■長編小説「煉獄のサイパン」

●第九章 6

1945年3月9日 午後8時

 第一遊撃部隊がサイパン島から100キロ離れた場所で雲を霞と逃走を続け、米機動部隊が追撃態勢に入ろうとしている頃、サイパン島の火災という言葉で語れないほどの業火はいまだ宴もたけなわだった。
 出撃直前だった数百機のB29のほとんど全ては、焼夷弾と燃料を炎の魔人へと貢いで朽ち果てていた。あまりの熱に焼けこげると言うより、ジュラルミンが完全に溶けていたほどだ。また、滑走路に重く轢き固められていたアスファルトは完全に解けて周囲にあふれ出し、さらに重くどす黒い黒煙を上げていた。しかも滑走路周辺の施設は炎に飲み込まれ、自らも可燃物として火災を手助けしていた。そして島の東西二ヶ所に設けられた地下弾薬庫は、継続的な焼夷弾の誘爆により活火山の様相を呈したまま燃え続けていた。
 他にも、サイパン水道沿いの施設、砲台のことごとくが破壊されていた。そして各飛行場に匹敵する火焔を吹き上げているのはタナパグ港だ。ここでは、自ら座礁した日本海軍の金剛級戦艦がいまだ砲撃を続け、周辺の破壊を継続していた。
 しかも日本戦艦の砲撃は他の場所にとっても厄介で、生き残った将兵が火災を消そうとすれば砲撃を投げかけている。そして環礁内に座礁しているとは言え、近づくには船舶が必要だが、その船舶のほとんど全ては、いまだ健在な日本戦艦によって破壊されていた。しかも環礁内に座礁した戦艦は、思い出したような間隔だが米軍施設を目標とした砲撃を継続している。
 サイパン島で破壊を免れている大きな施設は、第27師団の一時的な駐留場所となっている宿舎と、日本人収容所。そしてそれらの施設に隣接した一般資材や食料を保管する倉庫ぐらい。不思議と、大規模な居住施設は、延焼したもの以外ほぼ無傷だった。
 一方テニアン島だが、北飛行場一帯はサイパン島南部同様に徹底的に破壊されていた。飛行場近くの弾薬庫も火災の炎の勢いに負けて一部が扉を開き、誘爆を繰り返しながら高温の炎をあげ続けている。また、環礁内の日本戦艦が日の入り頃から始めた砲撃により、建設中だった西飛行場が大量の建設機材と共に破壊され、機材を守ろうとして退避の遅れた工兵隊の損害も甚大だ。
 そうした様子を、サイパン島中央の山間部北辺に設けられた野戦指揮所から見続けている男がいる。
 現在サイパン島で最優先指揮権を持った軍人となっているカーチス・ルメイ少将だ。
 彼は日本艦隊の砲撃当初、飛行場から比較的近くの指揮所にいたにも関わらず、爆撃団の司令部要員のほとんどと共にからくも脱出に成功した。司令部からの脱出はギリギリであり、流石の彼も背中に冷や汗を僅かばかりかいていたほどだ。
 その後彼らはヒナシス山に、次いで今いる場所へと退避を重ねて、崩壊の危機に瀕していた現地米軍部隊を掌握し続け、被害の極限と人命救助に全力を挙げていた。している事は、近代的な消火活動というより、江戸時代の火消しに近い。人間が対処できる限界を超えた火災を前に、ルメイが早々に中途半端な消火活動より、延焼の阻止と人員の退避を優先させたからだ。
 もっとも指揮を続けている当人は、強面な仏頂面にいつもの鉄面皮を張り付けて黙々と任務に当たり、平素と変わらない雰囲気を維持していた。おかげで周囲の幕僚や将兵たちも落ち着いて任務に当たる事ができた。
 そうして任務に当たっているルメイの元に、新たな情報がもたらされた。
「明日の午後、海軍があの戦艦を沈める?」
「はい閣下。ウルシーのスプルアンス提督麾下の艦隊は2個機動群からなり、午後4時より緊急出撃開始。午後7時にはサイパンに向けて進路を取り、速力20ノットで航行中。明日昼頃には、サイパン島を十分攻撃圏内に納めます」
「それは分かった。だが、海軍は日本艦隊を追撃しないのか」
「その件については何も。しかし、攻撃中も北進は続けるようです。また、他にも規定外の電文がいくつも飛び交っており、それらを傍受したところでは、緊急で物資を動かす命令が飛び交っています」
「サイパン、テニアンへの救援部隊ではないと言いたいのだな」
「はい。救援以外の電文のかなりがウルシーを中心に海軍に向かっています。アイスバーグ作戦の前に、海軍が大規模な行動を起こす可能性大です」
「海軍の独断か?」
「不明です。しかし、太平洋艦隊司令部からも命令が出ています。少なくとも海軍全体での行動です」
「ワシントンは?」
「情報がなく混乱しています」
「当然だな。我々ですら、現状の把握どころか自分たちの損害すら掴んでいない」
「申し訳ありません」
 その言葉を聞くと、ルメイの顔が感情を湛えだ。
「謝る事ではない。目の前の火災を見ろ。爆撃時の想定の十倍以上の火災密度だ。誰が何をできる」
 全くです。改めて火災に目をやった幕僚が、嘆息するようにルメイに同調した。
 しかし口にしたルメイ自身は、火災そのものには関心がないかのようにしばし沈思した。それまで話していた幕僚の一人は、ルメイが今後の事について冷静かつ正確な思考を進めていると感じた。
 彼はいかなる場合、場所でも合理的なものの考え方ができる軍人であり、だからこそ眼前の炎の悪魔の花園にも微動だにする事はない。それが今の幕僚の支えでもあった。
 そしてルメイは彼らを裏切らなかった。
「海軍の件は、取りあえずいい。あの邪魔な敵戦艦を排除してくれるなら尚更だ。それより、兵站と工兵の担当者を集められる限り集めろ。大量の物資を動かす命令が動き始めているのなら、こちらに向かう物資を少しでも早く、多く確保したい」
(もう、基地の再建を考えている)
 流石に舌を巻いた幕僚だったが、身体は条件反射のように動きルメイの命令を実現する。
 ルメイは動きを再開した幕僚の向こうに、再建された基地とそこに至る道を見ていた。

 だが、サイパン島で始まった狂想曲はいまだ奏で続けられていた。ルメイの鉄の意志が、日本の首都東京上空で意味を持とうとしていたからだ。
「畜生。どこもサーチライトと高射砲の弾幕、それにジャップの夜間戦闘機だらけだ」
「サイパンに日本艦隊が襲ってきたんだ。首都上空が迎撃準備をしていて当然だろう」
「ああ、おかげでこの体たらくだ。それより、5分ほど前から僚機がこちらから視認できない。他からは確認できるか」
「尾部銃座確認できず。見えるのは、敵高射砲弾の炸裂とサーチライトばかりです。現在地は、敵首都の中枢部上空と思われます」
「上部見張り所、尾部銃座に同じ」
「下部見張り所、同じく」
 副機長の問いに、尾部以外の二人が効率よく答える。
「何てこった。落とされたのか」
「不明。しかし、撃墜と思われる光は敵味方どちらも確認していません」
「レーダーでは撃破された兆候なし。しかし不明機多数を確認。また、不明機はレーダー波を放っているもの多数。地上からの照射も確認しました」
 尾部銃座が再び答え、レーダー手も続く。
「了解。畜生、たった2機だったのに」
「副機長、僚機はもういい。航法士、現在位置は」
「東京市街上空なのは確実です。しかし、先ほどの蛇行で5マイル以下での正確な位置は不明。現在、正確な位置の割り出し中。あと3分下さい」
「了解。爆撃士、下は何か見えるか」
「敵都市は灯火管制しているため、高射砲とサーチライト以外は真っ暗です。しかし、市街地中心に近いのは確実です。敵弾の照り返しなどで多数の大型建造物が確認できます」
「と言うワケだ、レーダー手君。後はお前が頼りだ。何が分かる」
「はい。下の地形は、目標と指示された地点はありません。すぐ近くには河川がなく、少しばかり起伏がある平地ばかりです」
「よし。他には」
「恐らく、楕円形に巡らされた都市中央部の環状鉄道の西側先端部を超えた辺りではないかと。それらしい鉄道路線のエコーが先ほど見えました。また、あと2分ほどで右手にエンペラーの宮殿が来ます」
「了解、よくやった。シンジュクの上空か」
 そこで一息ついたのは『ビッグ・レディ』を指揮する機長だった。彼らは、5時間の空路を無事消化して、3月10日午前0時頃日本の首都東京上空に差し掛かっていた。
 彼らが日本本土に入った時間は予定より少し遅れていたが、多くはレーダーが捉えた影が影響していた。
 日本人達は、進入路として今まで米軍が使ってきた空路を中心にいくつもの光点、つまり戦闘機を配備していた。しかも、いつも息も絶え絶え昇っていく高々度ではなく、3000メートル辺りを中心にしている。でなければ、『ビッグ・レディ』のレーダーが敵機を正確に捉えられる筈なかった。そして日本軍戦闘機は明らかに自分たちを捉えている動きを行っていた。
 米軍の行動を知っており、なおかつ迎撃手段もレーダーを使う高度なものを用意している証だった。
 故にわずかばかりのB29は、日本人の戦闘機を避けるべく大きく進路を変更し、さらに判明している高射砲陣地も避けると自ずと迂回進路を取らざるを得なかった。
 結局『ビッグ・レディ』ほか1機の小さな編隊は、相模湾から関東平野に入り、平地沿いの進撃を続けた。以前行ったハラスメント爆撃の要領で爆撃を行おうとしたのだ。規模からしても、それが相応しいからだ。
 そして平野部に入っても機載された対空レーダーが自分たちより高い位置を飛ぶ小型機を多数確認したが、彼らが侵入経路に選んだ高度1500メートルは全くの無防備だった。おかげで第73航空団最後の生き残りの2機は、難なく東京上空に入るとブリーフィングで指示された目標都市上空深くへと侵入していた。
 また彼ら以外にも、グァムを飛び立った生き残りの数機が上空に入っているらしく、敵の無線を捉えた時に日本軍が各所で迎撃していると判断できた。
 ここまでは『ビッグ・レディ』は、幸運が味方していると見て間違いなかった。殆ど唯一離陸ができた事、敵艦載機の襲撃を受けなかった事、無事東京にたどり着けた事。全てが幸運と神の加護なくしてあり得ない事だ。
 ただ、流石に運を使い果たしたらしく、『ビッグ・レディ』自身は広い東京市街上空に入ったところで迷子になってしまった。
 彼らは闇夜の中ランドマークを探すのに手間取り、周囲を虚しく飛行する羽目に陥っている。本来なら適当に爆弾を投下して洋上に逃げればよかったのだが、無為に倒れていった大勢の仲間達の事が、彼らを普段より十倍は勇敢で真面目にさせていた。
 当然ながら危険も多く、つい3分ほど前にレーダー波を放つ敵の夜間戦闘機に発見され、これをようやく振り切ったばかりだ。二度同じ幸運があるとは誰も考えていなかった。
「こちら下部見張り、本機の斜め後方にて航空機の排気炎らしきものを複数視認。注意されたし」
「また見つかったか。複数とは気になるが、さっき追いかけてきた奴だろうな」
「間違いないでしょう。増援を呼んでいるのかもしれません」
 機長の言葉に言葉を返した副操縦士は、続きを言わなかったが目は語っている。決断の時だぞと。
 そして幾多の修羅場をくぐり抜けてきた機長も判断を誤らなかった。
「諸君、残念だが潮時だ。爆撃士、今すぐ適当な爆撃目標を見つけてくれ。残念だが、ホームランは諦めよう。そこにクリーンヒットを決めてくれ。だが、くれぐれもエンペラーの宮殿には落とすなよ」
「了解。では、左20度に願います。大きな構造物の集団を確認しました。ただし詳細は不明」
「了解」
 短く応えた機長は、既に手足のようになっている『ビッグ・レディ』を操ると、爆撃士が爆弾槽の扉を開く。そして進路変更から僅か20秒後、満載されていたM69焼夷弾の束が虚空へと放たれる。
 最終的に落下したM69は、500ポンドサイズの集束爆弾に各38発。B29は500ポンドサイズを24基搭載していたので、総数912発になる。
 M69焼夷弾は、投下から10秒と経たず束ねていた拘束具を解放。中に詰め込まれた2列に19個ずつ、合計38個のM69本体が急速に拡散していく。そしてそれぞれのM69焼夷弾は、落下開始と共に尾部のリボンを広げた。尾翼の役割を果たして本体を安定させ、丈夫な先端部を下に真っ直ぐ地上へと導くための簡単だが重要な装置だ。
 だがその帯にはすぐに火がつき、炎の五月雨となった約900発のM69は、1500メートルの空中落下の旅を終えると、終着駅の地上へと落着。爆弾にしては貧弱すぎる衝撃で地面へと激突して内容物を炎のお裾分けと共に飛散。本来の任務を遂行した。中には、行儀良く建物の窓ガラスなどを突き破って建造物内に躍り込んだものもある。
 なお、『ビッグ・レディ』の爆撃地点は、東京都市ヶ谷台。昭和12年まで陸軍士官学校が置かれた建物が存在する。だが昭和16年以後、特徴的な威厳を誇る建造物には、陸軍参謀本部と陸軍省が置かれている。つまり、日本の最重要建造物の一つ、「大本営陸軍部」、陸軍の中枢部、頭脳があった。
 建物では、空襲警報の発令により、かなりの関係者(軍人)が近くに設置された重防空壕へと避難している筈だが、機能を完全に止められない施設でもある。現に、光が漏れないよう分厚く閉じられたカーテンの中では多数の軍人達が深夜にも関わらず仕事に精励していた。サイパンからの電報が飛んだこともあって、いつもより盛況で活気があるようだった。
 だが、地上の事、人の都合など関係ないM69達は、ジェル状の燃料をまき散らし辺り一面を火の海としていった。地上の主な施設は丈夫な鉄筋コンクリートだったが、内装や家具、周辺の小さな小屋など可燃物も多く、十分に大きな火災を引き起こしたのだ。
 しかもご丁寧に、焼夷弾は東西約800メートル、南北約400メートルの中にキレイに収まり、中心部の構造物に多くが落着していた。
 そして自分たちが何をしたかなど全く知らない『ビッグ・レディ』は、爆撃直後から日本海軍の夜間戦闘機《月光》の改良型複数に追い回され、自らの成果を確かめる暇もなく懸命の逃避行を続けていた。

 『ビッグ・レディ』が東京上空で辛うじて任務を果たした頃、彼らが午後5時半に飛び立ったサイパン島では、ようやく火災が鎮火しつつあった。
 火災が収まりつつあった理由は、ただ一つ。火災の主要地域内で可燃物が無くなったからだった。いかに凶悪な炎の悪魔達とは言え、燃やすべき生け贄がなくなれば元いた世界に帰るより他ない。
 日本艦隊の砲撃の中には三式通常弾と呼ばれる可燃性の高い砲弾も含まれていたが、元が燃焼時間短いため真っ先に燃え尽きている。火災の主役となっていた米軍のナパーム弾、高純度ガソリンは、火災が派手な分だけ2時間ほど激しく燃えると早々に燃え尽きてしまう。それでも彼らが主に火を付けて回ったサイパン島、テニアン島各地の米軍基地は、その後6時間にわたり轟々と燃え盛った。
 幸いと言うべきか皮肉なのは、あまりにも強烈な火災だったため、破壊された貯蔵タンク群とB29各機、タンクローリーから漏れだした大量のガソリンによる二次災害が回避された事だろう。ガソリン汚染が起きる間も与えず、綺麗さっぱり全てが燃え尽きていた。
 なお、基地で炸裂した爆弾、焼夷弾の総量は約1万5000トン。また燃え尽きたガソリンの総量は、サイパン島だけでも約6万トン。島に駐留するB29約240機が10回出撃する分が備蓄されていた計算になる。ルメイ将軍が周到に作戦準備を進めていた事が、思いもかけない破局をもたらしたとも言えるだろう。
 これが出撃直前という最悪のタイミングで未曾有の誘爆を呼び込んだのであり、日本艦隊の砲撃だけでこれほど破壊されることはあり得なかった。何しろ、破滅的な砲撃と思われた《大和》が送り込んだ砲弾重量の総量は1000トン程度だ。
 そして、全てを燃やし尽くす程の破局がその日の夜、サイパン島、テニアン島を襲っていたが、終幕は意外と呆気なかった。
 鎮火と共に夜の帳が押し寄せ、サイパン島、テニアン島の飛行場地区は久しぶりに暗闇の中に沈んだ。島の一部が火災により真っ黒となっていた事も、闇に一役買っているほどの暗さだ。そして夜の暗闇は、火災跡の中で朽ち果てた数百機のB29と、その周辺に居た事が間違いない数百、数千の人々の躯を覆い隠す漆黒のヴェールともなっていた。
 なお、サイパン島で火災により焼失した地域は、島の南部の南北2キロ、東西5キロの地域が中心となる。それ以外の場所には、意外なほど被害は小さかった。飛行場や弾薬庫自身が、火災や事故を想定して被害が極限されるように建設されていたためだ。その証拠に、B29駐機場所など、1機分ずつに100メートルほど離して設置されている。
 一方で、飛行場以外に日本艦隊により破壊された場所も多かった。ターポッチョ山山頂近くを始め、地上の高い位置に設置されたレーダーの過半は、鋼鉄の前衛芸術となっている。飛行場とサイパン水道近辺の施設も壊滅的だ。また、島北西部のタナパグ港近辺の環礁内では、今だ撃破された船舶から漏れだした重油による海上火災が続いている。恐らくは、燃え尽きるまで数日間火災はなくならないであろう。何しろ火災の主役は、最も嫌われるタンカー火災だ。
 しかし、チャランカノア、オレアイの日本人収容所、タナパグ港郊外にある第27師団の臨時駐屯施設は、ほぼ無傷だった。一部では発電施設や送電網も生きており、この辺りだけが人の営みが続いている事を、自らの輝きにより訴えていた。
 そして、警備上の都合から煌々としたサーチライトに照らされた日本人収容所の中に、星埜奈央子は戻されていた。
 戻したのはマードック軍曹だ。彼は「病院は、これから火傷の負傷者で一杯となる。今後日本人捕虜を収容しておく場所がなくなる」と言葉少なく事務的に彼女に言い渡すと、火災の続く米軍ベースから少し離れた日本人収容所のゲートをくぐらせた。もっとも彼の瞳は、敵を見る目とは思えないほど優しげで、軍曹の部下達が彼女に持たせた軍用バッグの中には包帯や消毒液、ガーゼなどがかなりの量詰め込まれていた。
 そして彼の瞳を見て奈央子は察した。今後収容所の方が米兵の風当たりが弱いのだと。何しろ今回の攻撃で、数百、数千という米軍兵士の命が失われ、多数が大やけどをしているだろう。今までの暢気な占領統治とは違い、日本人に寛容でいられる米兵の方が遙かに少なくなるのは明白だ。
 奈央子は軍曹達が呆気なく炎の方向に去って行っても、しばらくは収容所ゲートの側を離れなかった。いや、離れられなかった。別に一人で全く歩けないわけではなく、心情的に離れがたかったからだ。
 しかし、ゲート付近は時間と共に状況を知りたがる日本人捕虜で溢れかえり、MPと問答するなど怪我をした奈央子がいるには少しばかり危険な場所となっていく。
 仕方なくゲートを離れ、明かりの少ない収容所奥へと進む。夜中にも関わらずサーチライトで照らされた中央通路は人で溢れており、まるで夕方の買い物時のようだ。誰もが日本軍の攻撃に喝采を挙げると共に、また戦場になった事が不安なのだ。米軍の警備兵も躊躇なく銃口を日本人に向け、緊張した面もちで黙りこくっている。
 そして奈央子にとっての収容所自体は、本来なら安堵や場合によっては懐かしさすら感じなければならない場所なのだが、今は寂しさの方が勝った。何しろ、自分たちにあてがわれていた建物に戻っても法子はいない。
 そんな気落ちした状態なのがいけなかったのだろう。健在な肩の方で松葉杖を付きながらゆっくり街路を歩いていると、不意にバランスを崩してしまった。
「キャッ!」
 小さな悲鳴を挙げ瞳を固く閉じたが、奈央子が予測した地面に激突するという破局は訪れない。
「大丈夫か」
 声と共に身体に力強い腕の力を感じる。
「何方が存じませんが、ありがとう御座います」
「なに、婦女子を助けるのは務めみたいなもんさ」
 倒れた瞬間、頭が真っ白になっていた奈央子は、相手の声を理解できるようになってようやく状況が理解できた。そして恐る恐る声の主へと下を向いていた目線を向けると、逞しい腕の向こうに白い歯を見せて笑いかける男の顔があった。
「犬神さんっ!」
「よぉっ。誰とは存じませんがなんて言うから、忘れられちまったかと思ったぜ」
「ご無事だったんですね」
「ああ、この通り。足もついてるぜ。オレの悪運は日本一だからな。それより怪我の方はどうだ」
「はい。銃弾は貫通していたので、この通り何とか歩けるまでには。傷口も殆ど塞がっています。それより、犬神さんこそ、こんな所にいて大丈夫なんですか」
「そりゃないぜ。これからしばらく米軍の目が厳しかろうと食料を拝借しに来たら、米兵に連れられたお嬢ちゃんを見て、こうしてはせ参じたってのに」
「あの方達は、悪い方々ではありません」
「らしいな。アメ公にしちゃ上出来だ」
「はい。私を助けようと懸命になさって下さいました」
「だが、過度に期待しちゃいけないぜ。今は戦時。敵と味方だ」
 真面目な表情で語りかける犬神に、奈央子は「分かっている、つもりです」と答えるのがやっとだった。
 数瞬沈黙が続くが、沈黙を破ったのは奈央子だった。犬神がいるのなら、自身の事より聞かねばならないことがある。
「犬神さん、法子さんは?」
 その声に、少しばかり犬神の顔が歪む。途端に法子の鳶色の瞳が憂いを含んで揺れるが、それを見て犬神が慌ててまずは顔いっぱいを使って否定し、言葉を選びつつ口を開いた。
「多分今は、日本海軍の艦艇化、日本勢力圏のどこかで無事な筈だ。ここが無傷なのが何よりの証拠だ」
「多分、どこか?」
「ああ、嬢ちゃんが撃たれた後、オレも米兵を撒くために先生とは別れてな。正直、後の事は分からない」
 そこまで言い切った犬神は、一呼吸置いて推論を並べる。
「けど、サイパン島の正確な情報が伝わっていなければ、ここの施設も兵舎かなにかと思われ日本軍に攻撃されている可能性が高い。何しろ俺達は、島の外の連中には米軍基地以外の事はほとんど伝えていなかった。外の連中も、自前ではロクな情報は持っていない。つまり誰かが、夕方来た日本艦隊に島の詳細な情報を伝えたという事だ。ここまで言えば、分かるよな」
 奈央子は大げさに鸚鵡のように頷く。
「じゃあ、法子さんはさっきの軍艦のどれかに居るんですね」
「多分な。ま、世界で一番丈夫な軍艦の中でよろしくやってるさ。きっと、いつもの冷静な口調で、エリート軍人さん達を論破してんじゃねえか」
 犬神の冗談交じりの口調に、法子も久しぶりに心の底からの笑みを浮かべた。
「そうだ、いい女は笑っているのが一番だ」
「フフフ、いつもありがとう御座います。ところで、犬神さんはこれからも逃亡生活を?」
「ああ、この攻撃で米軍は後始末で残兵どころじゃないと思うが、逆の場合も十分考えられる。山の奥地に隠れてやり過ごすつもりだ。その前に、お嬢ちゃんだけにでも会えてよかったよ」
「こちらこそ、会えて本当に良かった。けど、隠れるって言っても大変なんじゃあ」
 そこまで法子が言うと、犬神は再び真顔になる。
「今回の戦闘で、恐らく米軍の内地への爆撃は数ヶ月は止まる筈だ。戦死者数も、ヘタすりゃ万の単位だ。正直オレも、友軍の攻撃がここまで成功するとは及びもつかなかった。けどな、オレはこれが戦争終結の一つの切っ掛けになるんじゃないかと考えている。ま、楽観論だがな」
「いいえ、私も犬神さんの言う通りになればいいと思います」
 そうか。短くいつもの爽やかな微笑で答えた犬神は、そこでそっと奈央子の肩から手を放す。
「さてと、お尋ね者はとっとと消えるとするぜ。じゃ、達者でな」
 犬神さんも。
 奈央子の声を背中に聞きながら、犬神は雑踏と闇の中へと消え去っていった。後に残された奈央子は、彼の残した言葉と彼自身の行動力に強く勇気づけられ、それまでとは違い力強い足取りで家路へ向けての歩みを再開した。
 そう、これからは一人で歩かねばならないのだ。
 

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