■長編小説「煉獄のサイパン」

●第八章 4

1945年3月9日 サイパン島

 その日、いや数日前から、その場所及び他近在の二箇所は、現地時間の1945年3月9日午後5時30分のHアワーに向けて動いていた。
 そして約2時間後に行動は完全な形となり、その日の日付が変わる頃、闇夜の大空と大都市をキャンパスとした一つの絵として完成する筈だった。
(だが、これが絵だとしたら、題名はなんだろうか。ハンブルグ爆撃がゴモラなら、『ソドムの再来』。いや、陳腐だな。『地獄の業火』、ではストレートすぎるか。ならいっそ『煉獄』だな。行う方も行われる方も含めて、『煉獄』こそが題名に相応しいさ)
 ある場所をぼんやりと眺めている軍服姿の男は、幾何学的で科学的で、なおかつ大量生産的でもある光景を内心そう評した。
 周囲の情景も彼の内心を写すかのように、暢気そのものだ。椅子と丸テーブルがパラソルの下で涼しげに日光を遮られており、彼はその椅子の一つに半袖の軍服姿で腰かけている。
 とてもではないが最前線にいる軍人の姿ではないのだが、彼は歴とした合衆国軍人だった。
「大尉、ジョージ・マックスウェル大尉、尋問の準備が整いました」
 彼を呼びかけた男が不意に建物の影から現れ、これ以上はないというぐらい他者の手本となりそうな敬礼を決めて見せた。
 誰が見ても間違いそうにないほどの歩兵科の軍曹殿。10人ばかりの兵隊を率い、部下と上官からは頼られ、敵からは恐れられる軍隊の屋台骨の姿が声の先に屹立していた。
「ご苦労、マードック軍曹。では行こうか」
 会話を結んだマックスウェル大尉は、テーブルにあったアルミ製のマグカップの中の黒い液体を胃の中に流し込むと、立ち上がり規則正しい歩みを始めた。
 マグカップを置いて以後の仕草はまさに軍人であり、アメリカ合衆国が3年以上にわたり戦争を続けてきたという事を、この大尉の身体の中にも刻み込んでいる確かな証拠だった。
 そして軍曹と大尉という、いかにも軍隊にありそうな組み合わせの二人が向かった先は、既に一部が店開きしていた陸軍病院だ。完成すれば三千床になるという病院は、いまだ多数の工作機械を投じて建設中だ。しかし、整地されコンクリート打ちされた地面の多くができており、その上には丈夫なテント製の建物が建てられ始めている。無論、清潔さを求められる病院なので上下水道は完備しており、早くも一部が店開きしているという案配だ。それもこれも硫黄島での苦戦が影響していた。次の戦場、沖縄ではもっと酷いことになるだろうからだ。
 そして店開きしたばかりの病室用のテントの一つには兵士の警備が付き、双方の警備体制が敷かれている。この場合要人が入院しているか、囚人が収監されているかのどちらかで、尋問という言葉を使った通り後者の目的で使われていた。
 何しろ、陥落から半年以上たったサイパンで時折捕まる日本人のほとんどが栄養失調状態で、まずは体力を回復させねばどうにもならない場合がほとんどだからだ。
 その入口を前にて、大尉が小さな溜息をついた。
「陰気な任務だな。少女の尋問などとは」
「しゃきっとしてください大尉殿。それに尋問と言っても形ばかりですよ。まだ、怪我をして1週間と経っちゃいません。聞く事も、行方不明の女性の身元だけです。敵兵相手の尋問じゃありませんぜ」
「そうだな軍曹。少し話をするだけと思っておこう」
「それぐらいの気持ちの方がいいでしょう。……にしても、いつまでこんな事が続くんでしょうなあ」
「何、そう長いことではないさ。そう思えば、あの轟音をだって勝利のマーチに聞こえるだろう」
 そうして大尉が視線を向け、マードック軍曹も目線を向けた数キロ先では、イセリー飛行場始まって以来の喧噪が周囲に襲いかかっていた。
 カーチス・ルメイの一大博打、敵の首都を低高度大規模無差別爆撃する準備が最終段階へと移行しつつあったからだ。

「こちら73航空団、497爆撃群、第1中隊、中隊長機『ビッグ・レディ』、イセリー・コントロールどうぞ」
「こちらイセリー・コントロール、感度良好。どうした『ビッグ・レディ』」
「第1中隊・第2小隊4番機でエンジンの試験運転中にトラブル発生。今から予備機との交換を開始する。スケジュールの変更頼む、どうぞ」
「こちらイセリー・コントロール、状況了解した。予備の機体は間に合うか、どうぞ」
「機体には問題はない。整備は万全だ。しかし、問題はM69集束焼夷弾の積み替え作業で整備の手を煩わせるぐらいだな」
「了解だ『ビッグ・レディ』。アンタらのガキどもに言っておけ。今日のショッピングマーケットはどこも満員御礼だ、早く買い物を済ませろってな」
「オーケーだ、ケツを叩いておくよ、オーヴァー」
 サイパン島イセリー飛行場 コプラー飛行場、テニアン島北飛行場、グァム島北飛行場のそこかしこで、今のような会話が交わされている。
 3月9日の昼下がり、すでに搭乗員は昼食を終えてそれぞれの持ち場、つまりB29を動かす11人の下僕達は、機体に乗り込み持ち場に就いている。
 3つの島、4つの飛行場、5本の滑走路、そして約400基のB29駐機スペース、約4000名のB29クルー、約3万人の基地要員、今日は全てが全力稼働状態だ。
 3月4日の出撃以後、出撃をほとんど禁止して行われた整備により、B29の稼働率は通常の6割程度から、なんと85%を超えていた。
 基地や整備班によっては、稼働率を1%でも上げるために競争状態であり、ビールをダース単位で賭け事の対象にしているところもある。
 また、整備兵より忙しいのが、兵站部署、特に爆弾を取り扱い部門だ。
 理由は、爆弾積載量にある。今までは主に500ポンドから2000ポンドの爆弾を、5500ポンド、約2・5トン積載しただけだったのが、今回はM69集束焼夷弾という特殊な焼夷弾を約6トンも積載しているからだ。1機当たりで2・4倍。約340機の離陸を計画していたので、爆弾総量は2000トンにも達する。
 なお『M69集束焼夷弾』とは、日本本土を攻撃するために新たに開発された焼夷弾だ。ナパームとも呼ばれる事になるジェル状の油脂燃料を詰め込んだ小さな焼夷弾を38個詰め込んだクラスター構造の爆弾で、投下後に上空700m程度で分離し、一斉に降り注ぐ。
 計画では、子弾となった小型焼夷弾は、1平方メートル当たり3発が落とされる予定であり、日本の貧弱な木造家屋を根こそぎ焼き払う計画だった。
 また、子弾には比較的柔らかい目標への貫通力上昇のため真っ直ぐ落ちるように細長いリボン(布)が付けられており、直接的な攻撃兵器として人間を殺傷する事も期待されていた。そして、米本土で事前に行われた大規模投下実験では、リボンが発火しながら落ちる事から「火の雨が降るようだ」と観測兵に呟かせたという。
 そのような悪魔的発明による爆弾を、各B29は6トンも積載していたのだ。
 ただし、今回のB29には本来備わっている長所を殺してしまう一つの欠点があった。それは、ルメイ将軍が爆弾積載量にこだわったため、絶大な威力を誇るM2機銃弾をほとんど搭載せず、尾部の銃座以外が飾り物となっている点だ。もっともルメイは、今回の爆撃高度となる1500〜3000メートル程度での日本軍の夜間迎撃能力はほとんどなく、脅威とするに値しないとして、機銃弾を爆弾に置き換える措置を取ったという経緯がある。
 まさに戦争の合理主義の泰斗たるルメイ将軍ならではの作戦と言えるだろう。
 そのルメイ将軍は、全体のスケジュールが一目瞭然で分かる広大な指揮所の一角に、無面目かつ面白くなさそうな顔で淡々と任務に就いていた。1番機のテイクオフまであと2時間。一番手は、サイパン島から200キロ近く離れたグァム島の北飛行場。サイパン島での一番手もあと3時間ほどだ。
 とは言え、この時点でのルメイの役割は、部下が給料分通り、祖国愛分通りの仕事をこなしているかをただ眺めるだけとなっている。
 あとは精々、作戦開始のゴーサインを出すぐらいだ。
「順調ですね」
「ああ、その為の努力を今まで行ってきたからな」
「はい。特にこの5日間の整備兵の努力には目を見張るものがあります」
「確かに、その通りだ。そうだ参謀長、明日の休暇予定に変更はないか。十分に休息させろよ」
「整備兵の件でしょうか」
「他に誰がいる。爆撃は今回だけではない。向こう三週間で最低でも日本の六大都市は破壊し尽くす。故に、整備兵には存分に働いてもらわねばならない。それに、今日の稼働率は十分休暇の報償に値する」
 ハッ。内心から出る敬意と畏怖による敬礼を決めた参謀長は、早速兵站など担当の参謀を呼びつけて、手配を確かめている。
 そう、ルメイの指揮下に能無しや怠惰者はいない。彼自身が合理的で仕事熱心であるように、部下にも常にそういった空気があった。
 それが不満へと繋がらないのは、ルメイの施策が彼の部下全員の生存率を上げてなお戦果も挙げ、さらに今の会話にもあるように休暇など人間的な行動も十分に作り出すからだ。
 そして兵は働き、尽くし、決死の任務にも赴く。ルメイにとっては合理的回答の末の結論に過ぎなかったが、それでも将兵達は気にしなかった。自分を生き残らせる将軍こそが、当人にとって最も偉大な将軍だからだ。なればこそ頑張り、満足して任務にも励める。
 当のルメイもいつもの無面目の仮面の下では、大きな満足感を得ていた。
(そう、軍事行動とは合理的結論の向こうにこそあるべきだ。だから日本人は敗北するのだ)
 そんな彼の理想を体現したような光景を司令部の窓から遠望していたが、視界の隅に邪魔する存在が近寄るのが見えた。海軍との調整を行っている幕僚の一人だ。
 かちり。靴の踵を鳴らし敬礼した幕僚は、電文を持ちつつルメイに正対する。幕僚が直立不動なので、ふんぞり返るように椅子に座ったルメイは、目線だけで見上げる格好になる。
「閣下、ウルシーの海軍より警告を受けました」
 「内容は」先に要件を言えと言いたげなルメイだ。
「マリアナ諸島近海に、日本軍の大規模戦力存在の公算大。至急警戒を厳重にし、防衛体制を整えられたし。なお、安全が確認されるまで大規模爆撃作戦の延期を提案するものなり。アメリカ合衆国海軍大将レイモンド・スプルアンス。以上です」
「参謀集合!」
 目の前の幕僚の声がスプルアンスと言い切る前に、ルメイが大声を張り上げる。
「現在の、マリアナ諸島での警戒状況は」
 目で促された戦務参謀は、来るなり理由も分からず説明を強要される。だが、ルメイの迫力から必要最小限の現状だけを並べていく。
 レーダーは、島のもの、哨戒機のもの、ピケット艦のもの全てが問題ありません。また、現在マリアナ諸島各島から半径50キロは対潜哨戒網が張り巡らされ、護衛駆逐艦がチームを組んで定時哨戒を行っています。空も日本本土に向けて120度の扇状にB24、カタリナによって定期哨戒網が張り巡らされております。この24時間以内に、敵潜水艦発見の報告はありません。通常航路上も同様です。
 そう、注意すべきは潜水艦だけ。いまだ戦闘が続く硫黄島には、すでに飛行場が整備されP51の進出が行われつつあり、陥落も時間の問題だ。
 よし、オレに落ち度はない。そう考えた戦務参謀だが、ルメイの言葉は続く。ただし矛先は別だった。
「では、日本近辺での水上艦の活動状況はどうか」
 同じく目で促された次の男が答える。ハイ。海軍より回される潜水艦の偵察報告では動きはありません。佐世保に入った戦艦2隻も沈黙を守っています。
「出撃情報を調べ漏らした可能性は。海軍はそれを言ってきている筈だ」
 敵艦隊動くとの報告はどこにもありません。
「では、なぜ海軍は今頃言ってくる。ただの嫌がらせや嫌みとでも言うのか。まあいい、日本本土の写真偵察の最後はいつだ」
 3月4日、コプラー飛行場を飛び立った我がF13による偵察が最後です。また、今現在東京上空に気象観測機が進入しつつあります。横須賀からの出撃の可能性は皆無です。
「その間に、他の港から日本艦隊が出撃した可能性は」
 それが、先日の佐世保に動いた2隻の戦艦です。他かなりの数の輸送船が日本の太平洋沿岸で動いていますが、同時に日本海軍の対潜掃討が激しくなり、移動した艦船の詳細についてはいまだ調査中です。
「では、呉にいる他の艦隊が出撃した可能性はあるのだな」
 不明です。しかし、外洋では佐世保に動いた2隻以外の発見報告は届いておりません。沖縄での戦闘に対処するつもりならば、残存艦艇全てを佐世保に回す可能性も十分にあります。また、そのまま二手に分かれて時間差攻撃を仕掛けてくる可能性もあります。
「フィリピン沖の二番煎じを狙うか……。まあいい、F13を今すぐ呉と横須賀に出せ。それとカタリナとB24による捜索線を270度、15度間隔で行わせろ。どちらも緊急だ」
 B24の発進は、は硫黄島からの攻撃隊収容ですぐには不可能です。F13は、こちらの出撃を優先させれば作戦が数分遅延する可能性があります。
「F13は至急。B24は、可能な限り急がせろ」
 そこまで命令を発すると、ようやくルメイは小さく息を付いた。が、そこを別の幕僚が不意打ちする。
「閣下、作戦準備中のB29は如何しますか。作戦を延期……」
「貴様は馬鹿か」
 ルメイのあまりに無体な言葉に、会話の間に来た参謀長がフォローを入れる。
「いいかね、すでに作戦発動までグァムでは2時間を切った。今更後戻りはできない。もし延期すれば、ナパーム弾を弾薬庫に戻すだけで一日仕事だ。今日の攻撃は中止を余儀なくされる。それでは、政府の求める連中の軍事記念日の攻撃ができないのだぞ」
 イエッサー。カチコチになって答えた幕僚の一人は、脱兎のごとく退散する。
 それを見送りながら参謀長が小さく唇を振るわせる。顔は正面を向けたままで、ルメイも先ほどと同様に面白くなさろうな顔で椅子にふんぞり返っている。
「しかし、本当に作戦延期はならさないので」
「スプルアンス提督の言葉は気になる。が、ヤツにオレへの命令権はない。今の電文も頑張って要請扱いだ。今頃ハワイのニミッツが政府上層部をせっついているかもしれないが、すでに時間切れだ。陸軍からは何も言ってこない。加えて、我々の得ている敵発見に関する情報は皆無だ。現状では、作戦を進める以外の選択肢はあり得ない」
「ハイ。ですが、万が敵の一大規模攻撃を受ければ、飛行場とB29は瞬時に壊滅です」
 その言葉に、珍しくルメイが顔をゆがめた。参謀長ですら滅多に拝むことのないルメイの笑みだ。
「かもしれん。しかし、今の時点で何か不測の事態が起きれば、それは悪夢や奇蹟の類だ。事件そのものは、オレの感知するところでない。オレは目の前の問題に対処するだけだ。それにな、我々は自分たちが敷いたレールの上を走る大陸横断鉄道だ。後は、太平洋を望むまでインディアンを蹂躙し続けるしかないのだ」
 イエス、マイロード。自身の信じる主君に答えるような声色の参謀長だった。

 いっぽう、マリアナ諸島など方々に警報を発したウスリー環礁の第5艦隊司令部では、マリアナへの警報の1時間ほど前から俄にまき起こった混乱のため、違った意味でひどい喧噪状態だった。
「それで、敵艦隊が存在する可能性は」
「艦隊かどうかはともかく、例の『モビー・ディック』が、日本側呼称の九州=パラオ海嶺をなぞるように移動している公算が高くなります」
 根拠は。巨大な航空母艦のCICルームでは、司令部の参謀長デイビス少将が、海図を前に沈思する司令官に代わり情報を整理していく。
「ご覧ください」
 そう切り出した通信参謀が、航海参謀共々説明を始める。
「これは3月5日、紀伊水道へ赴いた潜水艦の報告です。同潜水艦は、前日に行方不明となった哨戒潜水艦に代わり急遽移動させたものです。しかし日本本土からの対潜哨戒機に追い回され、5日夕刻まで何もできませんでした。6日に入り送ってきた報告では、水深深くでも追尾及び爆雷攻撃を受けたと伝えています」
 その報告なら受けた。例の磁気探知装置を持っているかもしれないというヤツだろう。
「はい、これ自体ではそれ以上の意味はありません。しかし、その日の夕方南九州沖合に移動中の友軍潜水艦が、奇妙な電波障害を報告しています」
「ああ、だから『モビー・ディック』が戦艦2隻と共に佐世保に移動した公算が大きいという事だったな」
 ハイ。しかし訂正せねばなりません。本題はここからです。言葉を続ける参謀は、簡単なレポートを次々にめくりながら、丈夫な据え付けのテーブルの上に置かれた海図に丸印を描き、そこにと日時を添える。
 その円は、おおむね九州パラオ海嶺を沿うライン上にあり、沖の鳥島当たりからはマリアナ諸島に向かっているのが分かる。
 そして全てを記し終えた参謀が、デイビス、そしてスプルアンスにそれぞれ顔ごと視線を向けて本題へと入った。
「ご覧ください。これは、磁気嵐などで重度の電波障害を報告してきたものをまとめた状況です。報告があったのは、潜水艦、輸送船団、偵察機、哨戒機とバラバラですが、日時を順に追っていくと、このようなラインが形成されます」
 言葉の最後に、太いマジックで途中で一度折れ曲がった直線を描いた。そして、直線の先にはマリアナ諸島がある。
「君は、これが『モビー・ディック』が近づきつつある足跡だと言いたいのだね」
「はい、スプルアンス長官。報告される電波妨害は、本年2月に南シナ海、東シナ海で報告された磁気嵐もしくは電波障害とよく似た現象であり、どちらも移動しているという特徴を備えています」
「そして、2月当時南シナ海で行動していたのが、『モビー・ディック』だったというワケか」
 はい。故に私は、今現在日本海軍の大型空母がマリアナ諸島近海に迫りつつあると判断します。参謀はそう言葉を締めくくった。
 その言葉に対して、それまでくつろいだ姿勢で海図を眺めていたスプルアンスがやおら立ち上がり、海図の太いラインに自身の指を添える。
「敵は、我が軍の慢心、彼ら自身の注意深い準備行動、そして未知の新兵器によりパールハーバーの再現を狙っている。君はそう言いたいのだろう。だが、一つだけ問題があるぞ」
 何でしょうか。参謀がミスをしたかと顔に出しつつ首を傾げるが、スプルアンスに責める気配はない。
「うん。もし日本海軍の巨大空母が君の言った航路をこの時間で移動しているのなら、今頃我々は一つの報告を受けていなくてはならない。サイパン島からね」
 そうか。参謀長は唸り、発言者の幕僚もうなづいた。
「確かに、空母なら空襲を始めている可能性は十分にありました。軽率でした」
「いや、軽率ではないと私は考える。『モビー・ディック』とやらでなくても、同じような電波妨害装置を装備した艦艇が活動している可能性は十分にあるだろう。違うかね」
 レーダーの専門家に視線を向ける。
「簡単なもの、機能を限定した装置なら航空機にすら搭載するものが我が軍には装備されています。ですが、日本軍が今まで使った電波妨害兵器は、紙にアルミ箔を張った欺瞞撒のみです。あらゆるレーダー、無線を妨害する大規模な装置は我が軍にすら装備されておりません。また装置は、大電力を消費する可能性が高いので、必然的に装置全体も大型になる可能性が高くなります。少なくとも、航空機が使っていると言うことはないでしょう」
「では潜水艦は」
「可能性は皆無ではありません。潜水艦には元々大きな発電装置がありますから、日本海軍ご自慢の大型潜水艦に搭載して出撃させたというのなら、辻褄は合うかもしれません。大型水上艦艇については言うまでもありません」
「フム。では、警戒警報発令だ。日本海軍の潜水艦もしくは艦艇もしくは艦艇複数を伴う艦隊が、マリアナ諸島近海に存在する可能性大。艦種類は不明なれど、潜水艦もしくは水上艦の可能性大だ。それと、ウルシーのB24とカタリナを出せるだけ出せ。偵察の詳細に関しては君たちに任せるが、ウルシー=サイパン島のラインを南の基点として、5度から大きくても10度の狭い間隔で集中的に探すように。それとウィ・フリーツを出すぞ」
 お待ち下さい。参謀長が最後の言葉に叫び声に近い大声を出す。
「お待ち下さい閣下。万が一に備え、常に半数の2個機動群には乗員が詰めボイラーの圧力もある程度維持されていますが、抜錨して環礁を抜け、沖合で陣形を組むだけで最低でも6時間はかかります。また、サイパン島までは約900キロ……」
「参謀長、君も一つ失念している事がある。敵艦隊が最後に進路変更していれば、このウルシーが攻撃される可能性はゼロではないのだ。いいな、全乗員の半舷上陸も取り消す。全艦隊に緊急警戒警報発令だ。艦隊はただちに環礁沖合に出撃、その後別命あるまで待機。他の艦艇の全ても、空襲もしくは艦砲射撃に備えさせる。以上を命令文にして直ちに発令したまえ。忙しくなるぞ、諸君」
 イエッサー。
 命令一過、参謀長以下艦隊の全員が動き出す。
 地上最強の戦闘集団、いや巨獣の目覚めの始まりだ。
 だが、その余りにも巨大な攻撃力と強大な牙を支える巨体のため、艦隊の全体が動き出すまでに夕日は没してしまう。おかげでウルシー防衛の対潜チームの追加出撃も平行して行わなくてはならない。また、事前に待機状態だった艦隊ですら、凶悪な戦闘力を発揮できる状態になるまで四半日を要する。
 乗組員が半舷上陸していた残りの艦隊では、今から急ぎ準備しても、ボイラーの圧力を今から上げたりしていたら日にちをまたぐ事は確実だ。
 すべては時間との戦いであり、先ほど同様に椅子に腰かけたスプルアンスは、自らが使役することを許された存在の意外な弱点を思い知る事になる。
 だが、スプルアンスは幸運だった。
 艦隊の半数が環礁外に出て体制を整えるまで、日本軍機、艦艇を全く見ずに済んだからだ。オマケに何事もなく夕日を迎えることもできた。
 しかし、それはスプルアンスと第5艦隊、ウルシー環礁にとっての幸運であり、当然ながら不運な存在もあった。
 そして女神の寵愛を受け損ねた場所からの緊急電がスプルアンスの元に届いたのは、3月9日午後5時35分の事だった。


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