■長編小説「煉獄のサイパン」
●第四章 3
1944年12月7日 サイパン島
(ツッ! ……生きてるのか?) 犬神広志中尉は、痛みを感じて意識が覚醒するのを感じた。痛いという事は、さっそく地獄の拷問を受けているのでない限り生きている証拠だ。経験則として彼は学んでいた。日本人搭乗員にしては珍しく、彼は落ちてなお生還した経験を持っている。 周囲はまだ暗がりで状況は掴めないが、取りあえず落下傘が大きな木に引っかかって自身が宙づり状態な事だけは分かった。 そして、まだぼやける頭で自身の記憶と行動を思い出しながら、状況把握に努めようとした。 島を抜けた所で右翼に破片が当たり、まだ満タン入っていた燃料が派手に噴出。少しでも生存の可能性を高めようとサイパン島に反転、不時着しようとしたが間もなく噴出口から引火。そこで緊急脱出をはかるべく、落下傘降下のための最低高度まで上昇。 (風防を開いて、すぐにも落下傘の紐を引っ張って……うまくいったというワケか) 運不運には縁遠いが、相変わらず悪運には見放されていないらしいと再確認できた。最悪の状況でも、取りあえず命だけはある。ソロモンでもニューギニアでもそうだったように。 で、肝心要の俺様の身体だが……。 (取りあえず、生きている) (意識は、まあハッキリしている) (身体の節々が痛む) (右腕を折ったか強く打ったらしい) (出血はほとんどなし) (よし、何とか動ける!) 取りあえず足をぶらぶらさせて大丈夫な事を確認してから、右腕を庇いつつ落下傘のハーネスを外して自由になる作業を開始する。 とにかく早く動き出さなくてはならない。 真っ白の落下傘などの側にいたら、ジャングルの中だろうともいずれ見つかってしまう。 幸いにして、徐々に夜目に馴れてくると、取りあえず飛び降りても平気そうな高度なのも分かった。いや、高度などと専門用語を使うほどではない。足先から地面まで1メートルほどだ。かなり豪勢に木に引っかかってもみくちゃにされたらしく、パラシュートはボロボロだが、任務は全うしてくれた。 (こりゃ、敬礼の一つもしてやらねえとな) なるべく慎重に全ての拘束を外して、静かに地面に降り立つ。 「!」 慎重に降りたつもりだったが、降りたときの衝撃で右腕上腕部が痛んだ。打撲以上だ。 (取りあえず腕が動くって事は、骨が派手に折れてはいない。ポッキリいったか、ヒビぐらいで済んだかのどっちかだろう。 スカーフで即席の吊り輪を作りながら、自身の残りの荷物を確認する。武器なし。飛行服以外の装備なし。使えそうな装備は、航空時計と自決用にと渡されたやたらと鋭い短剣ぐらい。 (頼みの綱は、風呂敷の中身だけか) 左手で、紐を腰に巻き付けて装備した規定外のものなでて確認する。小さな防水袋の中には、サイダーと飛行弁当、それに発煙筒が一つある。紐をきつく結んであったので、落下時にも落ちていなかった。飛行弁当は、おいなりさんとキャラメルが2つ。帰りに食べようと考えていたので、全て残っている。 続いて位置の確認。とは言え、サイパン島南部の密林の中、という以上の情報はほとんどない。後分かるのは緩やかな勾配の斜面だという事。開けた場所に出なければいけないが、襲撃時に見た情景を思えば、平地は全て米軍によって切り開かれていると考えるより他ない。 (取りあえず、水が欲しいな) 最後に人として正しい事を考えた犬神だが、まずは明るくなるまでに今の場所を離れなくてはいけない。しかも、尾根や谷のような目立つ場所にも行けないので、いきおい土地勘のない彼の歩ける場所は限られてしまう。しかも、右腕を負傷しているので不便な事この上ない。 (前落ちた時は、基地上空の迎撃戦だったしなあ) そう考えるも、悲観はしていなかった。これだけの島の全てに米軍が溢れているわけではない。潜伏できる可能性は残されている。絶対生き抜いてやる。 そう考えながら、概算で2、300メートル進んだ場所の小さな窪みでしばし休息を取る事にした。それだけ移動しただけなのに、ひどく時間がかかりまた疲労した。汗も単に熱いだけでなく脂汗の方が多いと分かる。 窪みにへたり込むように腰を付くと後は何もする気が起きず、飛行と負傷による疲れもあって、キャラメル一つを頬張ると意識が遠のくように眠りに落ちた。
その日の夜明け前、いつもと違う喧噪に目が覚めた。洞窟の外のジャングルから漏れる飛行場からの光はいつも通りだが、騒音が桁違いだ。 11月半ば以降、夜中と思えないような爆音が轟く日があり、ようやくそれにも馴れたと思ったが、今日のは二週間に一度か二度ある別の爆音だ。 「空襲、でしょうか?」 「そうね。間違いないと思うわ」 暗がりの中、二人の女性の声が小さく空気を振るわせる。片方は細く柔らかな声。もう片方は落ち着きと心の強さを感じさせる。注意深く聞けば、他にも小さな息づかいも聞こえてくるが、言葉まで発する者はいない。 それに轟音と爆音がドロドロと響いてくるのに、小さすぎる息や声では周囲の空気を振動させて誰かの耳に届くことはない。そしてこうした日に不用意に声を挙げる者はもういなくなっている。目を凝らせば、人の目がいくつも視線を一箇所に集中させているのが分かるが、どれも混乱してはいなかった。 「先生、少し様子を見てくるけど、みんなは待っていられるわね」 周囲を見渡し、混乱がないことを確認した山科法子は、一人一人に目を合わせていく。一人は自らの胸元から見上げており、その子に微笑みと共に頷いてから声を発した。 周囲の瞳は闇の中頷くなり、それぞれの行動で肯定を示す。一人を除いて。 「一緒に行かなくていいですか?」 鳶色の知的な瞳が訴えかける。普段から法子は、一人の目から入る情報には偏りが出ると感じており、米兵が山に入りそうな危険の時を除いて、可能な限り星埜奈央子と二人で出るようにしている。奈央子が無理な時は、子どもの中で一番年長な今年11才になる女子生徒の洋子を連れていた。 (どうしようかしら) 法子が考えたのは一瞬で、すぐに首肯する。 「そうね。一緒に行きましょう。みんなも、奈央子お姉ちゃんがいなくても大丈夫ね」 子ども達が再び肯定を示す。特に怖がるなど負の変化を示す子どもはいない。既に日常と化しているし、極端な危険がここ数ヶ月なかったおかげだ。 法子も膝に抱えた形の子ども、初等科一年の祥子をゆっくりと身体から離すと手早く準備を調え、奈央子と共に見張り櫓に出発すべく「秘密基地」の窪みを登って茂みへと消えていく。 なお法子達は、可能な限り同じ道を通る事は避けて進むようにしており、今日は4番と呼んでいる道を進む。同じ道ばかり使って獣道のようなものを作らないための用心だ。何しろ見張り櫓までは、直線でも100メートル近くある。 もちろん道中は苦労するが、数ヶ月もジャングルで生活していると、凸凹の地面も木々が生い茂ったジャングルも身体が馴れていた。自然以外の脅威も、小さな島なので大型肉食獣もなく、せいぜい毒蜘蛛や百足、毒のない蛇に注意するぐらいだ。もちろん米兵を一番注意すべきだが、米兵が夜山のジャングルに入ることは、山狩りでもない限りあり得ない。そして、米軍の主要基地が近く、半年近く前の攻防戦で早々に人口密集地と切り離されたナフタン山麓に、山狩りで米兵が入ることは滅多にない。せいぜい、山頂にある形ばかりの監視哨に昼間少数の兵が登るぐらいだ。米軍は、山中に日本人が潜んでいるなど考えもしていない。 また山の周囲には、アスファルトやコンクリート、珊瑚を砕いて敷き詰めた広く丈夫な道が整備されていて、爆撃を行う前日に弾薬庫から行き交う車両が往来する事もあるが、彼ら自身の出す喧噪の大きさから、山からの小さな音が聞こえることもない。 要するに今のナフタン山は、戦争から忘れ去られた場所と言えるだろう。 しかし、法子は油断する事はなかった。また、水、食料が続く限り山から出るつもりはなく、万が一の事を考えて山の中でも米兵に見つかる要素は減らしていた。ほぼ日課となっている隠れ家の「秘密基地」から見張り櫓までの往来が一番の遠出だ。それですら昼間は決して行わず、「秘密基地」の周りを動く事も昼間は極力控えていた。子ども達を含めて周りで何かをする事があっても、日の出までの早朝か日の入り前の夕方だけとしている。 今日のように飛行場で大きな動きがあった場合は例外に近いが、油断無く進んで素早く見張り櫓の茂みへと潜り込む。 「やっぱり日本軍の空襲でしたね」 「そうね、けど今日のは今までで一番規模が大きいわ」 「米軍の爆撃機が丁度出発前だったんですね。何か見えますか」 「よく燃えている飛行機が10ばかり。もの凄い勢いだわ。他にも、急いで滑走路の外に運び出しているのが同じぐらいあるわね。形が欠けているのもあるわ。他も、整列しているのが順番に滑走路から離れていくわね。あと、赤十字の車らしいものがいくつも見えるから、けが人も大勢出ているみたいよ」 双眼鏡で油断無く眺めながら法子が詳細を次々に口にしつつ記憶に刻み込む。なお双眼鏡も布で多くが覆われていて、レンズですら上三分の一ほどが隠されている。その上茂みを手で避けてなお、草の奥の側からしか双眼鏡では覗かない。レンズに反射した光で相手に見つかることを注意しての行動だ。 これは、最初の頃は無警戒に覗いてものだが、途中から気が付き色々考え抜いた結果だった。覗いているつもりが、覗かれている可能性もあるのだ。 法子は一通り覗き終わると、今度は奈央子に双眼鏡を渡す。 奈央子が双眼鏡から注意深くアスリート飛行場の方向を見ると、そこは光で満ちあふれ昼間のようだった。もう馴れたつもりだが、自分たちとのあまりの落差に馴れることはなかなか難しい。しかも肉眼でも輝くばかりに照明された場所を、海軍用と法子が言う集光率の高い双眼鏡で覗くと、瞳の中を満たす光がまさに溢れんばかりだ。 双眼鏡に映し出される二つの円形を横並びにした世界では、まるで夢を見ているかのようにすら思えてくるほど白く無垢だ。そしてその白い無垢な中を、幾何学的な地面の線に従い、無数の白銀色の十字架がゆったりと動いている。いっそ幻想的とすら言える光景だ。 だがそこは竜宮城でも桃源郷でも、ましてや極楽浄土でもなかった。 その証拠に、十字架の周りには黒い小さな従者達が大きな身振り手振りでうごめいているのが見える。この3年ほど、敵としてのみ教えられた米兵たちだ。さらには車や貨物車が、周囲で一番早い動きを見せている。眼前の世界は、空想ではないのだ。 しかも眼前の世界は、日本列島を破壊するために作られた設備であり、十字架状の飛行機は近くの島を、そして日本列島を攻撃している。 まだ子どもの奈央子には想像することすら難しい事ばかりだが、現実の光景として飛び込んでくるものを見ていると、否応もなく納得させられてしまう。また、奈央子にとっての今や姉代わりと言える法子は、軍の事に関して無知ではないらしく、色々と教えてくれた。言葉こそ自分同様素人言葉が多いが、それもあえて使っている感じがしている。 今奈央子が手に持つ双眼鏡の事を考えれば、親族に軍関係者がいると考えるべきだった。 もっとも奈央子は、無知でいるより知識、身に付く知識を持つ事を望んでおり、現状において最良の師こそが法子でもあった。男の教師や軍人なら、自分に今ほどの知識や役に立つ事を与えてはくれない。 そんな事をぼんやりと考えながら双眼鏡を覗いていると、隣りの法子に緊張が走るのが見えた。 間を置かず肩が叩かれる。 「奈央子、偵察はここまでよ」 「米兵ですか?」 「ええ、けどこっちじゃないみたい。別の場所に煙りらしいのが見えるから、そっちを調べに行くみたいよ。小型の自動車らしいのが何台も暗がりを動いているわ。あの辺りは普段行かない筈よ」 法子が指し示した方向を見ると、前方ライトを遠慮解釈無く照らした小型自動車、法子達は知らないが所謂ジープが何台もうごめいているのが分かる。 「空襲に来た日本軍機が落ちたんでしょうか」 「多分、ね。だから念のため明日と明後日はあまり動かないようにしましょう。それにもうすぐ夜明けよ」 「はい」奈央子のハッキリした声に、法子はニコリを微笑んでから顔を引き締め、来た道を戻り始めた。
帰路は往路と同じだが、その日は少し違っていた。 「奈央子、あれ何だと思う」 法子の指さした先に視線を向ける。すぐには分からなかったが、何か白いものがかなり先に見えた。 「何でしょう。あんな高い位置に花を付ける草木があったんでしょうか」 「私の知る限りはないわ。それに、一週間前あの辺りに行ったけど、花も木の実もなかったわ。もちろん人間のいた痕跡も」 法子の最後の言葉に、奈央子がドキリとする。 「米軍、でしょうか」 「分からないわ。けど、この位置から見えるということは「秘密基地」からも同じぐらいよ。何があるかだけ、遠目で確かめておくわ。奈央子は先に戻っていて、いいわね」 法子は最後に強く視線を送る。奈央子も、なるべくしっかりと頷くと、互いに慎重に歩みを進めた。法子は、最悪の時は奈央子が子ども達を守るようにと、無言のまま言っていたからだ。
法子が白いものまで近づくと、朝の白みが進むと共に正体が明らかになった。落下傘だ。法子もガラパン市内にあった映画館のニュース映画で開いた姿を見ただけだが、白く大きな布に放射状と円形の縫い後があるので合点がいった。 空襲に来た日本軍機のパイロットが、撃墜されたとき脱出に使ったものだ。 ならば、と周囲を巡らすが、人間の気配も姿もない。 仕方がないので落下傘の間近まで近寄るも、全く何も発見できなかった。ついには、真下まで来たが見つけたのは、もぬけの殻となった落下傘だけ。 (傘だけが開いて落ちたのかしら) 素人なのでそんな事を思ったが、下の方でたれていたベルトが人為的に切断されているらしい点を見つけ、無人でなかったのだと考えるようにした。 だが周囲に人影はなく、ジャングルの深い辺りなので当面は米軍が見つける心配もなさそうだった。加えて、これからは不意の訪問者となった日本軍パイロットにも注意しなくてはいけない。 「それにしても、厄介な物が近くに落ちたものね。何とか米軍に見つかるまでに処分しないと」 法子は、少しばかり自身を鼓舞する言葉を残すとその場を後にした。
犬神が気が付くと、木々の間から派手に木漏れ日が落ちているのが分かった。目が覚めたのも瞳を直に南国の太陽が焼いていたからだ。 (つっ、夢じゃなかったか) しばらくボーっとしていたが、これからの事を少しばかり考えた。 「が、まずは腹ごしらえだな」 言葉にするとすぐに、地面近くに置いていた革の袋をまさぐる。そして取り出した物を見つめる数十秒を過ごすことになる。 「食うべきか、食わざるべきか、それが問題だ。……って、何の言葉だっけ?」 暢気を装う犬神だが、事態は今の彼にとって深刻だった。余程疲労していたらしく、寝ている間に地上に降りて半日近く経過したため、硫黄島の主計課が丹誠込めたおいなりさんは、南洋の陽気に当てられ酢飯とは違う臭いを少しばかり発散させていたからだ。 幸い、残りのキャラメルは無事だが、今は腹を下す危険を恐れずおいなりさんを食べるか、ここで棄ててしまうかが問題だった。 だが、決断は早かった。万が一腹を下したら、たちどころに脱水症状だ。疲労も激しいだろうし、最悪、赤痢の危険もある。そして手元には一滴の水もない。 「で、あるのはキャラメル一つか。我が心と同じく心細い限りだぜ」 うそぶいた犬神は、キャラメルをなるべく涼しくなるようにしまうと、これからの行動方針を考えた。 (さて、命は助かったが、これからどうする。アメ公に降るのは主義じゃないが、自決もガラじゃない。いや、死して虜人の何とやらか。……よし、決めた!) 数分間座り込んで考えると、やおら立ち上がる。だが、立ち上がるときフラつき、しかもバランスを崩しそうになった。 (腕の怪我のせいか? それとも疲れ、いや怪我からきた熱だな) 素早く自身の体調を読んだ犬神だが、今決めた行動を変えるつもりはなかった。 座っていても、一週間ほどで骨と皮だけのミイラになるだけで、それこそ犬神の主義ではない。それならば、山の中に残っているかもしれない日本軍陣地跡を探して物色、それでも何もない時は米軍の倉庫から食い物、できれば医薬品を分捕ることにした。 そして数時間、脂汗をかきながら歩き回るが、まるで方向感覚がない。何も知らないから、迷ったかどうかすら分からない。時折木々の間から見える太陽だけを頼りに足を進めると、不意に眼前の景色が開けた。 見るとすぐ前の森は木々や下草が伐採されており、十メートルほど先には砕いた珊瑚を敷き詰めた道が見えた。そしてその向こうには、幾何学的な人工の空間が視界一杯に広がる。 (こ、こいつがアスリート飛行場だと!) 日本人的感覚なら、驚嘆する以外ない光景が視界いっぱいに広がっていた。本来ならすぐにも身を隠さなくてはならないのだが、瞬間身の危険を忘れさせる光景だった。空から見た時は、驚きよりも真夜中煌々と灯りをつける米軍への怒りの方が大きかったのだが、武器もなく視点を地上へと落とされてしまうと、驚嘆や圧倒などという単語では不足する衝撃として犬神の身体を貫いた。 気が付くと、犬神はその場でヘタリ込んでおり、周囲の雑草にほとんど隠れていた。 周りは一見平和で、このまま座って緩やかな風に吹かれていると、何もかもがどうでもよくなってきそうにすらなってくる。 (初っぱなから、米軍に見つかって撃ち殺されたり、とっ捕まる法はないぜ) 気を強く持ち直した犬神は、来た道を低姿勢で取って返して密林の中にもどったが、問題は何も解決していなかった。 歩いた限り今いる山は小さく、周囲には米軍が建設した道路や施設が巡らされているのが分かる。短長が1キロ、長長が2〜3キロ、それが今いる山、恐らくナフタン山で犬神が自由に動け、そして日本軍の陣地跡が有るかも知れない空間だ。 狭いと言えば狭いが、一人で探すには広すぎる。取りあえず、谷間を探して水源でも見つけるより他ないのが、密林に戻ったときの犬神の結論だった。 そして新たに歩みを始めたのだが、1時間も歩くとさっぱり足が思うように動かなくなっていた。そんな事を1時間置きぐらいに繰り返したが、全く成果はなかった。陽が傾き始めたので上半身裸に脱いでいた飛行服を着直し、今少し休憩してもう一踏ん張りと考えたのだが、休息したらそのまま眠りに落ちた。そして犬神が再び気付いたらまた東側に太陽が来ていた。 (また半日寝てたのかよ) 状況を確認するが、体調の悪化は明らかだ。右腕の痛みは相変わらずだが、体力の低下が激しい。飛行服でなければ、夜中体温を奪われてもっと酷い事になっていただろう。 とにかく動けそうなと思ったので、取って置いたキャラメルを口にした。だが、吐き気すらして、むしろ気分が悪くなるほど。 それでも気を強く持って立ち上がり歩き出したが、ジャングルの中の全てのものが彼の歩みを邪魔した。歩けているのはもはや気力だけと言ってよく、そして気力だけで歩いていたのが仇になった。 次の一歩を踏み出したとたん足を滑らせ、何かに捕まろうとするも自由になるはずの右腕は拘束されており、そのまま転倒、いや転落していった。 彼は、自らが谷間を目指して歩き、そのため斜面に面していたのすら忘れていたのだ。
日本軍の空襲の翌日、自分達のカレンダーを信じるなら12月8日。結局前日は何事もなく、日本軍の空襲以来飛行場から爆撃機が多数飛び立つこともなく、むしろ普段より平穏な夜を過ごすことができた。 法子達は、空襲の当日こそ「秘密基地」の中で大人しくしていたが、翌日はある事を行うために、少しばかり行動する事に決めていた。 「先生、どこ行くの?」 法子が、荒縄、山刀を準備しているのを見て、子どもの一人が準備をのぞき込んでいた。 「昨日の空襲で、近くに落下傘だけが落ちたの。木に引っかかっているんだけど、米軍がそれを見つける前に落としておくのよ」 「落下傘?」 「ええ、白くて大きな絹の布で出来たもので、空から人や物が降りる時に使うものよ」 「あ、知ってる。空の神兵だ。じゃあ、兵隊さんが来たの!」 法子は目を輝かせる子どもに、ゆっくりと首を横に振る。中途半端な楽観論を子どもに抱かせていけないのは、この潜伏生活中にイヤという程思い知らされている。 「昨日見たときは、誰もいなかったわ。だからそれも調べにいくの。お土産に落下傘を少し持って帰ってくるから、お留守番お願いね」 そう言葉を残した法子は、今日は単身落下傘の場所に向かった。既に米軍が見つけている可能性があるので、まずは周囲に危険がないかどうか調べるためだ。 10分ほど進んだ先に落下傘が見えたが、周囲に人の気配はない。僅かに光が漏れるだけの深いジャングルは、木に引っかかった落下傘を包み隠していた。 それでも30分ほど周囲を歩いて調べてから、法子は慎重に落下傘の下に来た。 (周りを含めて昨日と変化はなし、か。さて、どうしたものかしらね) 見上げた木は、身の丈15メートルほどある。その上の方の梢に覆い被さるように落下傘がかかっており、簡単に取れそうはない。落下傘から伸びる丈夫な紐をいくつか引っ張ってみたが、木々をザワザワと不自然に動かすだけで効果なし。 「これは登って外すより他ないわね」 利き腕を腰に当て、嘆息するように独白する。潜伏生活の間に余分な物が削ぎ落とされた身体は、元々背が高い事もあって男らしい仕草も様になる。 (さてと) やおら木登りを始めるが、なかなか堂に入っている。これも潜伏間に少しずつ身につけた身軽さと技量だ。元々実家にいる頃から身体は鍛えるようにしていたが、自身でも驚くほどの運動能力の向上だ。というより、この順応性の高さを感心すべきだろう。 見る間に中頃まで登っていくと、時間をかけて周囲に目をやる。こんな所を米兵に見つかったら一巻の終わりだ。もっとも、見えるものは深いジャングルばかり。聞こえてくるのも、いつもの南洋の鳥の声。 いつもと変わらない奇妙な日常だ。 安全を確認した法子は腰の山刀を素早く抜くと、次々に紐や布を切り裂いて落下傘を解体し、どんどんズリ落としていく。 そして一通り目立つものを落とした時点で、今少し木の上に登ってみる。丁度、上れそうな場所に空が開けているのを見つけたのだ。 (いい風。……こっちはナフタン岬ね。だから米兵に見つからなかったのかしら) 少しばかり気分転換を図りながらも、周囲の観察と警戒は怠らない。何が落ち度となって米兵に見つかるか分からないという事は常に考えなければならない。 それでも一仕事やり終え、落下傘が見えそうな方向が日本軍陣地の廃墟以外は、米軍の敷いた立派な道路があるだけのナフタン岬だと分かり安堵した。 眼下に広がる地域は、山の東側一帯に広がる地下倉庫(弾薬庫)からの輸送車両が時折通る他、後は決まった時間に小型車がゆっくりと走りすぎるだけだ。 もう少し風に当たっていようと、法子は幹に腕を回してくつろいでいた。だが、のんびり巡らせた視線の先に、光る物が感じられた。 (!) 瞬間に身体が反応し、少しばかり身体に擦り傷ができるのも構わず木を素早く降りると、光の方向に最大限の注意と警戒を向ける。 (米兵、いいえ気配はなかった。それとも、こちらの作業中に近づかれた?) 様々な予測と憶測が頭の中で駆けめぐるが、法子の中で5分経ち10分経っても何事も起きない。 深いジャングルは静かなままで、鳥のざわめきも相変わらず。 (鳥が普段通りだから、殺気立った人間はいないと考えるべきね) 経験則から状況を判断した法子は、思い切って調べに行く事にした。もちろん足音を立てず、気配を消しての前進だ。姿勢も中腰で、すぐにも別の動きができるようにしている。 (人の気配がないのに光が反射したという事は、水たまりが第一候補。第二候補は墜落した飛行機の破片。第三候補が以前の戦闘の残骸てところね) 警戒しつつ頭の片隅で可能性を考えてみるが、法子が見つけたものはどれも外れていた。