■長編小説「煉獄のサイパン」

●第六章 1

1945年1月14日 サイパン島

「七ヶ月か」
 犬神は、洞窟の一面に墨で書かれた暦(カレンダー)を見ながら感慨深げに呟いた。火山岩洞窟に食い込んでいる石灰岩のせいで白っぽい石の一面には、几帳面な数字と文字が並んでいる。そして1日経するごとにバツ印が付けられていた。バツの数だけが、この「秘密」基地で過ごした日数だ。
 犬神が新たな同居人となって早一ヶ月以上経つが、全体でみれば二割にも満たない。
 もっとも、感慨深げに暦を見ているのは犬神だけだ。他の者はと言うと、犬神を洞窟の奥に追いやって、窪みで楽しげに水浴びをしている。
 今日は行水をする日で、加えて今まで潜伏を始めてから伸び晒しだった髪の散髪までしていた。
 とは言え、行水一つもここでは難事業だ。すぐ側にわき水があるとは言え、毎分何リットルというような大きなものではない。柄杓や食器で洗面器やタライなどに少しずつ水をためていく作業を丸一日ほど行ってようやく、という有様だ。当然ながら、お湯はほとんど準備できない。ジャングルから外に煙が出ないよう、煙が10メートルも上がらないぐらいの小さな火で、金属製の洗面器や食器でゆっくりと涌かす程度だ。
 しかも法子達は、僅かな着替えの洗濯も欠かさず、週に一度は洗濯もしくは行水を行っている。不潔こそが病気の温床だからだ。しかも彼女たちは、一日一度は温かい食事が出来るように腐心していたから食事の準備も怠れない。
 ただでさえ火を起こし、米炊き、洗濯は大変な事なのに、一日の半分以上を文化的な生活を維持するために動いているような有様だ。
 犬神も怪我が癒えてから、何か手伝おうと色々してみたが、年かさの子どもがする火起こしや薪集めなど簡単な仕事しかできなかった。おかげで今では、法子や奈央子に全く頭が上がらなくなっている。
 犬神が日々する事と言えば、もっぱら法子や奈央子が集めたり日記に記録していたサイパン島の記録を纏め直す作業だ。幸いと言うべきか、彼女たちが筆記用具や帳面はかなり持ち込んでいたので、道具に苦労するという事はなかった。しかも二人の記憶や記録は正確無比と表現できた。
 今も、取りあえずする事がなかったので、少しばかり帳面を読み返し、顔を上げた拍子に暦がふと目に止まったに過ぎない。
「ふぁ〜」
 暦を見て滅入った気持ちをカラ欠伸で自分の気分を誤魔化し気を取り直そうとしたが、うまくはいかなかった。今度は闖入者のせだいった。
「アラ、大きな欠伸。お髭の間からも奥歯まで見えていますよ」
 洞窟入口のゴザを開け、奈央子が入ってきた。
 かなりくたびれ、所々継ぎの跡も見えるが、南洋らしい白いワンピースに身を包んでいる。いつもとは違う衣装だ。髪も博多人形を思わせるほど綺麗に切りそろえられ、身体もサッパリしたので普段犬神が見ているより数倍映えて見えた。
「別嬪さんになったな。奈央子ちゃん」
「フフフ、ありがとう御座います」
「何、ご婦人を誉めるのは男の務めさ」
「義務なんですか、少し残念。あ、もう少し待ってて下さいね。法子先生が、今順番に子ども達の髪を切っいるところですから」
「ああ、いいさ。気にしないでくれ。前線じゃあ、風呂に入れないなんてザラだった、気にもならない」
「ハイハイ、それは何度も聞きました。けど、今日はしっかり身体を洗ってくださいね。石けんだって用意してありますから」
「ホー、それでいい匂いがするのか。で、何してる。手伝おうか」
 奈央子は、食料や道具が積み上げられている、行李や木箱で何かを探している。
「あ、はい、大丈夫です。コレを探していたんです」
 手に掲げて見せたのは、溶接用のバーナーとバーナーの下に付いているものと同じ金属製の容器、交換用のタンクだ。
「んなもん、何に使う?」
「煮炊きに使うんです。火が強くて煙も出なくて便利なんですけど、もうこれだけしか残ってなくて。しばらく使っていなかったの」
「はー、考えたもんだな。溶接具にそんな使い方があるなんて及びもつかねえ、恐れ入ったぜ」
「フフフ、私達の考えじゃないんですけどね。そうだ、今日は出来る限りの事をしますから、」
「期待しておくよ」
「ハイ」
 奈央子はきれいに微笑むと、今度は米櫃になっている丈夫な木箱に向かう。米は野鼠の一番の標的になるので、厳重に守られていた。最初の頃、気付かぬ間に麻袋に入れた分を随分食べられてしまった教訓だった。もっとも、その後野鼠を捕まえ、じっくり焼いて腹の中に収めたという後日談が、たくましさに感心するより犬神をゲンナリさせた。
 そんな事を思いだしながら、奈央子の後ろ姿をぼんやりと眺めるが、当の奈央子は鼻歌を歌いながら、上機嫌に残りわずかと食材を様々な入れ物から取り出している。時折見える横顔の瞳も普段より活力があり、年相応の少女を思わせる。
 鼻歌は透き通るような声から紡がれているので耳に心地よく、またどこか異国情緒を感じさせた。
「なあ、それ何て歌だ?」
「エ? ドイツ民謡です。ううん、これはスイス民謡ですね」
 法子の声には、少しばかり揺らぎがある。
「スイス?」
「今のはエーデルワイスと言う曲です。でもスイスは戦争していませんし、ドイツ語の歌だから敵性音楽じゃないと思います」
 まるで言い訳のような口振りだが、それが犬神には気に入らなかった。そんな事を聞くために話しかけたのではない。
「いや、そんなもんどうでもいいさ。ただ、いい曲だなと思っただけさ。にしても、こんなご時世にも中立国があるなんて不思議だよな」
「そうですね。やはり、平和なんでしょうか」
「さあな。けど、戦争だっていつかは終わる。そのうち日本も平和になるさ」
 そうですよね。少しばかり気のない返事を返す奈央子だが、気を取り直して鼻歌を再開し、犬神も手伝いながらの食事の準備となった。
 そして夕刻、まだ日のあるうちに夕食になる。
 ここでの食事は一日二食で、朝と夕方に取るだけ。昼間はサトウキビの茎やザラメ入の水などで過ごす。何しろ砂糖系のものだけは山のようにある島だ。大量に持ち込んでもある。いっぽう食事のほとんどは、小さな火でゆっくり炊き上げた妙なものばかりが入った薄目の粥ばかりで、ここ最近はたまに缶詰を開けて変化を付けるのが精一杯だった。
 しかし、幾つかの例外日がある。祝祭日だ。6月半ばから今日までだと、祭日が秋季皇霊祭(秋分の日)、収穫を祝う神嘗祭、収穫を感謝する新嘗祭、大正天皇祭。祝日は、11月3日の明治節と四方拝と呼ばれる元旦の二つ。
 それぞれの行事もできるの事を限り行い、なるべく関係のある食べ物を探して食べるようにした。お米も、この時だけは普通に炊き上げた。元旦の日には、医療用にと思って置きっぱなしだったスコッチの封を切り、犬神と法子、奈央子が飲んだりもした。
 そして今日は、全員にとって最も大切な日だった。

「で、本当に明日山を下りるんだな」
 夕刻の騒がしさが嘘のように、辺りは静まりかえっていた。犬神の小さいとは言えない声も、森の中に吸い込まれて消えてしまうようだ。
 窪みの端っこでは、犬神と法子、奈央子もそれぞれに腰かけ、最後の話し合いをしている。この一月ほどで習慣となった事だ。
「ええ、今日で丸七ヶ月。変な言い方だけど、丁度頃合いだと思うわ。本当は正月までに降ろうかとも思ったけど、なかなか踏ん切りが付かなくて。不甲斐ない限りね」
 法子が水が入ったカップに少し口に付けると、首を動かした拍子に髪がキレイに流れた。腰に迫り額でも左右に長く分けていた髪も、以前のようにキレイに切りそろえられている。
「そんな事ありません。降っても身の安全が保障されるとは限らないんですから、悩まれるのは当然です」
 奈央子が語気強く言うが、法子は力なく苦笑する。犬神は、ただ二人を見つめるだけ。
「奈央子、ありがとう。けど、もう限界よ。犬神さんの言葉じゃないけど、腹が減っては何とやらだわ。それに今日、犬神さんに持たせる分以外の殆どを食べてしまったしね」
「ハイ。でもよくここまで保ったと思います」
「ゼロセンとハヤブサのおかげね。あ、そう言えばどうするの、あの二羽?」
「最初は連れて行こうかとも思いましたが、ここに放っていきます。鶏まで俘虜扱いしてくれるとは思えませんから」
 「違いない」小さな笑い声と共に犬神が再び口を開いた。が、顔はすぐに真顔になり、二人の目をじっくりと見つめる。
「アンタら二人には随分迷惑をかけたな。このとおり感謝する。ただこれ以上は、生きて再会できた時って事にしといてくれ。あ、けどな、鶏は連れて行った方がいいんじゃないか」
「どっちに答えればいいの」
 法子が、まただと言わんばかりのしかめっ面をする。犬神は二つのことを続けて言ったり混ぜっ返す事が多く、返答でウンザリさせられる事が多いのをこの短い間に学んでいた。しかも犬神は海軍将校とは思えない大雑把さでしか相手をしない事が多く、理詰めで動きたがる法子と話が食い違う事が多かった。今も「何、適当でいいさ」とばかりに澄まし顔だ。結局折れるのは法子だ。
「じゃあ、順番逆ね。なぜ、二羽を連れて行く方がいいのかしら」
「そりゃ、パトロール中の米兵にとっつかまりでもしてみろ、野生の鶏って事でヤツらの晩飯になるんじゃねえか」
 「確かに」法子は呟くと、腕組みして考え込んだ。仕草がすっかり男らしい。犬神の言葉に気が気でない奈央子は、そんな法子を頼もしく、そしてじっと見つめる。たいてい、明確な答えを出してくれるからだ。
 今回も期待を裏切らない。
「連れて行きましょう。雌鳥で卵が産める事を説明すれば、戦利品として取り上げられたとしても、そのまま飼ってくれると思うわ。西洋の人にとって、牛乳と卵は生活に欠かせない食べ物の筈よ」
「相変わらずの博識だな。で、肝心な方の答えは?」
 もう少し、真面目な気持ちで答えさせて欲しいものだわ。犬神の言葉にそうぼやく法子だが、目をつむり呼吸を整えて犬神に向き直る。
「な、何だよ、そこまで改まんなよ、照れるぜ」
「じゃあ、照れていなさい。……あのね犬神さん、私達は当然のことをしたまでよ。それと、あなたを助けるだけの余裕があっただけ。自分の悪運の強さとやらに感謝しておく事ね」
 フフフ。二人の会話に奈央子が口に手を当てて笑い出した。何がおかしいと二人が顔を向けるが、すぐに二人に大きな鳶色の瞳を向ける。目には珍しく茶目っ気がある。
「ご免なさい。けど、法子先生は照れていらっしゃるの。犬神さん、分かってあげてください。それと、感謝しているのは私達の方です。私はもちろん法子先生も、犬神さんがいることで随分心強かったんです。やっぱり、男の方がいると違うなって。ね、先生」
 そうよ。法子はいつになく素っ気ない。そして足下のあたりをまさぐり、何か光るものを取り出した。
「ねえ、それより最後だから、空けてしまわない? 犬神さんも残り全部は持っていけないでしょう」
 法子が手にしているのは「サザンクロス」のラベルが貼られた瓶、スコッチ・ウイスキーだ。
 お、いいねえ、と言いかけた犬神だが、慌てて否定した。
「いや、もう少し待ってくれ。まだ真面目な話が全部終わってない。島の地図や米軍の動きの事だ」
「帳面に出来るものは全てしたわ。隠し事はないわよ」
「そんなんじゃない。帳面や資料になるものは俺が責任をもって運び去るか処分する。それより、アンタらのした事は軍事行動と言ってもいい。尋問されない限り絶対に口にするな。拷問でもかけられない限りはしらばっくれろ」
「拷問? 米兵が特高みたいな拷問をすると」
「ああ、そうだ。国が変わっても、あんなヤツらはどこにでもいる。しかも人種差別ってやつは強烈だ。万が一特高みたいなヤツに出くわしたら、少しばかり渋ったふりをしてから全部ぶちまけろ。助かった命を粗末にすることはない」
 「けど」奈央子が何かを言おうとしたが、法子が手をあげて制した。
「私達が黙っていても、あまり意味はないという事ね」
「そうだ。この情報は、サイパン島以外の日本軍の手に渡って初めて意味がある。そしてアンタらが洗いざらいぶちまけたら、ヤツらは島の警戒を強化して俺を捜すだけで済む。ただしアンタらも、間諜扱いされてアメリカ本土に連れて行かれる可能性はある。その時は覚悟しておく事だな」
 一気に言い切った犬神の言葉の後、しばらく沈黙が支配する。それを破ったのは、法子の大きなため息だ。
「最後のお酒をいただく前に聞く話じゃないわね。で、それだけ?」
「ああ、それだけだ。まあ、あえて加えるなら、善良で何も知らない一般婦女子ってやつを演じきってくれ。その方が俺も楽だ。……ただなあ」
「ただ何?」
「アンタらは見てくれが目立つ。その点が心配だな」
「犬神さん、あなたの変な心配は大丈夫よ。白人は有色人種の異性になんて興味ないわよ」
 法子が、笑みを含んだ声で返すが。犬神は、崩した筈の声を意外に真剣なものにもどした。
「いや、あんまり日本人らしく見えないんだけどな。奈央子嬢ちゃんなんて、仏印やフィリピンでも通る南方系の顔立ちだし、瞳の色がかなり薄いだろ」
「それはそうだけど、髪は黒いわ。それに私なんてこれ以上ないってぐらい黒い目と髪よ」
「まあね。けど、法子は妙に色白だし目元も日本人からは離れてる。それに、たっぱが他よりかなりある」
 うっ。法子が、気にしている事をズケズケとという目で犬神を見つめる。
「背は仕方ないでしょう、うちの家系の証よ。肌は多分両方の影響だわ。潜伏中にこんなに色あせるとも思わなかったし」
 腕を上げた法子の肌は、確かに以前の小麦色からスッカリ色あせている。
「ご両親の出身は?」
「父は代々京都、母は秋田よ。けど、今は横浜に住んでいるわ」
「そりゃ別嬪さんになるわけだ。奈央子嬢ちゃんは?」
 沖縄とここサイパンです。奈央子は、妙におどおどした声で答える。その声を聞いた法子は、手を伸ばして奈央子を自らの胸元に引き寄せてしまう。
「出身なんて関係ないでしょう。それで、私達があまり日本人らしく見えないのと何が関係あるの。口振りからすると、色恋の対象って事じゃないんでしょう」
「ああ、その通りだ。人は見かけと偏見で相手を判断する。異民族相手なら尚更だ。だから気をつけろ。ま、俺様の経験上言える事はそんなとこだな」
「日本人以外と話したりしたことあるの」
「ああ、俺はこれでも海軍将校だ。上海程度だが遠洋航海にも行った。開戦前は、東京にいる外国の武官とかにも会ったことがある。搭乗員になってからは、太平洋中を飛行機でも飛び回った。だからこそ、日本人として無様な事はしたくないね」
 それだけ言うと、犬神も近くに置いていた腰に付ける袋の中から銀色の短い円柱をとりだした。
「じゃあ、時化た話はこれで終わりだ。こいつで一杯といこうぜ」
「いいの? 貴重な缶詰よ」
「いいさ。これからは一人だし、飯がなくなりゃ米軍の倉庫からちょいとばかり拝借するさ。それに色々残してくれたアンタらには悪いが、何ヶ月も持つもんじゃない」
 言うが早いか缶切りで開け始め、それを見た奈央子があわてて食器を探し始める。法子も、小さなため息をもらすと、気を取り直してサザンクロスの封を切り始めた。
 それから月が天頂に至るまで、しばしの酒宴となった。三人とも酒には強いのは元旦に立証済みで、序盤は年少の奈央子もケロリとした顔で飲み、珍しくはしゃいでいた。だが、酒宴が幕に近づく頃には法子の膝枕の上で小さな寝息を立てている。
「どうした、酔ったか?」
 犬神の声に、奈央子の髪をゆっくりと撫でる仕草を繰り返していた法子が、ゆっくりとかぶりを振った。
「いいえ、お酒には強い方よ。ただ、お酒を飲む余裕がある自分に少し感心するというか呆れているの」
「やるだけやったからじゃねえか。本来軍人だって、弾薬や食料が尽きれば降るもんだぜ」
「兄も、旅立つ直前に似たような話をしていたわ。戦時訓の内容は時勢が逼迫しているから分からなくもないが、言葉の一部が曲解されなければいいが、て。言っている通りになったけど」
「ものの分かる将校だな。いや、アンタの兄さんだからこそか。ものが見えすぎるってのも考えもんだな。けど、そのおかげでアンタらには色々教わった。ありがとう」
 犬神が言葉の終わりと共に右手を差し出し、目をまっ真に向ける。法子は最初、手あげながら寸前に躊躇したが、結局犬神の手を力強く握り返した。
(こんな時に握手って……)
 心に重いものを抱く法子だが、手をほどいた犬神は、いつもと違いいつまでも真剣なままだ。
「なあ、最後に一つ聞いていいか」
 法子が静かに頷くと、犬神が躊躇無く切り出した。
「明日降るってのに、髪切ったり身なりを整える理由さ。決まり切った事聞かないで、なあんて言わないでくれよ」
 犬神の顔は言葉にしながら、既に答えを知っている顔だ。だが、互いに明日の朝に分かれる以上聞いておきたかった。自身の心の拠り所の一つとするために。
 法子も、一度柔らかい微笑みを向けた後、凛とした瞳で犬神を見つめ直す。
「そうね、正面から降伏しに行く以上、日本女性としてみっともない所を相手に見せられないわ。明日の朝は、化粧もして山を降りるつもり」
「化粧は女の戦装束、か」
「フフフ、ただの見栄よ。それに万が一を考え時、やっぱりきれいなままでって思うのは人の情でしょ」
「人の情か、久しく聞かない言葉だな。俺には無理だ」
「そんな事ないわ」
「あるよ。俺は斜に構えていても軍人だ。今だって守るべきアンタらを切り捨てるようなもんだ。けど、アンタはまるっと分かってて、俺の聞きたかったことを言ってくれた。感謝する」
「今のは思ったままの言葉よ、見栄を張るのは……。それに、怖いのも同じ」
 本当は二人とも『死に装束』という言葉が浮かぶが、互いに懸命に無視ししようとした。犬神が遂に真顔を崩す。
「怖いなんて事、口に出して言わないでくれよ。俺までちびっちまうぜ」
「じゃあ、最後に褥(しとね)を共にしてあげましょうか。男の出陣前の女の務めだし」
 犬神のおどけた言葉に法子もおどけて返した。
「涙が出るお言葉だが、これでも妻子ありだ。商売女以外には操を立てることにしてる。それに奈央子嬢ちゃんの目が厳しくて、手を出すどころじゃないぜ」
 フフフ、そうね。そう言って笑顔をおさめた法子は、今日何度目かの真剣な眼差しを犬神に向ける。
「犬神広志さん、私からも最後に一つ言わせてください。こんなご時世ですが、何が本当の明日のためか、それを忘れないでください。私も心するつもりです」
「安易に死ぬなってか。戦時訓より厳しいなあ」
「その通りよ」
 それからひとしきり二人で笑うと、最後になったスコッチを酌み交わした。

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