■長編小説「煉獄のサイパン」

●第七章 3

1945年2月21日

「ご免! 三四三空の源田実大佐だ」
 その日の朝早く、異常に威勢の良い男が《大和》舷側にかけられたラッタルをズカズカと登ってきた。すぐ後ろには、戦闘的な雰囲気を発散する大尉の階級章を付けた男と副官、それに従兵数名が続く。
 周囲の目は迷惑そのものと言ったものと、頼もしげに見つめる者の二種類に分かれていた。面会する段取りを既に了承していた司令官の伊藤は、どちらかと言えば前者の方だった。

「第一遊撃部隊の信濃には、この菅野直(かんの なおし)大尉が率いる戦闘301飛行隊「新選組」を連れて行っていただく。また、専用の整備兵もこっちから出します。このように、軍令部も聯合艦隊司令部のすでに了承済みです。あとは、閣下のご許可をいただくのみです」
 自信満々といった顔で、源田は伊藤に対面する。源田の言葉と共に側の副官がそつなく書類を出し、準備万端と言いたげな顔をする。
 伊藤としても、作戦書に明記され、軍令部、聯合艦隊が了承している事項を覆すつもりはない。ごく普通に、了承の旨を伝える。ただ伊藤にとっては、比較的近くだからと言って、なぜ航空隊を拠出する司令自らが、第2艦隊司令部を訪れなければならないのかが釈然としなかった。
 今の言葉で言えば、源田流のパフォーマンスとも考えられるが、少しばかり演技がかり過ぎており、伊藤の趣味には合わなかった。もっとも、当の源田は少なくとも表面上は伊藤の態度を気にする風もなく、上機嫌に言葉を並べていく。
「いや、それにしても、いまだ軍令部にこれほど能動的な作戦を立案・実行する度胸があったとは正直意外ですな。しかしおかげで、「洋上の飛行基地」として計画された不沈空母《信濃》に我が航空隊を配属できる」
 「戦艦に不沈はなくとも、空母には不沈があるのかね」一緒に話を聞いていた森下が、ちくりと釘を差してみるが、当の源田は表面上は豪放磊落な素振りを崩さない。
「いや、これは一本取られましたな。確かに空母にも不沈はありませんな。しかし、沈め難い難沈艦である事は確かでしょう。しかも《雲龍》の倍もある飛行甲板だ。陸に馴れたうちの搭乗員たちも、安心して離発着ができると申しております」
「それで、具体的にはどの程度の戦力を《信濃》に」
「ウム、本来戦闘301飛行隊の定数は3個中隊48機なのだが、いかんせん最新鋭の紫電21型の生産が間に合っていない。うちでは、零戦や紫電11型も合わせて使っているほどです。また、ご存じと思いますが、ジュク(熟練兵)を集めたと言っても数は限られているし、搭乗員を揃える事そのものが難事なのです。故に、お預けできる数は301で実働状態にある2個中隊、定数で32機。まあ、状況が状況ですので、実数は7割程度になるでしょう。機体は、艦載型の紫電41型と零戦の混成。これに第4偵察から彩雲を何機か出します。もちろん、専属の整備員も。何しろ、紫電は「誉」発動機や自動空戦フラップなど厄介な機械が多く、他の者には任せられません」
 とにかく今日の源田はよくしゃべった。普段もよく喋るのだろうが、今日は人一倍と思わせる。そのあともペラペラと自身の部隊の事、今後の戦局の事、作戦の事など聞きもしないのに話し、伊藤と森下を辟易とさせたものだ。
 ただ、最後の言葉は、源田をして時勢を反映させたものとなった。豪快に笑いながらも彼は言った。
「部隊をお預けする以上、部下の命も閣下にお預けするのは当然の事です。ただ、これだけは、切にお願い申し上げたい。お預けする者たちは、今の日本では千金の価値を持つ珠玉の搭乗員ばかりです。しかも301は、3つある我が隊の中から志願して出向します。ですから、どれほど苦戦しようとも、特攻だけには使わないでいただきたい。でなければ、この菅野を始め搭乗員どもが、悪巧みに荷担した私の枕元に雁首揃えて出ると脅しましてな」

「それで、やはり油が足りないというわけか」
 源田が去った後の全体会議で、「防号作戦」参加予定の全ての幹部が首を揃えた中、再び燃料の事が議題に上った。
 とにかく、レイテの戦い以後フィリピンの交通線が遮断され、以後の日本には望むものが手に入ると言うことが極めて難しい。重油、揮発油はその最たるものだ。庶民にとっての砂糖すら凌駕する逼迫度だ。
「正直申し上げて、ある前提を設定しない限り、無茶です」
「ある前提とは」
「作戦終了以後、全ての艦を完全に活動停止させるという前提です。こんな事なら、石炭も焚ける能力を維持しておくべきだったとすら思います」
 その声に、一人の男が反応した。山科だ。
「その件については構いません。戻ってきたら、即浮き砲台にする手はずも準備させています」
 当然とばかりの言葉に一瞬唖然となった他の者たちだったが、物理的な事を非難しても仕方ないと考え直すと、別の面で山科を小突く事にした。
「その件は了解しました。しかし、不足分の燃料はどうなりますか。護衛総司令部は何と?」
「申し訳ありません。まだその件は、護衛総司令部に伝えてはおりません。とにかく完部隊の持ち帰った燃料を入れてからになります。でなければ、向こうも納得してくれないでしょう」
「納得するかね? 海軍の誰もが海上護衛に関しては最優先と考えているよ」
 別の誰かが、否定的な意見を述べる。
「納得してもらうしかありません。また、先だっても申し上げましたが、輸血より焼け死なぬ対処を優先すべきだとの私の考えに変化はありません」
「で、具体的にはどうする」
「源田大佐から、彩雲を連絡用に借り受けました。明後日早朝から、日帰りで説得に参ります。他にも日吉の聯合艦隊司令部と、赤レンガにも向かいます。また、帰路には聯合艦隊司令部から誰か参謀なりが説明のため同行する事になるでしょう」
「準備が行き届いているんだな」
「無論です。二ヶ月前から進めていた計画です。これでも遅いぐらいです」
「で、そこまで急ぐ理由は何かね」
 山科が声の主を見ると、参謀長の森下だった。
「硫黄島です。あそこが落ちると落ちないとでは、敵の偵察力が格段に変わってきます。最新の情報では、栗林兵団は勇戦敢闘、敵に甚大な損害を与えていると聞き及びますが、いかんせん小さな島です。どれほど現地部隊が奮闘しようとも保って一ヶ月でしょう」
「友軍の奮闘になんてことを!」
 参謀中佐が横から口を挟む。
「言葉が悪ければ謝罪する。しかし、硫黄島が落ちれば作戦は中止を余儀なくされるのだ」
 終始山科はこの調子で、軍令部の人間という事もあり第2艦隊司令部からは浮いていた。
 けっきょくその日の会議でも、大きな事は決まらなかった。原因の多くが、まだ面子が揃っていないという事もあったが、まだ作戦に対するわだかまりが艦隊幹部の中で解けていないのが原因だった。
 そしてわだかまりを残したまま山科は一端東京に戻り、彼の戻る2月24日に本当の意味での全体会議が行われることになった。

 呉の第2艦隊で、乗組員の半減上陸が始まった頃、山科は東京に足を運んでいた。
 彩雲と軍令部から出させたガソリンで走る黒塗りの高級車で移動すること約4時間半、彼は目黒の海軍大学校に移転していた護衛総司令部を訪れた。時勢を考えれば、神速の移動時間だ。
 海軍大学校自体は、昭和7年に築地から移転してきたもので、東京上大崎、目黒と呼ばれる場所にあった。
 施設は鉄筋4階建ての立派な本庁舎を中心に、図書館や兵棋演習場、科学実験場などが置かれている。他にも宿泊施設や食堂もあり、弓道場などの娯楽施設も一部には備えられていた。またこの施設内の兵棋演習場では、海軍軍令部と連合艦隊による真珠湾攻撃の兵棋演習が行われてもいる。
 そして最近出来た施設が、丈夫で大規模な地下壕だ。
(とは言え、陸に上がった河童どころか、土にまで潜っては海軍も終わりだな)
 冷静に見ればそうとしか映らない状況だが、今の山科には僅かな感傷に浸るぐらいしか余分な時間は存在しなかった。移動中の殆ども、溜まりに溜まった寝不足の解消に当てている。
 そして、車中でも幾分寝不足を解消した山科は、司令に当たる野村直邦大将や参謀長などに会うより、まずは旧知の人物を捜した。同期の大井篤が司令部参謀として、ここに勤務していた。そして山科が、ここを間借りしている軍令部通信諜報班から伝え聞いたところでは、組織を実質的に切り盛りしているのは大井という事だった。
 大井との面会は、事前に電話で連絡を取ってあったので、ほとんど待つ事無く会えた。だがその日の大井は、山科の知っている大井とは明らかに違う雰囲気を持っていた。自分自身も大きく変わったという自覚はあったが、大井の雰囲気は一時的なものだ。
「久しぶりだな山科。けど、悪いときに来た。本当なら、ドイツからの無事生還も祝ってやりたいし、軍令部で色々と頑張っているおまえに感謝の言葉の一つもしなくてはいけないんだが、今日だけは許してくれ。できれば日を改めて来て欲しい」
 開口一番大井はそう言った。一時的情緒などで感情が動かされる事の無い沈着な性格という評価の高い大井らしからぬ振る舞いだ。
 兵学校の頃から性格は合う方だと思っていただけに、少しばかり意外だった。急ぐ身である山科自身、旧交を温めるというほどではないが、少しは人間らしい会話を欲していただけに、ショックだったと言った方が良いだろう。
「いや、俺の事なんてどうでもいい。それに俺も今日しか余裕がないんだ。それより、何があった。3日前に徳山に大型油槽船が入ったから、多少はご機嫌かと期待してたんだがな」
「その油を半分以上取り上げると、今し方連絡が入ったんだ。チョット待て……これを見てくれ」
 大井がポケットから出したグチャグチャになったザラ紙が出てきた。
「この電報が聯合艦隊司令部から回ってきた。護衛総司令部の燃料割り当ての半分を持っていくという無茶な命令と一緒にな」
 そう言って、山科に投げつけるように渡した電文をを広げてみると、通信班員が書き殴った電文が書かれていた。
『次なる決戦に際し、ここに海上特攻隊を編成し、壮烈無比の突入作戦を命じたるは、帝国海軍力をこの一戦に集結し、光輝ある帝国海軍水上部隊の伝統を発揚すると共に、その栄光を後世に伝えんとするに外ならず』
「……なんだ、これは」
「おまえもそう思うか。国をあげての戦争に、その美辞麗句だからな。馬鹿野郎め」
 いや、そうじゃない。言いかけた山科は、寸前のところで言葉を押し止めた。感情に走るより先に、今ここで得なければならない情報が二つある。だから、瞳を閉じて一度深呼吸してから大井に向き直る。
「この電文は、既に関係各位に発令されたのか」
「詳しいことは俺にも分からん。だが、隣の軍令部の通信の知り合いから回してもらったものだ。既に電文は発せられたものには違いない。沖縄での戦闘を前にしての祝砲代わりだろう」
(何という事だ。聯合艦隊司令部は作戦の意図を理解していないどころか、作戦そのものを妨害している)
 立ったまま呆然としている山科に、ようやく大井は席を勧めた。そして両者席についてから、ようやく会話らしい会話になる。
 もっとも、最初のつまづきがあまりに大きすぎるので、思い出話や同期の行方など当たり障りない会話がしばらく続く。それに耐えきれなくなったのだろう、大井が切り出した。
「なあ山科、別に俺に会いに来たわけじゃないんだろ。護衛総司令部に用があるなら言ってくれ。出来る限りの便宜は図る。これでも護衛艦隊は俺が仕切っているようなもんさ。源田艦隊じゃないが、さしずめ大井艦隊といったところかもな」
 大井の下手な冗談がかえって山科の心を締め付けたが、今の彼にとっては全てを利用しなければならない時でもあった。
「知っているかも知れないが、俺は軍令部第1部の甲部員をしている。そこで、今進行中の作戦立案も行った。おかげで今は呉に詰めっぱなしだ」
「ああ、何か大きな作戦が動いていると、噂は聞いたことある。しかし、次の作戦の準備か、主要艦艇の疎開作戦だともっぱらの噂だが。油の一部もそのためだろう」
「ああ、それは表向き、というより米軍に見せるための作戦だ」
「なるほど、本命の作戦がある……まさかそれが聯合艦隊司令部が独断で進めている艦隊特攻なのか」
「おまえまで、そんな大仰な言葉を使うなよ。いちおう作戦を知る立場の者から言わせてもらえれば、レイテより成算は高いぜ」
 大井の言葉に、山科は苦笑して見せた。
「しかし、レイテと同じ神参謀の考えた作戦だ。豊田長官に私案を持ち込んだという噂だ。水上艦隊に死に場所をと、大本営や軍令部も言いなりだ。それにあの電文を見ただろ。あれも神参謀が出したという話だ」
「おいおい、大井篤ともあろう男が、うわさ話を信じるのか」
「しかし、現に作戦は動いている。そうなんだろう」
「ああ、動いている。《大和》と《信濃》が動く予定だ。警備艦にされた《榛名》も実働状態に戻しつつある。今呉じゃあ、お祭り騒ぎだよ」
「だからと言って、護衛艦艇の燃料を削る話があるか」
「全くだな。で、どれぐらい持って行かれる。少しは何とかできるかもしれん。これでも伊藤さんの司令部との調整が今の俺の仕事だ」
 山科の言葉に、大井が考える素振りを見せる。もちろん、山科の言っていることはほとんどが嘘だ。
 作戦は山科が主に考えたのであり、聯合艦隊を動かす為に好戦派で強引なところのある神重徳聯合艦隊参謀に話をもちかけ、成功時の手柄を神もしくは聯合艦隊に渡すという約束で動いてもらったのだ。もちろん失敗時には、真相の一端を明して山科が泥を被ることになっている。
 だが、神は攻撃的作戦に有頂天になっている。ヘタをすれば、今見た電文一つで作戦は米軍の知るところとなるだろう。ならば、少しばかり神に個人的復讐を済ませておかねばならない。その為、友人に嘘を言うことについては、自身の胸の内に負の感情を沈めておく事にした。生きていれば、また謝る機会もある。
 そんな事を考えていると、大井が重い口を開いた。
「6000トンだ。今後南方から後どれだけの油槽船が帰ってくるか分からないが、今の時点で6000トンは痛すぎる。おかげで、北支那航路すら支えられるかどうかだ。すでに、沖縄の連絡路は責任が持てない状態だ。おまけに、おまえの関わっている作戦で、北号作戦で持ち帰った重油の全てが第2艦隊に回される。愚痴の一つも言いたくなるよ」
 それを聞いて、山科は手早く計算を進めた。
(6000トンなら艦隊は満載できる。必要量は3000トン少なくとも何とかなる、よし)
「分かった。その半分、3000トンは何とかしよう。作戦内容から考えれば、6000トンも油はいらん。それに、俺はこれから軍令部に一度戻るところだ。作戦に関わる俺が確固たる数字を示せば、軍令部の総意として意見は通る筈だ。それに今のご時世、護衛作戦に文句を言うやつもいまい」
「本当か。いや、おまえは嘘は言わないヤツだったな。しかし、聯合艦隊に睨まれるぞ」
「大丈夫だよ。もうそこら中から睨まれている。それより、交換条件と言っては何だが、頼みがある。これが訪問の理由なんだが、聞いてもらえるなら、対潜哨戒用のガソリンも少しばかり護衛総司令部の方に回せる」
「と言うことは、厄介ごとだな」
「ああ、厄介ごとだ。今極秘に進んでいる作戦は、3月頭の発動を目指している。それに合わせて、豊後水道と紀伊水道、できれば四国沖の徹底した対潜掃蕩をお願いしたい。これは、おまえの組織と海上交通路維持にも役立つ筈だ」
「抜け目ないな。……分かった、何とかしよう」
「ありがとう。正直、第2水雷戦隊じゃあ、潜水艦制圧が心許ないんだ。いまだに潜水艦など、高速で突っ切るだけで構わないみたいな気分が抜けてなくてな」
「やっと、少しは以前のおまえらしくなったな。けど、どうした。ドイツでよほど何かあったか?」
 いつの間にか軽い口調の山科に、大井も白い歯を見せる。仕事の話は終わり、と言うわけだ。
 だが、質問に答えて返すには、山科も軽口のままではいられない。自然険しい顔と声に戻った。
「ん、ああ、貴様だから言うよ。横浜の俺の家を知っているか」
「ああ、お貴族様の立派な邸宅だろ」
「まあ、そう言うな。あれでも一族で一番みすぼらしくて恥ずかしいんだ。それより、ドイツから命からがらその家に戻ってみると、末の妹の法子がいなくなっていた。聞けば、俺がドイツに行ってしばらくしてから、帝大の入学を蹴って家出さ。帰ると、空っぽの白木の箱が仏壇にあったよ。
 で、家出当初は家の者が方々探したんだが、なしのつぶて。ようやく学友の重い口を割らせたのが、サイパン陥落の放送の翌日だ。
 法子は、その友人と他数名にだけ、補充教員としてサイパンに行くと告げてあったそうだ。
 家には何も告げず周到に準備していたらしく、誰も止められなかった。俺も、法子が一生懸命勉強していたから帝大に行くと考えていた。あいつ、女だてらに法律に関わる仕事がしたいと言っていたからな。名は体を表すだよ。それが国民学校に、しかも危険な外地の学校に行くとは思わなかった」
「そうだったのか。折を見て挨拶させてもらいに行くよ。けど、知っているか、サイパンは全員玉砕という発表になったが、実はかなりの生存者がいるらしい」
「ああ、知っている。空襲を恐れる大本営のお声掛かりで、サイパンの情報を得るための人員救出作戦すら動いている。だが、法子は教師としてあの島にいた。責任感の強い子だったから、望みはないと考えるようにしている。けど、すまないな。せっかく再会できたというのに、暗い話しばかりで」
 そんな事はない。おまえに会えた事が、今日一番の朗報だよ。そう言った大井は、その後司令部への取り次ぎなど、護衛総司令部での雑事を全て引き受けてくれた。
 そして、大井との再会を約して海軍大学を後にした山科は、次の目的地日吉の聯合艦隊司令部を目指した。慶應義塾大学を間借りしている司令部で訪ねるべきは、参謀の神重徳大佐が一番の目的だ。
 本作戦が順調に伸展しているのは、先任参謀という位置にある神の強い押しがあったればこそだ。
 そして文字通り神でも悪魔でも利用するつもりの山科にとって、新米の大佐ごときが作戦を動かすには、聯合艦隊参謀神大佐は無くてはならない存在だった。
 なお日吉では、山科の到着を待ちかまえていたかのごとき神が全てのお膳立てを整えていたので、問題なくそして短時間に全てを処理できた。問題のある人物だが、仕事は一流だった。
 そして山科と二人でいる間、神は終始上機嫌であり、呉の様子をせがむように聞いては、俺も是非作戦に参加したかったと何度も口にした。
(要するに、自分も一緒に祭りに参加したいだけじゃないのか?)
 そんな不謹慎な事を思った山科は、自身の良心にたまりかねて、大井との会話の中で神を取引材料に使ったことをぶちまけた。
 その瞬間顔をひどく強ばらせた神だったが、すぐに破願し、ただ一言「よかよか。全ては二人の腹の中だ」とだけ答えた。

 山科が東京を駆け回った翌日の2月25日、ようやく「防号作戦」とされた作戦部隊の陣容が固まった。
 各艦、各戦隊では、急ぎ各種補給作業と整備点検、そして乗員の半舷上陸と少年兵らの家族との対面が開始されている。
 しかし乗員のほとんどには、ほとんど何も知らされていなかった。多くは最後の出撃と理解していたが、中には裏日本に疎開すると思っている者もいる。
 むろん暗号電文や電話連絡も必要最小限に止められ、その内容も一部艦艇の佐世保もしくは舞鶴への移動とされていた。
 佐世保へは水上艦隊を移動させ、米軍の沖縄侵攻に備えるとされ、舞鶴へは搭載すべき機体を失った空母の疎開が行われると言われていた。他にも、海上護衛総司令部では、対潜掃討作戦に連動して輸送船の運行計画も動いていた。
 先に発令されてしまった聯合艦隊司令部から景気の良い電文も、沖縄戦出撃を控えた艦隊に対する激励と言うことが強調され、さらなる電文も放たれた。これを軍令部は、これでウルシーにたむろする米戦艦の準備がより入念になり、彼らの兵站負担を増大させると説明した。
 そしてその日の午後3時、最後の軍議が始まる。

「司令、メンツは揃いました。3日後に作戦は発動可能となります」
 参謀長の森下信衛少将が、威勢良く口火を切った。場所は、今の日本で最も豪勢な海軍用会議室の一つ、《大和》の長官公室。そこには今日、集った無数の男達が集っていた。普段なら高級将校ばかりが十数名が入るだけの部屋も、大量の椅子を持ち込んで30名以上の大所帯となっている。
 作戦の意義を全ての者に伝えるため、各参謀、各司令部から駆逐艦長に至るまで呼び集めた結果だ。おかげで部屋は満員御礼。二月末のまだ寒い時期でも、ストーブ一つ要らないほどの熱気だ。
 もっとも、以前と比べると随分殺風景になっている。見事な松の盆栽が置かれていた戸棚、ビロードのカーテンなど、可燃物の全てが出撃準備の際に運び出されたからだ。
 壁を引き剥がすような無粋な真似こそ避けられていたが、全員が座っている椅子や机の殆ども、不燃性の高いものに置き換わっている。
 その過密な部屋の上座に司令官の伊藤整一中将が静かに鎮座し、すぐ右横の席を立って森下信衛少将が議事進行役を買って出ている。
 森下の声に、一人の挙手が上がった。今年に入ってから第2水雷戦隊司令官となった古村啓蔵少将だ。
「我が戦隊の一部は、はるばるシンガポールから戻ったばかりだ。作戦概容は読ませてもらったが、かくも危険度の高い作戦を急ぐ理由をお聞かせ願いたい」
 古村の言葉は、《大和》の長官公室に集った無数の男達を代表した言葉でもあった。
 言葉を受けた伊藤が、静かな表情のまま左側の男に目線を送る。軍令部から出向という形でうやむやのまま居座っている山科だ。
 視線を受けて立ち上がると、いくつかの書類を手で示しながら説明を始める。
「本日午前11時および今現在、東京は都合200機以上のB29の爆撃を受けております。これは、武蔵野などの航空機工場を狙ったものではなく、明らかに市街地を狙った無差別爆撃です」
 座が一斉にざわめくが、言葉の効果を確かめつつ山科は続ける。
「本日の爆撃の詳細は不明ですが、判明しているだけで規模が先月の二倍以上になっている事が分かります。都合200機ですので、爆弾投下量だけで500トン以上。しかも、陸軍航空隊は先週の米機動部隊襲来以後、迎撃を手控えるようになりました」
 何が言いたい。本作戦とどれほど関係がある。誰かが堪りかねて口にした。
「私が申し上げたいのは、敵は新たに矛を揃え、我々は楯をかざすことすらしなくなった、という事です」
「なるほど、それが作戦発動の理由か」
 大佐の階級を付けた男が、豪放に腕を組んだまま山科を睨み付けるように口にした。《大和》艦長の有賀幸作大佐だ。
 山科は、一度小さく頷いてから話を続けた。
「今の件は理由の一つです。また、2月19日から今日の空襲まで6日。他の大規模空襲の頻度から考えても、次の大規模空襲は三月頭になるでしょう。そして彼らがさらにその先の空襲の準備を始めた時点が、作戦発動の恐らく最初で最後の機会となります」
 理由は。有賀が続けて問う。
「硫黄島、沖縄、燃料。要約すれば以上三項目が、空襲の周期と並んで、作戦発動の理由となります。
 硫黄島は現在、栗林兵団の勇戦敢闘が続き、ペリリュー島並に保たせて見せると陸軍は言います。しかし、支援無しで長期間の保持は難しいでしょう。また、米軍があの島を偵察や補給用の飛行場として利用するだけなら、島の半分を占領すれば可能となります。恐らく来月の半ばまでには島が陥落せずとも同様の事態となり、米軍の偵察能力は飛躍的に向上します。そうなっては、艦隊の隠密行動は画餅です。
 次に沖縄ですが、米軍の侵攻予定は補給状況や物資の移動から3月半ばから後半。本土や沖縄の航空戦力を叩く前哨戦は、早ければ3月10日頃に開始されると予測されています。つまりこれが、スプルアンス艦隊の蠢動が開始される時期です。そして動き出したが最後、誰も止めることはできません。出来たとしても押し止めるのが、今の我が軍では精一杯です。是が非でも彼らが作戦準備中で動けない間に作戦を行わなくてはいけません。
 最後の一つは、皆様も苦慮されている燃料問題です。本作戦部隊は、何もしなくても毎日200トン以上の燃料を消費します。燃料の問題からも、三月初旬の作戦発動がギリギリの期限なのです」
 山科の説明が終わると、議場の温度が一気に数度下がったようにすら思えるほど重苦しいものになった。わざわざ説明されなくても誰もが現状は理解している。だが、改めて口にされると一層負の感情へと傾くのは道理だ。
 しかし落ち込んでばかりもいられない。今度は、榛名艦長の吉村真武大佐が挙手した。
「山科大佐の説明は了解した。本作戦が極めて微妙な状況にあることも。だが、そこまで期日を限り、危険を冒してまで作戦を決行する必要があるのだろうか」
 誰もが感じている疑問の一つであり、ここで消化しておかねばならない事だ。吉村は、先に山科から日本列島を襲う惨禍を聞いていたが、任期延長で別働隊を率いる松田千秋少将を始め、帰国して間のない完部隊の者はまだ詳しい事は知らない。そして知っておかねば、死地に赴く事はできないだろうとの配慮だ。それを了解している伊藤も、再び山科に発言を求めた。
 山科も数日前と同じ事を答える。
 このまま座視していれば、三ヶ月後にはB29 500機の大編隊が、毎週どこかの街に2000トン以上の爆弾を落として回る。そして、一ヶ月で死者10万人以上、焼失家屋100万戸以上、罹災者の数は最大で500万人に上り、被害は三ヶ月で三倍に膨れあがり、日本列島から都市というものが消滅すると。
 誰かが堪らず発言した。
「山科大佐、陸海軍が全力で迎撃してもなお、それだけの被害が出るのか」
「私は去年の秋から年末にかけて、軍令部内で防空戦の手段を色々と研究して参りました。ですが、守りきるのは不可能というのが結論です。同じ事は、総力戦研究所の過去の報告でも、多少大雑把でしたが同様の答えが出ておりました。
 また、それ以前はドイツに駐在武官として赴任し、現地でドイツ、イギリス、そしてアメリカの殲滅戦争の一端を見て参りました。ドイツの都市では、昼夜を問わず、そして3日を置かず、コンソリ級の1000機の連合国軍爆撃機がドイツの街を襲います。そしてあのドイツですら迎撃には手を焼いており、ドイツの美しい街々は日一日と廃墟になりつつありました。それは、明日の我が帝国を襲う情景でもあるのです。故に軍令部は、決死の覚悟を必要とする本作戦を立案いたしました」
 山科の発言の終了と共に、ため息にも似た吐息が各所で漏れる。
 その中で、松田千秋少将が発言を求めた。
「山科大佐、それで本作戦はどの程度、君の言う破局を先延ばしにできるのかね。私は外野だが、他の者にはきちんと言ってあげて欲しい」
 かつて総力戦研究所勤務の経験がある松田にとって、山科の言葉はすでに「知っていた」答えに過ぎない。故に心の平静は固く、言葉もしっかりしていた。
 そんな松田を一瞥し、そこから周囲を見渡した山科は、なるべく明瞭かつ明確に発音出来るよう下で唇を湿らせてから口を開いた。
「三ヶ月だけなのか」
 誰かの呟きに、虚空で小さく頷きつつ言葉を続ける。
「三ヶ月という数字は、楽観的に捉えた数字です。米軍は月間200機のB29を前線に送り込める態勢を構築しつつあります。故に、基地機能が人材の面で回復すれば、元の木阿弥となるのです」
「それでも貴官は、本作戦に1万人以上の将兵の命を賭ける意味があると考えているのだな」
 松田が再び問うと、「無論です」とだけ短く答えて着席した。意味は各々の頭の中で考えろというわけだ。
 そして三ヶ月だけの臣民の安寧というものに各々が思いを巡らせる中、伊藤が静かに立ち上がる。
「一部で考え違いがあるようだが、本作戦は特攻などでは断じてない。見事作戦を達成し、みんなで無事帰投しようじゃないか」
 その言葉で、座は収まり以後は作戦の細かい詰めの作業となった。
 なお、陣容は以下の通りだ。

・第一遊撃部隊
 (司令官:伊藤整一中将  参謀長:森下信衛少将)
戦艦《大和》 (艦長:有賀幸作大佐)
戦艦《榛名》 (艦長:吉村真武大佐)
空母《信濃》 (艦長:阿部俊雄大佐)
 (戦闘301飛行隊・紫電41型16機・零戦22型8機・彩雲2機)
第2水雷戦隊 (司令官:古村啓蔵少将)
軽巡洋艦《矢矧》
第7駆逐隊  《響》《霞》
第17駆逐隊 《磯風》《浜風》《雪風》
第21駆逐隊 《朝霜》《初霜》
第41駆逐隊 《冬月》《涼月》

・回天隊 (司令官:木梨鷹一大佐)
神武隊、《伊58潜》《伊36潜》《伊29潜》
(1945年3月1日出撃、伊29潜はすでに先行)

・別働隊(司令官:松田千秋少将)
第4航空戦隊 戦艦《伊勢》《日向》
・別働隊護衛(第11水雷戦隊)
第31戦隊 《花月》《榧》《槇》

 聯合艦隊最後の出撃と言って差し障り無いが、彼らの目標は敵主力艦隊ではなかった。
 第一目標はサイパン島アスリート飛行場。米軍がイセリーと呼ぶ空前の規模の巨大航空要塞だ。
 そして3月3日にB29200機以上の大規模爆撃があった翌日、絞りきった弓から放たれた矢のように第一遊撃部隊は行動を開始する。

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