■長編小説「煉獄のサイパン」

●第四章 1

1944年11月24日 サイパン島
 11月24日、サイパン島イセリー基地から初めての日本本土爆撃が行われた。
 「マッターホルン作戦」に続く「サン・アントニオ作戦」、つまりサイパン島から日本本土に対する本格的な戦略爆撃が開始された。
 同作戦に至るまでの経緯は、大国アメリカと言えど一筋縄でいくものではなかった。障害物があまりにも多く、そして大きかったからだ。
 何しろ日本列島は海に取り囲まれている上に、隣接する陸地のほとんどを自らの勢力圏としている。しかも、自国の中枢部から最低でも1000キロ離れなければ、敵対国が容易に利用できる軍事拠点足りうる場所はない。そして列強第三位の強大な海軍が日本列島を守っており、通常ならとてもではないが手は出せない。なればこそ、曲がりなりにも近代化を果たした日本が、自国を守り仰せたと言えるだろう。
 しかしアメリカには世界の半分以上を占める巨大な工業力があり、卑怯なだまし討ちをした日本をアメリカは許すわけにはいかなかった。
 そして日本攻撃の切り札の一つが、超長距離大型重爆撃機の集団を用いた爆撃、所謂戦略爆撃である。
 もっとも、『30億ドルの大ばくち』と表現され、また超長距離大型重爆撃機の要となった「B29」爆撃機の開発は、日本攻撃を意図して開発されたものではない。俄に信じがたいが、元々は防衛的な計画だった。しかも、ナチス・ドイツが中南米のどこかに拠点を築くこと を恐れ、これを破壊するための兵器として、アメリカは超長距離大型重爆撃機を手にしようとしたとされている。
 そして様々な会社が開発に名乗りを上げる中で計画は始動し、アメリカ陸軍航空隊は1940年9月6日、最終的にボーイングと試作機XB29二機を製作する契約を結ぶ。アメリカ陸軍航空隊が新型機に要求した性能は、航続可能距離半径2000マイルで高度3万フィートを飛行出来ることであった。
 その後1941年6月、アメリカ陸軍航空軍に組織改編された彼らは、海の物とも山の物とも分からない、まだ見ぬ新型爆撃機の大量発注が行う。これが、『30億ドルの大ばくち』だ。
 そうして真珠湾攻撃を号砲とした太平洋戦争が開幕するのだが、追い風となるはずの戦争勃発があってもB29にとっての受難は続く。
 参戦により発注数は一気に倍増、最終的には4000機も製造される事になるのだが、革新的な技術を盛り込んだ機体だけに開発が難航し、事故も多発したのが大きな躓きとなった。
 これが平時なら、確実に開発中止になったかもしれない。だが、1943年6月、およそ3年の歳月を経て、ついにアメリカ陸軍航空軍は初号機を受け取る。そして、機体が完成してもB29にとっての受難はまだまだ続いた。やはり機体が革新的過ぎたのだ。
 翼長43メートルに達する巨体。2200馬力の出力を叩き出す、ライトR3350型デュプレックス・サイクロン18気筒ラジアル・ スーパーチャージド・エンジン。余圧式キャビン。遠隔操作機銃。使われた技術の多くは、敵対者の枢軸国が手にも届かないようなものばかりだ。日本の量産技術では、十年後でも建造できたか分からないだろう。
 だが、その最新技術の塊を何十、何百という数で前線で使わなくてはならないため、トラブルは日常茶飯事となった。
 余圧キャビンを正常に維持し、排気タービン付きのエンジン4機を同時稼働させなければいけないため、運行開始当初の稼働率は20%台。通常なら兵器として使うことがはばかられる数字だった。
 しかも最初に配備された先の成都が、ヒマラヤ山脈を越えた先にある中国奥地。もはや神話に出てきそうな場所であり、中国とすら言えないような場所に、強引に出来たばかりの150機を集めたものだから、トラブルが起きない方が不思議なぐらいだった。
 だが、アメリカの誇る物量と、選び抜かれた搭乗員、整備員達は任務を遂行した。1944年6月15日、サイパン島に米軍が上陸したその日に二度目の日本本土爆撃を実施する。同作戦は「マッターホルン作戦」と呼ばれ、主な目標は航続距離内にある日本西端部と満州、朝鮮、中国大陸、東南アジアだ。特に政治的効果も期待して日本本土爆撃が重視された。
 最初の目標は北九州の八幡製鉄所。日本国内の銑鉄生産の約半分を占める最重要施設の一つだ。しかもこの爆撃は、最初の爆撃つまりドーリットル飛行隊による一過性のものではなく、これから継続的にしかも大規模に行われることを意味していた。
 その後も各地が爆撃され、45年1月までの7ヶ月近くの間に成都から47回の出撃を記録した。その中で11回が日本本土が対象となり、八幡製鉄所、長崎造船所、大村工廠などが重点的に狙われ、日本軍防空隊と熾烈な航空戦を展開した。
 しかし、成都からの爆撃は効率が悪すぎた。
 補給をインド沿岸部からの輸送機に頼るしかなく、拠点自体が何もない場所だからだ。しかも、爆撃の道中の中国大陸各所は日本軍の占領下にあり、発見率は高く迎撃も受けやすかった。
 だが、成都に代わる拠点が実働状態に入った事で大きな変化が訪れる。
 B29達の新たな拠点はマリアナ諸島。成都より日本本土に近く、日本列島主要部から2300〜2500キロほど離れており、日本軍が手を出せない理想的な拠点だった。そしてもう一つ重要なのは、直接港が使えるため兵站に関する負担が計数的以上に下がったことだ。これは、日本本土爆撃を今までの数倍する規模で行える事を意味していた。
 日本側がアスリートと呼んでいたサイパン島南部の平地にあった飛行場は、現地日本軍の全滅から一月ほどたった8月初旬には当面の整備が完了する。その後B29を受け入れるための拡張工事や施設建設が行われ、10月12日、最初のB29がイセリーと改名された飛行場に降り立った。
 イセリー飛行場は、大規模な土木機械を無尽蔵に投入して修理・拡張され、日本軍が作った飛行場とは規模も設備も比較にならないほどのスケールだった。当初だけで、100機単位のB29を約100メートル間隔で設置された円形状の収納区画へ収めることができた。
 しかも飛行場は拡張工事が続けられた。イセリー飛行場から3キロはなれた平地にコブラー飛行場が隣接するように建設され、サイパン島だけで400機以上の機体を収容できるまでに拡張されていく。
 しかも北マリアナ諸島では、他にすぐそばのテニアン島でもサイパン島に遅れて飛行場が建設されつつあった。元アメリカ領で遅れて奪回されたグァム島でも、主に補給や整備を目的とした巨大飛行場が複数建設予定で、最終的に3島で運用できる航空機の数は、B29だけで1000機にまで拡大される予定だった。11月24日の最初の空襲の時でも、250機近い数がすでに送り込まれ、当面は一ヶ月で50〜100機、4月以降は200機単位で増強予定になっていた。
 だが、この巨大な数字は、逆を言えばアメリカ以外はなし得ない生産力に加えて同等の基地と支援設備を揃えなければ、一つの国を焼き払うのに必要な施設が必要だった事を物語っている。
 それだけB29という機体が、複数運用するのが難しいという事だ。これは1945年2月の米軍機の運用を見ていればある程度見えてくる。彼らはこの時点で300機近い機体を主にサイパン島に展開していたが、週2回度程度のペースで出撃するB29の数が150からせいぜい200機程度だった。しかも途中で引き返す機体はいつも5%ほど出ている。つまり兵器としての稼働率は、初期の頃で4割ほど。平均して概ね5〜6割、高くても7割に達しないと言うことだ。これだけの規模の機体の稼働率が7割というのはかなり優秀な数字とも言えるが、この時期のアメリカの兵站に関する努力の多くがマリアナ諸島に注がれていた事からも、数値達成の困難さが分かるだろう。
 なお10月の一番機到着以後、B29の増勢とイセリー基地の整備は進み、11月初旬までには約150機の機体数を数えるまでに増勢した。
 その間近在の日本軍拠点の爆撃で肩慣らしをしたB29の群を指揮下に置く第73爆撃団は、ついに「サン・アントニオ作戦」の始動を決定する。
 だが、このアメリカ陸軍航空軍始まって以来とすら言える壮挙は、根城とするサイパン島自身の天候不順により延期を余儀なくされ、初の日本本土爆撃は11月17日から24日へと変更された。
 そして出鼻を天候で挫かれたように、肝心の爆撃行そのものも日本本土の天候に左右されてしまう。

「知っているか、日本本土上空、特にヤツらの都の上空にはエンペラーの魔法がかけられているんだ」
 直径2メートルほど円筒形の何かの容器のような空間に計器など様々な幾何学部品に囲まれた場所で、一人の男がおどけて見せた。中には6人の男達がそれぞれの持ち場に付く。様々な機材で仕切られた壁面のうち、前方と天井は見晴らしの良いガラス張りだ。
 天井には南方特有の夜空が見えているが、前方の半分は強い光源に照らされた土色の地面が広がり、景色もゆっくり動いている事から、彼らの収まる空間が地上をノロノロと動いている事が分かる。注意深く見ていれば、6人のうち一人の手の動きに合わせているのも分かるだろう。
 彼らが乗っているのはもちろんB29であり、往復15時間以上もの飛行と日本本土に対する爆撃をこなして、根城であるイセリー飛行場のエプロンに入ったばかりだ。もう10分ほどノロノロと進めば、本当のねぐらの駐機場所に時化こむ事ができる。
 いかにB29と言えども、成層圏に駆け上り往復4700キロの行程をこなし、再び地上に舞い降りるのは一大難事だった。
 しかし降りてしまえば、機体を操作する操縦士とエンジンの面倒を見る者以外暇であり、こうして雑談に興じていられた。
「エンペラーの魔法ってなんだよ」
「だから魔法だよ。ヤツらは魔法があるから、防空体制を整える必要すらないんだよ。今日だって、大した迎撃じゃなかっただろ」
「そりゃ、あの風じゃあ単発の迎撃機はもっと酷いことになって、迎撃どころじゃなかったろうよ。けど、損害がゼロって事はないはずだぜ。無線でも、攻撃を受けたと叫んでいるヤツを聞いた」
「確かにそうだな。失言だった。けど、俺には何かしらの力が働いているとしか思えない」
「爆撃地点が10キロもズレた事がか?」
「そうさ、この最新鋭のビッグ・レディは、レーダーの目だって付いているんだぜ。爆撃目標を外すはずないじゃないか」
「まあ、高々度精密爆撃のために開発されたという触れ込みらしいからな。けど、ビッグ・レディはないだろ。俺達の彼女だぜ、もう少しチャーミングに呼べよ」
「しゃあないだろ、機長が名前を付けてくれないんだから。それより、聞いてくれ。魔法かどうかは分からないが、本当に風が変だったんだ」
「風ねえ、単なる強風の可能性は?」
「それは何とも言えない。けど、あれだけの気流がずっと一方向に吹き続けるのは変だ。俺達の精密爆撃を妨害するために吹いているようにすら思えてくる。操縦してたら分かるだろ」
「それでエンペラーの魔法か。まあ、日本にゃゴッド・ウィンドとか言うもんがあるらしいからな」
「なんだそりゃ。神のみぞ知るか?」
「さあ、よく知らん。俺は東洋文学や歴史には疎い。それより、今日は雲も多かった。仕方ないよ」
「仕方ないで済むか。その為のレーダー爆撃だろ」
「じゃあ、風のせいにするのか?」
「オードンネルの旦那はもとより、先導機や中隊長機がナビゲーションを誤ったとも考えにくいし、正確に調査する必要があるだろうな」
「よ〜し、そこまでだ。オマエらが下らん話をしているうちに我が家にご到着だ。それと、調査とやらはF13や、気象観測機の連中に任せようじゃないか。俺達の任務は、目的地に行って爆弾落として、無事ここに帰ってくる事だ。いいな」
 クルーの雑談に、機長が終止符を打った。

「集計はまだですが、編隊長の報告から目的地上空に正確にたどり着けたのは3個中隊ほどです。目標に対する爆撃判定はF13からの報告を待たねばなりませんが、効果は……」
「ほとんど、ゼロか」
 横に立つ参謀長の言葉に、第21爆撃軍司令官ヘイウッド・S・ハンセル准将が、落胆の色を隠せない声色で答えた。
 イセリー基地はナイター設備が整えられ、まるでニューヨーク・マンハッタンの夜景のごとく煌々と照らされていたが、彼の心はその正反対にあると言ってよかった。
 そんな上官の落胆を知ってか知らずか、参謀長は手にする現状の報告を続ける。それが彼の職務だ。損害や戦果は今のところ無視しなければならない。
 ハンセルはそれを聞き流しながらも、初手だからやむを得ないと弱気を封じ込め、祖国の名に恥じる事のない戦争をする信念に従い自らの任務に精励していく。
 彼自身、日本都市の火災に対する脆弱性は判っていたが、それは彼の良心と合衆国軍人としての良識が許さなかった。合衆国は、悪辣なナチや日本の軍国主義者とは違うのだ。
 それに、純技術的に高々度精密爆撃機として開発されたB29の性能限界と戦果、費用対効果についての実数を求めるのも、この時の彼の任務でもあった。
 なお、高々度精密爆撃を前提にした初期の頃のB29による攻撃形態は、日本の航空機産業を主要な爆撃目標とする高々度(7600m〜1万m)昼間精密爆撃であった。
 しかし、気象条件という最大の敵が米軍のフェアな戦争を阻害した。また、様々な障害が爆撃を阻止するべく立ちはだかり、B29とそれを取り巻く人々に多くの労力と犠牲を強いることになる。
 しかもこの頃はレーダー爆撃の精度が低く、天候不順で曇りがちな日本の空の上から、ここだと指揮官が爆弾を投下しても、精密どころか無差別爆撃同然に終わることも少なくなかった。東京を中心にした市街地への無差別爆撃は、概ねこの「精密」レーダー爆撃の結果だ。
 1945年1月27日の東京市街地(有楽町・銀座地区)への昼間無差別爆撃も、天候不順による視界不良で急遽レーダー爆撃に切り替えるも、目標とした中島飛行機武蔵製作所を大きく外れた結果だった。
 そしてB29を悩ました最大の敵こそが、神の領域である成層圏での作戦行動と、日本上空の成層圏を吹き抜ける気流、ジェット気流にあった。
 この強烈な偏西風は、爆撃精度に大きな影響を与え、機体が流されないようにするだけでも一苦労だった。しかも、機体に着氷が発生し視界を遮ることもしばしば起こるなど、成層圏に住む風と氷の妖精や悪魔、もしくは風と王と氷の女王は自分たちの領域に人間が土足で入り込むことを力で拒み続けた。そう言う意味では、八百万の神々が日本列島を守っていると言えなくもない。
 しかも米軍が、高々度での精密爆撃にこだわったことも、爆撃効率の低下をもたらしていた。
 強力な排気タービンを装備したといっても、B29は1機当たり4機の大馬力エンジンを搭載しているので、高々度での出力調整が大きな負担となっていた。しかも精密爆撃をするには編隊を組まねばならず、B29はこれを高々度で実現するための機体ながら、負担は乗数倍である。
 それに高々度に駆け上がるためには大量の燃料が必要で、さらに成層圏の薄い空気で飛行するにはさらなる燃料を消費した。このため、8000ガロン(約3万リットル)の燃料に対して5000ポンド(約2・25トン)の爆弾しか搭載できず、効率の悪さは甚だしかった。しかも機体が流されでもして余分な燃料を浪費したら、目標に到達する前に基地へ引き返したり、日本本土までたどり着いても第一目標以外に投弾せざるを得ない。
 そして日本側にとっての本来の楯である防空隊も、45年1月頃までは強烈かつ積極的な防空戦にあたった。これは、昼間なら成層圏に至れば何とか迎撃できる可能性が日本機に残されていたからだ。
 もちろん、日本軍パイロットにとって成層圏での戦闘は、生命と力量の限界に挑戦するほど苛酷な迎撃戦となった。だが、高々度を飛行することは、B29にとり必ずしも日本側の攻撃を防ぐことにはならなかった。仮に落とされなくても、エンジン被弾などによる一部機能停止のまま復路2000キロ以上を飛ばねばならないのは、B29クルーにとって悪夢に近い。
 だが、アメリカ側にとって幸いだったのは、日本の熟練パイロット達の多くがこれまでの航空消耗戦の中で失われていた事だろう。これは、損害の多くが少数の熟練パイロットによって達成されている点からも間違いない。
 そして前方上空からの一通過での単調な襲撃は、むしろ迎撃側の日本の損害を上積みさせ、防空戦の活動停滞にまで追い込まれていく。だが、体当たりも辞さない彼らの戦法はB29クルーを恐れさせもした。
 そして損害は損害であり、高価な新兵器の損失は決して笑って許せるものではなかった。
 年内でのB29の損害は、帰投途中の墜落が過半数以上とは言え100機以上に及んだことは、無視できない衝撃を爆撃関係者に与えていたのだ。
 加えて、いっこうに改善しない爆撃効率もあって、遂にアメリカ軍上層部を動かす事になる。

「更迭、ですか」
 1945年1月19日、サイパン島内の蒸し暑い執務室で、ハンセルは辞令を受け取った。
 渡したのは後任のカーチス・ルメイ。明日から、正式な辞令ではさらに三日後にここの新たなボスとなる男。欧州戦線で活躍し、成都でも見事な指揮をとった戦略爆撃の泰斗。アーノルド将軍の秘蔵っ子。いまだ30代の若輩で少将に任じられるように、実践的で優秀な軍人。そう、軍人としては非の打ち所がない男だ。
 意志の強そうな厳つい顔立ちで、瞳や仕草も全く外見を裏切っていない。
 ニックネームは鉄のロバ(頑固者)。寡黙で合理的で訓練に厳しいが、部下となった者からの賞賛の声は大きい。つまり、将兵にとって彼は自分の生還率を高める将軍という事だ。
(自分とは正反対かもな)
 誠実で端正な顔に寂しげな影を差したハンセルだが、最後に一つぐらい聞いておきたいことがあった。
「理由を、お聞かせ願えますか。少なくとも精密爆撃は成果を挙げつつあった」
「ハンセル准将、私は詳細について知るべき立場にない。しかし私の見るところ、君の落ち度は二つ、いや一つだ」
 外見を裏切るような意外に柔らかな発音の言葉が、ルメイの口から淡々とこぼれた。ハンセルは「お聞かせ願えますか。それも適わぬ事でしょうか」と問いかけると、鉄面皮な表情のまま続ける。
「准将は、部下に甘く、そして日本の市民に慈悲深すぎた。准将、我々は感情が入り込む余地のない殲滅戦争をしているのだ。君はそれを誤解していた。ただ、それだけだ」
「閣下は、軍人に倫理観は不要だとおっしゃるのですか」
「少なくとも、任務遂行中は不要だ。特に爆撃では、手を上げる相手が見えるわけではない。相手国が手を上げた場合、もしくは我が国が爆撃中止を命令しない限り我々の行うべき事は一つだ。感情の入り込む隙間はない。そもそも、戦争は非道義的なものだ。そこに道義を持ち込む事が矛盾だとは考えないのか」
「しかしそれでは、各種協定の意味が……」
 ハンセルは堪らなくなった。だが、寡黙と言われるルメイは言葉の短剣を次々に投げつけてくる。
「うむ。確かにハーグ陸戦法など、守るべき決まり事もある。だが、部下の命と協定とどちらが重要だ。
 さらに聞くが、君が指揮している間、どれだけのB29が墜落し、何名の貴重な熟練搭乗員の命が失われた。そして犠牲に対して十分な成果を挙げた?」
 もはやハンセルは言葉を放つ事すら出来ない。だが、ルメイは瞳を据えたまま淡々と続ける。
「いいか准将、我々指揮官の務めは部下の命を救うことだ。敵市民を救う事ではない」
 それが鉄のロバのサイパンで最初の嘶きだった。


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