■長編小説「煉獄のサイパン」

●序章

1943年7月24日深夜 ドイツ・ハンブルク市

 空が燃えていた。
 他に表現方法が見当たらなかった。
 本当なら、街が燃えている、無差別爆撃を受けている、とでも表現すべきだったが、感情として見る光景は空が燃えていた。
 特に、彼が陣取っている場所が特等席だった事が、感情面での情景を強調している。
 今彼は、ドイツはハンブルク市ザンクトパウリ地区にそびえ立つ「高射砲塔」と呼ばれる建造物にいた。
 妥協を許さないドイツ土建業が総力を挙げたその建造物は、「G塔」と呼ばれる。地上五階建てで4つの「塔」を備えた中世の城郭を思わせる重厚な外観を持つ、頑健という表現すら足りないほどの鉄筋コンクリート構造だ。外観上の特徴は、ややくすんだ灰色の外壁、錆止めの塗装で黒く鈍く光る鋼鉄の分厚い扉、とても朝日を部屋一杯に満たせないであろう小さい窓。五階より上に続く強固すぎる頭でっかちな天井。そして天井から続く屋上約40メートルに設けられた高射砲座。高射砲塔には「塔」の上に連装4基の128ミリ重高射砲と、周辺に設置された12基の37ミリ高射機関砲を装備した、要塞や軍艦と表現できそうな強力なものだった。しかも下部構造物を構成する建物は、極めて頑健な鉄筋コンクリート製の防空壕となっており、1万8000人もの収容力を持っている。まさに現代の城郭であり、ハンブルグ市を守る最後の防壁だ。
 同建造物は、1940年9月ヒトラーの命令を受け、D・F・ワムス博士の設計で始まった巨大な要塞、高射砲塔建設だった。
 計画当時のドイツでは、爆撃に対する都市の防衛にはひとつの課題があった。地表陣地の高射砲ではビルや建物に邪魔され、思うように砲撃できないのだ。特に工業都市が多く、高層アパートや工場の多いドイツの都市では、高射砲の射界が妨げられて敵爆撃機に対して効果的な攻撃が出来ないことが多く、高射砲の陣地を都市の郊外に作ることが多かった。そこでワムス博士が考案したのは、邪魔になる建物よりも高い高層ビルのような砲台を作り、都市に近づく敵爆撃機に集中砲火を浴びせようというものだった。まさにドイツ的発想と言うべきだろう。
 ハンブルグと同様の建造物は、帝都ベルリン、ウィーンにも建設され、防空戦の格好のプロパガンダ対象となった。
 しかし今、彼の前に広がる光景は、プロパガンダがプロパガンダでしか無いことを雄弁に物語っている。いや、ドイツ軍将兵の努力を蟷螂の斧とするほどの物量戦を、連合国軍が仕掛けてきたと判断すべき事象だった。加えて、近い将来彼の祖国で再現される光景に他ならなかった。遠く祖国を離れた彼の脳裏には、眼前のハンブルグ市が祖国の街々と重ね合わされ、軽い目眩を起こさんばかりの悪夢を見せていた。

「中佐、ヤマシナ中佐、ここは危険です。中にお入りください」
 呆然とする彼の背後から、謹厳な発音によるドイツ語の怒声が伝わってくる。周囲では絶え間ない砲声が轟いており、大声でなければ会話一つ満足にできないのだ。
 声で正気を取り戻した彼は、慌てて怒声の方に顔を向けると大げさに頷き、声の主の側にある鋼鉄製の扉をくぐった。声の主も彼に続き、重さを感じさせる軋み音を出す黒錆色の鉄の扉を閉じる。
「ありがとうカンプ中尉。中尉が声をかけてくれなければ、あのまま炎に魅入られていたよ」
「いえ、とんでもありませんヤマシナ中佐。しかしあそこは中佐の居られるべき場所ではありません。危険すぎますので、以後ご自嘲ください」
 しばらく、彼付きの連絡将校となっているカンプ中尉の理路整然とした説明もといお説教が続く。お説教を受けている将校は、日本帝国海軍中佐の山科博。名前の表す通り京都に実家を持ち、雰囲気もどこか典雅で、品の良い整った顔立ちをしている。彼は41年春にシベリア鉄道でドイツに来て、駐在武官として活動する傍ら、欧州で行われている総力戦について広く研究していた。今日も、ハンブルグで潜水艦の建造を見学した夜の空襲警報を聞くと、無理を言って最前線である高射砲塔の観戦に来ていた。
 なお、山科の見たところ、41年春頃は日本人に対して距離を置いた感じが強かったドイツ人達だったが、今年に入るぐらいから殆ど全ての人の態度が一変しているように思えた。彼が気軽に前線と言える高射砲塔を訊ねられるのもそのせいだ。
 貴重な同盟国と人種差別のどちらを重視すべきか、という事だろうと山科には思えた。だがドイツ人達の態度こそが、ここ十年で人種差別に染め上げられた彼らを心理的に追い詰めるほど戦況が悪化している事を如実に伝えていた。強大な筈のドイツですら、勝利からはるか遠く追いやられてしまっているのだ。その事が、ドイツの凄さを見てきた山科にとってショックが大きかった。そんな想いが、自然言葉になる。
「カンプ中尉。もっと空襲の様子を知りたいのだが、ラダールのあるL塔に行くことはできないだろうか」
「現状では危険です。明日にも簡易報告書は上がってきますので、詳細はそちらをご覧ください。我々としては、同盟国の将校を我が祖国で危険にさらすわけにはいかないのです。ご理解ください。ここは戦場なのです」
 中尉は誠実さをにじませた態度で、深くお辞儀までして見せた。
 L塔とは、彼らのいるG塔から400メートルほど離れた場所に設置されたもう一つの高射砲塔だ。G塔同様に頑健という表現すら不足する建造物で、ウルツブルク電探と20ミリ機関砲を装備し、G塔に情報を送る役割を持っている。爆撃さえなければ歩いて10分とかからず行ける場所だが、今はいつ爆弾が落ちてくるか分からない。このG塔内に居れば2000ポンド爆弾が落ちても平気なのだから、中尉の言っている事はもっともだ。
(だが)
「カンプ中尉。私も状況は理解しているつもりだ。しかし、出来うる限り生の情報に触れておきたいのだ。なぜなら、今のドイツの情景は明日の我が祖国、日本を襲う情景でもあるからだ」
 目線をしっかりと据えてくる山科の真摯な言葉に対して、中尉ができうる限りの無表情で顔を向ける。そしてしばらく、暗いコンクリート製の廊下で見つめ合うも、中尉が態度を柔らかな方向に崩した。
「分かりました中佐。しかし、私も同行します。それが条件です。装備も出来る限り整え、ワーゲンで向かいます。よろしいですね」
「ありがとう、中尉」

 礼を言って一緒に飛び出したはいいが、塔の外は地獄と化しつつあった。
 高射砲塔は、連合国軍機の血の気の多い者にとっては攻撃目標とも言えるらしく、周囲の爆撃密度が他よりも高かったからだ。
 重厚に石や焼レンガを積み上げた、日本人の視点から見れば相当の高層アパートが林立する街並みは、一見何でもないようにも見える。しかし、無数の建造物が窓から炎や煙を噴き上げており、よく見れば屋根が焼け落ちている家屋も数え切れないほどだ。ドイツの建造物は、外観上石造りに見えても随所に木材を造っており、燃え盛る建物の多くが巨大な暖炉やオーブンと化しているのだ。
 しかも石畳やアスファルトで舗装された街路は凄まじい熱風が吹き荒れ、爆弾の直撃から逃れた建物を、その吐息でなぶっていた。しかも、炎に対して安全と思われる河川や水路からは、湯気すら上がっているように見えた。
 山科は煙や湯気を見たとき蒸し焼きという言葉を思い浮かべ、喉に生暖かいものがこみ上げるのを感じた。
 まさに灼熱地獄だった。
 水を頭からかぶり防熱用のコートを着て飛び出した、わずか数百メートルの道のり。車で飛ばせば3分とかからない筈の時間が無限に思えたほどだ。
 しかし上空では、尽きることのない航空機の隊列がそこかしこで爆弾を落としている。落下しつつある爆弾は、空気を切り裂き、甲高い音で合唱し、地上に接吻すると同時に時速300キロの爆風を引き起こし、燃焼温度は1000度に達した。
 眼前の景色だけを見ていれば、キリスト教が教える地獄を信じる気になれそうなほどだ。
 その地獄の中を、カンプ中尉は必死の形相でハンドルを握り、瓦礫で塞がれたいくつもの道を迂回する。その間、観察しかすることのない山科は、空からの音に注意した。
 500ポンド爆弾でも、10メートル側に落ちただけで小型車などスクラップだ。人間については言うまでもない。注意してし過ぎることはない。そしてもうすぐ目的地というところで、イヤな音が周囲の空から強く響いてきた。
「急げ、中尉。あと10秒もすればハンバーグにされてしまうぞ」
「ヤー・ヴォール! では、舌を噛まないように!」
 中尉は言うが早いか、アクセルを全開にしてL塔と呼ばれる巨大なコンクリートの固まりに突進した。目の前にあった、G塔よりも細長いコンクリートの塔が眼前一杯に広がっていく。
 すると、中から外を見ていたのか、連絡が行き届いていたのか、突入の間際計ったように装甲扉が開く。そしてキューベル・ワーゲンが扉をくぐると同時に重い音をたてて閉じられた。
 扉をくぐった瞬間、山科は瞬間何がどうなったのか、全く分からなくなった。耳は様々な轟音でセミの大合唱になり、急に燃え盛る街並みから暗いところに入ったので視界はまるでなし。それどころか、車が減速しきれず壁か何かにぶつかった。ハーネスを付けていなければ間違いなく車外に放り出され、大けがをしていたと身体に実感させるほど衝撃が山科の身体を襲いかかる。
(車は急に止まれない、といったところか)
 山科が埒もない事をぼんやりと考えていると、身体に誰かが取りいてハーネスを外し、ほうぼうを触っているのに気付いた。
 目を閉じたまま少し落ち着くと声も聞こえてくる。
「…の、中佐殿、声は聞こえていますか?」
「……大丈夫だ。いや、大丈夫」
 山科は、問いかけられた声に少しばかり動転しながら言葉を返した。同じ事を繰り返したが、最初が母国日本語で、次が相手に通じるであろうドイツ語だ。
「よかった、ではお怪我は? 歩けますか? 窓から外を見たらあなた達が突っ込んで来きていて、急ぎ降りてみたらこの有様なので驚きました。けど、ご無事で何よりです」
 声は続ける。山科が声の方を見上げると、50センチと離れていないところに声の主がおり、暗闇の中天使の輪が差しそうなブロンドの中で嬉しそうな笑顔を向けている。しばらく山科が相手の顔を見つめ続けたものだから、向こうも怪訝な顔を少し浮かべると、次に破顔した。
「戦場に女性は珍しいですか、日本の中佐殿」
「あ、いや、資料では防空戦に女性が多く活躍しているとは聞き及んでいましたが、実際見るのは初めてで。乙女の顔をまじまじと見つめてしまい申し訳ない。 あ、そうそう私は山科博、日本帝国海軍中佐です」
「いいえ、どういたしまして。それよりも、ようこそヴィルヘルムスブルク高射砲塔L塔へ。私はエリザ・マイアーです。と言っても、今日は私達の活躍はあまりお見せできませんが」
 フロイラインと声をかけた山科は、相手の女性が後半顔を陰らせ声のトーンを落として語ったことが気になった。こぼれんばかりだった瞳の輝きも最初とは大違いだ。
「と申されますと」
「詳しいお話は、軍の方にお聞きください。私は正規の人員ではなく、手伝いで来ているだけなのです」
「しかし、内実にはお詳しいようだ。失礼ですが、電波の専門の方なのではありませんか?」
「アラ、サムライは読心術や魔法も使えるのかしら」
 少しくだけた声色だが、寂しい顔のまま微笑んでいるのがかえって痛々しかった。そしてようやく馴れた目に、彼女が下げているネームプレートに気付いた。
 山科の予想通り、目の前の女性は電探の専門家だ。工業大学の名が名前と共に記されている。女性の方も、山科の視線に気付くと観念したように言葉を続けた。
「私はご覧の通り工科学生です。今は電子兵器の技術助手として勤務しています。今日も他の技師達と本塔の整備に来たのですが、私のような新米じゃあどうにもならない事態になってしまいました」
「ラダール(電探)が破壊されましたか?」
「いいえ、違います」
「では、……敵が何か強力な妨害手段を用いたのでしょうか」
 山科の言葉に、エリザが力なく頷く。
「はい。けど中佐のお考えとは少し違うと思います。何しろ原理は簡単、けど効果は絶大。だから今まで私達も使わなかったと聞いています。いえ、いました」
 山科は少し考えてから、答えに達した。
「欺瞞膜では? 確か、電波の波長に合わせた細長い紙にアルミ箔を張った単純な構造でしたね」
「流石お詳しいですのね。その通りです。おかげで警戒ラダール網は、ほとんど役に立たず。本塔のウルツブルクも、フライアからの情報がないので用を成していません」
 ばかな。どこか突き放したようなエリザの言葉に、すぐ側で話を聞いていたカンプ中尉が絶句した。
「事実です。G塔の司令室でお聞きしませんでしたか。今夜ハンブルグには、第一波だけで200機以上。おそらくその3倍以上のランカスターやスターリング、モスキートが侵入しています。数の暴力と電波妨害で、私達の誇るヒンメルベットは役立たずなのです。今日の事を予測して準備をしてきたのに、間に合わなかった。……このままじゃ、ハンブルグは灰になってしまうわ!」
 突然、感情の赴くまま大げさなゼスチャーで語りきるとその場で崩れ落ち、彼女の沈黙と共に周囲の空気も氷付いた。なまじ良く通る声なので閉鎖空間で語った彼女の言葉が、周囲にも染み渡っていく。しかし数瞬後、沈黙は呆気なく破られた。
「科学力を誇るドイツですらこの有様なら、日本はどうなるというのだ……」
 エリザの言葉に最もショックを受けているのは、すぐ側で彼女の「演説」を聞いた山科だった。そして彼の絶望にも似た想いが、自然と内心を口にさせたのだ。
 そしてどん底に落ちたと思った心の底から、一つの決意が沸き上がるのを山科は感じた。
 何としても日本に戻り、近い将来祖国を襲うであろう悲劇を回避しなければいけない、と。


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