度の成果を挙げてもらわなくては、自分たちの今後の立場がないからだ。
 しかし今度は、大東側もある程度団結して事に当たる。
 戦闘はまずは洋上で発生。
 先手を打ったのは大東側で、遠洋航海にも長けた茶茂呂艦隊などが日本軍の中継拠点となっている八丈島を襲撃。同地で「八丈島海戦」が発生して、日本と大東間の艦隊戦闘が実施された。ここではほぼ奇襲攻撃に成功した大東側の勝利に終わり、日本軍の大東への再度の本格的派兵は延期を余儀なくされる。時を同じくして、大東水軍が北軍、南軍を問わず行った「私掠」活動によって、日本列島近辺の海上交通は大いに混乱。これも日本軍の大東侵攻を遅らせることになる。
 またこの行為は大東が日本列島に対して行った歴史上でほとんど初めての本格的攻撃だったため、豊臣秀吉の面目は丸潰れとなり、日本軍の侵攻を是が非でも行わせる原因にもなる。
 日本軍が大東に軍を送り込めたのは、翌年の1597年5月だった。
 いまだ統一した行動の採れない大東に対して、海軍の数を揃えて海上交通路を確保するのに一年以上の歳月が必要だったのだ。
 そして大東側は、この1年を無駄にしなかった。

 日本軍は上陸したはいいが、今度は安易に進撃して占領地を拡大するどころではなかった。有力諸侯は当初から自らの領地の防衛体制を固め、農村部は三峰山地を中心に神道習合兵で溢れていた。
 大坂から最も近い大都市で多々野氏の本拠の倉峰城も、今度は準備万端整えていた。城の形式も今までの戦いの教訓を反映して、新時代の攻城戦に対応した重厚な要塞に変貌していた。今までは高く分厚い城壁だったが、城壁外の市街地は潰され、新たに大きな掘が造成されていた。厚い城壁は掘から出た土による土塁で埋められ、堀に続く 稜堡となった。伝統的な中世からの城壁では、大砲に耐えられないからだ。この大東での築城様式は、15世紀以降のイタリア式築城様式を真似たものであった。
 しかもこのような工事が行われたのは倉峰城だけでなく、保科氏の居城藤田城など征東、遷鏡各所の主要都市も、時間と資金、労働力の許す限り変化していた。首都東京も、多数の神道工兵を動員してこの時絶賛工事中だった。
 こうなっては、もはやどの城塞も短期間での攻略は不可能であり、進撃は出来ても占領地の拡大は難しかった。
 故に侵攻した日本軍が目指したのは、「政治的な勝利」だった。そして侵攻した日本軍が政治的勝利を得ようとすれば、目指す場所は一つしか無かった。
 首都東京だ。敵国の首都を落とせばそれで面子が立つ。加えて大東側が首都を守ろうとすれば、辺境の城塞としに籠もっている兵力も移動のため出てこなければならない。場合によっては、これらを各個に野戦撃破できる可能性もある。

 「東京攻防戦」
 日本軍は侵攻当初からこの方針に従って動き、まずは進撃路を確保すると大坂から着実に補給線を延ばしつつ東京へと迫った。
 当時東京は、少し上にも書いたように、火力戦に対応した城塞構造物の改装工事中だった。しかし周囲10キロメートル近い大要塞となるため、10万を越える労働力を投入しても簡単には工事は完成しなかった。日本軍先鋒が東京郊外に到達した時点での完成率はおおよそ80%。周囲の堀は半分が空堀で、大きな河川(墨東川)に面した城壁の工事はほとんど手付かずだ。とはいえ川幅は優に1000メートルに達する。海に近いので水深も深い。対岸からの砲撃はともかく、軍船でも無い限り渡るのは不可能だし、城壁に取り付くことも出来ない。城塞の火砲の方も、周辺の旧式軍船から陸揚げしたもので大幅に増強されていた。

 東京を包囲した日本軍の数は、おおよそ11万人。派遣された部隊のほぼ全力であり、あとは大坂城と大坂と東京をつなぐ街道の防衛に充てられていた。日本の大東征伐軍にとっての東京攻略は、乾坤一擲の大勝負だった。
 対する東京守備軍は、近衛が5000、周辺から集まった中小の諸侯が1万2000、神道習合兵3000、都市住民の志願兵が約2万、東京沿岸部を守る水軍が軍船23隻に水兵6000名が街を守る全てだった。だが日本軍をさらに囲むように、大東の各地から神道習合兵や近隣の大諸侯の軍勢が戦闘準備を整えつつあった。
 一方で、この戦乱でも新大東州を中心とする北軍諸侯の動きは鈍く、駒城の動きを牽制したり、終始中立を守り抜いてきた諸侯の自陣営の参加を求める工作を続けるなど、「日本軍が去った後」の動きに余念がなかった。だが北軍の動きは、戦場となった旧大東州の諸侯、民衆からの非難も強かった。事実、新大東州で日本軍の脅威を受ける北軍諸侯の中には、事実上北軍を離反する者も出た。それでも北軍の動きは変わらず、口では色々言って形だけの援助をしつつ、事実上大東南軍及び神道勢力と日本軍の戦いを静観した。

 東京攻防戦は、1597年6月に開始された。日本列島と違って大東に「梅雨」という雨期はないため、初夏の軽やかな気候のもとで、凄惨な攻城戦は開始される。
 一度焼け野原になったとはいえ、東京の防備は厚かった。また大量の備蓄物資も再び運び込まれたため、兵糧攻めも難しい。野菜不足で相手が倒れるまで、少なくとも1年は腰を据えて行わなければばならない。このため戦いは、近世の戦い方である火力戦になった。
 日本軍も戦闘に対して多くの大型軍船から大砲を降ろして戦場へと持ち込んだ。そしてこの戦いは、火力戦であると同時に補給の戦いでもあった。攻める側の日本軍は、自分たちの物資が持っている間、補給線が維持されている間に、相手を火力でねじ伏せている間に城の防御網を突破して場内に突入しなければならない。そうしなければ自滅が待っているだけであり、住民全てが敵という異国の敵地での自滅は文字通りの全滅を意味した。
 このため日本軍の戦意も半ばやけくそ気味に旺盛で、大東側の東京守備軍と火力戦を応酬しつつその下での攻城戦を実施した。

 東京を巡る戦いは、秋が来てもほとんど動いたように見えなかった。日本軍は、今で言う坑道爆破戦術まで使ったが、焼き煉瓦の城壁と膨大な量の盛り土の防御網を突破することは出来なかった。飽きるほどの砲弾と火薬を溜め込んでいる東京城塞は、まるで無限に火焔を浴びせてくる巨大な竜のようだった。無論、攻められる側の東京守備軍の方が主に精神的な疲弊は大きかったのだが、少なくとも攻め寄せる日本の武将、武士、足軽にはそう見えた。
 しかも自分たちの周囲には、神道習合兵の兵団、旧大東州の有力諸侯などの軍勢が集まりつつあり、互いに牽制しつつも有利な状況を狙っての反撃の機会を伺っていた。しかし日本軍をさらに大きく包囲するように位置している大東諸勢力には、総司令官や旗頭と呼ぶべき人物がいなかった。
 文禄の役全般で大活躍した偶像的指揮官となった「梓の巫女姫」は、文禄の役終了すぐに姿を消していた。一般には人知れず暗殺されたか下野したと言われているが、駒城の若殿の一人と駒城の一部手助けを受けて駆け落ちしたという寓話が、その後長らく語られている。
 巫女姫のことはともかく、大東側は指揮官に欠けていた。このためこの年のうちは攻める前に冬が来てしまい、反撃自体がご破産となった。

 そして冬の間の散発的な攻城戦を挟んで、春の到来と共に大東の各所で戦闘が発生する。
 まず動いたのは、大東側だった。田村氏を中心とする北軍も、流石に何もしないのは不味いと考え、主に日本軍補給線を狙った攻撃部隊を日本軍展開地域の各所に送り込んだ。送り込まれたのは軽快な騎兵部隊と新大東州固有といえる戦虎遊撃部隊だった。どちらも兵力数当たりのコストは高いし、火力戦の世の中での存在価値は低下しつつあったが、その効果は小規模戦、遭遇戦、夜戦ではまだまだ大きかった。なおこの増援部隊の中には、今回も駒城氏の軍勢も含まれ活躍を示している。
 大坂の包囲には、主に三峰山地の照神道の神道習合兵が当たった。まずは、攻めるのではなく囲むのが目的のため、こうした戦闘に半ば日常を持ち込んだまま数に頼って戦う神道習合兵は比較的向いていた。
 そしていよいよ敵地で孤軍となった東京を囲む十万を越える日本軍には、二つの選択肢が残された。このまま死に物狂いでの東京攻撃を続けるか、血路を切り開いてまずは大坂まで後退するかだ。そして今まで本当の敵地で戦うという事に慣れていない日本人達は、攻めて活路を切り開く可能性よりも、手堅く引き下がる事を決意する。これは豊臣秀吉の命に背く事に近かったが、もはや余命僅かという事が水面下で知れ渡っている秀吉に対して、必要以上に義理立てしようと言う者は小数派だった。豊臣恩顧の大名である『戦虎殺しの』加藤清正などは例外だったが、現地の平坦業務を取り仕切っていた石田三成、外交担当の小西行永などは、もはや大東での戦いにほとんど価値を見いだしてなかった。彼らを動かしていたのは、秀吉に対する忠誠心と役職に対する義務感だった。

 日本の東京包囲軍は、ゆっくりとスキを見せないように包囲の陣を解き、そして一つの部隊が下がる間は別の部隊がまとまって殿を務める形で後退戦を実施。まとまりに欠ける周辺の大東軍が容易に手が出せないまま、大坂へと下がっていった。軍事的には日本軍の戦略的敗北だが、「この世の地獄」で戦わされた日本兵にとって主君の命を守りつつ自らの命を守るには最適の回答だった。彼らは東京からは去ったが、大東からは去っていないからだ。
 そして日本人達が大東を去る時間も、すぐに訪れた。

 1598年8月、豊臣秀吉が死去した。死因は老衰だと言われるが、この際死因などどうでも良かった。日本列島の独裁者豊臣秀吉がいなくなったという事の方が重要だった。そして独裁者の死は、すぐにも豊臣政権内の不和をもたらし、10月中旬には早くも大東からの早期撤退が決定される。
 日本は再び内戦の季節に入ったので、もはや海外遠征などしている場合ではなかったのだ。

 秀吉の死を伏せつつ和平交渉が開始され、日本側は無血撤退を求め、大東側も監視付きの短期間での完全撤退を求める。両者の間に賄賂や後の人脈構築のための秘密交渉が行われたりもしたが、交渉自体は短期間でまとまった。
 これに反対したのは、神道習合兵を要する大東の二大宗教勢力で、特に大坂に近い照神道は独断で撤退を急ぐ日本軍への攻撃を実施している。
 しかし大東の諸侯は全く手を貸さず、調整の取れない数に頼った神道習合兵の攻撃は各地で撃破された。

 11月には日本軍は大坂など各地の港を出帆。日本人達が去るときには、財産を持てるだけ抱えた大坂商人達の姿もあった。彼らの多くも、今後大東では生きてはいけない人々だったからだ。

 こうして「第三次日本・大東戦争」は破壊と憎しみだけを生んで終わったが、一つの戦いの終わりが全ての戦いの終わりではなかった。
 再び大東と日本双方で、内戦が始まろうとしていた。

■ファイト、国内国家たち(5)へ