■長編小説「虚構の守り手」

●第一章「星の国」

  一九五三年一月二七日 ワシントン

 無垢色の雪のベールをまとった河川敷を従えたポトマック河が、太古の昔と変わらぬゆるやかな流れを作り出していた。
 ここはワシントンD・C。
 現在、いやこれから百年にわたり新たなローマとなるべき政治的位置を持つ都だ。
 都の中枢には、国家の規模を思えば控えめすぎる瀟洒な佇まいを持つ白亜の建造物があり、雪化粧した周囲の芝や緑と見事な調和を見せていた。
 人が作り上げた理想の都の姿がここにある。
 中枢にある建物を人々はホワイトハウスと呼び、実質的に世界一の権力と武力を持つ支配者がいた。そしてこの一週間前、権力者の座るべき椅子には新たな人物が腰掛けた。
 人物の名をドワイト・デーヴィッド・アイゼンハワーという。

「すまないハリー。いや、そう呼ばせてもらっていいかな、ミスター・トルーマン」
 世界の覇者となった男は、優れた知性を持つであろう事を示す額以外、人なつっこいアメリカのオヤジそのものの顔を対面の男に向けた。
 しかし彼の瞳は、冷静さと知性を兼ね備えながら、さらに人としての魅力を強く放っていた。
 彼の瞳を見るだけで、さすが連合国最高司令官を務めあげ、大統領の椅子を手にしただけの男だと納得させられる。
 目の前の男を見ながら頭の片隅でそんな事を考えていた男、顔立ちとメガネのおかげでウォール街に務める堅物銀行員のような男は言葉を返した。
「いえ、ミスター・プレジデント。そう親しく呼んでいただけるとは光栄です」
「ウン。じゃあボクの事もアイクと呼んでくれ。私的な会話を楽しむために呼んだのに、いちいちミスター・プレジデントと呼ばれたんじゃ、仕事を続けているのかと思ってしまうよ」
「はい、分かりましたアイク。しかし、よろしいのですか、その……」
 トルーマンは、口ごもった。自分が民主党に属し、プレジデントが共和党出身者だっからだ。
 しかし、フランクな口調の当のアイゼンハワーは気にも留めていない風だ。
「ハハハ、知らないのかいハリー。ボクの得意技は、立場の違う者と親しくうち解けられる事なんだよ。オマーやジョージだけでも大変だったのに、ウィンストン、バーナード、シャルル、ヨシフ、ゲオルギー、カール、いろんな人と会話を楽しまないといけなかったからね。おかげで今も遠くの友人には事欠かないよ」
 トルーマンは、今の友達の名前を数え上げるような会話を聞いただけで、目の前の人物がひと回りもふた回りも大きくなったように思えた。
 最初のオマーやジョージは、現在統合参謀長のオマル・ブラッドリー将軍と、今は無き英雄ジョージ・パットン将軍。
 そのあとに続く名前については、考えるのも恐ろしい人物ばかりだった。
 今二度目の英国宰相の地位にあるウィンストン・チャーチル、英国の宿将バーナード・モントゴメリー元帥、フランス解放の英雄シャルル・ド・ゴール、ソ連赤軍最高の将軍ゲオルギー・ジューコフ。そして今死の床に伏していると言われる赤い帝国の暴君、ヨシフ・スターリン。最後の人物に至っては、ナチスドイツ二代目総統に指名されたカール・デーニッツ提督だ。
 彼は全ての人物と一〇年も前に交渉や交流を持ち、ナチス・ドイツを倒すという困難極まりない任務を完遂したのだ。
 そう、彼はなるべくして今の地位に就いたといって間違いないだろう。プレジデントの椅子は、単なる権力者ではなく彼のような実行力のある英雄にこそ相応しい。そうであってこそ、ステイツの威光は世界に広がるというものだ。
 トルーマンは頭の片隅で様々な事を思いながらも、彼がかけた談笑の橋を渡ることにした。
「あなたの友人の輪に私も加えていただけるのですね。それはますますもって光栄です。じゃあ、私はその恩返しに何か気の利いた小話の一つでもしなくてはいけませんね」
「そりゃいい。けど、実はボクの方から聞きたいことがあるんだけど、話してもらえるかな」
 あくまで私的な会話という体裁をとっていたが、最初からこれが目的なのは明白だった。
 欧州を開放した英雄にも知らないことはいくらでもあるのだ。そしてそれを自分は知っている。
 世界をひっくり返したとある事件を。
 そして事件の原因の一つとなったのが、目の前の男が成し遂げた英雄的行為にあった。
 トルーマンの内心を知ってか、アイゼンハワーは彼の口が開くのを親しげな顔を向けつつ待っていた。
(かなわないなぁ)
 アイゼンハワーの顔を見ながら思ったトルーマンは、苦笑を浮かべつつあの日の事、そして知る限りの舞台裏を話し始めた。
 多くは、自分を含め数名しか知らない事だった。

  一九四四年六月九日 ワシントン

 その日ワシントンは快晴だった。
 しかも、アメリカばかりでなく世界の全てが晴れ渡っていた。もちろん後者は心象面で、ということになる。
 何しろ数日前に、連合軍はフランス本土に対する上陸作戦に成功。ナチスドイツが支配する欧州大陸本土に、大きなくさびを打ち込む事に成功したのだ。
 市民ばかりか将軍達の間ですら、年内にはナチスとの戦争は終わるだろうと言われるほどだ。
 明るい空気は、アメリカの政治中枢ホワイトハウスの中にも充満していた。あと一週間ほどで決定的瞬間を迎えるといわれる、日本との戦争など些細なことと言いたげなほどだ。
 そうした空気を代表したような言葉がオーヴァル・オフィスを満たした。
「悪いなミスター・トルーマン。急に呼び出してしまって。しかし、国家のために献身的に働いてくれる君に、良き日の雰囲気が残るうちに話したいと思ってね」
「いえ、ミスター・プレジデント。昼食にまでお呼びいただき光栄です」
 車椅子に腰掛ける初老の男に対して、実直な銀行員のような男が慇懃に腰を折った。
 実直な銀行員、ハリー・トルーマンが礼をした男こそ、合衆国史上前人未踏の四選を果たすだろうと噂される名声を勝ち得た男、フランクリン・デラノ・ルーズベルト大統領その人だった。
 彼の車椅子姿の元凶となったポリオについては、一般にはほとんど知られていないが、病気など問題ないほど覇気に溢れていた。
 いかにも勝利しつつある国家の元首の姿だ。
 ただ、慇懃に礼をしたトルーマンには疑問がいっぱいだった。なぜ自分が呼ばれたのか、明確な理由が思い浮かばなかったからだ。
 近年軍事費の不正使用を調査することで名声を得た、そうした間接的な戦争努力に対する感謝を兼ねた報酬だろうと思うしかなかった。
 ただ理由がそうだとしても、今この時期というのは少し変だ。呼ぶなら、名のある将軍などの軍人の方が相応しいだろう。様々な考えが浮かぶが、トルーマンの内心を無視したように会話は進む。どうやら昼食会には大統領と副大統領、そして自分だけによるものらしかった。
 しばらくルーズベルトとトルーマンは、家や家族の事などとりとめのない話をおこない第三の人物を待つが、彼も三十分ほど経つと現れた。
 時刻は午前十一半ちょうど。
 昼食にはまだ早い時間だったので、三人は喫煙室でワインを味わいながら談笑することになった。 
 大統領と副大統領、そして自分。呼ばれて有頂天になってよいだろうトルーマンから見ても、取り合わせは奇妙と言わざるを得なかった。

(まあ、外見については自分も大差ないな)
 トルーマンの見たところ、副大統領ウォレスは学者肌の凡庸な政治家に見えた。得意分野こそ違え、自分とさして変わらない平凡な男だ。だがルーズベルトについては、笑顔の向こうに何かをみつける事はできない。
 会話が進むなか、凡庸な男のウォレスが心配げに自らの主君に語りかける。そしてその言葉の内容からトルーマンも続いた。
「ミスター・ルーズベルト、少々お酒が過ぎるのでは。お体にはくれぐれもお気をつけください」
「全くですプレジデント。今が最も大事な時期です。閣下が今倒れるような事あれば、ステイツばかりか世界の進路が揺いでしまいます」
「ハハハ、ありがとう。だが自分の体の事だ、十分に分かっているよ。何しろこの体とは生まれたときからの付き合いだからな。それよりも、少し早いが本題に入ってもいいだろうか。今日は気分もいいし、本題はさっさと片づけて昼食はゆっくり楽しみたい気分なのだよ」
 ルーズベルトは、二人の心配など気にする風もなく、ワインで少し赤くなった顔を二人に向けてきた。顔は笑っているが、目は真剣だった。
 つられて二人も重々しく首を縦に振る。
 そうして始まった会話の内容は、席を同じくした二人にとって衝撃的だった。
 今この部屋に盗聴装置が仕掛けられていたら、マイクの向こうの人間も卒倒していたことだろう。
 会話の内容が、ルーズベルトが四度目の大統領選挙に正式に出馬声明を出すと決めたこと。そして、副大統領にトルーマンを据える意志を示したことだったからだ。
 確かに民主党内でも、リベラルすぎるとされるウォレスよりも、近年名声を上げているトルーマンを副大統領にという声もある。党内での声は、日増しに強まっていると言ってよいだろう。
 しかし、あくまで下評判や噂に過ぎず、トルーマン自身あまり期待は抱いていなかった。だが直に大統領から話を聞くとなると、衝撃は格別に大きなものだった。
 また、四年間副大統領としての勤めを果たしたウォレスに対しては、次の副大統領に推薦しない代わりに商務長官の椅子を用意していると告げた。
 見事な権力の行使だ。だてに十二年間も大統領の座にあったわけではない。
 返事は今でなくても良いと笑ったが、大統領がわざわざ呼び出して告げたのだ。決定事項と言ってよいだろう。有無を言わせぬ真剣な眼差しからも明らかだ。
 会話の内容にトルーマンは小さな混乱に襲われ、ウォレスは明らかに落胆していた。いや、ウォレスの場合はむしろホッとしていたんかもしれない。トルーマンは混乱しつつも、ライバルといえる人物の観察を忘れなかった。
 そんな二人の様子を興味深く眺めていたルーズベルトは、人事を権力として使うことに満足したのか、手にあったワイングラスの中身を一気に飲み干すと、テーブルの上に置こうとした。
「さあ、そろそろ昼食の時間だ。急がないとコックの視線が痛い……」
 彼の言葉は最後までつむがれる事はなく、置こうとしたグラスは手から離れ、足が沈むほど分厚い緋色の絨毯上でにぶい音をたてた。それに合わせて身体もゆっくりと崩れ、目からも急速に光が失われていく。
 何が起きたのか一瞬思考が停止した二人だったが、落ちたグラスの音を合図に二人の叫びが部屋を満たした。
「プレジデント! ミスター・プレジデント!」
「SP、主治医を呼べ! 早く!」

  一九四四年六月二十一日 ワシントン

 一九四四年六月九日午後午前十一時五十五分、ノルマンディーの勝利の余韻がまだ続いていたこの日、フランクリン・デラノ・ルーズベルト大統領は脳卒中で死去した。
 ノルマンディー上陸作戦の勝利を祝った祝勝会が続いたため、酒量が増えたことが原因だと診断が下った。死の直前に飲んだワインが、最後の引き金となったのだ。
 もちろん市民には、ただの脳卒中と発表された。そして市民と兵士にとっては、勝利を掴みつつあった英雄の不慮の死。ただそれだけでよかった。
 兵士や市民たちは、ひととおり涙を流して悲しみに暮れた後は、目の前の地獄に立ち向かうか、日々の生活に戻れば良かった。
 偉大な大統領とはいえ、人一人の死。
 ステイツの優れた政治システムが、天国へと席を変えた英雄の穴を埋めるに違いない。国家を信じるのが良き市民というものだ。
 しかし、急遽穴を埋めさせられた人物にとっては、大きな荷物を突然持たされただけだった。
 去りゆく副大統領から突然大統領選に押し上げられたヘンリー・A・ウォレスは、決裁書類と資料の山にうずもれた数日間苦悩し続けた。
(だからだろうか、自らと共に主君の死を目撃した人物に再び会う気になったのかもしれない)
 ルーズベルトの死から一週間も経たずに大統領官邸に呼び出されたトルーマンは、そう思う事にした。でなければ、自分が再びホワイトハウスの中にいることが簡単には説明できない。
 そして彼を呼びつけた新しい大統領は、自らの苦悩を隠そうとはせずに話し始めた。
「ミスター・トルーマン、いやハリー、私の得意分野を知っているかね?」
「農政だったのでは。以前著書を拝見したこともあります。確かトウモロコシの品種改良に関する著書だったかと」
「そうだ、その通りだ。知っていてくれて少し嬉しいな。あれこそ私の分身ともいえる。そう、私はアイオワの田舎農場でトウモロコシを作るしか能のない男なのだよ。それがアメリカ合衆国連邦の大統領とはお笑いだろう」
「何をおっしゃいます。あなたは立派に四年間副大統領の任務を果たしたではありませんか」
「副大統領といえば聞こえがいいが、ようは大統領の予備だ。せいぜい内政を担当する決済屋に過ぎない。見せることはできないが、ルーズベルト氏が抱えていた問題の全てをさらして説明したい気分だよ」
 しばらく、悪態をつくウォレスと何とかなだめようとするトルーマンの会話が続く。
 トルーマンは、わざわざこんなところに呼ばれて、臨時雇いの大統領のお守りをするのかと内心辟易とした気分だった。
 だが、一通り悪態をつくとウォレスの気分も幾分落ち着いたのか、中身が半分ほど残っていたバーボンのグラスを一気にあおると、ゆっくり語りだした。
「済まないハリー。今までの話は聞き流してくれると嬉しい」
 「もちろんです」即座に応えるトルーマンの声にウォレスが続けた。
「ありがとう。さて、何から話そう。……そうだ、呼んだのは他でもない、君が今私の立場ならどうするかを聞きたかったのだ」
「なぜ、私に?」
 トルーマンは内心回答に近いものを持ちながらも、聞かずにはおられなかった。
「ルーズベルト氏の死が突然だったからだよ。もし彼の死が半年遅ければ、今の私の立場は君のものとなっただろう。つまり、私の気持ちを理解できそうな、数少ない人物が君だということだ。副大統領から大統領になるなんて事、ジャックポットの大当たりみたいなものだ」
「なるほど、そうかもしれません。それで、私が抱えたかもしれない問題とは何ですか。気分的なものぐらい教えてもらわないと答えようがありません。それとも単に愚痴を聞くだけなら、ここで立ち去らせていただきますよ」
 トルーマンは、あえて少し突き放すような口調で話すと、ポツポツとウォレスの口から、合衆国中枢部に巣くっている問題が浮き彫りにされていった。半分は予測できたもの、もう半分は政治的には無役に近い自分に話しても良いのかと疑問符の付くものだ。
 会話の内容を要約すれば、ルーズベルト大統領と国務省が、合衆国人の一般常識から判断するとバランスを欠いているということになる。
 確かに思い当たることはある。
 国家社会主義的なニューディール政策。
 ルーズベルト大統領就任以後の、政府の親ソ連姿勢。いかに不況脱出のためとはいえ、民主主義の対局に位置する共産党独裁政権と積極的に貿易するという姿勢が突然できたのは、彼も少なからず疑問だった。
 そしてさらに、奇妙なまでの親中国姿勢と、親ソ連、親中国に対するように発展した異常なまでの反日姿勢。
 いかに最後の市場と言われようと、潜在的に巨大な市場と言われようと、中国にそれ程肩入れする理由が思いつかなかった。中国など、ただ広くて人間の数が多いだけの蛮地だ。欧州のように発展するには、あと百年は待たねばならないだろう。限定的な市場として以外の価値はない。
 中国の近隣にある日本は、軍事に特化して危険性が高いとはいえ、しょせんは後進国に過ぎない。あからさまな外交的挑発をして戦争など起こさず、ナチスとの戦いが片づいた後、貿易戦争で飲み込んでしまえばいいのだ。
 トルーマンの冷静な思考は、数年前そう考えていたほどだった。
 費用対効果から考えたら、今の日本との全面戦争など利益の方が少ないとしか見えない。
 日本に投入する戦力をナチスに向けていれば、今頃戦争は終わっているだろうとすら思えてくる。
 彼の漠然とした考えこそが、世界情勢に通じる良識ある合衆国の政治家の一般見識というものだ。
 そしてウォレス新大統領も、トルーマンと同じように考えている節があった。この数日間の彼の分析では、親中国姿勢は親が中国と貿易していたルーズベルト個人のものだとしても、ソ連とその裏口に位置する日本に対する執着は、国務省そのものに原因があるのではというものだった。
 それだけ中国と日本、そして共産主義に関する分析とレポートが偏っているのだ。
 一通り話を聞き終えたトルーマンは、ならばと語り始めた。
「おおよそのところは分かりました。私も意見を同じくすることがいつくかあります」
 その言葉に、ウォレスは一筋の光明を見つけたかのような顔を向けてきたので、慌てて彼は付け加えた。
「ああ、私は政治の細かいことに意見する立場ではありません。それは理解してくれていると判断します。よって、私が助言できることは二つです」
「何だね」
 トルーマンの言葉に、小さな落胆と大きな期待を込めた瞳を向けてくる。
「ハイ。一つ目は、中国と共産主義に関する研究と情報は、同盟国英国の方が遙かに詳しく正確だろうということ。これについては、日本に対しても同様です。何しろ、二十年前まで軍事同盟の関係にあったほどです。二つ目は、あなたが今のプレジデントだということです。情報が欲しければ、直接命令を出して取り寄せればいい。このワシントンの名を思い出してください。ワシントンD・C。D・Cは通常コロンビア特別区ですが、ダイレクト・コントロールの略称と揶揄される事もあります。この別名こそが、こそが大統領が持つべき力だと思いませんか」
 見る間にウォレスの顔に朱が刺す。
 彼の言葉にウンウンとうなずきながら、急速に頭を回転させているのもわかった。
 そして、緩やかに立ちトルーマンのもとに歩み寄ったウォレスは、彼の手を取りつつ語った。
「ありがとうハリー。大天使からお告げを聞いた気分だよ。さっそく、駐英大使のジョセフ・ケネディに直接連絡を取って資料を取り寄せよう」

 農政に明るい内政家に過ぎないウォレス大統領だが、彼は分野こそ違え研究者であっただけに、自らの外交的無知を熟知していた。
 だからこそ、彼は複数の方面から資料を集めた。
 国務省、各国駐留大使を介した各国からの情報、次第に力を持ち始めていた軍の情報組織からの資料。大統領側近や国務省の一部が言うことを半ば無視して、一週間近くも近親のスタッフと共にホワイトハウスに閉じこもってしまう。
 そうした彼が公に外交的命令を発したのは、六月二十日のことだった。

 大統領に昇格してから十日の過ぎた四四年六月二十日、ウォレス大統領は赤い目と疲れた体をしつつも、主だった長官たちとスタッフを集める。
 スタッフのテーブルの上には、高く積み上げられた書類の山があった。
 全員が着席するのを待って、その書類を手にウォレス大統領が静かに語り始めた。
 多角的な分析、主観を廃した客観的な論評、端的かつ的確な言葉。
 同時期の日本の首脳部が見たら、言葉の穏やかな東条英機みたいだと感想を抱いたであろう光景が、その日のホワイトハウスを支配した。
 そして一通り現状の要約を彼が語り、国務長官のコーデル・ハルに内容をイエスと言わせたあと、言葉の爆弾を投げ込んだ。
「ハル長官の言葉は、現在の外交状況、国際概況の要約を私が理解してている了解と考えてもらいたい。そして、それを踏まえた上で今後の方針を示そうと思う」
 この「臨時」大統領は何をするんだ。
 全ての人間がそう思った。不安げに視線を交わす人間もいる。なにしろノルマンディー上陸作戦が成功し、今日も中部太平洋で大勝利を飾ったという報告が舞い込んだのだ。
 このまま押し続けるだけでいいじゃないか。どうせあんたの任期は五ヶ月なんだ。余計な事はしないでくれ。
 今以上の面倒を抱え込みたくない外交関係のスタッフの中には、そう考えている者も多い。
 だが、「臨時」大統領は構わず続けた。
 今は彼こそが大統領なのであり、合衆国の全権を持つ者なのた。
「今、我々合衆国はイギリス、ソ連など他の連合国ともども、枢軸国陣営に対して勝利を収めつつある。それが最大公約数の要約だ」
 最初の言葉は、勝利を自分の手柄にすり替えて、次の大統領選挙に出るんじゃないだろうな、と考える者も出てくるレベルの言葉だ。だが、これが次の不意打ちにつながった。
「そして私は、様々な資料を検証した結果、今達成しつつある勝利を、より効率よく達成できるであろう方策に行き当たった。今回は、より効果的な勝利を達成するための方針変更だと理解してもらいたい。さて、国務長官、我々の第一の敵は誰だろうか」
「独裁者アドルフ・ヒトラーとエンペラー・ヒロヒトです、ミスター・プレジデント」
「うん。ヒトラーはいいとして、もう一人はトージョーではないのかね?」
「いえ、トージョー政権は近日中に倒れるだろうというのが、我々国務省の分析です。前日の勝利とマリアナ諸島の陥落が政権交代をもたらすでしょう」
「なるほど、ではイタリアのように、日本が降伏するのも時間の問題と見ることもできるわけだね」
「いいえ、ミスター・プレジデントそれは違います。最初に申し上げたように、日本の真の独裁者はエンペラー・ヒロヒトです。トージョーは代行者に過ぎません」
「では日本は戦い続けるのかね?」
「それは次の内閣と彼らの軍部の動き次第です。大臣や軍人の一部には講和を望む声もあると分析されています。ですから今、安易な判断を下すことは難しいでしょう」
「国務長官。今の言葉は矛盾しないかね? 独裁者がエンペラーなのに、次の内閣と軍部が日本の進路を決するというのは?」
 ちょっとした議論を続けていた大統領と国務長官だったが、国務長官が外交の素人を諭そうと口を開きかけたところで大統領が制した。
「済まない国務長官。もう少し私に話させてくれ」
 そうして演説を開始した大統領の言葉は驚愕に値するものだった。
 一つ目は、マリアナでの敗北により、日本が自分たちなるべく有利ながら、敗北に近い停戦ですら強く望むようになっている事。
 二つ目は、大統領がイギリス大使を通じて得た英国の情報と自国の情報を比較検証したと言うことだった。
 そしてその回答が、目の前の紙たばの中程に存在していた。
 大統領に促されるまま文書を読んだスタッフたちは、うなり声をあげる者、蝋人形のように無表情になる者、顔を真っ赤にする者、様々だった。例外は、スチムソンと国務次官のジョセフ・グルーぐらいだ。
 特に国務省関係者の反応が対照的で、顔が無表情になるか朱が差すかのどちらかだった。
 ではここで、後世「ウォレス・レポート」と呼ばれることになる機密文書の要約を列挙しよう。

表題
・ルーズベルト前大統領の過剰な親中国姿勢と
 中華民国の現状
・国務省の過剰な親ソ連姿勢
・日本の政治、政府、軍部
・今後の戦争方針

 表題は大きく四つに分かれていた。概要は以下のようになる。
 ルーズベルト前大統領の親中国姿勢は在任中から有名だが、アメリカの一部情報以外中華民国が前大統領の言うように東洋の民主主義の理想郷などではないのは明らか。それどころか、現行の中華民国政府は、旧態依然とした全体主義的独裁政権に過ぎない点からも民主主義国家など誤り。
 親中国姿勢については、自らによる現地情報収集の徹底と、国内のチャイナロビーの調査、同盟国からの情報提供をもとに抜本的な変更を行う事。また、共産主義に対する同盟相手として中華民国が相応しくないのは、現在進行形で行われている日本陸軍の攻勢に、援助により著しく強化された筈の中華民国軍が全く成す術がないことからも明らか。中国問題に連動して、日本帝国こそがアジアの共産主義の防波堤の役割を果たしている点を指摘。その証拠に、満州地域での共産主義活動はほぼ皆無となっている。
 次に、国務省の過剰な親ソ連姿勢だが、建国以来のソ連政府の行動から彼らの膨脹傾向は明らか。
 今は同盟国として戦争中のため問題は少ないが、ドイツと日本に対する勝利が確実になりつつある今日、次は独裁政権と共産主義の二つを内包する現ソ連政権に対する警戒を強める必要がある。現政府が独ソ開戦以前に見せたように、帝政ロシア以上に貪欲な領土拡張欲と共産主義の拡散姿勢を見せている事からも、早急に対策を立てる必要がある。場合によっては、ナチスとの戦いが終わる前に強い政治的牽制をかけてもよいだろう。これに連動して、中国共産党の活動を押さえる動きを強化すべき。
 日本ついては、日本の政体はナチスドイツとは全く異質であることは、少しでも調べれば明らか。
 彼らは、天皇とこれに連動する大日本帝国憲法という象徴権力を利用した、擬似的な軍事独裁に過ぎない。ヒトラーが直に率いるナチスとは、根本的に違っている。ここ十数年、クーデターすらあっても内閣が替わり続けているのが何よりの証明。彼らは単に目の前の目標しか見ない無定見な行動の結果、自ら窮地に追い込まれただけに過ぎない。しかも彼らの政府は、首脳部ではなく主に陸軍内の急進的で粗暴な中堅幹部が主導している向きが極めて強い。
 そして今日、敗北が濃厚となってきた日本政府が第一に求めるのは国体護持。つまり天皇の保全。カイロ宣言での無条件降伏を撤回して、この点で少しばかり譲歩すれば、イタリア以上に容易く日本が降伏もしくは停戦に応じる可能性がある。
 また、先にも触れたように、共産主義の拡大を防ぐためにも、日本に余力を残したまま民主主義国家に導く必要がある。
 ただし、日本の側から民主化を成させるために、今以上にマリアナ諸島に対する攻撃を強くし、一日も早い同諸島の制圧と新型爆撃機の配備、そして対日本本土爆撃を急ぐ。このため、カートホイール作戦は修正し、短期的にマリアナ諸島地域への努力を傾ける。
 最後に戦争全体の方針だが、日本に対して本土爆撃されたくないのならと、天皇の保全、つまり国家・政府の独立存続以外を連合国の自由とする停戦に応じさせる。この際、ある程度領土と政府、軍隊に関する保証を含ませてもよいだろう。
 合衆国市民達が求める日本に対する戦争責任については、自らの無定見と暴走であの国の道を誤らせた彼らの軍部に取らせればよい。
 日本の政治が民主化され軍があるべき姿に戻れば、共産主義の脅威を前に自ら我々の同盟国となるだろう。
 そして、早期に日本を屈服させた上で、太平洋に展開する膨大な戦力を素早くヨーロッパに回し、一気にナチスドイツを殲滅する。
 これらが連動して成功した場合、アメリカン・ボーイズの戦死者は十万の単位で少なくなる可能性がある、と結ばれていた。

 十数分、紙をめくる音とわずかな呼吸音以外沈黙に包まれていた会議室は、徐々にざわめきが大きくなっていった。
 既に敗北が見えた弱小国日本に対して無条件降伏を適用しないだけで、戦争は短期に終わり戦死者も減るという提案は、非常に魅力的な案に見えた。欧州を第一と考える、当時のアメリカ人の一般常識にも合致している。卑怯な真珠湾攻撃の復讐は重要だが、この点は主に感情問題に過ぎないのは誰でも知っているし、多くは既に果たされた。
 またルーズベルトや国務省の一部以外、親中国でも親ソ連でもないので、早期に戦争を終わらせることができるのなら、東洋の小国日本の無条件降伏など二次的な事に過ぎない。
 そして日本を早期に屈服させナチスドイツに全力を向けたいという考えは、アメリカ人のもう一つの本音でもあった。
 さらには日本の牙城といえるマリアナに対する攻撃成功で、日本との戦略的な意味での戦争に決着が付いたのも、ウォレスウ・レポートを感情面で肯定させていた。
 そして全員がレポートを読み終わるのを待って、ウォレス大統領が最後の爆弾を投じた。
「さて、私の若い頃の技術が少しでも役だったようだね。ではそれを踏まえたうえで、私はもう一つの話をしなくてはならない。それは大統領昇格以後、英国宰相のチャーチル卿と一度手紙を交換して、お互いの意見を確認しあったということだ」
 声なきどよめきが部屋をおおいつくした。特に国務省関係者の驚きは大変なものだった。
 たまらず国務長官のハルが意見しようとしたが、ウォレス大統領が再び制した。
「まあ、話は最後まで聞いてくれ、ハル長官。チャーチル卿には、このレポートの概要を先に見ていただいた。情報提供に対する礼も兼ねてね。そして彼は、ナチスに対する無条件降伏は必要だが、アジアの共産主義に対する防波堤として、日本をある程度残す案については賛成だといっている。もちろん、日本の事実上の降伏と、軍事政権の解体というプロセスを経てだ。つまり、今のレポートは今後の連合国としての総意の草案だと考えてもらいたい。何しろこんなものはスターリン閣下には見せられないからね」
 大統領はそこで言葉を切ったが、あとは喧々囂々の議論となった。最後の言葉が、暗に国務省関係者の多くがソ連の中枢と繋がっていると臭わせた事も助長した。
 事実、国務省のスタッフの一人は、ウォレスの最後の言葉に反応したかのように激しく言い立てた。親ソ連姿勢に対する方針変更と、ソ連に無断で戦争方針を変更することは、同盟国各国の相互不信を拡大し、連合国の結束を乱すことになる。ドイツ、日本に対する無条件降伏は、断じて譲るべきでないと。
 さらには、枢軸国全てを無条件降伏させてこそ、新たな世界秩序の中でのアメリカの地位は確立されるのだとまで言い切った。
 それに対してウォレスは、次の言葉で「演説」したスタッフの言葉を封じてしまう。
 君の言う事の一部は、ルーズベルト前大統領が示された事だ。だが今は私が大統領であり、だからこそこうして、私が最上であると考えた方針を説明した。議論、検討はこれからなのに、断言することは明らかに越権行為だ。それとも君は、これ以上にアメリカ市民の犠牲を減らす方策があるのかね。
 さらに私の理想論を言わせてもらえば、アメリカの為政者とは、アメリカの利益を最優先としつつも人道と正義を貫くべき存在なのだ。そうであればこそ、アメリカの民主主義は世界からの尊敬を集め広めることもできるのだ、と。
 この言葉に代表されるように、彼は良きアメリカ人といえた。
 そして以前とは比較にもならない強い眼光で反論を押さえ付けた「臨時」大統領は、アメリカの良き部分を体現したような言葉で会議を締めくくった。
「私は、これから合衆国が、民主主義社会さらには世界のイニシアチブを取っていくためにも、無条件降伏という文明国にあるまじき提案を主権国家に突きつける事は、できる限り避けるべきだと考える。これはドイツに対しても同様だ。彼らが過ちに気付き、自ら悪しき勢力を駆逐して講和を求めてくるのならば、話し合う余地は十分にあると思う。つまり国務省の任務は今以上に重くなるだろう。それを十分わきまえてもらいたい。以上だ」

 ワシントンでの新方針提示から数日。
 一九四四年六月二十六日、マリアナ沖海戦に敗北しサイパン島での巻き返しも不可能となった時、中立国を介してアメリカから日本に内密にメッセージが送られる。
 内容を要約すれば、無条件降伏を撤回して国政の民主化と引き替えに国体護持を認めるので、今すぐに条件付き降伏に応じろというものだった。それ以外にも、一方的軍縮など開戦の最後の引き金となったハル・ノート以上に厳しい条件が突きつけられていた。
 各種放送でも、日本ばかりか全枢軸国対象の放送で、大西洋憲章では国民が国家の政体を決めることができると流した。
 そして、日本軍部は一時的に意気消沈していた。海軍主力が壊滅しマリアナ諸島の防衛も不可能、東条内閣は崩壊寸前、インパールでも惨敗という状況が重なって、八方ふさがり。
 特に、7月7日にサイパン島から送られた決別を告げる電報は、その内容共々精神的に致命傷となった。司令官南雲中将は、国家と国体の護持のため死して護国の鬼とならんと結んでいたからだ。
 さらに日本にとっての敗報は続き、日本政府が右往左往する中サイパン島の爆撃機基地が異常な速度で整備される。
 そして四四年八月六日、サイパン島から行われB24、B29合計約150機による低高度夜間無差別爆撃は、帝都東京の下町を焼き払った。死者は2万人に達し、日本政府、軍部全ての人に戦争敗北を実感させるには十分なものがあった。

 なお、サイパン島陥落から数日後の七月十八日、さらなる内閣改造で難局を乗り切ろうとしていた東条英機は、水面下で動く講和派の政治家、軍人の策謀と、一部大臣の実質的な造反により内閣総辞職を余儀なくされた。
 そして東条の後を引き継いだ形の小磯国昭新内閣は、ただちに即時停戦と講和のメッセージを送った。
 国体護持を確約せれば、我講和に応じる用意あり、と。
 これに対して、「サンフランシスコ宣言」とされる日本に対する停戦案がラジオ放送で示されたのが、ドイツがクーデター未遂騒ぎで大混乱に見舞われていた七月二十六日。
 そして全てが実を結んだのが一九四四年八月十五日の日本の停戦成立であり、九月二日の東京湾での停戦条約調印だった。
 新たなアメリカ大統領の示した日本の国体護持確約と日本海軍壊滅・マリアナ諸島陥落が、日米の戦争に幕を引いたのだ。

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  一九四四年九月二日 東京湾
 東京湾上に停泊した米国の戦艦ミズーリの甲板に、すぐ側に停泊した日本軍艦長門からランチを使い移乗してきた日本国全権が上がった。
 日本国全権には重光葵外務大臣と梅津美治郎陸軍大将が選ばれ、ミズーリ艦上にはアメリカ側代表のチェスター・ニミッツ大将の姿があった。
 そして日米の戦艦が並ぶ中、日本と全ての連合国との停戦がここに成立し、大東亞戦争は終了した。
 それが任期五ヶ月に過ぎなかったヘンリー・ウォレス大統領がもたらしたものだった。

 多数の報道関係者、軍人、政治家、そしてミズーリの乗組員が見守る中、握手を交わして文書を交換した日米の代表は、停戦への深い感慨をいただきつつ、静かに視線を交わしあった。そこに少し表情を変えたニミッツ大将が、阿南大将に語りかける。目には敵意はなく、瞳を見た者に戦争が終わったのだという事を実感させる。
「ところで将軍、私はこの席上で一つの小さな楽しみがあったのですが、どうやらそれは叶えられないようでした」
「と、申されますと」
「ハイ、警備のし易い軍艦上での文書交換ということで、日本海軍も最新鋭の戦艦を持ってくるものと思っていました。ですが、眼前にあるのはビッグセブンのナガトです」
 自分たちは就役したばかりの新鋭戦艦を持ち込んだのに、少しアンフェアではないか。阿南大将は、言葉の裏にそのようなニュアンスを感じた。日本側もそれは十分考えていたので、阿南はよどみなく返答した。
「帝国海軍が保有する「大和」と「武蔵」の事ですね。我々としても、当初は「長門」ではなく、二隻のどちらかを出すつもりでした。ところがどちらも停戦直前に長期整備と改装工事に入っていて、どうにもならなかったのです。何しろ停戦が急でしたので。まったくお恥ずかしい話しです」
 そのかわり、今後自由に見学していただく事もできるでしょう。皆さんが通過してきた横須賀には、同級三番艦を改造した巨大空母も有りますぞ。阿南はそう続け、欧米風のリップサービスを忘れなかった。事実上の降伏を余儀なくされたとはいえ、外国から礼儀知らずと舐められるわけにはいかない。最新兵器を見せることによる示威というより、当時の日本人の誰もが持つ気分を代弁するかのような、そんな言葉だった。
 だが、日本、そして日本海軍に対して尊敬の念を忘れないニミッツは、言葉通り受け取る事にした。それも礼儀というものだ。
「それは凄い。落ち着いたら「三笠」共々ぜひ見学したいものです。そうそう、「三笠」を見学するのも候補生以来数十年ぶりで、これも楽しみにしているのです」
「日米停戦は成り、これからは友誼を以てつきあう仲です。それも容易でしょう」
 二人の会話に、重光葵が如才なく言葉を挟み入れた。
 そうした穏やかな日米停戦の儀式とは裏腹に、その後の東アジア情勢は日本を中心に二転三転することになる。



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