■長編小説「煉獄のサイパン」

●第二章 3

1944年6月13日 サイパン島

 その日も、二日目同様早朝の空襲から始まった。三日も続くと最早日課だ。状況を予期していた人々はいち早く避難を始め、前日に行った父母への説得もあって、国民学校初等科の生徒のかなりが法子と校長の下に預けられた。
 しかし三日目は、米軍の攻撃場所が前二日と違っていた。砲台のある沿岸防御施設の破壊と、島中部のボンダムッチョ岬南側のサトウキビ畑、砂浜の辺りに攻撃を集中したのだ。米軍は、明らかに上陸を前提にした攻撃に移っていた。
 おかげで島の南西部のサトウキビ畑が焼夷弾(ナパーム弾)による火災で燃え上がり、巨大な野火のごとく周囲を埋め尽くした。その様は、法子達の学校からも十分に見えたのだが、前二日同様に防空壕に逃れていたので、いったん空襲が収まるまで正確な情景を知ることはできなかった。
 そして人々の恐怖を具現化する存在が、その日の午前十時頃サイパン沖合に姿を現す。
 アメリカ海軍の艦隊だ。
 艦隊は、空母部隊の護衛を一時的に解かれた高速戦艦部隊。高速戦艦7隻と駆逐艦11隻から編成され、午前10時40分から以後日が傾くまで艦砲射撃が続けられた。この日の艦砲射撃は、上陸海岸の内陸とガラパン 、チャラン・カノアに向け攻撃を集中。昨日まで内地以上の活気があると言われた二つの町は、巨砲により破壊し尽くされ瓦礫の山と化した。
 その間法子達は、最初の「米艦隊だ〜!」という悲鳴にも似た警告と同時に、再び防空壕に隠れるしか手はない。後は、雷の豪雨と大地震とが一緒に来たような、気の遠くなるような時間をひたすら耐えるしかなかった。
 そして日が沈む頃、腹に堪える地響きを伴った砲撃が一度収まり、ようやく外の状況を知る事ができた。西の海岸部は瓦礫と大きな穴、いまだ消えない白い煙で薄く覆われている。近くの飛行場も一見瓦礫の山で、内陸の畑の間の学校が目標にされなかったからこそ、自分たちが生き残ったのを実感させる景色だった。
 何しろ、今まで見慣れた景色とは違う景色が広がっているのだ。空襲など児戯でしかない攻撃が行われたと言うよりは、防空壕の中にいる間に別の場所に移動させられたような感じすら抱いたほどだ。
 ただ防空壕から出てすぐは、他の人から状況を聞いても、どうりで一日中激しい轟音と振動が続いたわけだ、といういささか気の抜けたものだった。実際煙を上げ地形すら変わったチャラン・カノアの街を数キロ先に遠望できたが、あまりに現実感がなく半ば呆然とした。いや、戦争に対する人一人の無力さを実感したと言うべきだろう。
 たった半日で街を瓦礫に変えてしまう相手にどうしろというのだ、と。
 そんな大人達を現実に引き戻したのは、子どもの声だった。
「おとお(父さん)、大丈夫かな」
 琉球なまりの子どもの一言に皆我に戻り、何をすべきかを考えた。そして法子にとっては、もはや答えは一つしかなかった。子ども達を一刻も早く安全な場所に避難させるのだ。
 まだ、遠くに見えるアフトナ岬の沖合には、米軍の軍艦がいるのが見えたが、西の浜から5キロ以上離れた法子達の学校が攻撃される可能性は低いし、今日の事を思えば明日の朝になってから動き出すのは自殺行為に思えた。
 空襲の状況から、今日より明日の方が酷い砲撃が行われると予測できたし、砲撃が終われば今度は上陸部隊が来るという事ぐらい素人でも分かった。海岸のあるオレアイやチャラン・カノアの辺りを攻撃する理由は他にはない。
「校長、明日の夜明け前から、初等科の生徒の避難を行いたいと考えます。ご許可願えますか」
 奈央子は、すぐ側にいた校長の前に立つと、顔を見据えるようにして言い切った。校長はしばし考えた後に、ゆっくりと頷く。
「分かりました。後の責任は私が取りましょう。山科先生は、すぐにも初等科の子どもと中等科の女子を連れて、避難に移ってください。定時連絡は、敵の上陸がない限りその日の夕方に行うようにしましょう。それと万が一連絡が取れなくなったり、米軍が上陸した場合は先生の判断で行動してください。子ども達の事、くれぐれもよろしくお願いします。私は中等科と残って、今少し様子を見ます」
 校長の言葉に瞬間目を見張った法子だが、教師と言えど国家に属する者なので、自身の発言こそが本来は軽率なものなのだと思い直した。そんな法子に、校長は今一度力強く頷き行動を促す。法子は深々とお辞儀をすると、様々な想いを断ち切るように走り出した。
 チャラン・カノアの沖合では、小柄な米軍艦がまた接近してきており、海岸のすぐ側にまで迫りつつあった。

 6月13日のその夜までに、法子は連絡の取れる限りの家々を回って家族に子どもを預かる旨を伝え、夜明け前に移動する準備を整えた。だが承伏しない家族も多く、自らの手元に置く者も多かった。誰もが不安で仕方ないのだ。
 そしてその夜、規模の小さな軍艦(駆逐艦)により夜を徹して艦砲射撃が続けられたので、法子達は念のため防空壕に毛布などを持ち込んで過ごした。沖の艦隊は、光を煌々と照らして砲撃と何かの作業をしている。
 幸いというか助かったと思ったのは、毎日の空襲で大人から子どもまで攻撃に麻痺しており、今更ひどく混乱したりしなかったことだった。
 だが法子は、そんな事で助かったと思っている自分を見つけて強い嫌悪感を抱いた。その時考えた事を逆から見れば、混乱した者を疎ましく思うという事だからだ。

 翌朝黎明前、法子は不意に音がしたので目を覚ました。大きな音ではなかったが、目を覚ましたのは神経がささくれだっている証拠だ。
 周りはまだ薄暗く、夜も明けていない。
 周囲を見回すと、竹で編んだ大きめの籠の中に白い塊が二つ入っており、それが音の発生源だった。
(今日は早めに行動すべきだけど、いったい何なの?……!)
 まだ醒めきらない頭で考え首を巡らすと、籠の側に奈央子がいるのも分かり、目を丸くした法子を見てクスクスと笑っていた。様子から、一足早く起きて籠を取りに戻っていたのだと見て取れた。
「起こしてご免なさい。この子たちを連れに戻っていたんです。これから危険が大きくなるから一緒に連れていこうと思って……ダメですか?」
「いいえ、もちろん構わないわ。けど、」
「大丈夫です。どちらも雌鳥ですから鳴いたりしません。それに毎朝卵を産んでくれるんです、ホラ」
 奈央子は、手の中の卵を見せつつ懇願するように鳶色の目を潤ませる。
(そんな目をしたら断れるワケないでしょう)
 心で小さく嘆息するが、冷静な面では様々な利点を計算していた。そんな自分に嫌悪感を持たないわけではないが、今は負の感情を押し込め笑顔で迎え入れることにした。そうしなければならないと思った。
 すると奈央子の顔がパッと明るくなり、今し方法子が考えた利点を並べていく。
 卵だけじゃないんですよ。人の食べない雑穀や草でも平気だし、小さな子の遊び相手にもなってくれるし、可哀想だけどイザとなれば食料にもなります。それに生き物がいるって、いつもの状態がそこにあると思えて安心できませんか、と。
 あまりに熱心なものだから、法子は苦笑しつつ言葉を紡ぎだした。自身にとっての気分転換はここで終わりだ。
「せっかく連れてきたのに、もう食べることを口に出してはダメよ。それよりみんなを起こして。少し早いけど動きだしましょう」

 攻防戦開始4日目。その日は早朝からサイパン島全島が騒然とした。明るくなると、島の周囲にアメリカの軍艦が溢れかえっていたのだ。
 その日サイパン島に押し寄せたのは、昨日とは違う艦隊。上陸を直接的に支援する目的で編成された第7艦隊になる。指揮下には、旧式戦艦7隻、巡洋艦11隻、駆逐艦26隻とその他部隊に属する地上砲撃専門の火力支援艦艇数隻があった。それらが素人目には、島を取り囲むように展開し、前に小さな船(駆逐艦、火力支援艦)その少し後ろに大きな船(戦艦もしくは巡洋艦)が布陣した。
 押し寄せてすぐには砲撃を開始しなかったが、前日よりずっと島に接近してきて、調律取れた動きを見せつつ、じっくり腰を据えた砲撃を開始した。前日沖合にいたのは、機雷や障害物を警戒したからで、すでに何も無いことを米軍は掴んでいたのだ。布陣すらままならない現地日本軍に、そのようなものを設置する余裕など有りはしなかった。
 砲撃は、軍事施設と上陸予定地点が重点的に集中されたが、上陸後の障害物となる市街地や大型建造物も狙われた。また、爆撃と違って流れ弾も多く、単なる畑やジャングルなど関係ない場所も遠慮解釈無く吹き飛ばしていった。
 砲撃の様子は、専門家が様子をつぶさに見れば、自ずと状況を把握できたであろう。しかし、砲撃前に出発し、砲撃が始まるまでに何とかナフタン山麓の「秘密基地」に逃れることしかできない法子達には、全ては雲の上の出来事に等しかった。
 出来ることは、自らの頭上に砲弾の雨が降ってこないように祈ることだけ。
 午前五時前、東の空がようやく明るくなり始めた頃に、今生の別れになるかもしれない校長以下中等科の生徒達と別れを惜しんだ。そして法子を先頭にして、最後尾を唯一の中等科女子となった奈央子が受け持ち「秘密基地」までの道を進んむ。
 法子が引率する初等科の生徒数は、けっきょく合わせて5人だけ。それぞれが、防空頭巾やもんぺを着用したり、かわいい背嚢に荷物を一杯詰め込むなど、それぞれの家族の想いが詰まった出で立ちをしている。それだけで胸が締め付けられるようだった。そんな子ども達に共通しているのは、それぞれの上着の胸元に名札があること。それで名前と学校と学年、そして校長の計らいで血液検査を済ませているので血液型も分かった。
 そうして早朝のまだ静まりかえった道を子ども達と共に歩いていると、空襲や砲撃が嘘のようにすら思えてくる。だが、ナフタン山の裾野に近づくと、昨日までなかった封鎖線を敷いた臨時の検問所が眼前に現れ、全員を現実に引き戻す。
「どこへ向かう?」
 既に目が日常のものではない兵士の誰何を前に、法子は目に力を込めて向き合った。
「アスリート国民学校の教師と生徒です。ご家族より児童をお預かりして、軍と大人達の邪魔にならないよう避難に赴くところです」
「それは察しがつく。許可が下りているなら問題もなかろう。だが、この先に学校もなければ民家も少ない。ましてやこの先は我が佐々木大隊の本部が布陣中だ。危急の時故細かなことまではとやかく言い立てはせぬが、他の道を行け」
 権高な声の融通の利かなさそうな軍人が横から出て、法子の教員証明書と法子達が事前に用意した校長印が入った書類を兵から取り上げ目を通す。
 法子達の近くにも布陣している部隊の一部で、近所の者とはかなり顔見知りだったが、この辺りの者にはまるで面識がない。注意しなければいけなかった。
 書類を見る権高な下士官は、階級章の星の数が多いので指揮官らしいと分かった。だが、内地でもこのサイパン島でも何度かで会った、狭量で了見の狭い軍人だと彼自身の目が物語っている。法子は事態打開ができないかと視線を巡らすが、どうやら彼がこの検問の最高位らしい。
 すると、視線を巡らした際、奈央子がこれあるを予期したかのように、鶏を入れた籠を布で覆ってさらに身体で隠しているのが目に入った。かわいくも見える仕草だが、「徴用」という名の没収を警戒しているのがよく分かる。
 それを見て少し心引き締めた法子は、頑迷な軍人に相対する。厄介ごとは素早く片づけるに限る。
「これはご迷惑をお掛けしました。これより私どもは別の道を行きたいと思います。それでは、お勤め頑張ってください」
 書類をなるべく丁寧に取り戻すと、最後に満面の笑みを作ってその場を後にした。生徒たちも、「兵隊さん、がんばれー」など援護射撃をしてくれる。権高だった兵隊たちもまんざらでもないらしく、「おう」「任せておけ」など答えを返してくれた。応える様は、評判にもあるように関東軍の精鋭部隊らしく見える。権高な下士官も、子どもに応えた時は相応のおじさん顔だった。しかし、まだエールを送り合うだけの余裕があるからで、あと1時間違っていたらどうなっていたか分からなかっただろうと後に法子に思わせた。
 先ほどの目に現されるように、熟練した兵隊ですら既に戦闘を前にひどく緊張しているのだ。
 法子は、なるべく早いルートでまずは兵隊の視線から消え、迂回道へと入った。この辺りの地理は完璧に把握するまでに歩き回っていたのでルート選びそのものは苦労しなかったが、子ども達の歩みに米軍が合わせてくれるかが気がかりだった。
 幸い、苦労して迂回してようやくナフタン山麓のジャングルに入るまで何事もなく、入ってしばらくしてから地鳴りと地響き、少し遅れて遠雷に似た轟きがそこかしこから響いてきた。艦砲射撃が始まったのだ。東の地平線からはちょうど朝日が昇ろうとしており、素人にも日の出と共に攻撃を開始したことが分かる。
「みんな、慌てないでね。森の奥に入れば砲撃されないわ。だから先生に付いてくる事だけを考えて。奈央子さん後ろお願いね」
「はい」「は〜い」「うん」「ハイっ」様々な声が答える。
(まだ、大丈夫)
 小さく安堵した法子は、「秘密基地」へ急いだ。
 「秘密基地」の半径三百メートルほどに何もないのは確認済み。兵隊と出会わないルートも分かっているし、道のりも一番小さな生徒でも1時間かからない筈。
 そのような事を祈るように考えながら、教え子の歩みに合わせてゆっくり確実に道なき道を進む。
 その間、どれだけ近くても1キロ以上先の距離ながら、砲撃の音と振動が伝わってきた。ほとんどは弱めの地震と地鳴り、遠雷のようなゴロゴロという空気を振るわせる音だが、時折間近で雷が落ちたような爆発音と大きな振動もあり、全員が伏せる時もあった。
 だが法子達のいる場所では、ナフタン岬の砲台や、ナフタン山山頂の軍の急造施設が砲撃されたのが一番近くで、それも比較的小さな大砲だと察しが付くものが多かった。慎重に感じれば、昨日の大きな軍艦の砲撃とは振動が違うのが分かったかもしれない。
 いっぽう、米軍の艦載機も我が物顔に空を飛んでおり、ジャングルの中にあっても、轟音を轟かせながら飛ぶ姿を時折目にする事ができた。
 その都度伏せたり隠れたり、砲撃で足が竦んだ生徒を元気付けてしながらジャングルを進み、ようやく目的地に到着した。子ども達も最初は元気だったが、おびえと緊張、そして道中の困難さから疲れ果ててしまい、結局到着したのは奈央子の持つ懐中時計で午前9時前。予定の倍以上の2時間近くかかった。
 しかし、茂みを抜けて「秘密基地」に入ると、子ども達の目が少し変わった。周りの状況を忘れて歓声を上げる子どもすらおり、まずは子ども達を沈めるのが到着後の法子の仕事となった。
 取りあえず全員が落ち着いたのは、かれこれ5分以上経ってから。全員が洞窟の奥に入って、法子も普段の物腰を脱ぎ捨てドッカと腰を下ろして息を付くと、目の前に水を入れた金属製のマグカップがあった。
「お疲れさまです」
 カップの向こうに奈央子の微笑みがあり、法子も笑顔で返してカップを受け取った。
 金属製のカップを通して伝わる冷たいわき水の中にはザラメ砂糖がたっぷり解け、奈央子の心遣いがいっそう嬉しかった。ホッとして再度感謝の言葉を言おうとしたが、奈央子は子ども達にも同じものを配っている途中だ。言葉を交わせたのは、最後に自分もカップを持って法子の側に座ってから。法子は、他の子どもに聞こえないよう小声で声をかけた。
「ありがとう。いいえ、ご免なさい奈央子。本当は私がしなければいけない事なのに」
「いいえ、引率お疲れさまです。私にはこれぐらいしかできませんから。それより……」
「それより?」
「はい。昭一君は大丈夫でしょうか。お父さんと一緒に行ったっていうけど、チャラン・カノアの街あんなになっているのに。無事ならいいんですけど」
 その言葉に、いまだ奈央子にも真相を伏せていることを思い出したが、感情が表に出るのをぐっと我慢し、「そうね」と押し殺したような言葉を絞り出すのが精一杯だ。そんな法子に、奈央子は疑う素振りもみせず、ただ心配なんだろうと何も言わず、法子に身体を寄せて縮こまるだけだった。

 その日、夕方遅くになると米軍の砲撃はピタリと止んだ。昨日のように、夜中はダラダラと小さな砲撃を行わない。飛行機の爆音が時折聞こえるが、攻撃はしてこなくなった。
 動くなら今のうちだが、すでに帳が迫った真っ暗なジャングルの中を移動して、学校や校長宅に戻るのは不可能に近い。それに大人は法子一人。次の年長者である奈央子も、まだ14だ。自分が行く事も、奈央子を送り出すのも危険だった。殺気立った兵隊に会えばどうなるか分かったものではない。別の場所に避難させられるか、徴用という名目で連れて行かれるか、最悪この場所に案内させられてしまうだろう。優勢な敵の攻撃の続く状況で兵隊が無条件に助けてくれると考えるのは、今まで見てきた兵隊を脳裏に浮かべる限りあまりにも楽観的だ。また、運良く良心的・献身的な日本兵に助けられても、兵隊と一緒という事は、戦闘に巻き込まれる危険の方が大きい事だと法子は判断していた。
 結局法子は、みんなと数日を過ごす腹を括る。兵隊ばかりか下士官、将校から日常会話の間から噂を聞き集めた限りでは、米軍が上陸した時が反撃のチャンスで、アメ公は上陸初日にしっぽを巻いて逃げ帰る筈、それまで隠れているのが一番賢明な筈だからだ。
 その事を年長の奈央子に告げようと姿を探すと、夕闇迫るくぼみの片隅でしゃがみ込んで何かしているのが見えた。
 鶏への餌やりだ。側には生徒たちもいて、一心に地面をつつく鶏を見ている。
「鶏は元気そう?」
 近寄りつつ声をかけた法子に全員が振り向く。意外にケロリとした顔ばかりで、法子を一瞬唖然とさせる。多感な子どもの方がショックが大きいと思っていたが、同時に順応性も高いと言うことなのだろうか。
 そんな事を思いつつも、法子は子ども達の輪に加わり、人間の営みなどお構いなしの鶏たちを眺めた。

 次の日は、5時30分に艦砲射撃が再び始まった。遠雷は主に島の南西部の浜辺に集中しているらしく、雷の集中豪雨のような轟きが連続して響いてくる。
 取りあえず近くに砲撃がないようだが、法子達は全員を洞窟の奥に入れて固まっているより他なかった。
 そして夕刻に戦闘が小康状態に陥ると、以前から見つけていた西の方が見渡せる場所、法子達が「見張り櫓」と名付けた場所に、法子が双眼鏡片手に赴いた。当然ながら子ども達は不安がったが、法子が一人一人瞳を合わせて大丈夫と言い聞かせたのと、普段の信頼関係が不安を押さえ込ませた。
 そうして法子がジャングルの草の合間から覗いた島の南西部は風景が一変していた。息を呑むどころか、息をするのを忘れたほどだ。
 今彼女のいる場所は、背が低くなだらかな斜面しかないナフタン山の中腹辺り。位置は山の南寄りの西側で、周囲にはジャングル以外の何もなかった。標高は5、60メートルほどあり、遮るものなく見晴らしは良好だった。南西2キロほど先には飛行場の滑走路が見え、さらにその先にはチャラン・カノアの街(の廃墟)が見える。そして景色が一変していたのは、チャラン・カノアの街より西方の浜辺だ。
 海軍用の集光率の高い双眼鏡でも夕闇迫る遠方は捉えにくかったが、海岸には無数の煙や大穴の間に数え切れないほどの大きな機械や積み上げられた荷物、そして人間の集団が確認できた。
 米軍が上陸した辺りと、沖合の輸送船団は明々と光を出しており、まるで沖に新しい町ができ、それがチャラン・カノアすら覆っているように見える。

 その日上陸したのは第2及び第4海兵師団で、彼らはH時間の8時40分にサイパン島に最初の一歩を記す。それは米軍のタイムスケジュールからわずか10分のズレしかなく、日本軍を押さえ込んだ米軍の攻撃がいかに激しかったかを伺わせる。
 そして7時頃から34隻の揚陸艦(LST)が攻撃大隊を乗せて上陸線(サイパンから4250ヤード)に移動。上陸線に到着するとドアが開き、数百ものアムトラックと呼ばれる水陸両用戦車とその元となった水陸両用トラクターを海上に降ろした。もちろん中には海兵隊員を満載している。
 またこのLSTの後には火力支援艦がいて、他の艦艇と共にロケット砲を海岸に浴びせかける。その後方には、機械化上陸船(LCM)がおり、海岸が確保されたら直ちに戦車と重砲を揚陸する準備を整える。その後に、より大型の兵員輸送船が予備兵や多種の補給及び装備品を積んで続いた。日本軍では考えられないような贅沢な上陸作戦であり、二度同じ過ちを犯さないアメリカ軍らしい、物量に裏打ちされた完全さがそこにはあった。
 だが、万全と信じた態勢も日本軍の激しい反撃でうち崩され、オレアイ、チャラン・カノアの浜辺は血で染まり、各所で激戦が繰り広げられた。
 しかし米軍の激しい砲爆撃にさらされた日本軍の損害も大きく、米軍は徐々に橋頭堡を広げその日の日暮れまでにチャラン・カノアの海岸に約2万人の海兵が上陸し、戦車や砲を配置し橋頭堡を確保した。
 それが15日の夕方、法子が見た情景だったのだ。
 素早く状況を確認し急ぎ「秘密基地」へ戻ると、奈央子が何やら作業をしているのが目に入る。
 「どうしたの」と法子が問いかけると、小さな笑顔と共に手にする奇妙な道具を掲げる。
「見てください。懐中電灯をこうして半分覆うと、地面だけ照らして他には光が漏れないんです。これなら暗くなっても動けると思うんです」
「よく考えたものね、ありがとう。けど、今米軍が西の海岸に上陸しているのが見えたわ。兵隊さん達の話が確かなら、夜にも日本軍の反撃が始まるから、今夜はじっとしていましょう」
 後半小声で話す法子に、真剣な表情の奈央子が頷く。なにやらここ数日ですっかり逞しくなったような奈央子に心強さと、そうならなければならない現状にやるせなくなった。
 その日法子達は、保存食で簡単な食事を済ませるとなるべく早く眠りに就いた。兵隊は夜襲で撃退すると言っていたから、太平記などの夜討ち朝駆けという物語を信じるなら深夜の2〜4時に日本軍の反撃が始まるからだ。恐らく激しい戦闘になり、轟音と振動でおちおち眠っては居られなくなるだろう。
 案の定、懐中時計で深夜3時丁度、最早お馴染みとなりつつある地響きと遠雷に似た激しい砲撃が開始され、砲撃や銃声ばかりか怒声すら聞こえてきそうな騒音の塊が、風に乗って流れてきた。
 その後午前4時半頃にも再び音が大きくなったが、朝日を迎える頃には沈静化し、再び米軍の艦砲射撃と空襲で一日が始まった。
 兵隊たちの言うほど米軍は弱くなかったのだ。兵隊たちにしても真実は知らず、また虚勢を張っていただけなんだと、納得するするより他無かった。現実は米軍の攻撃が続いているのだ。
 16日も15日と大差ない一日だった。
 法子達の気がかりは、もはや米軍がいつ撃退されるかではなく、戦場の音が徐々に自分たちの辺りにも近づいている事だった。その考えは、一日の始まりを告げる米軍の艦砲射撃が始まったことで強くなった。16日が暮れて昨日と同様に始まった日本軍の総攻撃がどうやら失敗に終わったと察しがついたからだ。
 そうして法子達にとっての一番の試練となったのは、18日に米軍が東海岸に抜けてアスリートの飛行場を占領し、ナフタン山一帯を米軍が占領するまでの十日間だった。
 特に20日頃からナフタン山麓での攻防戦が激しくなり、山でも僻地である筈の法子達のジャングルにも流れ弾が頻繁に落ちるようになった。数百メートル先と思える場所から、日本兵や米兵の叫び声や銃声が聞こえることもあったほどだ。近くで砲弾が炸裂した事も、一度や二度ではない。一度は、子ども数人がパニックを起こして家族の名を叫びながら外に飛び出そうとしたが、何とかとり押さえ全員を抱きかかえながら耐え凌いだ。
 法子自身も表面上の冷静な仮面の下では、偶然なり必然なりで自分たちが隠れている場所が見つからないかと気が気でなかった。一般の日本人と違い、欧米で女子どもが降伏しても大丈夫と言うことは知識で知っていたが、だからと言って戦場で殺気だった兵士が飛び込んでくればどうなるか分かったものではない。また、偶然砲弾が飛び込んできたら、狭い洞窟では一巻の終わりだ。
 当然ながら、その間まともな食事をとる事すらできず、みんなが気が付けば辺りが静かになっていた、という感じだった。
 奈央子が持ち込んだ精巧な懐中時計がなければ、正確な日時すら分からなくなっていただろう。
 しかし27日以後は、拍子が抜けたように辺りは静かになった。銃声どころか砲声すら近くでは轟かず、気が付けば島の中央のターチョッポ山麓に戦いの焦点は移っているのが理解できた。前日今までとは違った方向に向けて戦闘が合ったのが最後だ。
 そして念のためもう一日じっとしてから、久しぶりに「秘密基地」の外に出てみた。
 ただ、その時法子は、少しばかり安堵しすぎていた。辺りの様子を見てくると出るも、何も異常がないので調子に乗って麓近くに降りてしまったのだ。そして彼女がジャングルの切れ目辺りまで来たところで、遠くの方から十名ほどの米兵がジャングル内で散らばって行軍してきた。
 血が逆流するほど驚いた法子だが、幸いまだジャングル内にいた法子が先に気付かれる事はなかった。咄嗟に近くにあった茂み深いくぼみに逃げ込み、息を殺して災いが通り過ぎるのを待った。
 そうして彼らが通り過ぎた時、彼らの言葉を偶然聞くことできた法子を、大きな落胆と同時に小さな安堵をもたらした。
 法子は内地にいた頃にたしなみとして英会話を個人的に習っており、戦時で話せなくなったのが役に立ったわけだが、聞いた内容は洞窟の誰にも話せないものだった。
 彼らは言った。「こんなパトロール無駄だって、この辺りの日本軍はもう全滅さ」「ああ、さっさと引き上げたいもんだぜ」「けど、島の中央の連中は手強いらしいぞ」「そうだな、ボスのスミスが、軍団長のスミスに更迭されって話しだしな」「何、最後の悪あがきさ」「けど、上陸の時海兵隊は手ひどくやられたらしいぜ」「大丈夫さ、海軍の連中もジャップを叩きのめしたって鼻高々らしいからな」「俺達が北の方に行く頃にはカタが付いているさ」「いや、もう追撃が始まっているらしい」と。
 法子が咄嗟に隠れたくぼみで、冷や汗すらかけない緊張の中で息を殺している間、米兵は大声で軽口をたたき合い笑いながら過ぎていった。
 そして法子を驚かせたのは、言葉の内容もさることながら、米兵が笑いながら歩けるほどこの辺りは彼らにとって安全となっていると言う事だった。日付は6月29日の午前中。
 完全に音と気配が消えるのを待って、法子は「秘密基地」へと戻った。そして顔を出す前に呼吸を整えて、心の中で数字を数え、ようやく草をかき分け中に戻る。入ると同時に、みんなを安心させるように笑みを浮かべてそれぞれに頷いてみせた。すでに外出から戻った時の通過儀礼のようなものだ。そして今日ほど効果があったことがないと思い知らされる。
 戻った「秘密基地」でも、法子が遭遇した米兵が近くを通っていたのだ。子ども達もその事に気付いており、入る数メートル手前で声をかけなければ子ども達がパニックに陥っていたのが容易に予想できる光景が広がっていた。ずいぶん逞しくなったと思っていた奈央子も、一番小さな祥子を抱きながらも、今にも泣き出しそうな顔をして安堵している。
「もう大丈夫よ。けど、まだ騒いだりしないで、じっとしていましょうね」
 法子は口に立てた人差し指をあてながらくぼみに降り立ち、ゆっくりと、しかししっかりと子ども達を抱きかかえた。
 避難から一週間以上が経ち、家族を離れた子ども達にとっての法子は、もはや単なる先生ではなく親代わりの位置にも立たなくてはいけなかったからだ。
 そして、その日を最後に、ナフタン山は本当に静かになった。また米兵の言っていた事は正しいらしく、翌日の27日を境に戦闘の騒音も少しずつ島の北方遠ざかるのが分かった。
 比較的近くにいる米兵は、アスリート飛行場に沢山の機械やトラックを持ち込んだ者達で、彼らは法子達の潜むナフタン山には、山頂など重要箇所以外興味すら持たないようだった。

 そしてさらに一週間近くが経過すると徐々に行動も大胆になり、いっぽう「秘密基地」の中だけだったが小さな日常が戻り、子ども達も不安なだけにはならなくなった。そこで法子は、一人の目線では情報が偏ると考え、7月に入ってからは時折奈央子を連れてアスリート飛行場が望める「見張り櫓」に赴くようになった。
 出で立ちも、すっかり汚れきったジーンズに兵隊でも履いている者が少ない革の登山靴に、上は事前に墨で染めた開襟シャツ。その上に陸軍のポンチョをまとった、まるで女性らしくない姿だ。手にも分厚く土色の軍手がしてある。銃などの武器こそ携帯していないが、双眼鏡に山刀を装備した姿は、疎開民や流浪の避難民というよりは、探検家や冒険家、それとも便衣(ゲリラ)に近い。顔の多くも暗い色の布で覆っているから、もはや便衣そのものと言えるかもしれない。
 7月6日から7日にかけての深夜に同行した奈央子も似たような出で立ちで、二人して共同行動しているとますます兵隊に思えてくる。
 二人の顔立ちや体型も、粗食と緊張からかなり女性らしさや身体の丸みが落ちており、女の意地とばかりに切らないでいた長い髪がなければ、遠目では男と間違われていたかもしれない。
 そして彼女たちの非日常的な姿と避難生活は、それからの日常へと変化していき、希望も絶望も抱けぬ毎日を送ることになる。

 ただ、彼女たちはサイパン島の日本人では、最も幸運な方だった。事前に準備して行動した結果でもあったが、日本人のほとんどより運がよかった。何より、主戦線から外れた場所に避難していたのが幸運だったと言えるだろう。米軍は、ナフタン山麓に日本人はいるわけないと、戦闘後はロクに探すこともなかったからだ。
 だが、サイパン島全体は、何も知らないまま孤立した法子達に比べて、絶望や地獄という言葉ですら足りない惨状を呈する。
 法子達が見た7月6日から7日にかけての深夜の戦闘は、現地日本軍最後の組織的戦闘だったからだ。
 そしてその二日後の7月9日をもって終わったサイパン島の攻防戦において、軍民合わせて5万人近くの日本人が死亡していた。しかも日本軍最後の組織的抵抗は、「万歳突撃」とされる軍事的愚行であり、さらに本来なら助かるべき民間人の多くが、戦時教育の影響で自ら命を絶たざるを得なかった。乳幼児、幼児などは、軍の命令に近い言葉で親の手により殺された。日本軍司令部が全滅してからは、洞窟などで集団自決した者も多い。一番の悲劇は、歴史的記録として残されるサイパン島北端の断崖絶壁で墜死する千人単位の集団自決だ。
 しかし日本人が皆殺しになったわけではない。主に民間人だが、助かった者の方が多かった。比率で言えば6割の民間人が命を長らえている。
 しかし助かった民間人の多くは、いつ流れ弾が飛んでくるか分からない中での逃亡生活を続けた。助かった場合も、逃げる日本軍に置きざりにされたり、米兵の献身があったり、または偶然により助かるなどのケースがほとんどだ。美談としてなら、米兵の中に1500人もの日本人を無事降伏させたというケースもある。
 それが「玉砕」と美化して日本国内で報じられたサイパン島の真実だった。「玉砕」した筈の島には、法子達のような米兵の知らない日本人も数多く潜伏し、または大多数が捕虜として収容所に閉じこめられ、日本政府から無かったことにされてしまっていた。
 そして、日本本土への橋頭堡を高い犠牲を払って得たアメリカは、日本本土爆撃の準備を急ぐことになる。


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