■長編小説「煉獄のサイパン」

●第一章 1

1944年2月19日 サイパン島

 広い蒼を天井とした街路が、真っ直ぐに続いている。
 舗装こそされていないが道幅は広く清潔で、歩行者専用の道まで備えられている。何より、道の両側には様々な建造物が軒を連ねていた。
 映画館、食事処、飲み屋、銭湯、床屋、美容院、写真館、呉服店、金物屋、雑貨屋、八百屋や魚屋など人々の生活に欠かせないもがすべてが揃っている。往来を行き交う人々も多く、街には活気があった。その中で少しばかり眉をひそめるとするなら、街の一角で最も活気のある区画だろう。何しろ兵隊相手の居酒屋とP屋、いわゆる遊郭が所狭しと建ち並んでいるからだ。だがこれも、前線に近い筈の場所と思えば当然の事だ。
 ここは中部太平洋のど真ん中にある小さな島、サイパン島第二の町チャランカノア。第一の町ガラパンは南洋ではパラオに次ぐ街で、南洋の小東京とすら言われるほど活気がある。チャランカノアも製糖業の中心として栄えている。サイパン島は、第一次世界大戦後委任統治領として得ると、日本帝国政府肝いりで開発が進められ、南洋興産の開発によりサトウキビ栽培と製糖業で発展した。活発な移民と開発もあって、二つの町は本土の多くの地域よりも発展しているほどだ。
 そんな街の中心街を、タナパグ港から南に至る軽便鉄道の駅から真っ直ぐに走ってきた一台の自転車が軽やかに駆け抜けていく。車上の人物は二人。前席で軽快に漕いでいるのが、裾の長い純白のワンピースを着た二十歳ほどの女性。髪は漆器のような色合いと艶やかさを見せる黒髪で、キレイに切り揃え肩胛骨の下まで伸ばしツバの大きな真っ白な帽子で覆っている。そして南洋の島らしく、服の裾からは小麦色に日焼けした健康的な手足がのぞいている。後席は国民学校高等科ぐらいの子供で、同じように肩にかかるほどでキレイに切りそろえられた銀黒の髪をツバの広い麦藁帽におさめ、同じく丈の長い純白のワンピースを着て横向きに乗っている。そんな情景だけ切り取れば、いかにも南洋の楽園を思わせるような軽やかな風景だ。そのまま絵はがきにできそうなほどだ。
 だが、車上の二人の表情は深刻そのもの。時折、知り合いや顔見知りと一見軽やかな挨拶をして通り過ぎていくが、自転車を漕ぐ力は意外に強く、アッと言う間に平和な街路を通り過ぎていく。
「急がないと」
 自転車を漕ぐ女性が、京風の雅た瓜実顔に刻んだ険しい顔に似つかわしい重さで言葉を紡ぐ。恐らくは独白だったのだろうが、後ろの少女も線の細い顔立ちを力強く頷かせる。
 どちらも陽気な街と気候には不似合いな顔つきをしているが、自転車の二人の方が現状に対して正しい判断を下していた。

 昭和19年2月のある日、サイパン唯一の港タナパグ港に入ってきた輸送船は大きく傷ついていた。
 今は戦時であり、中規模の環礁を持つサイパン島に、損傷した商船や軍艦が入港することは珍しくない。それでも前線は数千キロ彼方であり、去年の中頃までは本土との定期航路すら維持されいたサイパンは、戦時の色がほとんどなかった。軍人の数も、定期航路が無くなった頃にようやく増え始めたばかりだ。しかも、砂糖増産のため内地より徴兵の度合いが少ないほどで、内地より戦時の色は薄いほどだ。
 初めての攻撃も、機動部隊の空襲という形で昭和18年2月23日に一度行われたが軍施設が中心で、それ以後は平穏だった。その年の11月に婦女子と老人の疎開が決定され、サイパン島、テニアン島からの学童疎開が行われ始めたが徹底したものではなく、島に残った子供たちも多かった。日本軍将兵が少ないため、戦場にならないようにも見えたのだ。
 現在の視点から見れば、米軍の大挙侵攻を前に、島の人々は戦火を恐れていたように思える。しかし当時は戦局が正確に知らされず、サイパン島の陣地構築も飛行場以外ほとんど進んでいなかった。そしてサイパン島の民間人は、連合艦隊の力、皇軍の精強さを信じていたのだ。
 しかしその日入港してきた輸送船は、凶兆を伝えるには十分なものがあった。
 船は甲板の前後に旧式の高射砲を乗せただけの排水量5000トンほどの輸送船。前の部分が大きく破壊されており、空から爆弾を見舞われた事を伝えていた。よく見れば、船体にミシン目のような弾痕を見つけることもできる。間違いなく、前線をくぐり抜けようやくサイパン島にたどり着いたものだ。しかも船員の口は固く、島の者には多くを伝えなかった。もっとも、船員に箝口令が敷かれている事は珍しくない。特にソロモンやニューギニアから戻ってきた艦船の乗員は、軍人、地方人(民間人)を問わず表情と共に口が堅かった。損傷していたり、負け戦を体験していればなおさらだ。
 だから島の多くの人々も、南方の前線から苦労してたどり着いたのだろうとしか思わなかった。いや、思わない事にしていた。
 しかし一部の目ざとい者は、前線から帰ってきた船員から情報を聞き出すことを重視していた。何しろ自分たちの生死に関わる情報を持っている可能性があるからだ。しかも、時が経つごとに内地から来る船より南方から戻る船が少なくなり、傷ついているものが多かったからなおさらだ。
 自転車で環礁側にあるタナパグ港から逆走してきた二人にしても同じだ。そして、あえて今のような格好で港や街での買い物がてらという体裁を取り繕って港に行っている。サイパンより前線で女性を見る機会はほとんどなく、あっても原住民か慰安所やP屋の商売女、せいぜいが赤十字の看護婦だ。だからこそ清楚で華やかな格好の妙齢な女性が現れると、警戒する者より口が軽くなる者の方が多いからだ。
 発案したのは前席で自転車を漕ぐ長髪の女性で、相手を警戒させないように兄弟や教師と教え子の体裁を整えるため子供を連れて行くようにしている。
 今日港に向かったのも、早朝サイパン水道にくだんの輸送船が通っていると聞いたからだ。
 そして、いざ港に行ってみると、案の定船員には箝口令が敷かれていた。警備の兵隊までが港に多くいて、船に近寄ることすらできなかった。それでも情報を手に入れる事ができたのは、普段の努力の賜物だ。港の人間の幾人かと顔見知りになっているので、そこから漏れ伝わってきた『噂』を聞くことができたのだ。
 そして港で話を聞いた二人は、一様に硬い表情となった。港内で人気がないのを確認すると、たまらず年少の少女が問いかける。鳶色の大きな瞳が今は少し潤んだように揺れ、相手に強い印象を放っている。
「どう思いますか、法子さん?」
「そうね、トラック諸島が大空襲を受けたというのが本当なら、最前線はよく耳にするソロモンやラバウルではなくて、千キロ先のトラックに移ったと考えるべきかしら」
 キレイに切りそろえられた長めのボブカット(おかっぱ)の少女の問いに、法子と呼ばれた長髪の女性が明確な口調で答えた。艶やかで素直な黒髪に似合ったどこか雅びた顔立ちをしているが、大きな瞳の中の輝きと髪に隠れた額の広さから知性の高さを伺わせる。問いかけた少女にしても、年齢不相応な聡明さを見せている。
 法子は、深刻な表情の少女の髪を耳元あたりから優しくなでながら、自らの表情を崩した。
「大丈夫よ、奈央子。ラバウルやトラック諸島には海軍の大要塞があるのよ。先月話した将校さんも、トラック、ラバウルの防備は鉄壁だと言っていたでしょ」
 はい。奈央子と呼ばれた少女は、けなげに微笑んで見せたが、不安の大きさは少しもぬぐい去れていない。そう、法子自身が自らの言葉に信を置けていないのだ。
(可哀想に。聡明な分だけ多くが見えているのね。戦時でなければ、今頃は飛び級でガラパンの高等女学校どころか、内地の女学校でも推薦させてあげられたのに……)
 内心やりきれない思いの法子だったが、今は情報を活かす方が先決だった。
 そして二人は港を離れ、今ガラパンの街を抜けて、さらに南へと家路を急いだ。

 路を急いだ二人が行き着いたのは、海軍の大きな飛行場、アスリート飛行場のそばの国民学校だ。
 ちょうど飛行場と丘ほどの高さのヒナシス山の中程にあり、周囲一面はサトウキビ畑。学校の周囲には、サトウキビを運ぶための軽便鉄道も通っている。サトウキビ畑と軍用空港。まさに今のサイパンを象徴するような場所だ。
「あ、法子センセーだ」
「おかえりなさ〜い。お土産は〜?」
「奈央子お姉ちゃんだけズルイなぁ」
 そんな無邪気な声が、二人を明るく出迎えた。ちょうど急造農場の勤労奉仕を終えた子供達が、学校に戻るところに鉢合わせたのだ。数は十数人。学校側の説得もあって、この学校の生徒は多くを内地に無事疎開させる事ができたが、まだこれだけ残っている。
 賑やかな子供の輪に囲まれた二人は、自分たちの内心を悟られることないように応対しながら、急ぎ校長室へと向かった。
(早く、みんなを内地に……。手遅れになってしまう前に急がなければ)
 子供たちを見ると法子の焦りは強くなった。

「山科先生、星埜(ほしの)さん、遠くまでご苦労さまです。どうでしたか、タナパグの港の方は」
 校長が温厚そうな口調で問いかける。いかにも世間話といった風である。しかし日露戦争に従軍した元軍人だったというだけあって、六十才に足が届く老齢にさしかかっても眼力は確かだった。
 二人を送り出しているのも校長で、授業や課業を一部休ませてでも手に入りにくい情報を集めてもらっていた。
 また、二人がそのような位置にいるのは、国民学校内に大人の姿がほとんど見えなくなり、生徒数も大きく減少しているからだ。二人にしても、国民学校の生徒が内地に疎開してしまえば、共に疎開するか看護助手として島に残るかの二者択一しか残っていない。
 なお、山科先生と呼ばれた方が法子で、星埜と呼ばれたのが高等科の奈央子だ。山科法子は、戦争が始まった翌年の春にサイパンに赴任してきた臨時教師で、招集された前任の男性教師の代わりとして志願してこの島に赴いていた。それまでは内地の高等女学校に通うそれなりの家柄の出で、帝大の合格を蹴って前線での補充教員を選んだと噂されていた。外見も裏切らず、知性の高さとどこか雅た雰囲気がある。もっとも、当人は自身の事を多くは語らない。
 星埜奈央子の方は、高等科の学生の多くが農場などの勤労奉仕で学業どころか学校にすら集合以外来なくなった中、欠員の出た学校の事務、経理助手として学校に残された形になっている。実際数字に強く、高等科の授業が出来る教師が少なくなった事もあって、法子が家庭教師のように勉強を見ていた。自然二人は共にいる時間が長く、様子を知るため港に行く時も、法子は二回に一回は奈央子を選んでいた。
 そして今の三人の共通の懸念が、サイパンが戦場になる前に預かった子供達を安全な内地に疎開させるかだった。
 一見穏やかな表情の校長だが、二人の帰りを待っていたのは間違いない。
「はい、船はトラックから着いたものです。船は大きく傷ついていて、船着き場には不用意に人を近づけないように兵隊が沢山警備していました」
「箝口令といったところですね。では、」
「はい、船はトラックで大きな攻撃を受けたと港の人から噂を聞きました。何でも負傷した船員は、空を覆い尽くすほどのグラマンを見たそうです」
「グラマン。航空母艦から飛び立ったものでしょう。グラマンがそれほど沢山深入りしてくるとは、大変な事になりましたね」
「サイパンは戦場になるんですか?」
 大人二人の会話に、奈央子が憂いた瞳と共に割り込んだ。何か口にしなければ耐えられないという内心が、揺れ動く鳶色の大きな瞳によく表れていた。
(目は口ほどにものを言う、か……)
 法子は可愛がっている教え子を愛おしく思いつつも、なるべく真実に近いと思われる推論を口にした。嘘などすぐ見抜かれるし、この子には嘘はつきたくなかった。
「今すぐに敵の上陸部隊が来るなんて事はないと思うわ。近い内に空襲はあるかもしれないけど、軍の施設や港、それに製糖工場や街の中心部、目立つ場所が空襲されるぐらいでしょう。狭いようでサイパン島は広いから。けど、この学校は飛行場の近くで大きな建物だから、間違って攻撃される可能性は十分あると思うわ。だから、今からでもそれぞれの親御さんの所と役所に行って、攻撃の危険性がないと分かるまで自宅待機をしてもらって、それと」
「子供達のなるべく早い疎開のため、親御さんたちを説得しないといけませんね」
 校長が最後を引き継いだ。
 校長の言葉に二人は強く頷き、続いてこれからどう行動すべきかの話し合いに入った。

 しかし、既に遅かった。
 船の入港から三日後の2月23日早朝、トラック諸島を襲った米軍の大機動部隊が、今度はマリアナ諸島に襲来。サイパン、テニアン、グァムの各地を激しく空襲した。しかも、マリアナ諸島と他の島々を結ぶ航路では潜水艦による攻撃が激しくなり、三つの島を守る陸軍の防衛隊を送る事すらままならない有様となっていく。
 陸軍を乗せた輸送船の半数以上が手もなく撃沈され、到着するのは装備を失った重油まみれの濡れ鼠となった兵士ばかり。島の人々は皇軍が到着したと喜ぶ者より、不安になる者の方が多いぐらいだった。
 疎開の方も、米潜水艦の妨害で多くが失敗して、危険が大きいと沙汰止み。サイパン島だけでも、約二万人以上の民間人が取り残される。
 そしてほとんど全ての人々が、6月11日から始まる地獄へと突き落とされていく事になる。


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