■長編小説「煉獄のサイパン」

●第七章 1 

1945年2月19日 呉

「第2艦隊より強い要請のありました、《大和》《矢矧》を作戦に使いたいとの件に対して、軍令部よりの命令をお伝えに上がりました」
 第2艦隊第1航空戦隊に編入されて以後、何度も軍令部や聯合艦隊司令部に出した要請の回答を、目の前の男が口にする。
 場所は、呉鎮守府内の《大和》長官公室。普段なら、作戦会議や高級将校が楽団付きの食事を取る部屋だ。すでに夕刻近く、世界を構成する全てのものに真冬の夕日が深い影を作り出し、ただでさえうらびれている日本国内の情景を寂しく見せていた。軍艦の中とは思えないほど大きな長官公室にも、舷側に並んだ丸窓からその寂しげな光が射し込んで、中の人々に陰影を作り出す。
 第2艦隊にとって朗報もしくは凶報を持ってきた筈の男の言葉まで、彼の険しい顔に相応しく陰鬱なものに思えてくる。
 しかし、陰鬱と言えば《大和》は誕生して以来、その正反対の言葉とはほとんど無縁な存在だった。
(そう思えば、目の前の男も連鎖の中の一人に過ぎないのか)
 眼前の軍令部課員を見つつ、第2艦隊司令の伊東整一中将は埒もないことを頭の片隅で弄びつつ、次の言葉を待った。

 軍艦《大和》。大日本帝国の栄光を担うべく誕生したこの軍艦について、今更多くを語る必要はないかもしれない。
 不沈戦艦。超超弩級戦艦。世界最大の戦艦。世界最強の46センチ砲。旧大日本帝国海軍の象徴。栄光と斜陽に包まれた戦艦。時勢に乗り遅れた軍艦。税金・資源の無駄遣い。世界の三大馬鹿。
 人によって様々な言葉を向ける。だがしかし、日本人がこの艦を建造したという事が、明治維新以来の日本人が至った一つの到達点であった事を否定する者は少ないだろう。同時に、日本海軍が自らの存亡を託すべく建造した事も疑いない。《大和》という、古来より日本の別名を表す名を与えられた事からも、期待の大きさを伺い知ることが出来る。
 それだけの威厳、迫力、哀愁、機能美、美しさ、愚かさ、儚さ、様々なものをその身にまとっていたフネなのだ。とある元乗組員は、「《大和》は美しいフネだった。青春を犠牲にして悔いのないフネだった」と戦後述懐しているほどだ。
 《大和》というフネは、当時の日本人にとって間違いなく特別な存在だったのだ。それどころか、特別なフネという意味では、今現在に至るも同じだろう。
 そしてもう一つ否定できない事が、戦争期間の殆どを通じて戦運に恵まれていなかったと言うことだ。
 いや、時代が《大和》を見放していたと表現する方が正しいかもしれない。
 戦雲急を告げる中何度も前倒しにされた竣工は、日本海軍自らが時代の幕を開けた真珠湾攻撃から一週間後の1941年12月16日。初陣は、空母及び艦載機同士の戦いに惨敗したミッドウェー海戦。消耗戦と言われたソロモンでの戦いの間の、トラック泊地で『大和ホテル』、『武蔵御殿』と揶揄された忸怩たる毎日。そして、主である連合艦隊司令長官山本五十六の、南洋の空での戦死。
 失意の帰国の後、弔い合戦だ、ようやく存分に働けるとぞと勇み立つも、時代の変化を痛感しただけで、まったく成すところ無く終わったマリアナ沖海戦。
 そしてついには輸送船団と差し違えろと言う命令を受け、航空機の威力の前にそれすら完遂できなかったレイテ沖海戦。
 全てが、出撃しては戻るだけの戦いだった。
 辛うじてレイテ沖海戦では、敵艦に自慢の46センチ砲を振りかざすことができたが、それも僚艦《武蔵》の犠牲の上に成り立ったものだった。基準排水量6万4000トンの巨体と3000名の乗組員が、泣くに泣けない犠牲と戦果だった。自身がフィリピン海の地獄を生き延びたのだって、《武蔵》との位置の違いと、森下信衛という操艦の得意な艦長を得た幸運があったからに過ぎない。
 そうして何度目かの失意のうちに、1944年11月24日呉軍港に帰着した。
 爆弾4発、多数の至近弾を受け、自らの砲火によって薄汚れてしまった姿なのが悲壮感を増していた。日本的表現なら、落ち武者の都落ちとでも揶揄できたであろう。
 しかも帰投中、共に行動していた戦艦《金剛》が、同21日、台湾海峡で米潜水艦の遠距離雷撃を受け、基隆北方で沈没した。艦齢30年近いとは言え、武勲に輝く殊勲艦は、無理な加速による浸水、老齢による船体疲労と小さな傷の積み重なりなどから、結果としてわずか魚雷2本で島崎艦長、鈴木司令以下1300名と共に沈むこととなった。この事件も、《大和》に大きな影を与えていた。何しろ、潜水艦ごとき伏兵に、海の王者である筈の戦艦が呆気なく沈められてしまったのだ。
 唯一の小さな慰めは、ブルネイで燃料を満載して帰ったので、約二ヶ月は自らの活動寿命をながらえさせたという事ぐらいだろう。
 そして燃料が有ることを慰めとしなければならないほど、日本海軍どころか日本全体が1944年頃から深刻な燃料不足に陥りつつあった。このため、《大和》などの大食らいの艦は、石油の豊富な南方での待機や訓練を強いられ、レイテ沖海戦で各所に損傷を抱えていた《大和》も、なかなかブルネイから帰投する事ができなかった。
 だからこそ《大和》以下第一遊撃艦隊は、10月24日〜25日にかけて行われたレイテ沖海戦を終えて28日ブルネイに帰投した。そして本来なら、製油施設から直接燃料を入れた後は、ただちに母港呉に帰るべきだった。艦内各所には、被弾と至近弾による損傷によって4000トンもの浸水が発生しており、甲板上を中心に死傷者も多く100%の戦闘力は発揮できなくなっていたからだ。
 だが、戦況の悪化、燃料の逼迫が帰投を許さず、11月8日には再びブルネイを出撃し、他の残存艦艇と共にレイテ輸送作戦支援に従事する。とは言え、半月前のように船団撃滅や艦砲射撃を行おうというものではなく、単にウロウロして米軍の目を引きつけただけで任務を終えている。損傷と浸水、乗員の疲労から、その程度の任務しか果たせなくなっていた。
 そして同11日ブルネイに何度目かの寄港。再度の燃料補給の後、同16日ブルネイを完全に出港し、ようやく呉へと帰る事になった。この帰路は、《大和》以下《長門》《榛名》、そして沈んでしまった《金剛》や巡洋艦《矢矧》以外にも、雪風など駆逐艦複数を伴っており、決して無防備な状態ではなかった。
 だが、大規模な艦隊を、圧倒的優勢となった米軍が放っておく筈はない。昼間は米陸軍機による攻撃を受け、《大和》も30発の三式弾を放つなど防戦を行い何とか撃退するが、夜間には戦艦金剛と駆逐艦《浦風》を沈めた潜水艦《シーライオン》の襲撃があった。
 そうして同23日、ようやくの事で本拠地柱島に帰り着き、そこで一週間過ごす事になる。
 本来なら、すぐにも呉工廠の第4ドックに入らなければならないのだが、その時は横須賀から回航された航空母艦《信濃》が、《大和》の異形の兄弟が入渠して突貫工事の真っ最中なので、順番を待つより他なかった。何しろ《大和》が入られる他の場所といえば、佐世保か横須賀に行かなければないのだ。
 この間の11月25日、5代目艦長となる有賀幸作が着任した。
 そしてようやくまともな姿となった信濃と入れ替わるように、《大和》のゆりかごでもあった第四船渠に入渠。損傷箇所の修理と、25ミリ三連装機銃など、対空機銃の増設がはかられた。
 ドック入りにより浸水箇所からの水抜きと損傷箇所の修理と同時に武装強化が行われたが、人員、資材全てが不足するため、ドック入りは一ヶ月以上に及ぶ。
 しかし改装に時間をかけただけあると、目にした者全てが何らかの感慨を受ける姿となって修理と改装を完了した。あれだけすす汚れていた船体もきれいに掃除され、かつての威厳を取り戻したかのようだった。
 しかも改装後の姿は、最初から目の前の姿になる事が考えられたとしか思えない調和と機能美に溢れており、ハリネズミのごとく備えられた機銃は、全ての航空機を撃退するものと人々に思わせた。
 装備された機銃の数も、25ミリ3連装機銃の数は就役時の8基24門から、52基156門にも達した。他にも、信濃用に既存の空母から引き剥がしたが、装備するアテがなくなったとして付けられた28センチ多連装奮進砲が6基装備されている。
 当然ながら、乗員の方も機銃員を中心にさらに増加し、建造当初は乗員数は約2700名であったが、3300名以上に膨れ上がった。
 もっとも、あまりの重武装にさしもの《大和》も過積載となり、第三砲塔後部を占める広い航空機格納庫の主であった水上機は、要員ごと全て降ろされた。これには、水上機といえど貴重という、日本の現実も影響している。
 また水上機を完全に降ろした事は、軍令部、聯合艦隊司令部が出した、《大和》に対する措置が強く影響していた。

「伊藤長官、今度は聯合艦隊司令部は何と」
 年の瀬も迫ったある日、修理・改装中の《大和》内の大きさだけは聯合艦隊司令部に相応しい第二艦隊司令室で、参謀長の森下信衛少将が司令長官の伊藤整一中将に問いかけた。部屋の中は二人きりではなく、他の参謀や艦長の幾人かも同席している。ただし、航空参謀はすでに退艦していない。指揮すべき航空機は、最初から書類の上ですら与えられていないのだ。
「諸君らもすでに知っている通り、当面は現状のまま第二艦隊所属となる。実質的には、呉か柱島での停泊待機だ。しかし今回、ゆくゆくは《大和》は呉の岸壁へ繋留となると内示を受けた。最終的には、連合艦隊第2艦隊は解散。呉鎮守府警備艦へ転属を予定、とのことだ」
 伊藤の声と共に大きな嘆息が全員の口から漏れ、「《大和》に浮き砲台になれと」などと大きすぎる呟きを漏らす者もいた。そうした全員の声を右手を水平に上げて制した森下が質問を続ける。
「岸壁繋留の具体的措置はどのように?」
 その言葉に、伊藤は手元の机に置かれた紙面を見せた。すでにそこまで決まっているのだ。流石日本の官僚組織は、こういった点だけは優秀極まりない。
 森下参謀長以下、紙面を回し読みするが、内容の要約は以下の通り。

 艦のボイラーは一部を残して火を落とす。主砲その他、必要最低限の機械を動かす他、不要な重油は使わないものとする。
 接岸する岸壁に石炭を燃料とするボイラーを設置し、蒸気や湯をもらう他、電気も供給し、艦内活動を維持する。
 主砲及び副砲以外、高角砲・機銃は取り外し、陸上に再配備とする。
 上空の敵機から発見を阻害するため、各種迷彩を施し、さらに樹木などで偽装を施す。

 内容はまさに浮き砲台。いや、それより悪い扱いだ。浮き砲台として徹底するなら、しかるべき好位置に付け、防雷網を施したり、浅瀬に乗り上げさせるなど不沈対策を取るべきある。
 しかし、そもそも《大和》が「浮き砲台」となる事そのものが大いなる屈辱だった。しかもその方が効果的だと、全員の頭のどこかで言っていた事がなおさら感情を高ぶらせた。
 あり得ない決戦よりも、持久戦体制の整備を、それこそが今の日本の現状だ。十中八九沈められるのが分かっている艦隊に貴重な重油や資材を振り向けるより、本土決戦用の航空機、特攻兵器を量産し、窮乏している戦争を維持する方が利にかなっている。
 いや、それ以前に今の現状こそが、国家として軍としてすでに間違っている事など、ほとんど全員が理解していた。
 だからこそ、紙面を全員が見終わるなり、口々に措置の撤回を求める声を立てた。
 そうして、全ての言葉を聞き終えた伊藤中将は、部下の話を聞く間閉じていた目を開くと、ゆっくりと言葉を口にした。
「諸君の意見は了解した。聯合艦隊司令部には、第2艦隊の総意として、《大和》及び第二水雷戦隊の行動維持を強く具申しよう。
 ただし、この事も理解して欲しい。作戦に赴くかも知れないと言うことは、今後の戦局を考えると死地に赴くも同義だと言うことだ。無論、全責任は伊藤が負うが、各自覚悟は固めておくように」
 伊藤の言葉に、全員が敬礼した。

 そうして、1月9日に《大和》は出渠。以後しばらくは艤装桟橋での改装工事という名目で、泊地の柱島ではなく呉を拠点とするようになる。
 また、手持ちの重油は、ブルネイで一杯に飲み込んできた6300トンのうち7割ほどが帰り着いた時点で残っていたので、1月の重油割り当てはほとんど受けることが出来なかった。1月はハルゼーの機動部隊が南シナ海で暴れ回ったため、多くの輸送船、輸送船が船団丸ごと全滅したり、港湾で一網打尽にあったりと、壊滅的打撃を受けたからだ。
 実質、日本の南方輸送航路は、この時点で壊滅したと言ってもよいだろう。その事を知った伊藤は、急ぎ《大和》の浮き砲台化を聯合艦隊司令部なり軍令部に具申しようとしたが、機会無く時を過ごすことになる。
 しかし、通信参謀など事情通が得た話しでは、1月末から石油の大輸送作戦が開始されるので、それまでの我慢と言うことだった。
 だが、1945年1月20日から大本営は特別命令として開始された『南号作戦』は、それまでの大船団主義を棄て、小船団主義が採用された。理由は、発見と襲撃率の低下、船団密度の上昇による防御力の上昇、そして油槽船そのものの激減がある。
 しかも作戦は、輸送船一本に資源輸送を絞った、「特攻部隊」だ。これを大本営は、特別の覚悟で輸送するという作戦だと説明した。
 だが、『南号作戦』の各船団は開始以後米軍の激しい妨害に合い、あるものは潜水艦に、またあるものはコンソリ(B24)などの餌食となった。船団を組もうが、護衛艦が多数いようが関係なかった。米軍の圧力は、すでに限界を越えていたのだ。
 しかも油槽船が内地に到着するのは三月に入ってからで、第二艦隊はおろか、日本全土が石油への飢えを強くしていた。日本国内での石油は、新潟の小さな油田などで取れる年産20万トンほどと、石炭などから化学的に精製するわずかな量の人造石油だけだから、飢えの程が理解できるだろう。
 そして2月、伊藤以下第二艦隊幕僚全てが、戦局の悪化を脇目で見ながら浮き砲台への覚悟を少しずつ固めている中、一つの朗報が舞い込む。
 2月10日より開始された「北号作戦」だ。同部隊は戦闘艦艇ばかりで編成された南方突破船団、いや艦隊であり、中核は前年暮れに出ていったきりの信濃と航空戦艦2隻を擁する第四航空戦隊だ。
 第二艦隊でも、さぞ沢山の物資を持ち帰るだろうと噂され、これで次の決戦の燃料は大丈夫だ、という事になった。何しろ、2月の燃料割り当ては第二艦隊合計で約1000トン。《大和》、《矢矧》が12ノット5昼夜分で、駆逐艦に至っては12ノットで2昼夜分しかなかった。これでは、出撃はおろかまともな訓練すら行うことがままならず、艦隊将兵を大いに落胆させていた。
 そこにきて、エンガノ岬で全ての攻撃をかわしきった伊勢、日向に不沈空母信濃が、物資を満載して帰ってくるのだ。士気が上がるのは無理無かった。
 伊藤がその話を知ったのは2月18日遅くの事で、これもかなり機密度の高い情報だった。それだけ隠れて行動しても、米軍が侮りがたくなっているのだ。
 なお、《大和》は2月16日に、航空戦力なき第2艦隊第1航空戦隊編入されていた。所属艦艇だけは、第1航空戦隊の《信濃》《雲龍》《天城》《葛城》《隼鷹》《龍鳳》と豪勢な陣容だが、艦載機はただの1機もない。まともに稼働している母艦も、南方に出かけてしまった《信濃》1艦だけ。《信濃》艤装のために材料を拠出した《雲龍》と《天城》に至ってはほとんど保管艦状態で、柱島の僻地に繋留されている。今では残りの高角砲や機銃すら降ろされ始め、ただの鉄の箱と化している。
 瀬戸内海近辺でまともに動いている空母は最も燃料消費が少ない《鳳翔》だが、これも練習空母としての任務を思い出したように行っているだけだ。
 そして栄光の第1戦隊を編成している筈の戦艦は、紙の上では《大和》《長門》《榛名》と相応の戦力だが、実働しているのは第2艦隊の強い要請により維持されている《大和》ただ1艦のみ。他に稼働している戦艦も、《信濃》同様南方にいる航空戦艦の《伊勢》《日向》だけだ。
 つまり、第2艦隊などという名そのものが、ほとんど紙の上にしか存在しないものなのだ。いや、聯合艦隊そのものが既に水上艦隊として存在しないと言っても過言ではないだろう。実働している有力艦艇の半数が、南遣艦隊と称して輸送船紛いの事をしているなど、本来ならお笑いぐさだ。
 しかし、そのお笑いぐさの事が、今の聯合艦隊どころか日本全体の救世主のごとき扱い。2月18日に来た連絡では、軍令部第1部部長がわざわざやってくると言っている有様だ。

 そして2月19日夕刻、《大和》の第2艦隊司令部を訪れた軍令部第1部甲部員の山科博大佐は、黒い帳簿に丸秘と判の押された分厚い書類を持ち込んだ。
 丸秘の朱印の下には、場違いなほど雅な京文字で「防号作戦」要項と書かれていた。


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