■長編小説「煉獄のサイパン」

●第三章 3

1944年10月30日 本州沖
 10月29日未明、定宿と化していた艤装桟橋を離れた航空母艦《信濃》は出港した。お供は、護衛となる水雷艇《鴻(おおとり)》と同じく水雷艇《千鳥(ちどり)》のたった2艦だけ。どちらも《信濃》と比べれば80倍に迫る排水量差だ。だがこれとて、今だフィリピンで活動中の海軍主力部隊の事を考えれば、内地では大盤振る舞いと言えた。少なくとも足の早い艦艇を選んだのは、上層部の最低限の配慮だった。
 ただ、国家の命運を担う艦艇の護衛にあまりに頼りないというので、前路警戒に潜水艦を出すことが決まる。そして、ちょうど配置変更と装備受領のため横須賀から呉へ向かう途中だった、《伊号29潜水艦》が当てられることになる。《伊29潜》なら、ドイツ製の電探、逆探を搭載し、水上速力も乙型なので速く問題なかろうというものだ。つまり、《伊29潜》は航路のほとんど水上航行で向かうことになる。
 ただ、出撃前の前日に一悶着があった。

「阿部大佐の提示された航路では、東京湾口と紀伊水道で潜水艦からの攻撃を受けてしまいます!」
 鴻の艦長が強い語調で反対した。
 最初、《信濃》の阿部艦長以下《信濃》の首脳陣と《鴻》、《千鳥》、そして《伊29潜》の関係者が集まって航路と出港時間の打ち合わせが行われた。
 最初は、臨時の艦隊の編成なので型どおりの挨拶や歓談で始まった会議は、徐々に激論へと発展していく。
 会議の最高位は、阿部俊雄大佐と《伊29潜》と共に任地先の呉で第15潜水戦隊で1個潜水隊を任される予定になっている木梨鷹一大佐だ。
 そして航路と出港時間を一任されているのは阿部大佐。この場合木梨は《伊29潜》の便乗者に近い。しかし、《伊29潜》の新たな艦長になった中佐が、隊司令として出席すべきですと、強い語調でしぶる木梨を連れてきたという経緯がある。新艦長曰く、ドイツ帰りの大佐の声を無視できる者など海軍にはいません。浮上航行を継続させられる無茶を引き受ける以上、向こうが無茶を言ってきた時はお願いします、と。
 しかし木梨は、来るべきじゃなかったと、議場の片隅で内心後悔していた。
 議論は、《信濃》艦長の阿部が、航路と時間帯を強引に主張している事から、緊張を通り越して険悪なものになっている。
 阿部は、航路上の天候不順を理由に、敵に発見されにくい航路を取ることを提案。阿倍の案は、特に航空機の存在を危惧したものだった。阿部は、サイパン島が陥落してもう4ヶ月になるので、長距離爆撃機が本土近辺まで来る危険性を危惧したのだ。事実硫黄島では、コンソリとあだ名される敵大型爆撃機B24の姿が確認されているし、おとといトラック諸島からは「敵新型爆撃機マリアナ方面より襲来す」との報告も届いている。
 そこで阿倍の案では、薄暮に出撃して東京湾口から南下して外洋を南東方向に進み、途中で西に進路をかえ、豊後水道に向けて北西に進む航路だった。
 対して、《信濃》を護衛する水雷艇長二人は、敵潜水艦の夜間攻撃は防ぎきれないので未明に横須賀を出港し、昼の間に本州沿岸を行く航路を主張した。
 水雷艇長たちは言った。「まだ見ぬ爆撃機よりも、すでに日本近海に出没する多数のアメリカ潜水艦を優先すべきです」と。立ち上がっていた《鴻》艇長は、さらに語気強くした。
「阿部大佐、失礼ですが大佐は、ここ数ヶ月のアメリカ潜水艦に対して認識が甘すぎるとしか申せません」
 あまりの言葉に阿部の顔に朱が刺す。しかし、《鴻》の艇長は怯まず続けた。彼には、ここ数ヶ月だけで贖罪すべき事が山のようにある。ここで引き下がるわけにはいかなかった。
「恥ずかしながら私と《鴻》は、半年ほど前に主にサイパン島に向かう船団の護衛に従事して参りました。しかし、最後まで任務を全うすることは出来ませんでした。敵が上手だったのに加えて、我々の力量不足が原因です。サイパン陥落の一因が私にあると言っても過言ではないでしょう。しかも《鴻》は、敵艦隊襲来直前にほとんど私の独断でサイパンを離れました。また、可能性を論じるのは本意ではありませんが、陸軍の輸送が完遂されていれば、サイパン島から米軍を撃退できていたかもしれません」
 出世に関わる自身の批判など海軍ではあり得ないが、既に二線級の艦に配属され経歴も泥にまみれた鴻艇長は、自らを斬りつける行為を続ける。
「乗艦の能力、装備について不満を申す気はありませんが、米軍の方が装備が上回っているのは厳然たる事実です。特に電探の探知範囲や性能は敵の方が上回っていると見るべきです。そして我々には目視と聴音と、敵よりも弱体な電探でしか敵の発見方法はなく、護衛を専門としてきた者として、多くが封じられる夜は危険が大きすぎると申し上げているのです」
 言い切った《鴻》艇長は、これで分からなければどうにもならないという顔をして、立ちあがって熱弁を振るっていたのが嘘のように静かに席に着いた。
 そして場が沈黙するのを待って阿部が口を開こうとした所で挙手があった。木梨だ。
「発言をしてよろしいか」
 どうぞ、阿部が答える。落ちぶれた大尉ごときに演説をさせてしまった以上、自分が先任とは言え同じ大佐を無下にはできない。ましてや木梨は、ここ最近で一番の金星を挙げた男だ。
 木梨は軽く会釈して、淡々と口を開いた。
「ドイツからの帰り道、《伊29潜》はバシー海峡辺りで敵潜水艦からの追跡と襲撃を受けた。海面にはほとんど姿は現さず、距離は聴音できるかどうかの範囲だった。ここから米潜水艦の索敵能力が測れると思うのだが、いかがだろうか」
「《伊29潜》が、潜水に近い状態でガトー級潜水艦に捕捉されたと言うことですか」
「その通り。また、ドイツ帰りで便乗した者は、連合国はドイツですら探知できない高性能の電探を使い、潜水艦狩りをしていると話してくれた。技術的詳細については知らないのだが、マイクロ波を使う高性能電探だそうだ。つまり、現在《伊29潜》が搭載しているドイツ製電探ですら、万全の信頼を置いてはいけない」
 木梨を知る者なら多弁だと感じただろうが、海軍最高の潜水艦乗りが淡々と語るだけに真実味があった。
「他に注意すべき点は?」
 阿部も、先ほどまでの強硬な姿勢が少しばかり緩んでいる。「おや?」と思った木梨だが、表情を顔に出さず続ける。
「潜水艦での戦いしか本官は知らないが、潜水艦では冷静さと慎重さ、そして相手の行動を読む事が生き残る秘訣だ。他は自ずと身に付く。まあ、たまに大胆さも必要かな」
 最後に木梨は珍しくおどけた口調で言った。
 その時阿倍の表情が崩れ、持論を退けた事が周囲に知れた。ただ木梨は、阿部があえて危険な大きな案を最初に提示したのではないかと思えた。もちろん、阿部大佐が何も言わない以上誰に語ることもなく、そのまま口をつぐみ続けた。

「ありがとうございます、木梨大佐」
 解散後、木梨の背に《鴻》艇長の声があった。
「なに、一人の男が自ら恥を晒したんだ。外野が言えることぐらい言っておこうと思っただけだ」
「しかし阿部大佐は、主要航路を外れて行動してくれるとまで言ってくれました。木梨大佐の言葉がなければ、危険の大きい沖合を航行していたと思うと……」
 言葉に詰まった鴻艇長の肩をポンポンとだけ叩くと、道を急いだ。何しろ木梨の乗る《伊29潜》は、他より先に出なければいけない。

 夜明けと共に浦賀水道を突破した《信濃》は、先行する《伊29潜》からの安全報告を頼りに、低速の間に陣形を作り上げた。
 とは言え、《信濃》の左舷前方に《鴻》、右舷前方に《千鳥》がつくだけ。ほかに、十海里先に《伊29潜》が付いて陣形は完成だ。前方航路で活動の可能性がある潜水艦以外考えない陣形であり、聯合艦隊も横須賀で余っていた状態の96式陸攻を、浦賀水道から紀伊水道にかけて出来る限り哨戒に出してくれると確言してくれた。
 まだ関東は安全という気分がそうさせたのだろう。もし、1ヶ月違っていたら援護の飛行機が1機もなかった、という可能性は十分にあり得た。
 なお、艦隊の速力は18ノットで、その日のうちに一端伊勢湾に入り、翌日黎明より行動を再開、紀伊水道を抜けて以後そのまま呉に入る予定が組まれた。
 また、対潜陣形は組んだが、いわゆる「之字運動」は行わず、相手潜水艦に万が一発見されても、一気に駆け抜けて振り切ることになった。
 相手が余程大胆か馬鹿でもない限り、日本本土近海で浮上航行してまで追跡してくるとは考えられないからだ。それに《信濃》自身が、真っ直ぐ進む以外のことがほとんどできないほど練度が低く、艦隊行動での「之字運動」が極めて難しいというのも直線で進んだ理由だった。
「我々が前路警戒する意味があったのでしょうか?」
 《伊29潜》の露天艦橋で、《伊29潜》艦長が木梨に問いかける。この艦長は、ドイツ行った時の先任将校で、少佐で艦長の座を掴んだ男だ。おかげで今も艦長と先任という空気が抜けきってなく、乗員のほとんども以前と同じと言うことも重なって、木梨が艦長の上に立つ存在という雰囲気が強い。
 しかも帰国後の《伊29潜》は、ドイツ行きで格納空間を拡大したのを一部そのままに小規模な改装を施し、甲型のように旗艦施設と居住区を設置している。このため搭載魚雷数が減らされたが、もはや無数の魚雷を放つ機会は少ないと思われていたので、大きな問題にはされなかった。
 それよりも、呉で装備を受け取ると共に、それを搭載する事の方が艦内では大きな議論になっていた。
 そして今回の航海は、最後の気楽な航海とも言え、自然雑談が多くなっていた。同艦を旗艦とする隊司令になる予定の木梨も、現《伊29潜》艦長も何も言わない。むしろ暇を見つけては雑談をする事が多かった。
 そして二人の頭上には、低速で弧を描きながら悠然と飛ぶ96式陸上攻撃機がいた。すでに第一線を退いて久しいが、内地で保管状態に近かったのを引っ張り出して《信濃》護衛に駆り出したのだ。
 おかげで申し訳程度に小ぶりの爆弾をつるした他は、目視による監視しかできない。ただし、形だけでも哨戒機がいる効果は絶大だ。
 米軍は目と耳がいいだけに、哨戒活動をしている飛行機の姿を向こうが勝手に見つけて逃げる可能性が高いからだ。仮に前方に展開して水深深く近寄ってきても、雷撃には潜望鏡深度や雷撃可能深度まで浮上しなければ意味がない。
 そうなれば空から丸見えであり、本土近海で米潜がそこまで危険を冒すとは考えられなかった。しかもこうして複数の艦艇が護衛任務に就いている。集団ならともかく単艦で向かってくる可能性はゼロに近い。そして本土近海で近くに集団で米潜水艦がいるとも考えられない。
 今米軍の関心はレイテに大軍が上陸しているフィリピンにあり、また潜水艦も次の戦場と設定している沖縄に集中している。日本本土近辺は、密度の低い通商破壊しか行われていないと大本営では考えていた。
 木梨と現《伊29潜》艦長も、以上のような事を踏まえて雑談に興じる。木梨も余裕のくわえタバコで、二人して猿の腰かけに落ち着いて物見遊山状態だ。
「電波を放ちながら前路警戒していれば、むしろこれからここを通り過ぎると敵に教えるようなものじゃありませんか」
 艦長が再び問いかける。それに、ゆっくりタバコの煙を吹き出した木梨が、煙のついでのように口を開く。
「闇夜に提灯、か?」
「そこまでは申しませんが」
「けど、この電探はアメ公が泡を食うんじゃないかな、太平洋じゃあ実働しているのはこいつだけだ」
「確かに、連中の逆探は敏感だと言いますから、違う波を拾えば泡を食うかもしれませんね」
「うん。それに万が一の事があっても、18ノットならこっちの聴音もまだいける」
「はい。それに他の護衛艦の連中にもコツを教えたんだし、無様な事にはならないでしょうね」
「そう願いたいが、俺としては何事もなく過ぎてくれる事を祈るよ」
「確かに、ついでのような任務で、緊張状態を続けさせられたくありませんな」
 艦長が陽気に笑う。少なくとも、まだ内地の空には笑えるだけの暢気な雰囲気があった。
 もっとも、歴戦の《伊29潜》水艦と違って、いまだ未完成状態の《信濃》は、余裕のかけらもない状態が出航前からずっと続いていた。
 艦内各所では、工員から工具からを乗せたまま工事が続けられており、そこら中で鋲を打つ槌音、電気溶接の音、何かを叩く音、運ぶ音が響いてくる。さらには、配属されたばかりの水兵達が、これまた配属されたばかりの下士官、将校にしごかれている怒鳴り声もそこかしこから響いてくる。
 艦橋から眺める阿倍の視界には、滑稽さすら思わせる、何もないスポンソンの砲座での砲撃訓練が見えている。
 阿部にとっての救いは、くたびれていなかがらも馴れた機動で隊列を維持している一キロほど先の護衛艦二隻と、上空を悠然と飛ぶ陸攻だ。
 爆撃機さえ来なければ、必要十分な警戒態勢だ。
 そして日本軍の警戒に報いるように、航海初日は何事もなく伊勢湾に入ることができた。あと一日同じ事を繰り返せば紀伊水道を抜けられ、その翌日には呉に到着だ。
 本来なら慎重すぎるぐらいの航行計画だが、海軍の上の方も万が一の場合を考えたらしく、嫌みな電文の一つを寄越す程度に止めている。
 もっとも《信濃》は、自らのあまりの巨体に伊勢湾のどこかの港に停泊するという事はできない。名古屋港ですら接岸できないからだ。おかげで伊勢市沖合に停泊するに止まり、呉到着まで陸はお預けとなった。それでも近在の基地からは、どうやって話を聞きつけたのか、伊勢から小さな船で多数の有志が押し寄せた。
 多くが近在の部隊で、錬成中の航空隊が中心だった。他に来ているのは中京圏各地にある航空機メーカーの者たちで、《信濃》を技術的な面から見学に来たものだ。どうやら、上が情報を内密に伝えていたらしい。
 そしてどちらかと言えば、皆一目世紀の巨艦を見ようと言う野次馬に近い者も多かった。だが、鈴鹿にいた飛行将校の一人の「明日一日、伊勢湾から紀伊水道まではうちが面子にかけて空を守ります。ご安心ください」と言う言葉にあるように、《信濃》に対する期待の大きさも伺わせる。何しろ、フィリピンで海軍主力が壊滅して先日も呉には小沢艦隊がボロボロになって帰ってきたばかりという暗い噂しかない。そんな所に巨大な《信濃》が来たものだから、皆が勇んで来てしまったのだ。
 ただ、本来なら中小の指揮官がそんな事を独断で言えるはずもない。しかし、この辺りの部隊は、機体を直接受領に来た出向組や訓練部隊が多く、「訓練」の名目で護衛に当たるというのだ。
 もっとも、何で護衛するのかと勇んで聞けば、飛行士の一人は最新鋭戦闘機だと胸を張って言うのだから、肩すかしと言えば言えなくもない。
 それでもいまだ未熟な《信濃》乗員達にとっては涙が出るほど嬉しい事ばかりで、酒は流石にマズイと控えられたが持ち込まれた伊勢湾の幸で鋭気も養っての船出となった。
 そして翌朝、昨日早々に帰っていった者達の話どおり、複数の機体が早朝から現れた。戦闘機4機で編隊を組んでいるものもあり、巨大空母が航空機を従えつつ出航する様は勇壮ですらある。
 もっとも先行する《伊29潜》は、《信濃》より1時間先行しているので編隊飛行を見ることはなく、昨日と同じくドイツ製電探を全開にしつつ志摩半島先端部辺りを水上航行で進んでいく。
 しかも早くも緊迫した雰囲気に包まれていた。
「電探、間違いないか」
 木梨の横で艦長が問いかける。
「はい。僅かな時間でしたが、水上目標を探知しました。大きさから潜水艦のセイルと考えられます」
「灌木など浮遊物の可能性は?」
「ありません。目標は12ノット近くで海流に逆らって移動中でした」
「で、今さっき日の出ときたか。舐められたもんだな。こんな陸の近くで、夜間とは言え敵潜に浮上航行されていたとは。他には?」
「南南東20海里先と言うこと以上は」
「35、6キロか。1時間はかかるな。隊司令どうしますか?」
「隊司令はまだ早いぞ、艦長」
 木梨が苦笑いしながら応じるが、序列を示された以上、すぐに対策を立てていく。
「《信濃》が東西どちらに行くか、電探で調べて追うつもりだったんだろう」
「けど、向こうはこっちがドイツ製の優れもので見つけたとは思っていない。追いますか?」
 艦長の言葉に、木梨は少し沈思する。
「……本艦は、電探が掴んだ場所に急行する。現場海域に近づいた段階で聴音で敵を捜索。後ろの本隊にはこちらの方針を伝え、現場海域へ航空隊を向けるよう要請。他からの増援も要請しよう。沈めずとも通過するまで制圧してしまえば目的は達せられる」
「ここでも逃げるのですか?」
 艦長が、先任時代と同様の目で木梨を見る。それを見て木梨は破顔した。
「潜水艦の仕事は逃げることだ。敵さんにも相応の仕事してもらうだけだ。これなら良かろう」
 ハッ。わざと勢いよく敬礼した艦長は、矢継ぎ早に指示を出していく。

 しばらくすると、《伊29潜》が概略位置に行くよりも早く、翼の下に小型の爆弾をつるした戦闘機が押っ取り刀で駆けつけ、低空に降りて捜し物を始める。
 第一発見者となる《伊29潜》は、潜水する事なく速力12ノットに落としての聴音作業に入った。
 この場合、《伊29潜》は見つかっても構わない。敵潜がこちらの音を掴んでも、対潜艦艇がいると勘違いして、潜水を続ける可能性が高くなる。
 あとは航空機と連携しつつ根気強く敵を探し、頭を押さえ続ければいい。向こうが馬鹿なら、潜望鏡深度に浮上したところを低空で哨戒している航空機が見つけて、それで終わりだ。最低でも、こうして数時間時間を潰してしまえば、《信濃》を捕捉することなく敵潜は肩すかしを食らって終わる筈だ。
 それどころか、敵は早々に潜ったと見るのが正しいので、このまま航空機と共に抑え続ければ、電池か空気がなくなって浮上せざるを得なくなる。その場合戦闘の可能性が高くなるが、航空隊がいる分《伊29潜》が圧倒的に有利だ。と言うより、今回の《伊29潜》は敵潜に対する囮の向きが強い。敵潜を沈めるのは増援が来るまで航空隊の仕事だ。
 気になる事と言えば、敵潜が複数いる可能性だが、伊勢湾の近くで複数いるとは流石に考えにくい。
 他で待ちかまえている可能性もあるが、この辺りなら、こちらの航空機の手駒は他にもある。
 様々な事を考えながら艦を進めさせていた木梨は、到着が少しばかり遅れるなと最後に考え、次の指示へと移った。
 いっぽう、敵潜発見の報告を受けた《信濃》では、指示を下すと速力を上げて伊勢湾近辺を突っ切る事にした。警戒の方は上空の航空隊に任せ、まずは速力21ノットで危険海域を迂回してしまう。
 この速度では護衛艦の聴音装置がほとんど役に立たなくなるが、最低2機の機体が艦隊外周の低空をゆっくりと旋回しているので、不意に雷撃されることはないと判断されていた。
「進めるだけ距離を稼ぐぞ」
 阿部は、そう指示を出して、先を急いだ。
 前路警戒がなくなり、上空の航空隊が早朝に比べ半減した分したのは不安要素だが、今は目の前の脅威を切り抜けるのが先決だった。
 そしてその後、熊野灘を抜ける間にも追加の報告が入り、阿部をホッとさせた。伊29からの報告で、追加で飛来した探知装置付きの零式水偵がほとんど海底に張り付いていた敵潜を発見したというものだ。しかも、後は近在から駆潜艦を呼び寄せ、制圧の任務を引き継ぐとあった。
「これで少なくとも、後方の敵潜は気にせず進めるな」
「はい。しかし良よろしいのですか」
「船底近くの工事を中断させた事か?」
「はい、工期が遅れてしまいますが」
「構わん。危急の時に配線のおかげで隔壁が閉められず応急が遅れるよりましだ。それよりも、乗員には今の間だけでも応急の訓練をさせておきたい。任せられるか?」
 阿部の声に、副長が答え立ち去っていく。並の戦艦より高いぐらいの艦橋では、航海長を中心にして艦が運航されているので、何か特別な事態がなければ二人は意外に暇だった。そして副長を応急訓練に出してしまうと、艦長の阿部だけが残される格好になる。
 眼前では、時計回りに2機の航空機がゆっくりと低空を旋回しており、左右前方には鴻と千鳥が陣取って進んでいる。
 場所はあと1時間ほどで潮岬。紀伊半島先端が一番外洋に近く一般航路とも重なるので、危険と言えば危険な海域だ。ここから紀伊水道に入るまでは、気が抜くことはできない。
 阿部は、追加命令としてまだ開いてある隔壁の一部閉鎖訓練を行うことを内心決める。そしてその事を副長に連絡した直後の事だった。
「方位三四〇度、距離五〇〇〇、友軍機急降下!」
 左舷にいた見張り員が絶叫に近い声を上げる。
 すかさず視線を送ると、さきほどまでのんびりと旋回していた零戦の戦爆型が、かなりの角度と速度で降下する様が飛び込んできた。降下角度は45度ほどなので急降下とは言い難いが、降下先に何があるかは説明の必要はない。
「右舷急速回頭。之字運動A方準備、雷撃戦に備えよ」
 阿倍の命令一下、艦の動きが活発になる。乗員達は阿部からすればもどかしいぐらいの動きだが、こればかりはどうにもならない。
 そして艦が方向を転じるまでの間も報告が次々に舞い込み、阿部も指示を下していく。
「《鴻》位置離れます」
「《鴻》より信号。我コレヨリ敵潜ヲ撃滅セントス」
「友軍機の爆弾投下確認」
「《千鳥》を本艦の正面に移動。之字運動A方にて現海域を離脱」
「之字運動A方始め」
「ヨーソロー」
 復唱と了解を知らせる独特の言い回しが行き交う中、最初の緊張のピークがやって来た。
 見張り員の歓声だ。
「左舷三三〇度、距離四〇〇〇で水柱一を確認。投下された爆弾命中の公算大」
 投下から爆発までの時間を考えれば、敵は潜望鏡深度あたりから潜りつつ、小型爆弾、恐らく30キロ爆弾を受けたことになる。迂闊にも飛行機がいると知らず、音に釣られて潜望鏡深度に来たのだろう。何しろ飛行機を露払いにする船団や船は日本では珍しい。
 そして金星を挙げた戦爆は、中央に4発、両翼に2発ずつのめい一杯吊してきている。命中確率は1/8。発見が早かったのかもしれないが、何にせよ運が良いと考えなくてはいけない。ただ、30キロ爆弾では致命傷は難しいかもしれない。
 しかし、正反対の位置にいた零戦戦爆も爆音を轟かせつつ接近中である。少なくとも、《信濃》が今すぐ雷撃を受けると言うことは回避できる。後は、敵が複数いないことを祈るだけだ。
 そこに《鴻》からの追加信号がきた。
「聴音ニテ圧壊音確認デキズ。コレヨリ制圧ヲ開始ス。先ニ進マレタシ」
 鴻の報告に、阿部は小さな落胆をしつつも同時に安堵するものもあった。
 会議の時の彼の迫力を信じる限り、《鴻》は信頼を置いて問題はない。しかも航空機2機が支援し、片方はまだ爆弾を残している。増槽なしの戦爆だからそれほど長時間は飛行していられないが、元が零戦だからまだ2時間やそこらは平気だ。加えて、交代の機体も来る手はずだ。むしろ、大物ねらいで不用意に接近した敵潜水艦こそが哀れと見るべきだ。
 ただ、危険海域離脱後の航路は、1000メートル前を進む千鳥ただ1隻になってしまった。
 伊勢湾を出るとき、まるで大艦隊のごとき気分だった乗員達の不安も肌で伝わってくるようだ。
「それにしても、アメ公はどれだけ潜水艦を用意しているんだ」
 艦橋にいる誰かが呟いた。

 之字運動を開始してから後、流木を潜水艦の潜望鏡と誤認した以外その後の特にトラブルはなかった。しかも鈴鹿から交代の飛行機が1機だけだが飛んできて、乗員全てを安堵させた。しかも飛んできたのは、先日も空を守ってくれた96式陸上攻撃機だ。《信濃》とも無線で連絡を取り合い、とんだ訓練であります。と冗談も飛ばすほどの余裕だ。
 夕闇時の紀伊水道突破には、極度の緊張を強いられたが、結局何事もなかった。流石の米軍も、この時期の日本近海にそれほど多くの潜水艦を配備することが出来ていなかったからだ。
 そうして、《信濃》と護衛の《千鳥》が無事鳴門海峡を通過して安堵のため息をもらした時、二つの報告が入った。朗報と凶報だ。
 朗報は、志摩半島沖の敵潜水艦が浮上降伏した事。凶報は、潮岬沖合の潜水艦を戦爆と共同で撃沈確実とするも、刺し違いで《鴻》が撃沈してしまった事だ。状況を見ていた戦爆の搭乗員は、その日遅く鈴鹿の基地で報告した。魚雷2本が小さな船体を包み込むように突き刺さり、爆発後の海面に《鴻》の姿は全く見えなくなっていた、と。

「それで、《信濃》はどこだ?」
「ホラ、あれじゃありませんか。奥のドックの中の緑の建物。あれ《信濃》の艦橋でしょう。傾斜煙突も見える」
 11月3日。一日遅れて呉へと入港してきた《伊29潜》は、装備受領のため艤装岸壁に向かう傍ら、艦長と木梨が二人して途中まで護衛していた世界最大の空母をキョロキョロと探し回っていた。無事だとは連絡を受けたが、この目で見られるものなら収めておきたかった。何しろ潜水艦では体験することすら難しい護衛任務を果たし、多数の友軍との連携とは言え、敵潜水艦降伏の大金星を上げたのだ。見て置かねば、目覚めが悪い。
 そして一見して見つからないのは道理で、《信濃》の方は到着したその日のうちに準備を整えていた第四ドックに押し込まれてしまった。
 他にも、《伊29潜》が接岸を指示された艤装桟橋近くの艤装岸壁では、二隻の同型の空母が横付けして何やら活発に作業が行われている。
 自らも別の桟橋に付いてから聞いた話では、《大和》ら第二艦隊がブルネイから戻ってくるまでに、呉工廠の総力を挙げて《信濃》を完全な状態に持ち込むというものらしい。
 軍令部、聯合艦隊も了承しており、資材も優先して使って良いことになっていた。主に材料とされるのは、完成したばかりの航空母艦2隻、《雲龍》と《天城》だ。特に高角砲や機銃、ロケット砲など《信濃》に全く足りない装備は、全て2隻から取ることが決まっており、今後2隻は油を抜いて《信濃》につぎ足し乗員すら一部引き抜いててこ入れし、柱島の僻地に繋留される事までが決まっている。
 複数の母艦に搭載すべき機体と操るべき搭乗員がいないのと、2隻をバラして《信濃》を完成させねばならないほど装備や資材が足りないのはもちろん、艦を動かすべき燃料も内地には多く存在しないからだ。
 しかも二日前から《雲龍》と《天城》から装備を引き剥がす作業が始まっており、《伊29潜》が到着した頃には早くも東洋一と謳われる第四ドックに資材や装備が運び込まれ始めていた。
 これほど急いだ背景には、呉を母港とする《大和》が、現在の任務を終えて帰投するまで概算で三週間ほどを予定していたからだ。
 しかも《大和》は、先のレイテ沖海戦で多数の魚雷や爆弾を受けるなどかなり傷ついており、ドック入りは必要不可欠だった。
「だからって、無茶苦茶な話しですねえ」
 《伊29潜》の新艦長の一言が、全てを物語っていた。


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