■長編小説「煉獄のサイパン」

●第四章 2

1944年12月7日 サイパン島

 漆黒の闇の中を、いくつもの風が通りすぎる。
 風は人の手によるもので、地面にしか見えない海面を這うように進んでいく。
 時速にして約400キロ。海面僅か30メートルをこの時代の航空機が飛ぶのは無謀でしかない。しかも少しの間ではなく、2時間以上も同じ飛行を強要されるのだから、パイロットの負担は計り知れないものがある。
 しかし編隊は一糸乱れることはなく、大きく二つの群に分かれてひたすら目的地を目指していた。
 しかし二つの編隊には大きな違いがあった。片方は双発機が8機。その後ろをついていくように続く小さな群は、単発機が3機だけ。
 尾翼の識別標識が見えたのなら、双発機が陸軍の飛行110戦隊、単発機が海軍の横須賀海軍航空隊と分かっただろう。
 機体は双発機が四式重爆『飛龍』、単発機の方が零式艦上戦闘機、いわゆる零戦だ。
 飛龍は爆弾槽を持つため搭載物は分からないが、零戦の方は機体真下に増槽を付け、両翼の下に筒状のものを幾つか吊しているのが見える。また作戦は、熟練者が見せる飛行で分かるように必死ではあるが決死ではなく、既に始まっている「特攻」でもない。
 そして3機で見事な編隊を組む零戦は、海面を這うように進んでいるにも関わらず操縦には余裕が感じられる。見る人間が見れば、歴戦のパイロットが操っていると分かっただろう。少なくとも、単発機が海上30メートルを二時間も平然と飛んでいるだけでも偉業に近いのだ。
(あと、20分てとこか。……アレだな)
 零戦編隊を率いているのは、犬神広志中尉。海兵68期の飛行将校で横須賀海軍航空隊、いわゆる横空に属する腕利きのパイロットだ。能力からすると彼の昇進は遅いが、彼自身の素質と素行不良が原因と言われている。あだ名は「孤狼」。戦闘の突っかかりの激しさと、単機空戦を得意としているのが由来だが、それでは昇進が遅れるのも無理なかろう。
 彼は日支事変が激しくなった頃に少尉任官し、開戦からはフィリピンを皮切りに、ラバウルを基点に戦ってきた典型的な海軍航空兵の戦歴を持っている基地航空隊畑の人間だ。零戦の扱いは、もはや自分の身体以上と言える。時速500キロ以上で飛びながら、10センチの誤差すらない飛行ができると言われていた。敵機の尾翼を主翼で叩きバランスを崩す撃墜方法を何度か実行しているのだから、評判はある程度確かだ。
 それが地獄になりつつあったニューギニアから、技量を惜しんで内地に引き上げさせられ横空への転勤となった。ただ、その後横空最大の激戦地となった硫黄島では、島特有の硫黄に身体がやられ早々に輸送機で本土帰還を余儀なくされ、一度は本拠地の横須賀に下げられてしまった。
 今回出撃した他の機体に乗る二人も犬神と似たような境遇の者で、海軍最強を表看板にする横空の面子を立てる作戦に「志願」させられた格好だ。
 陸軍がサイパンに決死の攻撃隊を出すのに、海軍が出さないわけにはいかない。しかも、出撃拠点である硫黄島に陣取る天下の横空が出さないとあっては海軍の名折れである、と。
 もっとも当時の横空の指揮官三浦鑑三大佐は、硫黄島に固めている部下を使うことには躊躇し、員数外の機体で復帰訓練をしていた3人を機体ごと急ぎ呼び寄せ、陸軍の作戦に便乗する形で作戦に参加させていた。
 逆を言えば、本来の拠点である横須賀に機体がなければ、今回の作戦参加は無かったと言える。
 死地に飛び込まされる搭乗員にはたまらないかもしれないが、少なくとも編隊長となった犬神中尉は悲観していなかった。
(何だよアメ公め、あんなに灯りをつけやがって。こっちを舐めきっていやがるな)
 どことなくべらんめえ口調な彼の眼前には、本来あり得ない地上の光源が明々と出現し、サイパン島の多くを照らし出しているのが見えてきた。地上30メートルで目視出来たと言うことは、向こうの電探にも捉えられたと言うことだ。水平線を超えねば島を目視することは視力がいくらあろうと不可能だ。
「こちら編隊長、これより高度15メートルにまで降下。突撃進路に移る」
 陸軍の飛行110戦隊を率いる戦隊長の草刈少佐からの無線連絡が入った。零戦ながら受信感度は良好だ。
 そして戦隊長からの無線連絡そのものが無線封鎖の解除を現しており、奇襲を前提とした攻撃が最終段階に入りつつあることを伝えていた。
 犬神が無線機を取った。
「こちら横空、犬神中尉。これより当編隊は作戦に従い飛行場南側に迂回。アスリート飛行場上空に侵空する。……悪いがそのまま帰らせてもらうぜ」
「了解。武運を祈る」
 犬神の規律を無視した言葉を咎めるでもなく、短く応えた草刈少佐率いる飛龍の編隊はそのまま加速。東側からアスリート飛行場に突入する予定だ。
 時間はまもなく午前3時。
 サイパン島南部に鎮座するアスリート飛行場は、真夜中にあって煌々とした灯りがともされ、まるで噂にしか聞いたことのないアメリカの摩天楼が忽然と出現したかのような傲慢な雰囲気を放っている。目のいい戦闘機パイロットなら、10キロ手前でも滑走路脇に沢山の大型機が並んでいるのを確認できるほどだ。
「こちら編隊長犬神、突入進路を変更、南東側に迂回。アスリート飛行場の滑走路を縦に横切る進路を取る」
 続く二人は、了解を告げる旨だけを伝える。無線の感度は良好らしく、声色までが伝わってくるようだ。
(ドイツ製も善し悪しだな)
 たった一人の窮屈なコックピットで小さく苦笑いした犬神だが、彼が思った通り彼ら3人の乗る機体は、通常の零戦とは少し違うものだった。
 伊29潜が持ち帰った様々な装備を最も一般的な零戦22型に施し、様々な試験を行うため改装された特別製の機体だからだ。
 機体は主に機銃、無線機、そして翼下のパイロンが変更されていた。機体そのものも若干強化されており、プラグの交換などもあり最高速度は52型より速いぐらいだ。
 機銃も苦労して搭載されたドイツ製のマウザーの20ミリ。陸軍の三式戦闘機に搭載されている他は、今のところ彼らの乗る零戦だけだに装備されている。エンジンプラグもメイド・イン・ドイツだ。
 無線機は、ドイツから持ち帰った設計図を元に作成したもの。日本で作っただけに精度に不安はあったが、徴兵を免れる年齢の熟練工が職人芸で作り上げた逸品なので、従来のものより格段に優れているのは間違いない。
 そして翼下には、レール状の仕掛けに筒状のものがぶら下げられている。ロケット・ランチャーだ。ただし、ロケットランチャーは当初片翼につき4基設置予定だったが、積載量、機体強度の関係で3基しか設置できていない。火力は軽巡洋艦並という売り文句より少しばかり劣るが、エンジン出力の小さい零戦としては破格の破壊力だ。少なくとも、従来の戦爆型が25番(250kg爆弾)を搭載するより総合的な効果は大きい。その上で、従来通り増槽を搭載して1000キロ彼方に攻撃に来られるのだから、文句を言う方がおかしい。
「いいか、陸地までは高度10メートルで進む。陸に入れば30だ。高度計にだけ気を付けろ。余計なことは考えるな。俺の後をそのまま付いてこい」
 部下の了解の合図から数瞬を置いてから、犬神は追加の命令を、なるべく伝わりやすく口にする。
 またも固い返事が返ってくる。先ほどとは性質が違い、生還の難しさがもたらした緊張が感じられる。
(ガチガチだせ……失敗だったかなあ)
 部下の声を聞いてウンザリした犬神は、言葉を続けることにした。
「いいかオマエら、撃つタイミングは俺に合わせろ。ただし、編隊行動はそこまでだ」
 ここまで喋った時点で一人が「エッ」と漏らすが、構わず続ける。
「前やった陸軍の連中から聞いたが、対空砲火が激しい。誰かが落とされる事も考えられる。ケツ捲って逃げろ。後は一応陸助と合流を目指すが、こっちは燃料が気がかりだ。無理して他を待たなくてもいいぞ。何、明るくなれば、マリアナ諸島の小島づたいで帰れるさ」
 つとめて明るい声で命令とも言えない命令を伝えるが、あまり効果があったと言えそうにもない。
「どの程度の対空砲火なんでしょう」
 部下の一人が話しかけてきた。
「さあな。空が白くなるほど曳光弾が打ち上げられたそうだ。まあ、両国の花火よりスゴイんじゃないか」
「そんなところにどうやって」
「だから、滑走路脇の誘導路の上に突っ込むんだよ。滑走路の上なら連中も無茶な弾幕はできまい。自分らの撒いた破片で無茶苦茶になるからな。それに見て見ろ、おあつらえ向きに行儀良く並んでる。出撃直前なんだ。当たれば派手に燃えるぞ。
 ただ連中も見越して弾幕を張る。だから、横合いから入って一気に滑走路に出て誘導路に全部ぶちまける。それだけだ」
「それだけ、ですか」
「そうだ。対空砲火は気にするな。当たったら運が悪いと思うしかない。だから、ぶちまけて逃げる事以外考えるな、いいな」
「「了解」」
 犬神の最後の言葉に二人が応える。そしえ一呼吸おいて犬神は短く命じた。
「いくぞ」
 声と共に操縦桿をほんの少し上下方向に傾けると、機体は海面スレスレにまで降下する。
 眼下は真っ黒な海面が見えるはずだが、闇の最も深い時間ではどこが海で空なのか区別も付かない。
 あとは、少しでも動かせばプロペラが海面を叩いてそのまま墜落するだけだが、犬神の機体は小ゆるぎもせず這うように高速飛行を続け、部下も追随する。
 飛龍の本隊から離脱後は、直進した本隊から大きく離れサイパン島南東部のナフタン山を迂回して、突入進路に入る。時間差による異方向攻撃により戦火拡大を狙ったものだが、犬神たち零戦隊の方が危険度はより大きい。
 犬神達が迂回している間にも、早くも島の東部では反対方向に飛来していく流星雨が見える。
 遠方なのと機体自身の爆音のおかげで音までは伝わってこないが、すでに激しい戦闘が開始されちているのは一目瞭然だ。それまで無かったサーチライトの照射も始まり、成層圏まで照らし出す強烈な閃光が、襲来した日本機を捉えようと空に屹立した蛇のよううごめく。
 そして犬神達が自分たちの突入進路に入る頃、アスリート飛行場上空は宴もたけなわとなっていた。
 無数の高射砲がまさに花火大会のごとくはじけ、そして地上での爆発が色を添える。
 発進直前を襲われたため運悪く誘爆したB29もあるのか、地上では種類の異なる爆発も見えた。そして、犬神の視界には突然もんどり打って落ちる飛龍が飛び込むと、彼の身体をアドレナリンが一気に駆け抜け、自然と獣のような叫びとなってコックピットを満たす。
 犬神の叫びに呼応するように、陸地直前まで迫った零戦を見つけた米軍の対空砲火も開かれ、無数の曳光弾と少し遅れた爆発が広がる。
 米軍の高射砲は、爆撃機に速度調停した時限信管を使用していたので、戦闘機の機動に追いつけていないのだ。
 まだ自分に運が残っているとニヒルな笑みを浮かべた犬神は、スロットルをさらにふかして突進を続ける。
 そして、攻撃のためほんの少し高度を上げた犬神の眼前一杯に、アスリート飛行場が目に飛び込んでくる。
 それは、何度か中継の時に寄ったアスリート飛行場とは似ても似つかない巨大基地だった。
 飛行場を完全にカバーするナイター設備により昼間のごとく照らし出された飛行場は、憎らしさすら忘れるほど近代的で、どこか浮世離れした幻想的なものだった。
 犬神の知っているものより二周り大きな滑走路は2本に増え、その周りを幾何学的な誘導路がめぐらされ、さらにその先には円形の駐機スペースが無数にちりばめられている。駐機スペースのさらに外側には、かまぼこ状の建物が規則正しく並んでいる。他にも白や黒の太い道がそこかしこに走っている。
 周辺には無数の対空砲座があるが、今犬神達に激しく打ち上げられているのは、先ほどまでの「M3」3・5インチ(90ミリ)重高射砲ではなく、マリアナ沖でも犬神の同輩達を落としまくった「ボフォースM2」40ミリ機関砲だ。
(けどな、当たらなければ、どうってこと無いんだよ)
 次の瞬間には誘導路に至る中、内心の悪態で自身の士気を維持した犬神は、素早く目標を定める。事実上一回限りの攻撃。失敗は許されない。
(よし、抜けた!)
 弾幕の加減から飛行場の真上に来た事を悟った犬神は、一瞬で状況を読みとり誘導路上に編隊を滑り込ませる。あれ程激しかったボフォースM2も、真下に燃料と弾薬を満載したB29が無数にいるため、理性的な指揮官のいる砲台は沈黙を余儀なくされている。
「てっ!」
 言葉と共にロケット砲に繋がる撃鉄を押した犬神は、さらにマウザーを全力で地上に浴びせかける。
 ロケット砲は、狙い澄ましたように先頭のB29以下数機に吸い込まれて爆発。誘爆で大火災を発生させる。また、糸のように撃ち出された20ミリ機銃弾は、交差した数機のB29を切り裂くと1秒ほどで尽きてしまう。
 軽くなった機体を苦もなく機動させた犬神は、飛龍が突っ込んだ空を逆走しての逃走ルートを選択する。そのルートが一番陸地と海の間が短く、急な射撃を余儀なくされた各砲座の照準が甘くなっているからだ。
 しかし現実は甘くなかった。開きっぱなしの無線機から、誰かの断末魔が響く。無線機の唐突な途切れ方からコックピットへの直撃と分かる。周りがあまりに騒がしいので墜落や爆発を確認する事は出来なかったが、零戦のブリキ以下の外板では破片を食らったらどうなるかは分かり切っている。
 犬神の全周囲にも光と爆発が満ちあふれ、いつ死神や疫病神が愛想良くやって来ても不思議ではない。
「悪いな、俺は運不運どっちにしろ神様には縁遠いんだ」
 光と爆発の中でうそぶいた犬神は、唐突に地面の光が消えたことに気が付くと、機体を左旋回で滑らせながら、対空射撃を避けるべく低空飛行を続けた。
 チラリと見たバックミラーには、爆発で混乱するアスリート基地と共にもう1機の部下が付いてくるのが映った。そして逸れることのない光の塊も。

 滑るような機動で弾幕を無視し基地上空を通過していった零戦のうち1機が、不意に高度を上げて上昇に転じた。
 基地に犇めく様々な青い目から見れば、分散して逃げようとするように映ったが、そうではなかった。上昇に転じた機体の翼に不意に火がついたのだ。
 炎はすぐにも片翼の多くに広がり、青い目の人々を安堵させる。しかし安堵は一瞬の事で、機体が動きを失うことなく自分たちに向かってきたと分かると、安堵から一転パニックとすら言える防空戦の再開となった。
 ジークと彼らが呼ぶ機体は、今まさに彼らが振りまいた災厄に最後の仕上げを付け加えるべく突進してきた。これがフィリピンから来た連中が言っていた、ジャップの新戦術、自殺攻撃なのだ。
 恐怖心は必要以上の混乱と射撃を呼び込み、文字通り破片になるまで破壊されたジークは、時間差攻撃により爆発炎上を続けるイセリー基地にそれ以上災厄を振りまく事はなかった。青い目の人々は安堵し、多くの人々が滑走路上で火災と誘爆に立ち向かっている人々の支援に回った。
 また、高射砲、高射機関砲を打ち上げた青い目の男達は、そのまま上空と海の彼方の監視を熱心に行い、二度と先ほどのような失態がないよう、自らの任務に精励した。
 おかげで、機体が反転したすぐ後に落ちた小さな塊に気付くことはなく、それがかなり低空で花開いた事にも気付かなかった。
 



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