■長編小説「煉獄のサイパン」

●第九章 5

1945年3月9日18時 サイパン島

 呆然とサイパン島の惨状を見続けていたB29の『ビッグ・レディ』が、サイパン、テニアン以外から通信を受けたのは《大和》の攻撃開始から30分近くが経過した時だった。
 その間『ビッグ・レディ』は、敵艦を攻撃しようにも対地攻撃用の焼夷弾ではどうにもならず、また他の友軍機がほとんど上がってこないので途方に暮れるより他無かった。
 しかもサイパン、テニアンから巻き起こる火焔を原因とする上昇気流が、島上空での滞空を困難なものとした。仕方なく島上空から離れたが、島から少し離れると赤々と燃えるサイパン島が、無力感と孤独感をいっそう助長した。だから友軍からの通信は、百万の援軍を得た気持ちだった。
「こちら第314爆撃団。サイパン上空の友軍機、応答せよ。繰り返す。こちら第314爆撃団……」
「こちら、第73爆撃団・498爆撃群・第一中隊長機。感度良好。どうぞ」
「こちら第314爆撃団編隊長機、通信を確認した。498爆撃群・第一中隊長機、そちらの状況はどうなっているか」
「サイパン、テニアンの各飛行場は全て壊滅。依然敵の大規模な艦砲射撃が続き接近は危険。飛行場は全て使用不可能と考えられます」
「了解した。では、他の友軍機は」
「離陸開始直後に攻撃を受け、離陸に成功したのは本機を含め2機だけです。他はほとんどがエプロンで撃破されたものと判断します」
「マイガッ。いや、済まない、了解した。では君たちは、我々との合流は可能か。我々は、ルメイ少将より引き連れられる全ての友軍機を伴い作戦を続行するよう命令を受けている」
「問題有りません。集合ポイントを指定してください。これよりそちらに向かいます」
「オーケー、その意気だ。では、集合ポイントで会おう」
 進撃を続ける第314爆撃団からの力強い声に力を得た『ビッグ・レディ』は、ライトサイクロンエンジンを唸らせると、ようやく惰性の周回飛行を止めて、意志有る飛行へと変えた。
 しかしその日は、サイパンの空も米軍だけのものではなかった。

「こちら隊長の菅野、各員に次ぐ。チャンスは一度だ。タイミングは各隊長機に合わせろ。いいな」
 サイパン島が、第一遊撃部隊による破壊に襲われる頃、マリアナ諸島北部ではもう一つの戦闘が始まろうとしていた。
 午後4時半に離陸を開始し、無事53機の離陸を終え一足早く帝都東京を目指す第314爆撃団と、空母《信濃》を飛び立った戦闘301飛行隊「新選組」による戦いだ。
 サイパン島より約200キロ南方に位置するグァム島の北飛行場から、3月9日午後4時半一番機が離陸を開始。順次約45秒の間隔で後続が続き、約40分後の午後5時20分全機が離陸を終えた。そして15分かけて予定高度の約7000フィートで隊列を整えた時、サイパン島からの悲鳴にも似た第一報がグァム島と島前面で編隊を形成しつつある第314爆撃団にももたらされた。
 最初、無線機を取ったグァム島の当直将校は「エイプリルフールまでは、あと三週間もあるぞ」と返したと言われる。だが、テニアン島の司令部からも同様の報告が持たされ、雑音混じりのサイパン島からの無線が正式な暗号によってももたらされると、日本艦隊の攻撃を冗談と笑っている場合ではなくなった。
 しかも、その通信の中に爆撃部隊司令官のカーチス・ルメイ少将からのものがあり、第314爆撃団は予定通り爆撃を実行せよと伝えてきた。
 これを受けて、事態急変を受けて島上空を一度大きく旋回して第314爆撃団は、巡航時速の353キロメートル/時で進路を日本本土へと向ける。
 ただし第314爆撃団編隊長は、事態を憂慮して進路の一部変更を指示。サイパン島、テニアン島上空を少し迂回する事にする。
 そして40分後、直線距離で約50キロ先のサイパン、テニアン両島の現状を見て息を呑む。夕闇が迫ろうという時、右側下方に見えた二つの島の一部では、普段のサーチライトによる白い照明ではなく、高く巻き起こった紅蓮の炎がいつもより明るく、そして赤く周囲を照らし出していたのだ。
 双眼鏡でも基地の詳細は分からなかったが、両島の飛行場が激しく破壊されている事だけは確かだった。彼らは、最新情報をグァム島を始め各地に送ると共に、なるべく早く戦闘空域と化しているサイパン島エリアを抜けようとした。
 だが予想外の破壊を目にした事による強い焦りが、彼らにも逢魔の時、トライワイトの災厄を呼び込む。

 この時サイパン島北西上空3000メートルには、戦闘301飛行隊「新選組」がこの時の全力である紫電41型「紫電改」16機、零戦22型8機で待機していた。別の場所でも、彩雲2機が偵察と状況確認のため張っており、サイパン島の米戦闘機を警戒すると同時に、グァムのB29が狩り場に飛び込んでくるのを今や遅しと待ちかまえていた。彼らは、これまでの日本本土からの無線傍受で、まずグァム島のB29が飛び立つことを知っていた。そこで事前の計画内で、万が一の事態を想定して入念な迎撃準備を行っていた。もっとも、防空が主任務とは言え、せっかく連れてきた航空隊にも攻撃計画の一つも欲しいところという心理がなかったわけではない。
 そうして、おあつらえ向きと言えるほどの無線情報が、その日の午後に舞い込む。しかも自分たちが迎撃を受ける要素はいまだ見つからず、そこで俄に攻撃計画が浮上、準備が開始される。そしてグァムでのB29編隊の離陸を伝える無線情報を得ると、初期計画を修正してから行動を開始した。
 彼らは、《大和》が砲撃を開始する5分前に《信濃》からの離陸を開始し、10分で全機離陸を完了。
 爾後、サイパン島の米軍の活動が活発になるまで、目視による発見の回避と、「ブロッケン」の加護を受けるべく低空で待機。その後戦闘が激しくなると高度3000メートルに移動し、前方で偵察を務めていた彩雲からの報告を受け、午後6時20分絶妙の場所に占位していた。
 周りは夕日がほとんど水平線に隠れていたので薄暗く、残滓の照り返しを受けた赤い白銀色のB29だけがやけに目立っていた。
 しかも「新選組」が張っている場所は、《信濃》に積載された「ブロッケン」の影響範囲内にあり、B29に探知される可能性はかなり低かった。加えて有視界はまだ確保されている。
 命令を終えて舌なめずりした菅野大尉は、急降下をしかけるタイミングを慎重に計る。
 今回選抜された搭乗員は、技量Aが10名、Bが5名、他9名が技量Cのいわばヒヨッコだ。なるべく素性の良い者を連れてきていたが、最初の一撃は自分たち技量Aの者が示さなければ、十分な効果は発揮できない。
 それを普段の訓練から十分悟っていた菅野は、理性や計算よりも感性から得たタイミングを計ると、一気に言葉にした。
「攻撃開始!」
 菅野の命令一過、二十四機の紫電改と零戦が急降下を仕掛ける。降下速度は紫電改が断然早いが、それは折り込み済み。初手は、紫電改が第一、第二挺団を、零戦が第三挺団を攻撃する手はずになっている。
 そしてわずか24機が大胆にも3個中隊36機の獲物を食おうとしている理由が、距離500メートル、紫電改の高度2600メートル付近で明らかになる。
「紫電改全機、奮進弾発射準備。よおぉーい、てぇっ!」
 命令と共に、紫電改の翼に据えられた片翼各4本のレールから、ロケット花火のようなものが勢いよく飛び出していく。16機で合計128発。30キロサイズの28号爆弾をドイツ帰りの潜水艦がもたらした技術で改良したものだ。
 この時の紫電改の降下速度が時速650キロほどだったので、さらに自身のロケットで加速した花火のようなものは亜音速に近い速度でB29へと迫る。
 そして一斉に円錐形ながら花火のように炸裂し、タコのように伸びた炎の腕がB29へとからみつく。中には信管調整の問題からそのままB29へと突っ込んで爆発したものもあり、何カ所かではB29の誘爆によって派手な火球が出現していた。周囲に二次被害をもたらすほどの破壊力だ。
 そして爆発の直後に射撃をした紫電改がB29の弾幕圏内に躍り込み、自らはさらに100メートルを我慢して、照準内に白銀色の巨体が一杯になったところで20ミリ機銃の引き金を絞る。
 ドッドッドッド。紫電改の両翼からは4本の太い火線が伸び、頑丈なB29の巨体の各所で火花を散らせる。
 中には効果のあった一撃もあり、さらに被害が拡大。
 射撃を終えた紫電改は、零戦隊の攻撃に備えてそのまま降下と進撃をしばらく続け、予定高度にまで至ると一気に上昇に転じる。
 そして続いて零戦による第一撃の縮小再生産させた光景が際限され、第314爆撃団は大混乱となった。
 だが、B29編隊の下500メートル、距離1000メートルほどで編隊を立て直した菅野は、いつもと違うことを発見していた。
「こちら菅野。誰か銃撃を受けた者はいるか」
 ほとんど全員が否という。受けたという一人も、すれ違いざまにB公のケツから受けたと言うだけだ。
 もちろん友軍の損害は皆無であり、零戦隊が態勢を整えるまでに十分に第二撃を与える余裕すらあった。
 何しろ今日の紫電改は、空母《信濃》内に持ち込まれた贅沢な装備で十分に整備されており、燃料も南方から持って帰ってきた通常より純度の高いものだ。
 どの機体の「誉」発動機もご機嫌であり、いまだ脱落機も皆無。完璧に近かった。
 しかも、ロケット砲の集中攻撃を受けたB29の編隊は前三分の二が大きく乱れ、既に10機以上が墜落するか脱落を開始している。腹の中身を海面にぶちまけ、よろけながら退避しつつある機体もある。編隊も歯抜けだらけの櫛状態だ。詳しくは分からないが、損傷している機体も1機や2機ではないだろう。ドイツ製の改良型と伝えられたが、28号爆弾の改良型は概ね期待通りの破壊力を発揮していた。
 そして攻撃は、敵が混乱しているスキに行わなくてはならない。
(考えている暇はないな)
 短時間で思考を結んだ菅野は、編隊全機に斜め下方から突き上げる教科書通りの攻撃を指示した。
 本来なら零戦には重荷の攻撃だが、高度三千メートル以下の高度ならば零戦の最も得意とするところ。持ち前の上昇力と、いつもより高純度の揮発油のおかげもあって、B29相手にも何とか追従攻撃が可能だった。しかも今日のB29はやたらと鈍足だ。今棄てたばかりの、ロケット弾用発射台を残しても良かったと思えるほどだ。
 そして急上昇しながら菅野は、目標としたB29が距離300メートルを切っても尾部機銃以外の全て沈黙していることを確認した。素早く目をやった左右の機体も同じだ。理由は分からないが、機銃弾を殆ど搭載していないらしい。
 自然舌なめずりした菅野は、機銃のトリガーにかけた手に力を加える寸前、全機に通達した。
「菅野より全機へ、理由は不明だが敵編隊は全機尾部以外の機銃は沈黙している。通過後は、後ろ以外から任意に狙え。撃墜数を稼ぐまたとない機会だぞ」

 『ビッグ・レディ』が集合ポイントまであと5分と迫ったとき、左後方空域にいくつもの閃光を確認した。
 花火のように連続した瞬きの中に、巨大な火球も出現する。合流予定の第314爆撃団が、敵の攻撃にされているのだ。
「畜生、ジャップめ。戦艦だけじゃなくて空母まで持ち込んでいるぜ」
「噂の『モビー・ディック』じゃないのか。南シナ海で潜水艦が何隻も一杯喰わされたと聞いたぜ。狡猾な卑怯者がやりそうな事だ」
「何だろうが関係ない」
「そうだ、現実はいまだ視界の通る空に敵機がいて、迎撃能力が極端に低下した友軍を編隊で大規模に攻撃しているという事実だ」
 『ビッグ・レディ』内の会話を機長が締めくくる。
 しかし、機長の冷静な声をあざ笑うかのように、また連続した爆発が起きる。M69の誘爆による大きな火球もさらに一つ。くるくると、糸の切れたカイトのように落ちていくB29もある。あれでは脱出は不可能だ。
 一個爆撃群いるはずの第314爆撃団だが、その数は既に半数近くに見える。
「どうにかならないんですか」
 副操縦士が堪らず叫ぶが、機長は首を横に振るしかない。
「我々にできる事はない。あの場に行ったところで、こちらの火力も尾部機銃のみ。撃破されるだけだ」
「じゃあ、どうするんですか」
 決まっている。機長は決然とした顔で隣の副操縦士を見つめると続けた。
「本機及び2番機のみで任務を遂行する。進路変更。これより日本本土へ向かう」
 ラジャ。機のそこかしこから思いの外しっかりとした答えが返り、『ビッグ・レディ』はわずか1機の友軍機を伴って、帝都東京を目指した。
 本当なら、300機以上の大編隊で堂々進撃する筈だった空を。

 『ビッグ・レディ』が進む暗闇となりつつある空を、第一遊撃部隊も見ていた。
 時刻は午後8時。サイパン島からの距離も50キロ以上離れ、既に別働隊の《信濃》との合流にも成功していた。今しがた対潜警戒陣形の第一警戒航行序列に組み変えられたばかりだ。つまり、任務を完全に達成し終えた直後と言うことになる。
 行きと違い《榛名》が欠けているが、他に脱落はなし。作戦も当初の予定以上の成果を以て達成された。追撃が気になるが、大和田通信所から届けられた敵の無線傍受情報によれば、ウルシーにたむろする米機動部隊が、ようやく追撃に出ようとしているところ。第一遊撃部隊が内地に帰り着くまでに追いつかれる可能性は五分五分よりやや低いと判断されていた。
 現時点での第一遊撃部隊司令部の気がかりは4点。
 一つは、無線傍受でいまだ戦闘続行している事が分かった《榛名》。今は彼らを夜の帳が護ってくれるが、翌朝になれば既に動き始めた米機動部隊により撃破されるのは確実。第一遊撃部隊司令部としては、射消を以て任務達成とし、爾後適時行動されたしと送ったが、彼らが簡単に降伏するとは思えない。強大という言葉すら不足する米機動部隊相手に、第一遊撃部隊がとって返して救う事は無理だが、だからといって後ろ髪引かれる問題だ。しかも《榛名》は、自身を第一遊撃部隊脱出のための囮と考え戦闘続行する可能性もあり、司令部の心理的負担は尚更だった。
 二つ目の気がかりは、その米機動部隊。
 今入った最新情報では、ウルシー環礁から出撃を始め陣形を整えている最中だった。追撃開始はさらに1時間以上後と見られるが、動き出しているのは2個機動群規模なので高速空母が大小合わせて8隻以上。艦載機数は、最低でも500機を上回る。通常なら900キロ彼方に離脱した第一遊撃部隊を追撃する事は不可能だが、相手は米軍だ。
 こちらが潜水艦を気にして聴音可能な20ノット以上出せないのに、向こうに制限はない。燃料を気にせず突っ込んでくれば、ギリギリ3日後の朝に追いつかれる可能性がある。その時予測される敵戦力は、艦載機約300機。第一遊撃部隊程度の戦力では、内地からの応援があっても全滅する可能性が十分にある。
 もっともこれは、敵が60時間以上継続して25ノット以上で追撃しなければならず、日本海軍ならば物理的に難しいと考えられる。
 そして機動部隊以上に注意すべきが敵潜水艦だ。
 米軍は、日本が使用する全ての航路に通商破壊用の潜水艦を配備しているのは当然として、日本の関東地方からマリアナ諸島の中間海域には、数珠つなぎのように潜水艦が徘徊しているのが無線傍受や目視報告から判明している。
 主に途中で墜落したB29の搭乗員を救出するためと判明しているが、商船を攻撃したり、日本列島から700キロ付近で頑張っている「黒潮部隊」を攻撃する事もある。
 しかも、彼らが助けるべきB29のほとんどは、今しがた自分たちが殲滅したばかりだ。彼らの任務はなきに等しく、サイパンの復讐戦を誓って攻撃してくる可能性は十分にあった。彼らが足止めの攻撃を行い、機動部隊が追いつくまでの時間稼ぎを行う可能性も高い。
 また、追撃という点では、破壊できなかったグァム島からの空襲がほぼ確実と見られていた。翌朝サイパン島からの距離は400キロ以上。グァムからは600キロ離れているが、航続距離の長いB24なら全く問題ない。小型の戦闘機でも十分に行動範囲だ。
 無線傍受の情報から、グァムのB24は1個飛行大隊程度。しかし、この戦力に対応させるため、こちらには《信濃》の新選組もある。無論、無視できる要素ではない。
 しかもいまだ攻防戦が続く硫黄島にも、早々と戦闘機隊が進出しているという情報もあり、こちらも油断できない。
 つまり状況を要約すれば、『通りゃんせ』の歌となる。行きはよいよい帰りは怖い、というわけだ。

 しかし今艦隊は勝利の興奮に包まれており、つい先ほど戦闘配備を解除した艦隊司令部は、遅めの夕食(とは言っても、各種おにぎりによる戦闘食)を食べ終えて一服した後に、各種情報を収集し戦果を確認しているところだ。
 会議に山科博大佐は出席していたが、もう役目が終わったと判断されていた法子は、会議の行われる長官公室隣の長官寝室での待機に逆戻りしている。
 部屋は分厚いとは言え壁一枚、扉一枚を隔てただけなのでその気になれば会話を聴くことも出来たが、今の法子に積極的に聞くつもりはなかった。
 あまりの惨劇を見た事による一種の虚脱感に襲われていた事もあったが、全てを見届けた事で彼女自身自らの役割は終わったと考えていたからだ。
 サイパン島の詳細を伝え島の住人への危害を最低限にできた。その上で敵の重爆撃機を飛行場ごと破壊して、内地の人々を護ることができた。
 艦隊が無事帰投できるかどうかは分からないが、望みうる事の全ては達成されていた。
 サイパン島に残してきた人々の事など心配事は山積みだったが、今の彼女に何かができるわけでない。法子としては、これで一日も早く戦争が終わってくれればと祈ることしか出来ないのが正直な気持ちだった。
 むしろ、今こうして日本海軍の巨大戦艦に乗る機会を得て、軍の作戦の重要な部分を担った事こそが異常なのであり、大きな役割を果たせたのだ。
 法子は、ほとんどの家具がなくなった長官寝室の簡素な寝台に横たわると、隣の部屋から人々の会話が聞こえてきた。ぼやけた音ながらも、頭の芯に伝わってくるようだ。
(会議が始まったのね。良い結果がでていればよいのだけれど……)

 法子の祈りにも似た思いとは裏腹に、作戦達成後始めての第一遊撃部隊司令部の会議は、冷静になってみると何を話せば良いのかという雰囲気が大きかった。
 伊藤長官の最初の言葉も、「諸君、まずはご苦労様。しかし作戦は撤退完了まで、後3日続く。勝って兜の緒を締めるの言葉を各自の胸に刻んで欲しい」というものだった。
 伊藤の言葉を受けて参謀長の森下が、戦果確認の音頭を取ったが、今だサイパン島は紅蓮の炎を吹き上げており、夕闇迫る戦闘での正確な確認は望むべくもなかった。
 参謀達も戦場での派手な状況を目に焼き付けたまま浮かれて部屋に入ってきたのだが、冷静になってみると自分たちの情報の不正確さに愕然とする。
 比較的正確な情報は、敵駆逐艦、魚雷艇の撃破数と、先ほど《信濃》が報告してきたグァムから飛んできたB29の撃墜、撃破数ぐらいだ。
 サイパン島のイセリー飛行場、コプラー飛行場、テニアン島の北飛行場、建設中と思われるテニアン島の西飛行場については、「公算大」とか「壊滅」とかの抽象的な文字しか見られない。それ以前に、攻撃前に各飛行場にどれだけの機体が居たのか、正確な数字は法子のもたらした情報以外はほぼ皆無だ。加えて、B29以外の航空機が使用していた飛行場など、帰り際に砲撃で炎上する様を遠目で観測しただけだ。
 また、あれだけの炎が上がっているのだから全てを破壊した筈だと感情的には思えたが、2年半前のガダルカナル島の艦砲射撃では、翌日に敵機は再び上がって輸送船団を攻撃していた。
 基地攻撃が難しいのは間違いなく、景気の良い言葉で戦果を虚飾することはできない。それに、万が一間違った景気の良い戦果を自分たち自身が信じれば、これから2日半の間にしっぺ返しを受けるのは自分たちなのだ。しかも、敵の圧倒的優位で攻防戦が続く硫黄島の近辺を通り、敵潜水艦のたむろする海域も抜けなければいけない。加えて、追撃を始めている米機動部隊もはるか後方ながら大いに脅威だった。
 そしてひとたび作戦が成功してしまうと、それまで維持していた決死の覚悟も緩んでしまい、生きて返りたいという気持ちが大きく首をもたげている。
 その気持ちを引き締めるように、森下が口を開く。
「以上が現在判明している戦果として報告を送ることにする。他、何か報告すべき事がある者は挙手を」
 森下が静かに首を左右に振ると、一つの腕が上がる。山科博大佐だ。
「B29が、各基地から大挙出撃間際であった点。グァムからは攻撃前に出撃されていた点。B29が3000メートル以下の低空を飛行していた点。そして、今も進撃途上のB29が存在するかもしれない点。以上四点について、分かる限りの情報を、大本営及び関係各位に伝えることを具申いたします」
「それは、軍令部側としての意見か」
「はい。現場を見た一軍人としての意見です。また、この件は戦果報告とは別件で送り、さらに戦果報告の後でお願いできませんか」
「上層部に、冷や水を浴びせるという事か?」
 最初の言葉以後沈黙していた伊藤が、閉じていた瞳を開くと共に口にした。
 それを受けて山科はゆっくりと首を横に振る。
「はい。違います。戦果報告と一緒に伝えると、報告が軽視される可能性があるからです。私個人としては、画竜点睛を欠く事だけは避けたいと。杞憂であれば良いのですが」
「いや、山科大佐の意見が正しいだろう。私の名で、接近する可能性のあるB29編隊に対して注意を促す連絡を入れよう」
「お願いします。午後10時までに各航空基地に伝われば、万が一の場合でも迎撃は十分可能な筈です」
「うん。サイパン島の破壊状況からして、今日の積載物は大量の焼夷弾だ。恐らく都市爆撃が目的だろう。私としても取りこぼしのないよう、何としても阻止したいと思う。通信参謀、よろしく頼むよ」
 伊藤の言葉に通信参謀が答えるだけでなく、部屋の全員が頭を垂れた。勝って兜の緒を締めるのは、何と難しい事なのか、と。

 一方、敗北者として追撃する立場にある第58機動部隊では、午後8時に2個機動群が順次ウルシーから出撃を完了し、艦隊を編成し終えていた。
 2個機動群の内訳は、第1と第4群。第1群が、エセックス級航空母艦の《ホーネット2世》《ワスプ2世》《ベニントン》、インディペンデンス級航空母艦の《ベローウッド》《サン・ジャシント》。第4群がエセックス級の《ヨークタウン2世》《イントレピット》、インディペンデンス級の《ラングレー2世》《インディペンデンス》となる。合計で正規空母5隻、高速軽空母4隻の堂々たる大艦隊だ。艦載機総数は、通常運用される機体だけで約600機。これを戦艦ニュージャージ以下、約50隻の艦艇が厳重な輪形陣を組んで守備を固める。
 なお第2、第3群は、乗員が半舷上陸中のため結局緊急出撃には間に合わなかった。日本艦隊の動向が伝わると共に司令部の方針も変更され、半舷上陸が取消になった以外は、退避を兼ねた出撃自体が中止されている。ウルシーにいる他の艦艇も同様だ。
 そして本来なら第3群の旗艦《バンカーヒル》に座乗するマーク・ミッチャー中将が第58機動部隊を指揮すべきだが出撃適わず、全艦隊の司令長官であるレイモンド・スプルアンス大将が直々の指揮を取ることになった。

「閣下、陣形組み終わりました」
 うん。部下の連絡に小さく応えたスプルアンスだが、CIC内の海図の上に視線を固定したまま、容易に命令を出そうとはしない。
 それを見とがめた参謀長アーサー・C・デイビス少将が、軽く咳払いをする。
(考え戦うのが自らの仕事というが、集中力が高いのも善し悪しだな)
 参謀長デイビスの内心に応えようとしたのか、咳払いに反応したのか、スプルアンスはゆっくりと顔を上げる。
「航海参謀、艦隊が24ノットで進撃した場合、日本近海まで艦隊の燃料は持つだろうか」
「行き道だけでしたら問題ありません。しかし帰りは、駆逐艦が途中で補給をしなければなりません」
「うん。では24ノットで進撃だ」
「閣下、お待ちください」
 対潜水艦参謀だ。
「24ノットでは、自らの出す音で敵潜水艦が探知不能となります。危険です」
「分かっている。だが、敵艦隊は20ノットで航行中。我が艦隊との距離は1000キロ。友軍機の攻撃圏内にギリギリ捉えられる巡航速度が24ノットなんだ」
「はい。ですが、小官は反対です。日本海軍は、水中でもカミカゼ作戦を行っており、これから我々が進もうとしている航路の一部は、間違いなく危険地帯です。万が一、1トン以上のカミカゼ魚雷を受けては、戦艦や大型空母とて無事では済みません」
「では、夜間は20ノット。昼間は24ノットで進撃するのはどうか。無論、昼間は哨戒機を上げて厳しく警戒する、これが前提だ」
 それでしたら考慮の余地はあると考えます。
 対潜水艦参謀が妥協を示すが、参謀長の見るところ最初からこれが目的だと察したついた。
 だが、参謀長として、周囲に全てを分からせる為にもここは一つ言わねばならない事がある。
「閣下、どちらにせよ冒険的です。元々、ウルシーからの予定外の作戦行動自体が無茶なのですから、我々としてはサイパン島の救援で十分役割は果たせるのではありませんか」
 スプルアンスがどんな言葉を返すのか、周囲の注目が集まる。
「サイパン救援はもちろん行う。だが、追撃も万難を排して行わなくてはならない。逃走中の敵艦隊を撃破して失点を取り替えさねば、諸外国の失笑を買うばかりか、今後の戦争運営にも影響が出かねない」
 彼の言葉に、全員が居住まいを正した。
 戦争に大きく勝利しつつある中での大きな失点は、速やかに取り返さなくてはならない。でなければ国家全体が士気低下しかねない。その事は、彼ら自身の胸の内に芽生えつつあるものだった。
 そうした勝者ゆえの焦燥を抱えつつ、史上最強の艦隊は本格的な追撃。そして反撃を開始しようとしていた。



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