■長編小説「煉獄のサイパン」

●第五章 2

1944年2月8日 シンガポール

 南洋最大の拠点、昭南(シンガポール)のとある一室で、白い詰め襟を着た男達が集っていた。
 最高階位は少将で、それぞれの高級将校の副官を含め合わせて30人ほどが大英帝国の香り漂う豪奢な部屋で顔を突き合わせている。
 部屋はアーチ型の洒落た窓から南洋の光が漏れるも、空調が行き届き快適。だがそれも当然で、場所は「昭南旅館」こと、元ラッフルズ・ホテルだ。
 同ホテルは、シンガポール最高と評される高級ホテルで、白壁に朱色の屋根を持つ現在の建物が建築されたのは1920年の事だ。
 ホテルの建物は重厚さと瀟洒さを兼ね備えた建築物を無垢な白さで覆ったもので、まさに南洋の楽園を体現したかのような建物と調和した庭や調度品の調和が見事だった。
 その美しさは、イギリスの文豪サマーセット・モームが『東洋の貴婦人』と評したほどだ。
 だが1942年2月からは日本軍が接収し、主に高級将校や有力者の宿泊施設として使っていた。おかげで従業員は和服の着用を命じられ、西洋風の楽園に大きな違和感を醸し出していた。
 もっともその日、同ホテルの会議室を占拠した男達は、豪華なホテルの内装とはまるで無縁な会話を交わしていた。それぞれの側に置かれているグラスにも水が満たされているだけで、このホテル発祥であるシンガポール・スリングなど洒落たものは望むべくもない。グラスが豪華なのが虚しいぐらいだ。
 その味気ない水の入ったグラスで唇を潤した男が、グラスを置くなり口火を再開した。
「さて、本「北号作戦」に関する部隊を、「完部隊」と命名する。これは「任務を完遂する」という意味であり、今の日本にとってそれだけ重要な作戦だと認識していただきたい」
 口を開いた松田は、今回の作戦部隊の最高指揮官だった。会議には、松田が率いる率いる第4航空戦隊の《伊勢》、《日向》以外に、重巡《羽黒》、《足柄》、《妙高》を隷下に収める伝統の第5戦隊、第2水雷戦隊、第21駆逐隊の《朝霜》、《初霜》、《霞》、ほか軽巡《大淀》、《香椎》、駆逐艦《天津風》、《神風》、そして航空母艦《信濃》の艦長と他一名ずつがいる。
 十分に大艦隊の布陣であり、小規模な作戦のための会議でないことは十分に伝わってくる。ただ、寄せ集めの会議という雰囲気は拭えず、特に少将ばかりが5人も並んでいると言うのは、前線にあって人事交代が遅れているとは言え少し異常だった。
 そして少将の中の一人、指揮官の中で最先任にあたる第5戦隊司令の橋本信太郎少将が口を開く。
「昭南の留守は、我が第5戦隊が預かる。それはいいだろ。だが、どの船を連れて行く。うちの妙高みたいな艦は少なくないぞ」
「はい。先ほどもご説明した通り、艦内空間にゆとりの大きい我が第4戦隊と大淀には既に荷物を積み込み始めています。あとはリンガから戻ったばかりですが、《信濃》が最適かと。補給作業ももう始めさせており、積載物の準備も既に進めています。護衛は、二水戦、第21駆逐隊しかないでしょう。もちろん、第21駆逐隊にも物資はいくらか積載してもらいます」
「空前絶後、前代未聞の鼠輸送だな。それで、《信濃》を使う事について軍令部や聯合艦隊司令部は何か言ってきたか」
 二水戦関係者古村啓蔵少将らがうなづくのを見ながら、橋本が問う。阿部にも既に松田から直接内意を伝えられているので、問いながら向けた橋本の視線に軽く眉を上げただけだ。
「軍令部は、4航戦を中心にという以外は、こっちに判断は任せてくれました」
「だが、《信濃》は目立つ。米軍が見逃すとは思えない」
「はい。しかしそれは戦艦が2隻も南シナ海で活発に動く時点で同じでしょう。それに、内地とこっちで無電も飛び交っています。《信濃》がなくても、米軍はこっちが行動を起こす事は掴んでいるでしょう。
 ですが、最大の脅威である米機動部隊は、無線情報から他に行っている事がある程度掴めています。基地航空なら何とかなるでしょう」
「確かに《信濃》は重装空母だが……その点どうかね、阿部大佐」
 橋本は突然阿部へと話を振る。不意の問いかけに阿部も少しばかり慌て、飲みかけたグラスを慌てて置く事になった。
「はい。敵が1トンクラスの爆弾を水平爆撃してこない限りは装甲は大丈夫です。雷撃のない基地航空なら問題ありません。加えて、この一ヶ月リンガで十分に訓練を積むことが出来ましたので、他艦の足を引っ張ることはないと確信しております」
 橋本は満足げに頷いて沈黙した。
 そして、橋本を最後に外様の発言が終わると、作戦内容に入った。
 第4戦隊の参謀長と主計参謀が、書類を片手に起立する。
「物資の積載は、《伊勢》、《日向》、大淀、そして《信濃》に行います。積載物は、《信濃》以外でドラム缶1万本に入れたガソリン約2000キロリットル、通常積載の余分の積載燃料が重油3000トン。貨物は生ゴム、すず、タングステン、水銀など3700トンが積載作業進行中です。また《信濃》は、重油と揮発油を積載作業中です。終わり次第、岸壁に準備している重油、揮発油を詰めたドラム缶2万本と、生ゴム、すず、タングステンなど合計約3000トンを、順次格納庫、航空機用弾薬庫などに積載予定となっております」
 おいおい、いくら《信濃》でもそんなに積み込んで過積載じゃないのか。
 誰かが言った。護衛を受け持つ第21駆逐隊司令だ。
 それに阿部が挙手する。上級者を含め全員に説明するため丁寧語だ。
「《信濃》は、内地出発の際に、航空機整備員を殆どを降ろしてきました。また技量未熟な者も一部降ろしております。このため乗員は定数2515名の約8割しか乗艦せず、糧秣被服なども最低限しかありません。また、艦載機に関連する機材、弾薬もほぼ皆無です。このため本来の基準排水量より1000トン以上軽い状態で来ております。これで行きは、公試を上回る28ノットで潜水艦を振り切りました。
 そして現状と満載までの排水量差は1万1千トン。元となった大和との満載排水量差を考えれば、さらに1500トン程度の積載は問題ありません。加えて《信濃》は安定性の高い艦ですので、それ以上の過積載でもある程度余裕があります。加えて貨物は重量トンで考えますので、数字が過分に見えるだけでしょう。また、他の艦同様に当面不要な装備、備品、乗員の第二種軍装や外套などの陸揚げの準備も進めています」
「そのうえ、大きな弾薬庫や格納庫がある。今回の任務には最適というわけですね」
 第21駆逐隊司令の石井汞中佐の呟きに似た答えに、阿部は内心苦いものを感じたが、石井に悪意がないのを見てとると気を取り直した。
「そう、最適です。しかも《信濃》の飛行甲板は全て重装甲で覆われており、並の銃爆撃では小揺るぎもしません。また、格納庫は三分の二が開放型で揮発油を入れたドラム缶が満載されても、ガス漏れによる充満、誘爆の心配は必要ありません」
 その上、他と同じようにドラム缶の周囲をゴムで囲むのですか。別の誰かが相づちを打つ。
「それで飛行甲板には何も載せないのです? あれだけ広いと少しもったいないですな」
 別の誰かが、少しばかり面白げな声を発した。《信濃》の「意外」な頼もしさに少しばかりおかしみを感じているようだ。
 それに触発され、今度は松田が愉快そうに言った。
「載せるわけにはいかんぞ。何しろ飛行甲板には、いかにも航空機が満載されているかのように偽装を施す予定だからな」
 松田の声に和やかな空気が広がった。それを確認した松田が締めにはいる。
「いいか諸君、本来敵をやっつけるのが戦の価値だが、今度は敵にやっつけられないことが戦の価値となる。向こうは我々が、何をしでかすか全く予測できていないだろう。普通に考えれば、戦艦と空母がいるんだ、マニラにでも突っ込んでくると予測するだろう。そうした米軍の心理にこそ今回の勝機があると考える。そこで各位には、倒す気持ちで倒されない事を肝に銘じて作戦に邁進してもらいたい。以上だ」

「阿部大佐、《信濃》を見たいんだが構わないだろうか」
 会議後、松田は阿部にホテルの廊下で声をかけた。阿部に是非があるわけでもなく、普通に了承すると、松田が破顔した。
「ありがとう阿部大佐。いや何、大和級戦艦がどのように空母になったか、一度見てみたくてね」
「そう言えば、松田司令は大和建造に深く関わられ、大和艦長もしておられましたね」
「うん、あれは私が産婆と乳母をしたようなもんだ。だから、兄弟にあたる《信濃》にも愛着ではないが、思い入れはあるんだ」
「そうでしたか。しかし、申し訳ありませんが私は任務が詰まっており、ご案内する事は出来ません。艦に詳しい者をお付けしますのでご容赦ください」
 阿部が頭を下げるが、松田の方は無邪気とも言える顔で両腕を胸の前で軽く振って否定の仕草だ。
「いやいや、この忙しいのに、俺が我が儘なだけだ。けど、我が儘ついでに、もう一つお願いがある。例のドイツ製新兵器とやらを見せて欲しい。今回の作戦にも役立つかも知れないからな」
 言葉の最後の目は真剣だった。
 もっとも、《信濃》に乗艦してからの松田は終始ご機嫌でどこか子供じみていた。アイデアマンである彼の資質の発露と言えるもので、案内に付けられた下級将校相手にあれこれと聞いては、感心したり質問したりと忙しげに動き回っていた。
 案内の下級将校が、松田のあまりの頭の回転の速さに説明が置いつかない事もしばしばで、ほとんど煙に巻く勢いだ。
 そうして小一時間巡回した頃、松田は本来の目的を目ざとく見つけた。
「中尉、あれかね新兵器は」
 はい。そうであります。そうは答えた案内の中尉だが、新兵器が何なのかは実のところ詳しく知らない。さて、どうしたものかと思いつつ近寄るが、金髪の頭を見つけて安堵した。餅は餅屋、機械は専門家に任せるに限る。
「松田司令、紹介します。『ブロッケン』を担当しておられるマウアー技師です。通訳もおりますので、詳しいお話は技師からお聞きください」
 中尉にそう指し示された先には、丁度艦橋下部に位置する一角を占領した『ブロッケン』と呼ばれる装置が設置されていた。急ぎ設置されたのは格納庫に置かれている事からも分かり、《信濃》固有の装備でない事も分かる。
 だいいち、戦車ほどもある四角い装置からゴムで皮膜された幾本もの太いケーブルが伸びており、日本らしくない印象を松田に与えた。
「初めましてマウアー技師。私は松田、海軍少将をしております。今日は、本装置を作戦に活用するべく、専門家から意見を直接伺いにまいりました。忌憚ないお言葉をお願いします」
 やや意訳した通訳だが松田の丁寧な言葉を聞いたマウアーは右手を差し出し、穏やかな顔を真剣さで引き締めて応対した。軍事の専門家が、技術の専門家に教えを請いに来たのだ。ドイツ人としてマイスターとして全力を尽くさねばならない。
 そんなマウアーの内心が伝わったのか、短い時間のやりとりだが熱の入った会話が交わされた。
 『ブロッケン』と呼ばれた装置は、簡単に言えば高出力のを放射して、あらゆる電波に対して妨害を仕掛ける装置だ。
 もっとも、同種の装置としては最も原始的なものであり、英米より電子技術に遅れるドイツの技術が元になっているため、装置自体はかなり乱暴な上に、ブロッケンは試作品だった。
 おかげで装置自体も大雑把だ。
 松田の眼前にあるのは、2000馬力を出すディーゼル機関に連結された発電機と変電機。そこから太い電力ケーブルが何本も上に向かって伸びている。ブロッケンの本体はケーブルの先だ。
 マウアーに案内された先は、艦橋後部の本来なら21号電探が取り付けられている場所。そこには、無数のケーブルに接続された金属の箱を中心に、八木アンテナと呼ばれる魚の骨のような指向性アンテナが、数え切れないほど伸びている。そして、マウアーの指示で空けられた金属の箱の中には、無数の真空管とマグネトロン、導波管が詰め込まれていた。横には冷却装置らしいものも見える。
「これが、ブロッケンの本体ですか。まるで電探のお化けだ」
 松田の物言いにおかしみを感じたマウアーも、調子を合わせることにした。
「お化けというのは当たりです。装置の名前も、原理が分かるまでドイツでは怪現象として呼ばれていたものから取りました」
「怪現象?」
「まあ、山岳の気象現象の一つです。日本では、「御来迎」と呼ばれているそうですが」
「なるほど。霧などによる光の屈折現象か。フム、装置の外見と能力を現した名というわけだな」
「ええ、そうです。開発に尽力してくれた軍令部の山科中佐は、この名を米軍にも広めて実態以上の脅威に見せるつもりだったそうですから、まさにブロッケンそのものなのです」
「しかし、威力が強すぎるのか」
「強力なのはもちろんですが、現状では野放図に電波を放つ事しかできず、制御しきれていないのです。おかげで友軍にまで同じ現象をもたらしてしまいます。しかも作動中は、あまりに強い電波を放出する為、装置に人は近寄れません。
 しかし、シンガポールに来る途中にある程度使える周波数も掴みましたので、1週間から2週間いただければ、調整した無線機なら使用できるようにしてみせます」
「それは朗報だ。だが、我々は今から出発しなければなりません。装置は使用することになると思いますが、ブロッケン下での無線連絡は、後の楽しみとしておきましょう」
 申し訳ありません。真摯に誤るマウアーだが、松田はとんでもないと返し、それからは技術的な面での生の意見をいくつか交換する事になった。おかげで松田は、装置をいつ使うべきかを体感的に悟ることができ、これから出発する艦隊の陣形についても一考する事が出来た。

 2月10日午後4時、第4航空戦隊司令官松田千秋少将指揮のもと「完部隊」は、昭南(シンガポール)のセレター軍港を出港した。
 松田少将の指揮下には、航空戦艦《伊勢》、《日向》、空母《信濃》、軽巡洋艦「大淀」、それに護衛の第2水雷戦隊所属第21駆逐隊の《朝霜》、《初霜》、《霞》があった。単なる編成上なら、ちょっとした空母機動部隊であり、《伊勢》、《日向》、《信濃》が居ることで、セレターからの久々の、そして最後の勇壮な出港となった。



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