■長編小説「虚構の守り手」

●第二章「混沌」(2)

 マリアナ陥落をもって太平洋戦争は終幕した。
 形としては、イタリア半島に上陸されたことでムッソリーニ政権が打倒されたイタリアと似た終戦といえるだろう。
 だが日本の結末は、イタリア以上にこじれる。日本政府が連合国と講和した条件が、日本国内で大いに問題有りと感情的に判断されたからだ。
 急死したルーズベルトの後を引き継いだウォレス大統領が提示し、イギリスその他の国々が連名した「サンフランシスコ宣言」は、日本にとって屈辱的な停戦および講和条件だった。
 内容を極めて簡単に説明すれば、国政の民主化と一方的な軍縮を加えたハル・ノートに記載された条項受諾と引き替えに日本の国体護持(+日本政府の独立)を認め、即時停戦に応じるというものだった。他にも、ハル・ノート以上に厳しい条件がいくつか突きつけられていた。だが、カイロ宣言で提示された無条件降伏を日本に対して撤回するというだけで、連合国にとって大いなる譲歩といえるだろう。
 そして日本軍の戦線は既に末期的症状で、アメリカの出した停戦条件を跳ね返すだけの実力が既に失われていた。海軍が壊滅して、絶対国防圏のマリアナ諸島の防衛は不可能。ビルマでの投機的な作戦も大失敗。本土は無差別爆撃、東条内閣総辞職という状況で、軍部は一時的ではあれ意気消沈し大混乱の極みにあったのだ。
 この状況を利用した小磯新内閣は、ただちに即時停戦と講和のメッセージを連合国に送る。
 日本の動きに対し、ノルマンディー上陸成功後もその周辺部を突破できず苦戦する連合国側は、ただちに日本の行動に反応。終戦派、停戦派とされる日本国内の政治家、軍人が積極的に動くことで事態がさらに加速。
 近視眼的で粗暴で幼児的な少壮将校を中心とする強硬な主戦派に動かせないための宮城内での御前会議で、一気に連合国との停戦を決めてしまう。
 そして国内の主戦派の多くも、帝都再空襲と国体護持という二つのファクターを前に、停戦を受け入れる雰囲気ができあがった。
 主戦派であろうとも、国家の主権が維持されるのなら、帝都や日本全土が廃墟になるまで戦争する必要はないと冷静に判断していたのだ。
 ごく一部で起こった軍部と国粋主義者の武力に訴える動きも、総力を挙げて動員された憲兵隊と近衛師団の一部が動いて封殺。これがかえって天皇と政府の停戦の決意を見せることになり、少なくとも帝都及び日本本土での戦争継続の機運はほとんど消し飛んだ。武力と共に自らが常日頃唱える天皇陛下の名を出されては、参謀本部で戦争将棋に興じていた少壮将校達も立ち尽くさざるを得なかった。
 政府の決断が、米軍のB29爆撃機が大挙帝都に押し寄せた一九四四年八月六日。停戦交渉団を乗せた政府専用機が、厚木から硫黄島を経由して米軍の支配領域となったマリアナ諸島に訪れたのが八月九日。
 そして停戦発効が一九四四年八月十五日。日本にとっての暗雲が吹き払われた筈の瞬間だった。
 しかし、そこから暗転が訪れる。
 主戦派が占める満州や南方資源地帯の部隊が、徹底抗戦の要求を大本営や政府に要求する動きを見せたのが発端だった。これは最初、支那派遣軍を始め、シンガポールやバンコクの動きも強硬だった。何しろ前線で戦う彼らにとって、政府の行為は背信に近い。しかも大陸では敗北しておらず、満州も力強く健在だったから尚更だ。
 また、日本の占領地からの撤退と宗主国への主権返還という停戦条件を前に、現地組織と陸軍の一部が結託。幸いにして、停戦に連動して行われた説得工作で、軍丸ごと造反という事態に至らなかったが、一部の兵士が現地民族組織と結託してそれぞれの地域が独立宣言を行い、進駐してきた連合国と戦闘を始めてしまう。
 だが、南方の動きはまだましな方だった。
 日本政府も、現地住民組織と軍を離れた個人の問題と言い逃れる事ができたからだ。実際、叛乱やそれに類する行動を取った者の多くが軍籍を剥奪されている。
 問題だったのは、領土としての土地を抱え込んだ状態の関東軍と朝鮮軍だった。
 十五代関東軍司令官山田乙三大将と朝鮮軍司令官板垣征四郎大将は、関東軍を始め多くの将官連名の血判状を提出。中にはわざわざ内地から大陸に渡った者も多く、特に中堅の強硬派将校が多かった。そして彼らは、政府に連合国との戦争継続と一定の勝利を経た講和のみを要求した。
 これに関東軍を中心にした約五十万人の将兵と満州を中心に朝鮮、華北の一部が連動。徹底抗戦を認めさせるためなら、皇軍相打つも辞さない態度すら見せた。
 慌てた日本の中枢は、皇族が新京と京城に赴く動きすら見せ沈静化を図るが、皇族を乗せた海軍の輸送機が事故で墜落。同乗していた皇族も消息不明となってしまった。
 これにより、双方引っ込みがつかなくなる。
 造反するな、停戦認めずの言葉だけが虚しく日本海を飛び交い、そのまま日本政府は九月二日の停戦調印を押し通してしまう。
 日本政府・軍部中央は、停戦調印で決着が付くものと考えていた。それが理性というものだし、停戦調印という政治的ショックがあれば、できもしない事を言い立て息巻いている者達も、おとなしくなるだろうと考えていた。
 だが事態はまったく逆の方向に流れる。自身の勝手な思いこみと行動により、政治的、精神的に追いつめられた海外の徹底抗戦派が、ついに造反の意志を具体的に示したのだ。
 幸いにして、日本陸軍最大の勢力を抱える支那派遣軍は、一号作戦、通称「打通作戦」の真っ最中で部隊も広く分散していたし、司令官の岡村大将が停戦には反対だが軍人として政府の方針に応じる旨を強く宣言していたので混乱は少なかった。兵員総数百万人の多くも、交戦中の中華民国軍との戦争終了手続きで手一杯なので造反阻止に役立っていた。
 だが明るい話題はこれぐらいだった。
 一九四四年十一月十五日。アメリカで新大統領が立って、日本に対して新しい要求を突きつけた事が最後の撃鉄となった。
 この時アメリカ政府は、日本政府に対して民主化を実現するための最初の要求として、現憲法の大幅改訂と、それに伴う天皇主権から国民主権への移行を正式に要求したのだ。
 アメリカ側からすれば、停戦の条件なのだから当たり前。新大統領の最初の仕事として出した要求という程度に過ぎなかった。
 だが、国内外の徹底抗戦派が激発した。
 満州・朝鮮では、関東軍司令官山田乙三大将と朝鮮軍司令官板垣征四郎大将を中心にして、連合国との徹底抗戦を改めて主張、天皇と政府に継戦を強く要求。継戦が受け入れられないのなら、現政権を打破してでも実行させると宣言する。
 事実上のクーデター宣言だった。
 関東軍がこれ程の強気に出た裏には、ソ連の影があると噂され、恐らく確実だろうと日本政府、アメリカ政府とも考えた。政府内にすら、ソ連を仲介にしてさらに優位な講和をという声も小さくない。
 だが、だからといって動くに動けなかった。
 停戦発効からすでに二ヶ月あまり。アメリカはすでに欧州に大兵力を移しており、日本は停戦条約に従い軍事力の国内引き上げと大規模な動員解除を進めていたからだ。
 これに対して関東軍は、終戦時南方に引き抜かれかけていた精鋭を中心に約五十万人の兵力を維持したままで、朝鮮や華北地域の合流部隊を合わせると、その戦力は六十万人に達していた。しかも軍団の半数は日本陸軍の精鋭で、戦中蚊帳の外に置かれていた彼らは徹底抗戦に強く呼応していた。
 その上日本国内を始め各地には、徹底抗戦派に同調もしくは同情する個人や部隊も多く、内地での監視と押さえ付けのため、日本政府・軍部中央は動けなくなっていた。
 そしてついに、決定的な事件が起きる。
 十一月十五日の徹底抗戦派の宣言と共に発動された、軍事クーデターを目指した帝都襲撃。そして襲撃失敗を受けて、一斉に大陸への移動を開始した徹底抗戦同調派の国外逃亡だった。
 なお徹底抗戦派による帝都襲撃は、宮城急襲による天皇の確保、政府・軍部中枢施設の制圧を画策したものだった。作戦には、「義烈部隊」と改称された陸軍空挺隊の第一空挺団と関東軍最強の「機動第二連隊」通称「満州第五〇二部隊」が参加した。また同作戦には、空挺作戦だけに既存の空輸部隊と日本唯一のグライダー部隊・滑空飛行第一戦隊も参加している。
 同戦隊は 「空の神兵」 で有名な空挺部隊の一部で、大型滑空機に兵員をのせて九七式重爆撃機で曳航し敵中に強行着陸させる部隊だった。
 これらの兵力を載せた機体が、朝鮮半島東岸から不意を付いて日本列島中央部を最短距離で横断。帝都へと侵入。帰りのことを考えない片道飛行により、落下傘の花を東京の夜空にばらまいた。そして仕事を終えた飛行隊の方は、そのまま徹底抗戦派の牙城となり、内応していた海軍の厚木基地に着陸。事後、帝都に降下していった将兵の朗報を待った。
 また、満州、朝鮮、そして日本各地で帝都制圧を成功を待っていた各部隊も、移動と各地への行動の準備を行いつつ朗報を待つ。
 だが朗報は、遂にもたらされる事はなかった。
 理由はいくつかある。
 まず第一に、政府と軍中央が非常事態を想定して、極秘裏に部隊を帝都内部各地に配置していたこと。特に近衛師団や政府中枢が常時臨戦態勢にあり、高射砲部隊が激しい弾幕を張ったことも作戦失敗の大きな要因だった。
 二つ目は、襲撃部隊が宮城に直接乗り込まず、周辺部に降りたった事。また、落下傘降下のため重装備を持たなかった事。特にこれは、防衛部隊が習志野などから極秘裏に戦車を呼び寄せていた為大きな失点となった。
 三つ目は、終戦間際に激しい防空戦が行われた北九州地区を中心に、日本軍による電波警戒の網を張っていた事。
 そして最後に、米軍による偵察情報のリークがあった。米軍も日本造反組織に強い注意を向けており、日本海、東シナ海に大量のレーダーピケット艦を配備していた。これが、闇夜日本海を飛行する漆黒に塗装された大編隊を正確に捉えたのだ。
 そして、直前で飛来し執拗につきまとった帝都防空隊を振り切った空挺部隊が降下したのだが、降下地点を予測されて降りたそばから戦車や装甲車、各種車両による機動力に優れた重装備の部隊に各所で包囲されてしまう。
 それでも精鋭に相応しく果敢に行動を起こした襲撃部隊だったが、包囲部隊を始めとする彼らに対する天皇の玉音による録音放送の効果は大きかった。いかに最精鋭の下士官や将校達とはいえ、当時の一般的な帝国軍人が勅令を受けてなお叛意を示すことには多大な精神的負担を必要とした。中にはその場で銃を棄てた者がいたほどだ。このため襲撃部隊の動きはさらに鈍った。けっきょく、事前に帝都内に潜伏していた少数の内応部隊と、参謀本部などにいた一部将校の無謀な攻撃が行われたのみで終幕する。
 数十機の航空機と六百名以上の兵員を用いた、帝国陸軍最大規模となった空挺作戦は、その他合計して二千名ものクーデター部隊、そしてクーデター計画もろとも消え去ったのだ。
 だが、徹底抗戦を主張して事実上造反し、御上にまで刃を向けた者たちが、簡単に態度を変えることはなかった。それどころか、逆に態度をますます硬化する。
 これには、帝都中枢にいた造反者を徹底的に拘束、逮捕もしくは銃殺した事により、相手に必要以上の情報を与えず、中枢の一部を封殺した効果が逆に影響していた。
 しかも悪いことに、帝都制圧と同時に行動する予定だった日本各地の造反した陸海軍部隊が、失敗の際の事前の策として一斉に移動を開始。再起を図るべく一路、造反者の牙城となっている満州・朝鮮を目指した。
 この中には、厚木などに展開していた海軍航空隊や、呉と柱島から離脱した大量の海軍艦艇、そして輸送船を奪取した多数の陸軍部隊の存在もあった。また、潜伏しつつ民間経路で逃れた者も多い。それだけ当時の日本の停戦は、軍部のみならず、軍部に同調する者たちからも反対されていたのだ。

 その後、軍の大規模離反に連合国から非難が集中する日本政府だが、対応は後手後手に回る。水際立っていたのは、予測が的中した帝都でのクーデター阻止だけだった。
 これにも理由が幾つかある。
 長い間の戦争により、経済は崩壊寸前で戦力は事実上枯渇。統制力も低下して、遠隔地へ政治的影響力を維持する能力も低下。ましてや、いまだ陸軍精鋭部隊がひしめく満州に何か行動を起こす事など、物理的に不可能だった。できることと言えば、ラジオや無線通信、水面下での接触などによる説得や切り崩し工作ぐらいだ。
 そして日本を屈服させたアメリカを中心とする連合国も、満州の造反軍事力を効率的に無力化する事は難しかった。さらに日本本土に進駐してきた連合国軍も、日本の状態を認めないわけにはいかった。とりあえず日本本土と日本政府が主権を行使できる地域での軍の撤退と軍縮、そして造反の可能性がある者のパージを実施させる。
 しかし抜け目のない連合国は、クーデターにかこつけて事実上の占領軍駐留を日本政府に認めさせ、軍縮や民主化を厳しく監視するための要求を突きつけた。
 そして事実上の国家分裂状態に為す術のない日本政府も、アメリカの強引な要求を受け入れるしかなく、初期の停戦よりも悪い政治状況に追い込まれる。アメリカが日本に対して行った行動の中には、軍部独裁を主導した巨大財閥の解体、好戦的軍人の粛正、戦争犯罪人の軍事裁判の開催なども含まれていた。多くは、油断ならない日本に対しての、アメリカの当然の反応であり措置だった。
 しかしこの時アメリカが示した厳しい姿勢が、日本国内でさらなる造反組、逃亡組を作り出し、人々は次々と危険を冒して満州・朝鮮へと流れていく。
 中には、はるばるビルマの奥地から満州に駆けつけた軍人の姿もあった。
 そして年の変わった一九四五年八月九日、「賊軍」が支配する満州国では、名目上とはいえ皇帝だった溥儀を満州国皇帝から退位させ、朝鮮でも総督を廃止し、新たな独立国家としての宣言を行う。
 彼らは、旧満州国を中心に朝鮮半島、内蒙古、華北地方の一部を占領したまま「大東亜人民共和国」の建国を宣言したのだ。
 元首は大東亜の象徴である天皇を最上位とするも、名代として共和国大統領が取り仕切り、旧朝鮮軍司令官だった板垣征四郎大将がこれに就任した。その下には、満州自治国、朝鮮自治国、蒙古自治国、漢人自治区、ロシア人自治区、ユダヤ人自治区などの自治共和国政府が作られた。それぞれに自治国政府を立て、場合によっては名目君主に王家を立てた立憲君主の体裁を取っていた。これら表面上の制度は、殆ど全て大日本帝国のものであった。唯一の違いは、中央政府にまともな議会や政府はなく、全ての上に関東軍を中心とした日本帝国軍の造反組、逃亡組が君臨した事だ。
 同国は、満州国の掲げた「王道楽土」、「五族共和」をさらに進めたスローガンを掲げたが、明らかな軍部独裁政権であり、また満州国で実験された官僚専制国家であり、ソ連の強い影響を受けた政府、団体である事は明らかだった。
 また同国は、東亜の真の開放と欧米資本主義に対する対決姿勢を明確にしており、彼らが「占領」した日本列島を中心とするアジア地域に対する解放を国是としていた。
 当然だが、東京に首都がある日本政府、アメリカ合衆国、中華民国を始め世界の過半の国は、この新国家建設を認めることはなかった。
 そしてこれを、内地の人々は当初は「賊軍」と呼び、しばらくして事態が落ち着くと「大陸日本」もしくは単に「大陸」、固有名詞を忌避するように「向こう側」、「あっち」などと呼ぶようになる。
 これに対して自分たちの事は「列島日本」もしくは、単に「日本」。相手同様に固有名詞を避ける場合は、「こっち」、「こちら側」と言った。

 いっぽう奇怪な国家の誕生は、その後の日本列島以外にも大きな影響を与える。
 この年の三月に欧州での戦いに決着ついたのだが、世界情勢の変化も日本に深く影響を与える。ドイツ早期降伏に、日本の早期降伏が深く関わっていたからだ。
 日本と連合国との停戦成立後、連合国の戦力は日本軍が占領地からほぼ自力で引き上げ始めた頃には、太平洋の多くの戦力を欧州に移動していた。
 欧州連合国軍は、突如膨大になった海上機動戦力を用いて、北海、アドリア海、エーゲ海、バルト海での活動を活発化。ドイツが対応に出るいとまもないほど空母機動部隊による空襲と迅速な強襲上陸を繰り返して、海岸部から防衛線をズタズタに引き裂いてしまう。主に海軍と海兵隊による活躍の結果だ。
 一度に数百機の艦載機が一箇所に押し寄せ、十六インチ砲弾に雨霰と降られては、いかに精強なドイツ国防軍といえど歯が立たなかった。マーケット・ガーデン作戦で、空挺部隊と海兵隊の攻勢にドイツ軍が翻弄された事が象徴的だろう。この時の敗北は、本当に戦争がクリスマスまでに終わるのかと思われた程だ。
 この時の敗北に大きなショックを受けたヒトラーは、以後西方では沿岸防御を事実上切り捨て、内陸部での守勢防御のみに重点を置いた。そして主力をソ連と対峙する東部戦線に配置し、ヒトラーの命令により死守命令と後退、そして軍の後退と司令官解任を経てドイツ第三帝国は水が枯れたスポンジのように縮小していく。
 そうしてドイツが滅ぼうとしていた時、最終的な東西から迫る連合国軍の停止線は、ベルリンの東方を流れるオーデル川となった。さらには、米英軍のチェコ、ハンガリーなど東欧各地への進駐へとつながる。
 当然だが、戦争の終幕は米軍による帝都ベルリン占領だ。国会議事堂に雄々しく星条旗を立てる海兵隊の写真が歴史的シーンとなった。
 反対に、ソ連赤軍がキャタピラと軍靴で蹂躙できたドイツは、オーデル河以東の東プロイセン地域までとなった。
 ソ連は、日本の早期停戦で焦り、慌てて欧州正面で攻勢を強化したのだが、幾つかの行動が裏目に出た結果だった。
 四五年一月から赤軍による大攻勢が開始されたが、ドイツ軍精鋭部隊の頑強な抵抗を前に進撃速度は鈍かった。一月二〇日にドイツ本土に最初の一歩を示すも、ドイツ側の懸命の防戦と脱出作戦の前に、捕虜も強制労働させるべき市民も、暴行すべき女性もほとんど残らなかった。とりあえずソ連にできた事は、現地に残ったものを根こそぎ祖国に持ち帰るぐらいだ。
 もちろんドイツ降伏後は、連合国各国で取り決めた占領政策に従いドイツ各地に入り込み、他の連合国同様、技術や資産の大略奪を繰り返した。だが、ソ連と独裁者スターリンの欧米資本主義陣営への不満は、極めて大きなものとなる。戦いながら誰の目憚ることなく奪うのと、戦い終わって誰かに見られながら奪うのとでは違いが大きすぎた。しかも監視するのは、次なる敵手たる米英だ。
 そして日本が降りドイツが滅ぶまでの間のアメリカでは、ルーズベルトの後を引き継いだヘンリー・ウォレスが一九四四年十一月の大統領選挙には出馬せず、足並みの揃わない民主党は選挙で敗北。共和党のトーマス・E・.デューイが大統領に選出される。十二年ぶりの共和党政権だ。
 デューイ大統領は、検事出身のバランス感覚に富んだ人物とされたが、彼も民主主義を至上と考える典型的なアメリカ主義ともいえる考えの持ち主だった。そして彼の支持母体は共和党だ。
 だからこそ、事実上の独裁と理想とかけ離れた共産主義が重ね合わさったソ連に対して、一定の距離を置くことを常とした。
 表面的にはともかく、実質的には廃墟となったドイツおよび東欧の占領統治でも、ソ連の強引な要求を前に強く対立した。特にドイツ占領についてのソ連側の強引な申し入れは、ベルリン攻撃で大きな犠牲を払ったアメリカを憤慨させる。連合国の首脳全てが揃ったベルリン郊外のポツダム宮殿で、デューイ大統領がソ連の行動を暗に非難したほどだ。
 そして二度にわたる大統領の急変と変節が、最前線にあった反共主義者のパットン将軍を喜ばせることになった。彼の「共和党万歳」の言葉は、その後の冷戦期間の多くにおいてアメリカ共和党の宣伝文句になったほどだ。
 またソ連は、日本の停戦時は連合国に属しながら日本とは中立条約を結んだまま戦争行為に及ぶことはなかった。これも、アメリカ・イギリスによるアジア独占を呼び込む。
 そして東西で発生した二つの大きなファクターが、ソ連(スターリン)による日本帝国造反組に対する感心を呼び起こし、満州政府への肩入れへと続き、アメリカの日本列島重視政策を作り上げたのだ。
 以上が、日本の条件付き降伏に伴う世界情勢激変の概略になる。
 そしてソヴィエト連邦を始めとする共産主義陣営は「大東亜人民共和国」の存在を認めた。アメリカ・イギリスを主とするそれ以外の国々は、民主化と憲法改正、軍縮などを断行させつつある「日本国」を正統な日本政府と承認した。加えて、大東亜人民共和国の支配領域を、中華民国と新規に独立予定だった大韓民国仮政府のものとした。
 当然だが、満州にある組織につては、不当な武力制圧を行う組織として国際的に強く弾劾する。
 そしてこの時、古い日本と新しい日本が決別した歴史的瞬間となった。
 これを数百年前の南北朝時代になぞらえる研究者もいるが、古い日本が依るところない虚飾の存在であり、亡霊のような存在として以後半世紀の歴史を歩むことは歴史研究上では興味の尽きない点としての価値のみを残すことになる。




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