■長編小説「煉獄のサイパン」

●第九章 2

1945年3月9日 17時30分 サイパン島

 病室テントの中は意外に閑散としており、うちいくつかはカーテンの衝立で間切りされてすらいる。マックスウェル大尉とマードック軍曹の目的地は、その擬似的にコンパートメント化された病床の一つだ。

「お加減は如何ですか」
「おかげさまで、随分と良くなりました」
 マックスウェル大尉の声に、軍人の園であるサイパン島に似つかわしくない小鳥のさえずりのようなソプラノが響いた。
 もっとも誰も気にする者はない事が、声の主がテントの住人であると主張するかのようだった。
「それは何よりだ、ナオコ・ホシノ。ただ、私も任務を果たさなければならない、分かるね」
 マックスウェルの穏やかな声に、表情を固くした奈央子がかすかに頷く。
 奈央子は、3月4日に貫通銃創を肩に受けて倒れ、そのままマードック軍曹の手により軍医の元に運び込まれた。幸いにして、弾が骨も避けて貫通していた事と処置が早かったことから大事には至らず、もう上体を起こすばかりか松葉杖付きながら一人で歩けるところまで回復している。
 今も左腕を三角巾で吊しているだけで、顔色も健康である事を伝えている。意識も銃撃から翌翌日には戻り、一昨日からは簡単な尋問も始められている。
 そこで尋問官でもあるマックスウェル大尉に再びお鉢が回ってきて、第一発見者でもあるマードック軍曹とその分隊がなし崩しに付き合わされている。
 もっとも、基本的に暇で平和な事が多いサイパン島では、一人の日本人に複数の軍人をあてがっても非難は出ない。飛行場もしくは航空隊関係でない限り多くの者が暇であり、他の者も丁度良い暇つぶしができて羨ましい、という程度の反応しか示さない。
 ただ、大尉と軍曹は一月半ほど前に、比較的好意的な状態で関わった相手だけに、その内心は暇つぶしとは縁遠い所にあった。
 しかも相手がティーンの少女とあっては尚更だ。
(色以外は、まるで日本人形だな)
 白い病院服に身を包み、白いシーツを足下にかけて身を起こしている奈央子は、テントの窓から差し込む夕日少し手前の黄色の強い陽光を浴びて髪は薄く銀色に輝き、伏し目がちな鳶色の瞳は思い詰めた憂いで小刻みに揺れている。
 瞳の揺らめきこそが人形でない証だが、今日のマックスウェル大尉にとっては、彼女のそうした外見にこそ用事があったと言うべきだろう。
 そこで、フーゥと小さく溜息をつくと、一気に本題へと入った。彼にとって、個人的にそうすべきだけの理由があったからだ。
「今日は辛いお話をするためには来たわけではないのです、ミス・ナオコ・エーデルシュタイン」
 瞬間、奈央子の肩がビクリとなった。隣のマードック軍曹など、傷に響くんじゃないかと娘を心配するような顔になっている。
 そして十数秒そのままうつむいたままだった奈央子はゆっくりと顔を上げると、正面からマックスウェルを見据えた。
「どこで、その名を」
「ステイツから通知されました。あなたの父上カール・エーデルシュタインは、日本帝国のビザでドイツ入りし、1941年の11月末に中立国のポルトガルからアメリカへと渡りました。その後大陸を横断してサイパンに戻ろうとしたそうですが、西海岸で米日の開戦を迎えています」
「では父は」
「はい、ご息災です。ステイツ内の一族の元に身を寄せ、ご本人は既にアメリカへの移民手続きを済ませておられています。そして、サイパン島が戦場になったというニュースがステイツで伝えられると、捕虜や収容者の情報を集めるようになり、ようやく貴方の名を見つけ、私の元に知らせが来たという経緯になります。
 ……一つ質問してよろしいでしょうか。聡明な貴方が、なぜ今まで素性を黙っておられたのですか」
 最後の言葉に瞳の潤みを一層大きくした奈央子は、またうつむくと小さな唇を振るわせるように話し始めた。
「私の姓、エーデルシュタインが示すとおり、私の父と父方の一族はユダヤ人です。私も父が同胞と助けるため島を出る前に、成人の儀式は済ませました。……そう、私もユダヤなのです」
 その後は父と父の一族の素性から、島で一人で過ごした下りまで全てを話していった。
 エーデルシュタインとは、ドイツ語で「宝石」を意味しており、それは彼女の先祖が経済的に成功し、その時掲げていた看板を名前として認められた事に起因している。ドイツに行けば、誰でもユダヤ人と分かる名前の一つだ。
 そして父はサイパン島がまだドイツ領だった頃、奈央子の祖父に当たる時代にサトウキビ農園経営のため移住してきた。だが、ドイツは移民後すぐに敗北。サイパンは新たに日本領になるが、彼らはそのまま残った僅かなドイツ人の一部となった。ドイツに帰らなかったのは、農園経営が比較的うまくいっていた事もあったが、ドイツ、欧州での差別にあった。日本人は、ユダヤ人について何の知識も偏見もなく、名前を聞いても姿を見ても「こりゃ珍しい、ドイツさんだ」という以上の感情を示さなかった。しかも島に来た日本人の多くは、日本本土よりも沖縄という日本の外郭地に近い場所からの移民が多く、異邦人たる自分たちを温かくコミュニティーに迎えてくれた。
 だが時代は遡り、軍国主義の時代がやってくる。
 日本は、ユダヤ人差別を国策とするナチスドイツと同盟を結び、ナチスの魔の手がいつ及ぶのかと気が気でなかった。そのため当時国民学校初等科だった奈央子は、見た目が現地で娶った沖縄出身の妻の血が色濃く出たため、そのまま母親姓に変名した。
 そうして日本は泥沼の戦争へと雪崩れ込み、遠く辺境のサイパンですら軍国主義の風は強くなる。そうした中、日本人としては妙にあか抜けた山科法子が新任教師として赴任し、父が長い間留守になったので、保護者のように可愛がってもらうようになる。
 ただ法子を始め現地の日本人達は、自分たちをドイツ人もしくはドイツ人のハーフとしか見ておらず、ユダヤだとは全く考えなかった。
 しかし、ついにはアメリカと戦争を始め、ドイツの情報がニュース映画などで断片的に伝えられ、島に軍人が増えると共に、奈央子の内心の恐怖は強くなっていった。
「怖かったんです! ユダヤ人だとバレたらどうなるかって。けど、真実を話した法子先生は、日本は大丈夫、八紘一宇ですもの。誰も差別なんてしないわ。事実内地でそんな事はなかったわ、と。けど、今度は捕虜になってすぐに、アメリカにも収容所があるって兵隊さんが話しているのを聞いて、だから、だから……」
 言葉が途切れると、軍曹は額にぴしゃりとグローブのような手を当て首を横に振り、大尉も切り出したときとは比べものにならない大きな嘆息で会話を締めくくった。
「フー。なるほど、話はよく分かりました。しかし安心して下さい。貴方はステイツへの移民者として、アメリカ合衆国の土を踏む事ができます。もちろん収容所に収容される事もありません。ステイツはナチスの暴虐を決して許しはしません。そればかりか、ステイツでは数多くのユダヤ人が活躍しています。
 それに、かく言う私も実はユダヤです。ホラ、万が一の時はラヴィが祈りを捧げてくれるんですよ。名前の方は、先祖代々の変名、偽名行動の結果、片鱗は残っていませんけどね」
 大尉が下手くそなウィンクして示した衣服の先には、認識証にユダヤ教を示す「Ju」の文字がある。
 それは奈央子が目にした、父以外初めての本当の同族という事の証だった。
 下手くそなウィンクの後の大尉の顔は真剣そのものであり、そればかりか偶然見つけた同族を何としても救うのだという使命感に燃えている。
 しかしその瞳は、奈央子の望んでいたものであると同時に、違うものでもあった。そして彼の瞳を見ると、急速に心が落ち着き、一つの決意が固まるのが奈央子自身わかった。
 奈央子は軽く目を閉じ、ゆっくりと頭を振る。
「ありがとうございます、マックスウェル大尉。けど、アメリカへの移民や帰化は、少なくとも今はできません。それが父カールの言葉でもです」
 なぜ。そう二つの声が問いかける。
「私の身体には日本人の血も半分流れています。ごく一部を除いては、他の島の人と同じように日本人として育ってきました。だから、島のみんなを裏切ることはできません。父と同じ道を取る事はあっても、それは戦争が終わってからになるでしょう。色々と骨を折っていただいた事には感謝の言葉もありませんが、今は私の我が儘をお聞き入れできないでしょうか」
 その言葉にしばし瞑目した大尉と軍曹だが、十数秒の後に大尉は静かにうなづいた。
「分かりました。では、引き続きあなたを日本人捕虜として扱いましょう。この件に関するお話は、また後日と言うことにしたいと思います。……もっとも、戦争はそう長くは続かないでしょう」
 そうして大尉が視線を向け、奈央子とマードック軍曹も目線を窓へと向けた時、突如夕日とは比較にならない深紅の閃光が窓を埋め尽くした。
 そして数秒遅れで雷のような轟音が島全体に響き渡り、さらに遅れてテント全体が激しい風に煽られてビリビリ振動する。
「爆発事故!」
「嫌、違うジャップの攻撃だ!」
「バカ言え、島のゲリラにこんな爆発ができるか!」
「砲撃だ。しかも戦艦クラスのなっ!」
 テントの外から、様々な男達の声が、様々な憶測をがなり立てる。その間にも閃光と爆風は定期的に押し寄せ、それが終わると急に静寂が訪れた。
 咄嗟に奈央子を抱えて伏せたマックスウェル大尉達だったが、立ち直ると二人で目配せし軍曹は外へと駆け出す。
 そして大尉は、奈央子へと視線を向けた時点で不意に冷静な思考が囁くのを感じた。
「今の爆発が何であるかご存じだったのですか」
 大尉の声は、任務に向き合うときの事務的な口調だ。
 奈央子は、彼の瞳に視線を合わせると、ゆっくりと、しかし確実にうなづく。
「ハイ。けど、日本軍が大きな攻撃を近々行うという事を断片的に聞いただけです。私には、島に残った兵隊さんの攻撃か、内地から飛行機が飛んできたのかすら分かりません。ただ私達は、半ば偶然に長らく飛行場を見て過ごしていたので、情報提供を求められました。これが大尉さん達が、私から聞きたかった事ですよね」
 大尉は固く頷く。
「そうです。しかし、もう一つあります。脱走した山科法子の行方です。……今となっては、あまり意味がなさそうですが」
「それも分かりません。私が知るのは、日本軍の兵隊さんとあの日の夜二人で会う予定だったという事だけです。今法子先生が、島のどこかで潜んでいるのか、島の外に出ていったのかすら……」
 言葉の最後にうなだれてしまった奈央子を見ると、言葉が真実であると同時に、少女にとって残酷な現状を再確認させた事が見て取れた。
「ありがとう、奈央子さん。では、次は我々が義務を果たす番です。さあ、肩に捕まって。この場から退避します。爆発から考えて、ここも危険でしょう」
 普段の口調を取り戻した大尉に視線と顔を戻した奈央子は、彼の顔を見ると静かに頷いた。国、民族、敵、味方、簡単に超えられない壁ではあるが、決して超えられないのではない事を大尉の表情が教えてくれたように思えた。

 松葉杖と大尉の肩を借りて病室テントを出た奈央子の頬を、熱く熱せられた風が嬲った。ちょうど風呂焚きをしているかまどからの熱気を、全身で浴びたような感じだった。
 風上を見ると、ヤシ葉の向こうに大きな噴煙が見え、その中に巨大な炎がチロチロと下を出していた。
 今までに見たこともない、巨大な火事だ。ヤシの木々の合間を見ると、巨大な炎の蛇がのたくっているような錯覚に襲われる。しかもその蛇は、炎の照り返しを受けて真っ赤に輝くB29に間断なく鎌首をもたげ飲み込んでいる。
 見ている間にも、また1機B29が炎の蛇に呑み込まれ、呑まれたB29も巨大な蛇と化した。
 遠望できる光景はあまりに現実感がなく、熱風と関係があるとすら思えないようにすら感じられる。周囲の喧噪も、現実感からは遠かった。
 ついさっきまで病室テントの周りは、出撃準備に忙しい飛行場とは無縁であるかのように、病院特有の静寂さと落ち着きに包まれていたのだ。だが今の飛行場は、数キロ先あるというのに病院にまで影響を与える熱風と喧噪をもたらしている。
 奈央子は、唯一自身が頼れそうな人物の顔を見やったが、彼は冷静な表情を崩さず炎を見つめ続けている。幸いというべきか、飛行場からは距離があるので顔が照り返しで真っ赤に染まるには至っていない。
 もっとも彼は動くでもなく、ただ立ち尽くしているようにも見る。
 するとそこに、ジープの背に乗ったマードック軍曹が戻ってきた。車には数名の部下も乗っている。
「マックスウェル大尉、直ちに避難をしてください。イセリーの火災はすでに手が付けられませんぜ」
「了解した。で、火災の原因は」
「噂レベルの話ししか集まりませんが、事故じゃありません。ジャップの戦艦による艦砲射撃です。水平線の先から撃ってきたらしく姿は見えませんが、着弾は恐ろしく正確です」
「戦艦か、では攻撃は続くと見るべきだな」
「はい。しかし、海軍や東の北の飛行場からは迎撃部隊が出ているという話しです」
「戦艦相手では、時間稼ぎにしかならないだろう。ここはウルシーじゃないから空母も戦艦もいない」
「大尉殿、分析してる場合ではありませんぜ。手早く避難の方を」
 大尉は、そこで始めて首を縦に振る。
「軍曹は、捕虜を含め病院関係者の避難を分隊全員で手伝え。他の隊には私の命令だと言え」
「大尉殿は?」
「私は本部に一端戻る。あそこに収容している尋問中の者を避難させなくてはならない」
「危険です。飛行場から1キロと離れていませんぜ」
「だからこそ、将校たる私が行くんだよ。扉の鍵も私が持っているしな」
「では、せめて我が分隊をお供に」
「マードック軍曹、君にはもう命令を発したと思ったが」
 その言葉に、軍曹がしゃちほこばった敬礼で返す。それを見て満足した大尉は、少しばかり頷く。そして肩を貸していた奈央子を軍曹に優しく預けると、振り返る事もなく駆け足で立ち去っていった。
 別段、今生の別れの笑顔や決然とした表情を返すでもなく、単に当たり前の仕事に戻る仕草のように、そそくさと立ち去っていった。
 その間奈央子は何もする事ができず、言葉をかけることもできず、ただ事態を傍観するしかなかった。
 彼らは軍服を着ている以上、義務と責務で動いているのであり、個々人の感情の入り込む隙間はない。しかも大尉自身は、ほとんど献身といえる任務を果たそうとしており、捕虜の、ましてや子どもの出る幕ではなかった。
 そうして呆然としている奈央子に、肩を貸していたマードック軍曹が一瞬だけ瞳に一辺の優しさを湛えて瞳を交錯させると、厳しい口調で矢継ぎ早に命令を下していく。
「トニー、日本人捕虜を安全な場所まで護送しろ。他は、病院関係者とエドワードの指示で病人の移送を手伝え。急げ」

 サイパン島南部の平原で突如発生した火災と爆発は、破局の訪れから5分と立たないうちに人の手に負える分水嶺を超えつつあった。
 そして最初の強烈な衝撃波の発生から約7分後、次なる破壊の使者が訪れる。今度は数が多かった。
「来たぞ、第二波だ」
 南洋のジャングルの隙間から、双眼鏡でのぞいていた男は鋭く小さな声で周囲に状況を知らせた。
 男の服装は、米軍が捕虜に与えている作業服。しかし彼の居る場所は、サイパン島中央部にそびえるターポッチョ山の西側斜面中腹。辺りは完全にジャングルに埋没しており、獣道一つ見つけるのも一苦労の場所だ。
 しかし、なればこそ今彼らのテリトリーなのであり、暢気に双眼鏡で見物に洒落込めていたと言える。
 双眼鏡を持つ男の周囲には、彼と同じような米国製作業服の者と、ボロボロになったカーキ色の日本陸軍服に身を包んだ者が数名いた。
 中には、いまだ三八式小銃を抱えている者もおり、動きや言葉ぶりから一定の秩序と命令系統が存在する敗残兵の群でない事が伺えた。
「犬神中尉殿、本当ですかっ!」
 来た、という犬神広志中尉の声に反応した一人の声が、周囲に大きく響く。それを、振り返りざまに右手の人差し指を閉じた口の前で立てて制止する。
 そして爽やかな笑みを浮かべて続ける。
「ああ、間違いない。灼熱した弾頭が見える。戦艦の砲弾だ。……あと五つ、四つ、三つ、二つ、一つ、零っ!」
 犬神が零と言うと同時に、夕闇迫るイセリー飛行場、コプラー飛行場、そしてターポッチョ山から10キロ以上離れたテニアン島の北部に、複数の激しい閃光とほぼ同時に巨大な噴煙が立ち上った。
 イセリー、コプラーからの衝撃波も、強風となって島の南部一帯を駆け抜け、それよりも遙かに早く巨大な雷のような音が全周に響きわたる。そして爆発による衝撃波が押し寄せるより少し早く、小さな地震のような地響きも伝わる。
 同じ事は30秒分間隔で10回続き、さっきと同じように唐突に終了した。
 飛行場の方を見ると、今度は先ほどよりも広い範囲に破壊が広がり、火災と破壊の規模も倍以上に膨れあがっていた。先ほどまで慌てて退避しようと動き始めていた白銀色の十字架の群は、今ではほとんどが燃え盛る炎の中だ。今度の砲撃は、滑走路ではなく周辺施設を狙ったと察しが付く。狙いも正確だ。
「まあ、何10トンもガソリン積んでりゃ、マッチも同然だな」
 うそぶいた犬神だが、目の前の事象の当事者でない事が少しばかり歯がゆかった。しかし周囲は先ほどから歓喜に包まれたままで、今にも万歳三唱を始めかねない者もいる。
 彼らの今までの辛酸を思えば当然の感情かもしれないが、無謀とは縁遠い犬神はどんな場合でも隠密行動を徹底させていた。
 もとは飛行士なのだが、法子達との一ヶ月余りの生活の間に経験の長い彼女たちから多くを学び取り、また自身の教訓とを掛け合わせた結果だ。
 おかげで、よほどの事がないかぎり易々と収容所内との連絡すら取ることが出来たのであり、今もこうして米兵の追跡をかわして、戦果確認という名目の戦場見物にしゃれ込んでいるわけだ。
「何か他に分かりませんか?」
 逸る一人が、双眼鏡を掲げて周囲を油断なく伺う犬神に問いかける。そして、彼の望むものを確認した犬神は、今度は双眼鏡を掲げたまま口元だけを一度シニカルに笑って見せた。
「ああ、砲撃の時に出る噴煙が、西方海上で二つ見えた。他にも、恐らく艦艇の煤煙が複数見える。幾つかは米軍のもんだが、それ以外のものの方が多い。それに確実に近づいている」
「では、友軍艦隊が、聯合艦隊がっ!」
「ああ、間違いないだろう。飛来した砲弾の数から考えて、戦艦は一隻ではなく二隻。うち一隻は、破壊力の大きさから、あの《大和》だ。他に見えているのは、駆逐艦か巡洋艦が複数。間違いなく日本の艦隊だ。畜生、どうやってここまで来やがったんだ」
「しかし、米艦隊と交戦中なのでありますか? 聯合艦隊はここまで来るのでありましょうか」
 言葉にしたせいで興奮してきた犬神に、別のだれかが無粋な冷や水を浴びせる。おかげで理性よりも感情の方が勝った犬神は、また双眼鏡を離してその男の正面に顔を向ける。
「なあ、あの《大和》が米軍の駆逐艦ごときに負けると思うか? それに見ろ、敵機も飛んでないぜ。今ならやりたい放題だ」
 確かに。そう呟いた男は、不安な顔がみるみる歓喜へと変わっていく。
「おっと、万歳三唱はまだ胸ん中だけだ。何が起きたか記録するのが、今の俺達の任務だ。自主的な行動だが、いつかは友軍に伝えるものだ。今は、倒れていった友軍、戦友の代わりと思い任務に精励してくれ」
 「はっ!」元気よく全員が敬礼すると、それぞれが飛行場、西方海上などに視線を向け直す。見ると帳面と鉛筆を持っている者もおり、単なる見物でない事が見て取れた。
 全ては、作戦の一部を伝えられていた犬神たち一部の生き残り将校達が行っている事だが、犬神自身どんな攻撃が加えられるのか、今の今まで正確には知らなかった事だ。
 そして、砲撃を加えた者ですら予期し得なかった破局がいよいよサイパン島に訪れようとしていた。
 それは攻撃開始から約15分が経過した、17時46分の事だった。

 二度目の砲撃の中、マックスウェル大尉は今日の出発地へと出しうる限りの速度で走っていた。そこの一角に、今尋問中の日本人捕虜数名が収監されている。
 しかし走れば走るほど熱風は強くなり、時には数百メートル程度の距離であろうが砲弾が炸裂する事もあり、伏せるより他無かった。一度は伏せたり遮蔽物に隠れる間もなく、軽く爆風に吹き飛ばされたほどだ。
 しかし、目的地のすぐ近くにまで炎の災厄は及びつつあり、歩みを止めるわけにはいかなかった。
 大尉にとって幸いな事に、吹き飛ばされた爆発を最後に、敵戦艦の砲撃は止んだ。おかげで距離を稼ぐ事ができ、本来なら駆け足で7、8分の場所にもあと1、2分でたどり着けそうだった。
 周囲では、B29用の巨大な駐機スペース、地面が円形に区切られた空間が多数整然と並ぶ様が視界の多くを占める。しかしそのうち一つの中にはB29が駐機し、焼きすぎの目玉焼きのように激しく燃え盛っている。
「まるで巨大なフライパンだな」
 汗を拭きつつ、自身を鼓舞するためのジョークを口にした大尉だが、普段の黄色と違い、赤、紅、朱で染め上げられた景色に目が回りそうだった。
 しかも巨大なかまどごしに空を仰いだ時、空までが真っ赤に染まるのを目にした。
 それはまるで巨大花火を間近で炸裂させたようであり、周囲数百メートル広がる炎の華は、大尉の視界いっぱいに広がっていた。
 日本軍のさらなる攻撃が始まったのだ。



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