■長編小説「煉獄のサイパン」

●第九章 1

1945年3月9日 17時30分 サイパン島

「こちら『ビッグ・レディ』、イセリー・コントロールどうぞ! ……だめだ、さっきから雑音が多くて所々しか聞き取れない」
「今回は、今までにない大所帯です。雑音というより、ひどい混線なだけなのでは」
「かもしれんが、それすら分からない。無線手、どうにかならんか」
「やっているんですが、どの周波数も10分ほど前から雑音が入り始めています。調整すれば電波の強いコントロールの声は聞こえないほどではないんですが、近距離無線は通じないと思った方がいいでしょう。よほど混線しているんだと思います。凄い電波の量です」
「そりゃ、サイパン島からだけで200機近いB29が離陸するんだからな、仕方ないか。ん、なんだ」
 『ビッグ・レディ』の機長が丸い機首キャノピーの外を見ると、誘導員が両手の旗を振っている。『フォロー・ミー』と。
「ついて来いだとさ。最後は人間の手で管制するつもりらしい。ルメイ御大も相当やる気だな」
「ぐだぐだ言うな、さあ行くぞ」
 機長は言うなり機体をエプロンから滑走路へと持っていく。後ろには自分たちの中隊だけでなく、498爆撃群の4個中隊全機が続いている。
 ここからは、ずらずらと滑走路に向けての行進が最後の段階へと入り、彼らの『ビッグ・レディ』離陸開始と共に、約45秒間隔で50機以上の機体が1本の滑走路から飛び立つ事になっている。特にイセリー飛行場は、2本の8500フィートサイズの長距離滑走路を構え、整備員、誘導員共に熟練しているので、第73航空団を構成する4爆撃群のうち3個爆撃群が離陸する事になっている。
 おかげで周囲は約150機のB29が放つライトサイクロンエンジン2250馬力約600基の爆音が多重奏となり、機体の外だとまともに話せないほどだ。まさに、天地開闢の騒ぎもかくやの騒音だ。無線でも喉頭式でないと意味が無く、その点滑走路への誘導だけなら手旗信号の方が確実かもしれない。
 既に整備兵もエンジン始動と共に離れ、後は滑走路に順番に入るだけだから、不測の事態でもない限り、誘導員だけでも問題はない。
 そしてエプロンの端を「ぐるり」と回ると、そこには幅200フィートを強固すぎる密度でアスファルトで舗装された8500フィートの巨大な『道が』無垢なまま出現する。むろん『ビッグ・レディ』の位置はその一番端だ。
「さあ、ヴァージン・ロードだ。間違ってもこけたりするなよ。笑者になるどころか、一発でバーベキューだ」
 そう掛け声をかける、最終チェックに入る。
「各搭乗員最終報告」とは副操縦士。
「爆撃手、よし」
「航法士、よし」
「機関士、よし」
 まずは各将校が報告を終える。そして、
「無線士、よし」、「レーダー手、よし」……「尾部砲手、よし」と残りが続け、機長を除く10名の男達の名乗りが終わる。
 もっとも今日は、尾部砲手以外の3名の砲手は砲手は開店休業。偵察員としての役割しか担っていない。本来なら乗せなくてもいいぐらいなのだが、チームワークこそが大切な重爆撃機のクルーが、任務がないからと言って欠けることはない。
 『ビッグ・レディ』も、そのチームワークがあったればこそ、今まで生き延びてこれたのだ。
 もし全乗員の連携がなければ、日本軍戦闘機にエンジンやコックピットを打ち抜かれたり、エンジン不調で不時着を余儀なくされたりしていたかもしれない。特に機関士と航法士は、機長の内心のみでの自慢だ。なればこそ、第73航空団の一番槍を仰せつかったのだ。それが先任者の不意の戦死を経たものだったとしても、彼らに新たに役割が託された事は十分に誇るべき事だ。
 そして今、歴史に一ページを刻み込むであろうフライトが始まろうとしていた。
 既にグァム島の飛行場では離陸が始まっており、この段階で作戦が止まることはあり得ない。突然中止にでもなれば、混乱による事故が発生するほどの状況だ。何しろ、各B29は8000ガロンの燃料と、14000ポンドの爆弾を満載している危険物だ。
 時間は午後5時30分ジャスト。管制塔から離陸開始のゴーサインが届く。
「よし」
 小さく呟いた機長は、自ら握る操縦桿に少しばかり力を入れると、フットペダルを踏んでブレーキを解除する。もちろんそれまでに、離陸に必要な動作は終えている。全てはいつも通りの事であり、頭より先に身体が動くような自然な仕草だ。
 唯一気がかりなのは無線の調子だが、今回は爆撃群ごとでの進撃が想定されているので、上に上がれば問題も解決するだろうと自身を言い聞かせる。
 気密が確保された機外では、プロペラピッチを最大に上げられたエンジンがフル回転し、機体を最初はゆっくりそして徐々に加速し、数百メートルも走ると滑走路横の光景が走馬燈より早く後ろに流れていくようになる。もう、同族の銀色の鎧は見えない。
 途中、尾部砲手より、2番機滑走開始との報告も受けており、いよいよ止まることは出来なくなる。いや、後は飛び立つだけだ。
 離陸速度は95マイル。8500フィートの滑走路の8割方を使ってそこまで持っていく。すでにフラップは25度に開いており、空の眷属へと昇華する事を風の天使にお伺い立てしている。
 そしていかなる地上車よりも速い速度に達しようかという頃、計器速度は95マイルを突破。4つのエンジンを司る機関士がスロットルを一杯に持っていく。そしていつもより重い荷物のため100マイルを超えた時点で『ビッグ・レディ』は地上を走るアヒルから、空を翔る白銀の騎士への転職を果たす。
 すぐにも滑走路のラインが眼下に消え、滑走路端のクラッシュ・バリアーを超え、そして空へ、空へという気持ちと共に機長以下11人のクルー全員が高揚感に包まれる。
 だが、サイパン島の地面がコックピットの視界から消えようかという時、尾部砲手の絶叫が機内を駆け抜けた。ちょうど、副操縦士が着陸脚を収容している時だ。
「2番機爆発! 滑走路炎上!」
 「!」瞬間全員に戦慄が走るが、精神的に立ち直る暇はなかった。普段は冷静な『ビッグ・レディ』の機長ですら、爆発の瞬間は例外ではなかった。
 ほぼ同時に、彼の視界右前にあるコプラー飛行場の滑走路3分の1ほどの場所でも大規模な爆発が確認できたからだ。しかも左先の彼方にあるテニアン島の北飛行場からもかなりの規模の爆炎が上がるのが見えた。全てがほぼ同時であり、事故でないのは明らかだ。
 しかし機長は誰よりも早く立ち直り、操縦桿を一杯にすると同時に叫んだ。
「こちら機長、本機はこれより急上昇を行い現場空域を離脱する。規定を無視するため、各員は装備及び身体の固着に注意せよ」
 言うが早いか、『ビッグ・レディ』は急角度を描き、ニュートン力学を無視したかのような上昇を開始する。本来なら円を描くようにゆっくりと上がるべきだが、それすら殆ど無視した上昇角で、機体の各所がギシギシと嫌な音を立てる。側面の小さな丸窓からは、主翼が大きくたわんでいるのが見て取れた。だが、頑健なB29は機長の無体な拷問に耐え抜き、空の眷属としての咆哮を行うかのように4基合計9000馬力のエンジンを唸らせている。
 だが、上昇中は一筋縄ではいかなかった。ただでさえ機体が重いのに加えて、1分以下という一定の間隔で地上から次々に乱気流が発生し、いつしかそれは恒常的なものとなっていたからだ。
「燃えている。……サイパン島が燃えている」
 副操縦士が身を乗り出して眼下の光景を呆然と眺めている。
 機体の一番前にいる爆撃手などは発狂寸前なばかりに混乱して、誰かの名前を叫んでいる。恐らくは地上の業火の中にいる友人の名であろう。
 他のクルーも大いに混乱しており、見晴らしの良い各銃座からも様々な報告とすら言えない叫び声が、調律の全く取れていない合唱となって押し寄せる。
 その絶叫を情報として考え、機長自身の二つの目から入ってくる光景が現実であるなら、サイパン島のイセリー飛行場 コプラー飛行場、テニアン島の北飛行場の全てが激しく爆発炎上していた。
 おかげで天然の夕闇のオレンジに加えて、各機3万リットルの燃料と6トンもの焼夷弾が炎上する紅蓮の炎が、全ての光景を血よりも赤く染め上げていた。
 しかも、炎や煙を発しているのは2つの島ばかりではなかった。そう、眼前の災厄をもたらした存在がサイパン島の前方約30キロの所に存在し、『ビッグ・レディ』自身がサイパン島よりかなり西寄りに来たため、それをハッキリ見て取ることができた。
「ミステリアス・ヤマト……なぜ、こんなところに」

 『ビッグ・レディ』機長の疑問に答えられる者は、少なくともアメリカ合衆国軍の中にはほとんどいなかった。だが、寸前で兆候を掴んだ者達はいたし、彼らは行動を開始していた。
 しかしそれらが実を結ぶことはなく、日本人に久しぶりに溜飲を下げさせる事になった。
「イセリー飛行場、コプラー飛行場及びテニアン北飛行場に爆煙有り! 初弾着弾を確認」
「長官、やりました。我、奇襲ニ成功セリ、です!」
「うむ。予定通り各砲塔ごとに斉射続けよ。まずは4本全ての滑走路を使えなくする。飛行場全体の破壊はその後だ。固定目標とは言え各個射撃目標だ、くれぐれも慎重にな」
 その声に様々な声が反応し、最後に用候という日本海軍独特の応答が各所で木霊するように響く。「撃てば当たる」という有賀艦長のけしかけるような言葉、彼らの士気の高さを伺わせた。
 そして、命令に応えるように、40秒間隔で付近の空気を一気に押しのけるような轟音という表現すら不足する大気の振動が響き渡る。音を作り出した衝撃波は、発射の大本である《大和》艦上で人間がいれば即死に値するため、今この時の《大和》はまるで無人の戦闘機械のごとくだ。
 また、遠くから聞けば大きな遠雷のようにゴロゴロゴロと重く空気を振るわせるだけの音なのだが、音の到達速度の約二倍の早さの轟音を生み出した化学変化で天空へと押し出された物体が飛翔する。先端部を猛烈な摩擦熱で灼熱化させた1460キログラムの砲弾は、約35000メートルを飛翔し終えると、素早すぎる地上への接吻へと移る。
 この動作が合計5回、三箇所同時に繰り返される。200秒の間に降り注いだ都合45発の砲弾、65・7トンの重金属と火薬の塊は、所定の目的を完全に果たし終えていた。
 使用された91式徹甲弾は、主に相手戦艦の装甲を貫き内部から破壊するための砲弾だったが、この時は60トンの巨体に耐えられるよう建設された重アスファルト製の滑走路を巨大な運動エネルギーによって完全に破砕した。
 だがこの時何より恐ろしかったのは、重量1460キログラム、初速780メートル/秒が生み出した、45000メートル/トンオーバーの運動エネルギーと音速の砲弾がもたらす衝撃波だっだ。何しろそこは、遮るもののない飛行場なのだ。
 加えて爆発の瞬間巨大な衝撃波が着弾近辺を襲い、不発を避けるべくほとんど触発状態に調整されていた信管は同時に奥深くに内蔵した高性能火薬を爆発させ、砲弾を構成していた様々な重金属を周囲に飛散させる。破片の破壊力は、厚さ5センチの鋼鉄を簡単に貫く程だ。
 このため半径20メートル以内の者は、生存どころか生命の痕跡を残す事すら許されなかった。そして着弾と爆発の瞬間に発生し突風は、全備重量47トンを超えるB29の巨体を木の葉のように翻弄する。これが離陸のため滑走途上だった機体を木の葉のごとく弄んで転倒させ、爆発炎上に至らせたのだ。しかも爆発炎上したB29は、さらなる災厄を付近に振りまいていく。
 そして合計4本全ての重滑走路を完全に破壊された順序よく整列するB29達は、翼が有りながら翼をもがれた鳥も同然となり、わずか200秒の間に無敵の巨人爆撃機軍団から、危険極まりないのろまなガソリン運搬車に格下げされてしまう。
 当然ながら各飛行場は、今までにないパニック状態へと追い落とされつつあった。既に炎上を始めていた何機かのB29が導火線となって、機体の誘爆も始まっていた。しかも最も多数の機体が離陸準備に入っていたイセリー飛行場では、離陸のため整列していた真ん中で少しばかり目標をずれた1発の砲弾が炸裂していた。この砲弾直撃により、2機が地上から痕跡をほとんど残さす消滅。4機が爆風と破片で大破炎上。3機が直接的な爆風で大きく損傷。そして最も恐るべき連続誘爆が、スローモーションの爆竹のように白銀の機体を順番に襲っていった。導火線は、各機から漏れだした高純度航空機用ガソリン。日本軍機から彼らを護ってくれる高速を叩き出してくれていたオクタン価100の代物が、野火のごとくエプロンを蹂躙していく。
 そして滑走路脇の巨大で猛烈な火災は急速に自らの熱で上昇気流を作り出しつつあり、搭乗員や飛行場要員の血と肉を贄として、炎の悪魔を呼び出す儀式を始めていた。
「ファイアーストームが起きるのは時間の問題だな」
 丈夫な鉄筋コンクリートで建設されたコントロールセンターのすぐ外で、一人の男が淡々と目の前の情景を論評した。
 その顔は夕焼けが迫りつつあったサイパンの空の茜色と、滑走路脇の巨大火災が作り上げた業火の深紅によって朱色に染まり上がっていた。
 もっとも狼狽するでも悪魔的な風貌を浮かべるでもなく、我の強そうな顔、冷静な顔を単に赤く染め上げるのみに止まっている。
 ただ周りは、男とは反比例に混乱の坩堝だ。
「で、各司令官との連絡は?」
「タナパグにいる海軍司令官以外との連絡が不通です。特に、基地司令官と幕僚団はエプロン脇で出撃するB29を閲兵していたため現在MIA(行方不明)です」
「オレより他の先任は?」
「海上以外ではいません。現在所在が判明している島内の将官の中で、ルメイ閣下が最先任となります」
「了解した。全指揮権を代行する」
 カーチス・ルメイ少将が眼前の景色を見つつ淡々と部下とのやり取りを完了するが、さらに言葉を続けたげな部下を一瞥するとうなづいて促す。
「それとルメイ閣下、お早く待避壕へ」
 幕僚の一人が、文字通り腰を浮かしたような状態で話しかけた。いや、ほとんど絶叫だった。その声に顔を向けた男は、冷静な顔を裏切ることないドライアイスのごとき声色で答えを返す。
「ここに、まだ被害の及ぶ危険は小さい。当面は却下だ。引き継いだばかりの指揮ができん。君は、安全圏にあり基地およびB29を掌握できる場所を火急速やかに確保せよ。それまで臨時司令部は、火災が及ぶまでここに止まる」
 しかしそれでは、言いかけた幕僚を瞳の力だけで黙らせると、興味を無くしたかのように当面の課題へと、身体と頭、顔、そして声を動員する。足はすでに、元いたコンクリート製の建造物に向いている。
「砲撃してきた敵について判明した事は」
 男についてきた幕僚に尋ねる。普段は冷静なその男ですら、声が僅かばかりに上擦っている。
「はい。詳細は不明。しかし戦艦級の砲撃であることは間違い有りません。発射位置はアフトナ岬沖西南西の約18から20マイル沖合。砲撃数及び規模から、日本海軍の大和級戦艦1隻と断定して間違いないでしょう。他の敵戦力は、今のところ全く不明です」
 対処は。
「現在、現場海域付近には、3隻の駆逐艦が存在します。また海軍司令官は、サイパン、テニアン両島近海に存在する全ての駆逐艦以下戦闘艦艇を砲撃予測海域に向かわせる命令を発しました。方向や隊列、現在位置はバラバラですが、駆逐艦の数は先発を合わせて8隻。3機出ていた哨戒機も同様に急行中です。また、北飛行場、東飛行場では、緊急プログラムに従いスクランブルが発令されています」
 では、追加命令だ。スクランブルの各航空隊に対艦攻撃準備を急ぎさせろ。どれぐらい準備できる。
「緊急プログラム通りなら、順次爆装のP47、B24を30分以内に発進予定。それぞれ規模は1個中隊」
 ところで、なぜ友軍駆逐艦は戦闘中や急行中ではなく存在なのだ。それと、詳細な連絡はどうなっている。
「はい。現在サイパン島西北西海上約20マイルを中心にして、半径15マイルが強力な磁気嵐もしくは電波妨害により通信、レーダー探知が不能。半径20マイル、つまりサイパン島近辺までがかなりの電波障害の影響下にあります。しかも同現象は、約25ノットでサイパン島に急速接近中」
 そうだった。それで海軍司令官が半個戦隊の駆逐艦を向かわせたんだった。失言だった。で、戦っているのは、確認に行った連中か。
 ルメイをして冷静さにかげりが見えている言葉だった。しかし幕僚は気づかないまま続ける。
「はい。砲撃特有の噴煙は、砲撃開始とほぼ同時に目視で確認されています。しかし、全く連絡が取れません。向かわせた航空機についても同様です。まるで磁気嵐の雲に飛び込んだように、電波上での消息を絶っています。現在手に入る情報は、アフトナ岬からの監視で砲撃時の噴煙と思われるものが多数確認されているだけです。よって、当該海域では目視でしか敵を直視できず、自らの足でしか報告を届けられません。沖の艦艇が時折送ってくるサーチライトのモールスと有線電話だけが例外です」
 だが、その中心部近くから砲撃が行われている。こっちの戦力はありったけ向かわせているのだな?
「はい。稼働中のものは全て。また、タナパグ港で停泊中の戦闘可能な艦艇にも出撃要請が出ました。目下出撃準備中で、数は護衛駆逐艦が5隻。30分以内に出撃します。またウルシーでは、既に空母機動部隊の出港が始まっています」
 で、ヤツらはいつ到着する。
「20〜25ノットの推定速力及び推定進路から、30分後にサイパン島外縁5マイルに接近。約40分から50分後にはサイパン水道に入ります」
 砲撃の噴煙は?
「戦艦クラスのものは、約5分前から40秒置きに5回確認されたのみ。各飛行場の爆発と同数です。現在は確認できず。駆逐艦クラスの砲煙と砲撃音は複数確認。断続的に続いています」
 B29の発進は可能か。
「不可能です。全ての滑走路が大きく破壊され、4本のうち3本では滑走路内で機体が炎上中。機体の撤去と滑走路の臨時補修だけで2時間はかかります。特にイセリー第一滑走路脇では、497爆撃群の半数近くの機体がエプロンで爆発炎上中。現在も誘爆が激しい勢いで広がっています。すでに消火隊の手には負えません」
 497は全滅するな。よし、497は機体を棄てて搭乗員の脱出を優先させろ。他の隊は、可能な限りB29を退避壕に戻させろ。火から離すんだ。それと、火災鎮火に不要な要員全てに、徒歩で構わないから飛行場から少しでも離れさせろ。日本人捕虜についても危険が及ぶようなら同様だ。日本人は、MPと海兵隊に誘導させろ。警備も忘れるな。ステイツとオレに恥をかかせるなよ。あと、今更だが全島に最高度の避難警報を出せ。無駄かもしれんが、しないよりはマシだ。
 イエッサー。ルメイについてきていた幕僚が応え、命令伝達のため離れようとした瞬間、さきほどくぐったばかりの建物の扉から、激しい突風が押し寄せた。
 ゴッ。と鈍い熱風となった人工の風は、現在位置が危険であることを、中にいる人間全員に生命の根元レベルで伝えるに十分なものだった。
「インフェルノ!」
 誰かが呟きには大きすぎる声を出し、炎の舌のなめずりはルメイですら否定することが出来なかった。
 何しろ、このままこの場に止まっては、間違いなく全員丸焦げだからだ。
 そしてそれは、ついに風と炎の魔人がイセリー飛行場に召還された証でもあった。
 ここにサイパン島の煉獄は幕を開けたのだ。

 サイパン島北部で紅蓮の炎の竜巻がまき起こった事は、遠く30キロ彼方の第一遊撃部隊からも遠望できた。100メートルに達する深紅の竜巻は、水平線の遙かに昇り、周囲の気圧を急速に上げつつ上昇気流を作り出し、際限のない成長を続けている。
「水平線の先からの初手の奇襲は完璧でしたが、本格的砲撃を急いだ方がよさそうですな」
 砲術参謀の宮本大佐が、双眼鏡をのぞきながら脂汗をかく。望遠鏡から見える光景ですら、自身が起こしたとは信じられない情景となっているのだ。つい数分前に砲撃開始した時は、開戦時の時と同じぐらいの興奮に包まれていたが、今では眼前の惨状に対する怯えに近い感情が多くを占めていた。最高の見晴らしである第一艦橋全体の雰囲気も、砲術参謀の内心に近い。全員が、自らの手により地獄の扉を開いた事を自覚していたからだ。
 しかし今彼らは任務を遂行中であり、感情よりも理を、指揮を優先させるべく頭脳と口を酷使する。
「コプラー飛行場とテニアン北飛行場の煙はまだ小さなものだ。そちらに攻撃を集中するべきではないか。イセリーはもう放っておいても、炎と竜巻が全てを破壊してくれる」
「いや、彩子さんの言が正しければ、B29は1機1機が広く取られた駐機スペースに置かれている。100メートル間隔では、自然の誘爆による全滅はあり得ない。今の爆発は、偶然出撃前で滑走路に並んでいた機体群と判断できる。よって攻撃は、予定通り行うべきだ。その為に《榛名》も連れてきたんじゃないか。それに、もうすぐ3万、第二段階だ」
「だが、《榛名》が零式弾を撃つためは、あと5キロ必要だ。その間に、敵の防衛艦隊がここまで来る恐れがある。現に第2水雷戦隊は敵駆逐艦の接近を報告している。すでに交戦すら始めているんだぞ」
「速度は上げれんのか?」
「無理だ。今でも艦隊主力は全て24ノット出ている。これ以上は隊列が乱れるし、最高速度による振動時の砲撃訓練も行っていない。加えて言えば、24ノットでの巡航は3時間しかできない。でないと駆逐艦の一部は呉に戻れなくなってしまうからな」
 参謀達の議論が先行しているのは、最初の砲撃から次の砲撃までしばらく時間があるためだ。
 3万5000メートルから《大和》が砲撃開始したが、零式通常弾なら3万メートル程度が最低限の有効射程であり、14インチ砲装備の《榛名》はもう5000メートルは射程距離を差し引いて考える必要がある。となれば本格的な一斉砲撃開始は距離25000メートルであり、零式通常弾を撃ちたければ最初の斉射5連終了から10分強はただ高速で進むしかない。
 いっぽう艦隊の前衛を固める第2水雷戦隊は、接近中の駆逐艦の煙突煙を複数確認し、念のための護衛に一個駆逐隊を残して既に戦闘状態に突入している。幸いにして戦力差は倍近く勝っており、戦況は圧倒的優位に進んでいる。
 また、第41駆逐隊の《冬月》《涼月》の2隻を従えて後方を進んでいた《信濃》は、その2隻共々サイパン島から距離25000で110度左に舵を切る。彼らは別の任務をこなした後に、一足早く日本本土への進路を取ることになっているからだ。何しろ空母が島に近づいた所で意味がない。島まで25キロに近づくのも、サイパン島のレーダーを自らが積載する「ブロッケン」で一時的に無力化し、脱出を援護するためだ。
 なお一時は《大和》にブロッケンを乗せ変えようという話しもあったのだが、装置が砲撃時の振動に耐えられないというドイツ人技師の断言と言える助言を前に霧散していた。
 そして飛行場まで25キロを切った時点で本当の意味での戦闘が開始される。
 10キロほど前方では、既にいくつもの噴煙が立ち上っており多くは星条旗を掲げた軍艦だった。
 《矢矧》以下第2水雷戦隊の駆逐艦7隻は、二倍以上の戦力でサイパン島周辺をいつも対潜警戒している排水量1000トン程度のメイド・イン・USAの護衛駆逐艦3隻を血祭りにあげていた。
 3インチ砲3門、魚雷3本しか対艦火力のない《カノン級》護衛駆逐艦に対して、いまだ5インチ砲4門以上、魚雷十数本を持つ日本海軍の艦隊型駆逐艦は、駆逐艦と巡洋艦ほどの火力差があった。
 しかも《カノン級》護衛駆逐艦の速力は、最大でも21ノット。6000馬力の機関にそれ以上の船足を望むのは酷だが、『にすいせん』の将兵にとっては鴨の行列でしかない。しかもディーゼル機関なので、砲撃妨害の煙幕を展開するのも無理だ。
 そして、1隻の《カノン級》駆逐艦が、自らの貧弱な搭載魚雷を誘爆させ友軍に危機を知らせる照明弾となった時、第一遊撃部隊の作戦は第2段階へと移行する。
 イセリー飛行場までの距離は3万メートル。
 地獄の蓋が開ききるまで、あと7分の距離だった。


●第九章 2 へ