■長編小説「虚構の守り手」

●第三章「虚ろいの国」(2)

  一九四九年四月二九日午前一時 新京

 立花達の待つその瞬間の少し前、西竹一人民軍大佐は、今まさに駐屯地を出撃しようとしていた。
 夜になると周りに灯りが全くなくなる駐屯地の倉庫内では、十数台の鋼鉄の塊のエンジン音が重なり合い、もの凄い轟音が響いていた。
 平均的な日本家屋より大きいのではと思える鋼鉄の塊の周りでは、整備兵が忙しげに動き回り、それぞれの天頂部のハッチからは最後の整備を見守る車長の姿も見える。
「アイゼンビュット曹長、調子はどうか?」
 見事とまではいかないが十分なドイツ語で、自らも半身を沈めている鋼鉄の塊の中に声をかけた。
「問題ありません大佐。いつでもいけます」
「では、行こう。……曹長、こういうときドイツ語の号令は、パンツァー・フォーだったかな?」
「それでも構いませんが、通常はフォーでなくマールシェですね。単に前進を命令する場合、マールシェの方が相応しい号令になります」
「そうか。しかし他の乗員のほとんどは日本人だ。日本語でいこう。済まない曹長、つまらない事を聞いて」
「どういたしまして。ところで、本当にティーゲル・ツヴァイだけで行くのですね。市街地に乗り込むなら、小柄なT34の方が相応しいのでは」
「そうかもな。しかし、何せよ共産党を蹂躙しにいくんだ。ドイツ生まれの戦車で行く方が相応しいと思ってね」
「Danke」
 西竹一大佐は、ドイツ人顧問として今は彼の乗車の砲手をしているミハエル・アイゼンビュット曹長との出撃前の緊張をほぐすような会話のあと、出撃のための号令を発した。
「前進用意、前へ!」

 九七式戦車を改造した偵察戦車が先導を務める隊列は、時速二十キロの早さで重コンクリートと重アスファルトで補強された真新しい街道を走行。一路新京中心部を目指した。国内の主要一般道路は、北満の某所で飽きるほど採れるアスファルトで舗装されているが、軍専用道路となる一部幹線道路は例外で、そこは例外の中の一本だった。
 街道を進む彼らの目標は大きく三箇所。
 小隊ずつに分散して、大統領仮官邸(旧関東軍司令官官邸)、人民共和国軍最高司令部(大同大街にある旧関東軍司令部)、共産党本部(旧皇宮予定地に新たに建設したもの)に赴く。前者二つは、示威を目的とした警備だったが、最後の一つは攻撃を目的としていた。
 だから、西大佐が直率した第一小隊が向かう事になっていた。
 十両あまりの戦車部隊は、難し屋のティーゲル・ツヴァイの簡単な整備をはさんで、五〇平方キロメートルと初期計画された幾何学的な区割りをされた市街地中心部へと入り込んでいく。

 新京。そこはアジアだけでなく世界的に見ても珍しい街だった。世界に類を見ない、全くのゼロから建設された巨大な計画都市だからだ。「前衛都市」と言われた事からも、規模や斬新さが伺い知れる。
 そして何より圧巻なのは街路の広さ、区割りの大きさだ。街中心街の道路面積は、都市面積の二割にも及び、さらに巨大な公園や緑地帯がそこかしこにあり、いかにも更地に作られた計画都市の顔を見せている。道沿いの街路樹までもが、全く抜かりがない。
 全ての区画で高度な上下水道が完備され、電線、電話線の全てが地下に埋設されている事からも都市計画の徹底度合いが分かるだろう。例え幻影であろうとも、東洋一の都市という言葉だけは間違いなかった。
 街がこのようになったのは、初代満鉄総裁だった、後藤新平による都市計画があり、関東大震災後の東京で出来なかった全てのことを、新しい街、新しい都で実現しようとしたのだ。
 まず満州鉄道の新京駅をを降りると、直径百五十メートルに達する駅前広場と緑地帯を起点に、三本の幹線道路が放射状に伸びる。伸びた先ではさらに同様の広場で交差して、様々な縦横斜めの太い道路が交差し合う。この辺りは、満州鉄道時代から満鉄付属地だったため開発も早く街も整然としている。駅前広場には、ヤマトホテルを始め数々の豪奢なもしくは重厚な石造りの欧州風建築物が建ち並ぶ。
 そして駅中心部を基点として伸びた放射状の幹線道路へと接続する全ての道路幅は、六十、四十五、二十六メートルに設定されていた。建造物の高さも、モニュメントを除いて二十メートルに抑えられている。街の区画割りが極端に広くゆとりがあるので、上に伸びる必要がないのだ。
 また、街の区割りには、中華伝統の街の区割りも組み入れられており、街路設計の基礎となったパリのシャンゼリゼ、中華の都北京、そして日本の東京の三つの都市を混ぜ合わせ計画的に作り直したような街の区割りとなっている。
 そうした街並みの中でも圧巻は、新都の中心となる直径三百メートルに達する大同広場(人民広場)であり、街はこの巨大なサークルを中心に形成されている。
 当然ながら市民の足も整備され、今では市街くまなくを路面電車が走り、幹線道路は郊外に出ると高架式(主に盛り土式)の高速道路となって満州各地に伸びつつあった。
 加えて、広く計画的な幹線道路ばかりでなく、全体としての都市計画も見事だ。
 工業地区は、街の郊外に広く取られ、既に多くが稼働している。居住区はなるべく交通の便がよく、都市環境を考えて設置されている。この点日本人が邸宅住まいで他民族がアパートメントであっても、利便性だけは同様だ。
 しかも路面のほとんどは舗装され、電線、電話線などは全て街路の下に張り巡らされた。加えて上下水道が最初から完備され、上下水処理場も申し分のない施設が合わせて建設されている。
 当然ながら、居住地区、工業地区、商業地区、娯楽地区、官庁地区などが整然と区画整備されており、五十万都市としての規模だけで十キロ四方に及んでいた。
 そうして作られた整然とした街並みに、第一期計画で五十万、現在では区画整理と都市建設がさらに進み、環状型の幹線鉄道と重防空壕を兼ねて建設が進む大深度地下鉄。郊外から他方面に伸びる高速道路。区割りだけが取られていた大型の飛行場の建設も始まり、人口百万人を越える整然とした大都市が姿を現しつつあった。
 そして大東亜人民共和国誕生と共に街はさらに発展、改造が続けられ、今では西側にすら東洋随一の都市の一つと数えられるまでになっている。もっとも、別名は「蜃気楼都市(ミラージュ・シティ)」。あまりに前衛的で巨大な都市計画と、成立すら認められない国家の首都を揶揄して名付けられた名だ。
 だが街は、立派という言葉を通り超えるほど立派だった。都市計画者が自画自賛するように、二十世紀最良の都市の一つと言っても間違いない。
 ただ、計画から十五年も経つと、模型のような都市計画、古代の城都のごとき人間を廃したような計画都市にも、少しばかり人間らしさが見えてくる。しかも、国家が個人の資産を認めるとあっては尚更だ。
 新京駅を中心とする華やかな商業区。旧皇宮、旧国務院を中心とする順天通り一帯の行政区。中国人が中心になって建設したやや雑然とした旧埠頭地区や旧市街。駅にほど近い場所に新たに増勢された一等地に広がる広大なロシア人区。街の中心、大同大路西端に位置する「お城」こと人民共和国軍最高司令部を中心とする軍司令部施設。ロシア人、日本人を対象とした煉瓦造りの高級住宅街。住宅街の各中心地に形成されつつある一般商店街。無秩序に広がりつつある区画外の貧民街。そして郊外に新たに建設が進む巨大な飛行場や軍駐屯地。労働者用の集合住宅も急ピッチで建設されつつある。
 都市が顔を持ちつつあるのは、そこに住む人々、主に日本列島から切り離された日本人達が腰を据えた何よりの証拠だが、それだけに建国後の方が活力に溢れる街へと変化しつつある。既に牛乳や新聞の配達業務も市街広くで行われている。
 しかし今夜、活力を与えられた筈の蜃気楼都市は静まりかえっていた。整備された広い幹線道路を驀進するティーゲル・ツヴァイのけたたましい大合唱にも、誰も家の窓を開く者はいない。
 市街入口辺りで想定されていた共産党武装組織の妨害も全くない。これには西大佐も拍子抜けだった。
 しかも、彼らが目標に達するまでに既に歩兵部隊による包囲完了との連絡もあった。あとは彼らが派手に突破口を開くだけだ。
「ふむ、やはり我々が最後か」
「当然ではありましょう、大佐。それよりも、この短時間で十キロ以上走って全車脱落しないだけでも素晴らしい成果です。私は、ティーゲル・ツヴァイの運用を完全に習得した日本の戦友達を賞賛したい気分です」
 西の愚痴に、砲手のアイゼンビュット曹長が律儀に応えた。だが彼は、本気でそう思っているらしい。斜め下に見えた彼の顔は満足げだ。

 順調に進む彼らが抵抗もしくはそれに類するものに出会ったのは、部隊が分散し第一小隊が旧宮城予定地にそびえ立つ共産党本部にまっす伸びる大通り、新民広場から伸びる官庁街のメインストリート、順天大街に出た時だった。
 先行する偵察戦車より通信が入る。
「ヤマネコ3よりトラ1全車へ、目標外縁の緑地帯に軽火器を持った者の動きを確認、警戒せよ」
「トラ1了解。……といっても相手がこれじゃ勝ったも同然だな。曹長、国務院を超えたら、後は好きにやってくれ。私も彼らには色々思うところがある、遠慮するな。……ヤツらに戦争を教育してやれ!」
「ヤヴォール・バロン・ニシ」
 苦笑するような少し複雑な声の返答のあと、曹長は西に代わって矢継ぎ早にドイツ語で命令を発していく。
 元々彼は東部戦線では戦車長をしていて、この車輌だけが教導戦車という事で、西以外の全員がドイツ人で構成されていたのだ。
 そしてドイツ生まれの鉄の獣は、ドイツ人の手により矢継ぎ早に射撃を開始した。
 目標までは、国務院を過ぎれば残り約800メートル。第一目標は、分厚い外壁と門扉各所に設けられた歩哨控え室。
 外壁は、広大な宮廷予定地を取り巻くようにそびえ立つ、共産党員の内心の怯えを現すように新設されたばかりだ。歩哨詰め所は丈夫な鉄筋コンクリートに鉄板を挟み込んでおり、重トーチカの役割を果たし、門扉も電動開閉式の鋼鉄製で、大型トラック程度では突破が不可能だ。しかも今は、門扉を更に車が塞ぎ、前には対戦車障害物のまねごとのようなものが置かれている。そしてその200メートルほど奥には、青銅の瓦屋根を用い重鉄筋コンクリートで作られた共産党本部がそびえる。重厚で威圧的な建造物だが、完成から一年も経っていないため屋根瓦が投光器の光を受けて輝かんばかりだ。
 しかし強度だけを考えた建物外壁の鉄筋コンクリートは、ティーゲル・ツヴァイの誇る71口径88ミリ砲でも短時間で破壊し尽くす事は困難であり、時間を惜しんで詰め所の後は分厚い鋼鉄が挟み込まれているという正面玄関が目標だった。
 だが、イワンの戦車に比べれば紙と同じ。そう呟いた曹長は、71口径もある88ミリ砲のタングステン徹甲弾、徹甲榴弾はほとんど不要と判断し、最初の徹甲榴弾以外は榴弾の装填を命じた。
 そして狙いを定めると矢継ぎ早に砲弾をたたき込む。見る間にコンクリートの塊や鋼鉄の扉が砕け、トーチカも異常に早い初速の砲弾を前に榴弾で十分破壊されていた。流石の歩哨控え室も、複数の戦車砲弾が飛んでくる事は想定していなかったのだ。
 しかも指揮官車に付き従って来た第一小隊の三両も同様に連続発砲する。車輌の中には、機関銃をたたき込むものもあった。偵察戦車も、少し前方の遮蔽物から機関砲の軽快な音を響かせている。
 そして四台の砲撃のため、わずか数分で共産党本部ビルの入口付近は廃墟となっていった。
 それを目にした西大佐は、停戦から三年の間に溜まった鬱積が晴れるような気分だった。
 だからその気分のまま突撃を命じた。
「パンツァー・フォー! 共産主義者を蹂躙せよ!」

 一九四九年四月二九日午前二時、大東亜人民共和国で、東亜共産党に対する一斉パージ、事実上の軍事クーデターが勃発した。
 首謀者は停戦時朝鮮軍司令官にして、現大統領である板垣征四郎。かつて満州事変を実行した男だ。
 実行部隊は、軍直属の空挺部隊や特殊戦部隊である第一、第二機動連隊、首都近辺にあった戦車隊など一部の精鋭部隊ばかり。
 だが、軍と日本人社会の過半が、板垣大統領のシンパと言えた。それにスターリンの声のかかったNKVD(内務人民委員部)も彼らの協力者だ。先日、東亜共産党諜報部からマークされていた立花と西の接触をセッティングしたのも、東亜共産党からあまりマークされていなかったNKVD、後のKGBだった。だからこそ、これほど順調に事態が進行したと言えるだろう。
 逆を言えば、日本人を中心に構成された東亜共産党幹部は甘すぎたのだ。
 なお、クーデター前の東亜共産党は、日本共産党の主導的地位にあった者が、そのまま横滑りで虚ろいの国の権力を握っていた。しかも党組織は瞬く間に肥大化し、大陸日本国内での党員数は、彼らの宣伝するところ三百万人豪語する巨大組織になっていた。これには中国共産党と連携した要因が大きく、党の下部構成員の多くが国内の多数派民族である中華系や朝鮮系で占められていたことも大きかった。中国共産党にすれば、いずれ日本人を追い出すつもりでの援助だが、当時の東亜共産党にとっては何より自らの数を増やすことが優先され、また中国共産党を甘く見ていた。
 しかも、ソ連共産党からの手厚い援助と武力、情報の提供により、国を立ち上げた軍部、国を運営している帝大系官僚団より優位な政治的立場を築きつつあった。
 共産党委員長にして副大統領には徳田球一、内務大臣兼人民警察長官に野坂参三、外務大臣に宮本顕治があったのが何よりの証拠だ。しかも名目とは言え、それまで副大統領だった旧満州国重鎮の張景恵を追いやっての徳田就任だ。
 事実上の国家元首である大統領には軍部代表の板垣が依然として大統領の地位にあったが、政治が共産党に独占されるのは時間の問題とすら考えられるほどの勢力拡大ぶりだった。
 しかも、旧日本共産党の思想をそのまま受け継ぐ大東亜共産党は、日本帝国主義の打倒という軍部とは正反対のスローガンを掲げてもいる。
 砂上に立つ軍人たちが、このままでは自分たちの地位が危ないと考えるのは当然だろう。
 また、初期の大東亜人民政府が他民族の懐柔のため取り入れた自治国ごとの王権を含んだ特権階級を不用意に弾圧した事も、東亜共産党を自ら悪役の地位に追いやった。彼らは一寸した事で各民族の貴族や有力者を逮捕拘禁し、日本人以外からの評判も下げ続けていた。軍部に対する抑圧も尋常ではない。おかげで、特にここ一年ほどの野坂警察長官に対する憎悪と反感は限界に達しつつあった。
 加えて外務大臣の宮本がする事も、外交常識から考えれば頓珍漢だった。最初大東亜と親交を持っていた国の中にも、半ば愛想を尽かす向きが出てきているほどだ。ソ連も例外ではない。
 しかも徳田達は、夢想に近い自分たちの理想を無理矢理政治に反映させようとしたり、軍部が行った以上に酷い経済統制を行ったり、自らの考えに従わない人々を弾圧して水面下での人気を大いに下げていた。ただし、日本人や党員に対しても容赦ない点は、彼ららしいと言うべきだろう。
 しかし彼らの数々の行いは、彼らが忌み嫌い、今も激しく対立している憲兵や特高、そして大日本帝国のしている事と何ら変わりなく、しかも卑小で矮小だった。
 そして自らの権力維持と目的完遂のため、官僚、財界はおろか国民の過半から嫌われつつある共産党を打倒すべきだと声を受け、軍部が決起したのがこの日だったのだ。
 決起日をわざわざ天長節の日としたことが、彼らの決意の高さを示している。
 そして事実上のクーデターは、大統領官邸とクーデター派諸施設、組織の秘密裏の警備強化に始まり、国務院、東亜共産党本部、東亜放送局の武力占拠および制圧。そして共産党要人全ての拘束、それがかなわない場合は射殺が断行された。
 もちろん、全国各地の共産党支部、シンパの組織、個人の襲撃および拘束も一斉に行われ、開始から数時間で勝負は決した。
 東亜共産党側の一部も、自らの政策失敗と軍部、国民の目に見えない反感を前に事態をある程度予測していたが、全てが後手後手となった。
 最大の障害と見ていた憲兵隊の動きを追いすぎていた事と、スターリンが彼らを切り捨てた事を知らなかったためだ。
 反対に軍部は、憲兵隊を囮として共産党の関心を引きつけ、その裏で軍の精鋭部隊を用いて共産党側が考えていた以上の武力で一気に殲滅してしまったのだ。
 この作戦には、ソ連赤軍から供与された回転翼式の新型航空機や共産党員が見たこともない巨大な重戦車が新京市内を蹂躙し、僅かばかりの小火器で抵抗した弾圧以外の戦闘経験のない武装党員の度肝を抜いた。
 戦いは、戦う前に決していたと言っても間違いないだろう。
 なお、クーデターを逃れることができた共産党幹部は、その後行方が全く不明になった野坂だけで、徳田はその場で射殺、宮本も逮捕拘禁されていた。
 そして翌朝すぐ、THK(東亜放送協会)のラジオ放送で、板垣大統領は共産党が武力クーデターを画策していたと発表。事前に察知した軍と憲兵隊がただちにこれを鎮圧。計画に荷担していた全ての人物を逮捕拘禁、もしくはやむなく射殺した事を伝えた。
 また、数日を経ずして議会の一時休止と共産党の活動停止を宣言、一気に共産党勢力の政治的抹殺を図った。
 共産党排除に対しては、当初ソ連を始め世界中の共産党が非難する方向に流れたが、スターリンが何も言わない以上否定的な声も次第に沈静化。
 そして数ヶ月後、軍部に忠実な社会党員と実務官僚、退役軍人などが政党と議会を再編成した事で、日本人による共産党組織は物理的に抹殺されることになる。
 かくして、事実上の軍部独裁と官僚専制による東側国家が新たに誕生した。

 ◆

 立花は、ようやく直った家具のような大きさのラジオから流れてくる、雑音混じりの放送を聞きながら事件二日後の朝を迎えていた。
 もっとも彼がクーデターで直接が武力を用いるという事はなかった。相手勢力のカウンターの警戒と、事件後の海軍軍人、工員の押さえに動いただけだ。
 労働者や下級兵士に党員を極秘に送り込むのは共産党の常套手段だったが、本家NKVDからの完璧なまでの情報と、必然的に少数精鋭となっていた海軍の団結の前に、旅順での争乱は必要最小限のものしかなかった。
 クーデターの明けた朝には、拘束された一部の共産党幹部が施設の奥深くに押し込められたのが、旅順での事件の顛末だ。
 数ヶ月前に知らされて以後、気の休まる暇もなかった事を思えば正直拍子抜けといえた。
 女中のマリアがサモワールで淹れてくれた熱いロシアンティーを、ぼんやりとした頭で味わっているのもそのためだ。
「どうなさいました旦那様。目がお覚めにならないようなら、気付け代わりに紅茶に火酒(ウォッカ)でもお入れしましょうか?」
「いや、大丈夫ですよマリア女史。ただ文明の利器とは便利なものだなと思っただけです。先日、片道八時間もかけて行った街からの声が、この場で響いているんですからね」
「本当ですわねえ。けどこのニュース、物騒ですわ。これからこの国はどうなるんでしょう」
 わずかな不安をかいま見せる女中を見ていると、ウソでも何かを言わねばと思った。
「国政を自分たちだけの力と勘違いして、もてあそぼうとした共産党が否定されただけです。政府と軍がしっかりしていれば国は安泰です。軍人の私が保証しますよ」
 さすがは海軍さん、頼もしいですわ。そんないつもの明るい声を聞いていると、本当にそうであれば良いと思った。
 利己主義によって動いた人間の考えるような事でもなかったかもしれないが、人には安寧こそが必要なのだろう。
 恐らく今までたいへんな苦労をしてきたであろう彼女を見ていると、その思いは日増しに強くなるばかりだった。
(だが、軍部主導を取り戻した政府は、一度は平和とは反対方向に向くに違いない)
 立花は確信に近い思いも抱いていた。
 それを肯定するように、ラジオからは新政府の陣営が発表されている。大統領は引き続き板垣征四郎がするらしい。
 そして彼の手には、新政府のもと団結すべき軍部の新しい人事が記されたものが握られている。
 軍務大臣・山田乙三、陸軍司令・牟田口廉也、海軍司令・石川信吾。その他実戦部隊の長には、自分の名の他に富永恭次、辻政信、神重徳、小園安名といった、ある意味そうそうたるメンバーが名を連ねていた。
(そりゃこのメンツなら戦争もしたくなるだろ)
 思わず頭を抱えそうになった立花だった。
 しかも大東亜人民共和国の国是は、東亜の開放。そしてその第一の目標は、日本を在るべき姿に戻すこと。さらには、アメリカに一矢も二矢も報いることだった。水面下で戦争体制に入るのは時間の問題だろう。
 それこそが、この虚ろいの国の軍人達の存在意義なのだから。


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