■長編小説「虚構の守り手」
●序章「闇」
一九四四年十一月十六日 四国沖
一面蒼に溶ける闇。満天の星空。新月ということもあって、天体観測にはうってつけの夜だった。空に輝く天狼星が、今夜ばかりは我が天下と言いたげな青白い輝きをひときわ際だたせている。 だが、今この場に居合わせている者にとって、新月は有り難いものではなかった。
「こちら艦長、そちらの視界はどの程度あるか?」 自ら艦長と名乗った男の声は、穏やかで知性を感じさせるが、船上での声と思うといささか塩気が足りていな風に思える。 しかも彼の声は、鈍く光る真ちゅうの筒に向けられ少しくぐもって聞こえ、さらに迫力に欠ける。だが、気にする風もなく同じ筒から別の声が返ってきた。 「こちら砲術長、確実と言える距離は100(10000メートル)です。見つけるだけなら、見張りの方がもう少しマシでしょう。あとは電探に期待するしかありません」 「電探か……通信長どうか?」 「ハッ、例の裏技を使えば距離200(20キロメートル)は確実です」 気分を和らげるつもりか、少し冗談めかした言葉が彼の後ろから返ってきた。例の裏技とは、21号電探を現場でセレクター改造して精度を上げ、海上捜索や砲撃にまで利用することだ。 もっとも、最初の声の主は冗談に言葉を返すでもなく、帽子の鍔に手を当て考え込んでしまう。 「立花艦長、条件は向こうも同じです。航空隊も出ているでしょうが、この闇夜ですから封鎖線突破は可能でしょう」 扉を開く音に少し遅れ、さらに別の声がした。 副長だ。そして最初の声の主が、立花清大佐。彼らが乗る、世界最大級の人工構造物の支配者だった。そして彼の支配するのは「武蔵」。世界最大最強といわれる巨大戦艦の二番艦だ。夏に小規模な改装をされた彼女は、改装後の混乱もあってようやく訓練航海に出ることができたのだった。
立花は、この十一月六日に体制刷新の一環として新たな艦長に任命されたばかりで、艦の操作にも慣れていなかった。他の人事異動になった者たちについても同様だ。そんな不安が、今の行動になって現れたといえるだろう。 彼は、海軍大学校で砲術の教官をしていたほどの砲術の権威であり、両親の家が沖縄や大陸出身の出自でなければ、とうに他の同期同様に少将に昇進していたと言われるほどの逸材だった。 だが、不遇な経歴と学者肌の学識派である事もあってか、重巡洋艦以上の大型艦の艦長職はようやく二度目になる。 この度の適材適所と言える人事が通った理由については諸説あったが、誰もが口に出来ない真実を知っていた。 日本が負けたからこそ適った人事である、と。 副長も同様で、副長になる以前も砲術に長く関わるも、小型艦やせいぜい軽巡洋艦の副長を務めたに過ぎない。このため経歴や実績共に優れた艦長と合わせて、戦後の残務処理のための配置と見られていた。 だが、互いの信頼は高く、立花艦長は射撃指揮所に行って今の砲術長と意見を交換していた副長と意見交換したかったのだ。 その立花は、制帽を少し崩して被るいつものスタイルを維持しながらも、第一艦橋の中央少し前に陣取って真っ正面を見据えていた。
「そうだな。だが、本当に現れると思うか?」 「ハイ。繰り返しますが、一部情報が寸前で漏れたようです。柱島も今は戦中さながらに無線封鎖中のようですし、一部の艦艇は事前に拘束された可能性大と見られます」 そうか。副長の声に短く応えると、帽子の鍔をいじりながら短く思考した。 (やはり、事前に計画が漏れていたと見るべきだろう。だが、既に事が動き出した以上、もう止まることはできない……) 一瞬の思考だと本人は思っていたが、意外に長い思考だったらしく、いつの間にか艦橋スタッフの注目を集めていた。 立花の癖の一つで、帽子の鍔をいじった後に何か発言するからだ。だから今回も、皆の期待に応えることとした。 「諸君、我々の中にも混乱があるようだ。だが、混乱するのは当然だろう。ルーズベルトの急死で後がまに座った副大統領が、今までの無条件降伏を撤回して国体護持を認めるから講和しようだなんて言ってきても、罠だと思う者も多いだろう。 しかし、連合国から提示された講和を政府が無策のまま飲んでしまった。だからこそ、心理的な衝撃が大きすぎた。しかも降伏同然の講和とあっては尚更だ」 立花はいったん言葉を切り、言葉の締めくくりに入った。 「だからこそ、我々は決起した。言葉を飾るつもりないが、今は我々の団結こそが重要だ。故に本職は諸君の働きを切に期待するものである。……それで副長、相手の数に変更はないか」 演説のあと間髪入れず本題へと雪崩れ込む。これが彼の人心掌握術だった。 「ハイ、戦艦一、乙巡一、駆逐艦四ないし六。呉と柱島からは以上です。ほかに横須賀からは、第二艦隊主力が阻止のため出撃したと報告がありました」 「で、横須賀から伊藤さんはいつ来るんだ」 「「長門」以下、第二艦隊主力が横須賀を出発した時間から考え、燃費を無視したとしてもあと数時間はかかるかと。また米軍は、今回の件に音無の構えですが、東シナ海にハルゼーの艦隊がいるのは確実です。あれほどあった無線が途絶え、連中の拠点になっているウルシー環礁ももぬけの殻との報告を得ております」 二人の会話に通信長が入り、その場にいた全員が当面の事態を再確認した。 会話が示す通り、もうすぐ彼らが相対するのは、今まで死力を尽くして戦ってきたアメリカ軍ではなかった。相手は同じ帝国海軍なのだ。 そして皇軍相打つという、今の異常な状況こそが、大日本帝国の状況をこれ以上ないぐらいに示していた。 だが、重苦しい雰囲気を押しのけるように、立花が場違いな大声を出した。そこには、どうにも出来ない現状を振り払おうとするかのような明るさがあった。 「なに、まだ連中と戦うと決まったワケでないさ。まずは説得だ。同じ日本人、同じ帝国軍人。ましてや、同じ帝海だ。話して分からない相手でもないだろう。それに相手はこいつの兄弟だ。こいつ自身が涙ながらに説得してくれるかしれないぞ」 立花は、言葉の最後に自分の足を数度トントンと踏みならし、周囲に小さな笑いの輪をさそった。彼の言葉につられて、口の軽い数名が冗談を続けようとしたほどだ。近くで見張りに就いている兵士も、双眼鏡に目を張り付けながら、口元とニヤリとさせている。 しかし、一瞬緩んだ空気を許さないがごとく、艦内電話のベルが鳴り響いた。 「こちら電探室、目標確認。距離二三五(23500メートル)。方位五五度。速力二一ノット。二つに分かれて、豊後水道出口付近で進路を塞ぐように進んできます」 周囲の態度が一変した。 続いて、斥候に出ていた駆逐艦から報告も届く。 「先行する駆逐艦より通信。目標ヲ視認。数、勢力変ワラズ。制止信号ヲ発シツツ増速中。位置などはこちらの情報とほぼ同じです」 報告を聞いた立花が、談笑の終わりとばかりに号令を発した。今この場では、立花こそが最先任指揮官だった。 「全艦、第二戦速。相手は「大和」だ。説得が失敗した時は覚悟しておけ!」