■長編小説「煉獄のサイパン」

●第十章 1

1945年3月10日

 サイパン島壊滅という事件を前にして、大きな岐路が突然できた事を理解している男が一人いた。
 彼はアメリカ合衆国首都ワシントンにある白亜の塔の家主であり、そしてアメリカ合衆国の元首でもあった。
 その日の彼はワシントン時間の9日に入った頃、第一報がもたらされると共に就寝して数時間しか経っていない寝室から秘書達を通じて命令を発し、スタッフ全員を非常呼集した。だが、深夜に時差17時間の場所から入る凶報が、まだ意味のある情報でないことを悟ると、全員に午前6時の再集合を命じて一旦は解散させる。そして、本来ならば日本の軍事記念日の日に日本の首都東京を爆撃する第一報を聞いている筈の時間に、最前線基地のマリアナ諸島からもたらされた報告書を手にすることになる。
「サイパン島、テニアン島両島の全ての航空基地は完全に壊滅。B29約300機を含む、航空機400機以上の損失。サイパン島に停泊中の船舶60隻の損失。迎撃に出た警備艦隊の駆逐艦11隻が完全損失、2隻が大破。グァムを飛び立ったB29約50機の損失。なお、今判明している人的被害の累計は、行方不明者を含めて約1万2000人。この数字は、時間と共に上昇する可能性大。以上が、今のところ分かっているマリアナ諸島からの概略情報です」
 以上の事は、ワシントン時間の3月9日時点での最大級の詳細なのだが、政治的決断をするには情報が不足していた。そこで、マリアナ諸島の救援、海軍の追撃の追認、さらなる情報収集の徹底のみを通達してその日最初の会議を終えるしかなかった。
 もっとも、結局その日のうちに詳細な議論ができる程の正確な情報が入ることはなく、翌朝最初の会議の重要議題としてしたのが、彼のその日最後の仕事となった。

 翌日午後1時、昼一番の会議において、大統領の指示でより詳細となった報告書を読み上げた書記官の言葉に、全員が深く嘆息する。大統領は上座の席で沈黙したままだ。
「戦死者は、最低で1万2000人か。今までの太平洋戦線での総死者数が40%以上も一夜で増えた事になるな。市民が何というか」
「市民の声が聞きたければ、ワシントンポストなりニューヨークタイムスでも見るんだな。既に悲鳴だよ。復讐や報復の声と同じぐらいに停戦論が溢れている。イエロータブロイド系は、見るに耐えない程だ」
「どれも見たよ。で、何か失点をカバーできる要素はないのか。逆転のトライとは言わない」
 一番口うるさい閣僚の一人が、寝不足なのが一目瞭然の脂ぎった顔を秘書官へ向ける。
「はい。現地時間3月10日午前8時25分、サイパン島で依然抗戦中だった敵戦艦を撃破。これにより、日本軍のサイパン島、テニアン島に対する攻撃は完全に終了しました」
「それだけか」
「はい。10日早朝にグァム島から飛び立ったB24一個大隊による攻撃は、敵戦闘機のインターセプトにより失敗。敵艦隊は大規模な電波妨害を実施して、我が方の潜水艦及び偵察機による追跡及び追撃をかわしています。また、先ほど現地時間の11日午前5時、硫黄島を艦砲射撃したとの報告が上がっています」
「ジャップは、まだ攻撃を続けているのか!」
「閣下、ここは官邸内です。適切な言葉で頼みますぞ」
 別の誰かが口を挟む。
「ああ、済まない。その日本軍の戦艦が、今度は硫黄島に襲来したのかね」
「はい閣下。現地からの報告を総合すると、サイパンを襲った艦隊が帰り際に砲撃したものと推測されます。ただし情報がまだ少なく、詳細は不明。損害報告も、正確な数字は報告されておりません」
「硫黄島に、敵戦艦を撃破する能力はなかったのか」
「駆逐艦を中心に包囲艦隊が展開しています。しかし夜明け前の闇と電波妨害により敵を正確に捉えるには至らず。敵は夜明け前に突如襲来し、友軍艦隊の網を避けながら通り魔のように2時間ほど遠距離から砲撃を行ったと報告が上がっています」
「何という事だ。恥の上塗りではないか。二日連続でパールハーバーを続けられたとはな。で、9日夜から追撃中だという海軍の機動部隊は?」
「追撃を継続中です。しかし、マリアナ諸島に対する攻撃と敵潜水艦の妨害もあり、いまだ敵艦隊を捉えるには至っていません」
「日本近海に配備した潜水艦はどうか? かなりの数があるはずだぞ」
「一時的な接触に成功したとの報告が複数あります」
「少し見ただけでは話しにもならん。で、空母部隊は追いつくのか」
 そんな事はないのだが。瞬間そう言いたげな瞳の色を見せた秘書官だが、機械的に言葉を続ける。この場での彼は、報告装置に過ぎない。
「効率無視の追撃により、日本本土の近海ギリギリで限定的な空襲が可能と現地は報告しています。加えて、グァムからの爆撃機、複数の潜水艦による圧力により、逃走を続ける日本艦隊の進路はずれ、我が軍の攻撃や接触のたびに巡航速度は低下しています」
「近海ギリギリか。危険ではないか。敵の制空権下ではいのか」
「君、追撃に関しては、現地に任せるより他有るまい。それより我々がすべきは、今後の対応を決めることだ」
 ネガティブな言葉ばかり続ける閣僚に、別の閣僚が口を挟む。
 確かに。別の閣僚の言葉と共に、凶状持ちのようにがなり立てていた閣僚の一人が沈黙した。そして、瞬間座が静まったのを見計らったように、最も至尊な位置に座る男が口を開いた。
 目には深い隈ができており顔色も悪いが、言葉には強い意志があり語り調もしっかりしていた。
「諸君、この度の日本艦隊のマリアナ諸島奇襲攻撃により、我が軍と我が国は甚大な損害を受けた。市民に与える心理的衝撃も、極めて大きいものとなるだろう。この点は、避けられない規定の事実と言ってよい」
 そこで一端言葉を切って、側に置かれた水を満たしたグラスで口を湿らす。
「そこで私は、この度の事態に対して日本への方針を新たに三つ示したいと考えている。一つは、マリアナ諸島を壊滅させた敵戦力の、短期的かつ徹底した壊滅。この事は全ての事項、作戦に優先させる。他の作戦が遅延しても構わない。まずは、速やかにかつ確実に恥辱を雪ぐ。
 二つ目は、マリアナ諸島からの爆撃態勢の一日も早い再構築だ。また、マリアナが機能不全の間、中止予定だったチャイナ奥地からの爆撃を強化する。唯一健在なグァム島も基地機能を強化する。爆撃機自身の増援は無論だ。
 そして最後に一つだが、……私は戦時情報局が進めている計画へのゴーサインを出したいと考えている。グルー国務次官、レイヒ、それにフォレスタルにももう話はいっていたのではないか」
 奥まった席に座る自由の国の覇者は、全てを語った瞬間天使と悪魔の双方の側面を見せた。しかも、いまだ彼自身に上奏されていない極秘計画についてすでに知っている事を示唆し、部下達に自らの力を示すのを忘れていない。名前を呼ばれた者達が一瞬身を固くしたほどだ。だが、当事者でない者が挙手する。堅物銀行員のような外見の男。副大統領のハリー・トルーマンだ。
「閣下、今少し具体的にお聞かせ願いませんか。最初の日本艦隊の殲滅は分かります。基地の再建についても。しかし3つ目の方針について、我々の多くは予備知識を有しておりません」
 堅物らしい言葉だ。だが前人未踏の4期目に入ったルーズベルト政権での副大統領の立場など、学級委員長程度の役割でしかない。トルーマンもその事をよく理解しており、今の言葉となった。本来なら自らの無知を恥じるべき所だが、誰もが理解している状況なので特に何か反応を示す者はいない。むしろ内心感謝している者の方が多数派だろう。
 そしてトルーマンの言葉に、フランクリン・デラノ・ルーズベルトが健康を害しているのが一目で分かる顔の口元を薄くゆがめる。
 それは、俄に信じがたいが、自らの勝利を知っている男の笑みだった。

「いいか、敵艦載機は、散弾型のロケットランチャーを使ってくる。これは極めて脅威だ。そこで、最初の弾幕射撃は、射程距離を無視して開始する」
 出撃直前のブリーフィングでそう説明されたコンソリデーテッドB24リベレーターのクルー達、特に機銃手達が緊張の極致を迎えていた。
 彼らの眼前には、敵艦載機とおぼしき戦闘機隊が約2個中隊ほど展開し、キラキラと朝日の輝きを受けている。
 なお、ブリーフィングでもあったように、眼前の敵に対しての情報を彼らは持っていた。
 前日夕刻の戦闘でB24同様にグァム島を飛び立ったB29のうち、島への生還に成功したクルーからの証言から得られた情報のおかげだ。もっとも、飛び立ったB29のうち9割ほどが未帰還だった。機銃弾を降ろしてまで爆弾(M69集束焼夷弾)を搭載した事が仇になったからだ。
 しかしB24は通常通り機銃弾を満載し、爆弾も500ポンド爆弾を16発か1000ポンド爆弾を8発搭載しての出撃だ。これに護衛戦闘機がいれば心強いのだが、今は彼らだけ。場所は北マリアナ諸島の北端部。サイパン島との距離は約450キロメートルで、戦闘機の航続距離的にはマリアナ諸島からなら十分なのだが、マリアナ戦域に機体がなくなっていたのだ。
 グァム島には元々戦闘機は駐留せず、サイパン島にいた1個大隊ずつ駐留していたP38とP47は飛行場ごと無防備なまま壊滅。損害はいまだに不明だ。そのサイパン島から、3月6日にP51が28機、P61が12機硫黄島に進出していたが、いまだ戦場の同島では飛行場の態勢がまだ十分に整っていない。それに、陸軍機の単発機だけでランドマークのない海を700キロも飛行させるのは、米軍と言えど無謀に近い。往復するだけで損害が発生するだろう。P61は双発機だが、夜間戦闘機では敵戦闘機の相手は務まらない。
 ついでに言えば、海兵隊の機体はマリアナ海域にはなく、ウルシー泊地から急行中の海軍の空母機動部隊はまだはるか後方だ。片道飛行でも、戦闘機を出すことは不可能に近い。
 だから今北マリアナ諸島北端沖合にいる米軍機は、B24が2個中隊、36機だけだった。他に、未明からグァムを飛び立っていたカタリナ飛行艇が偵察任務で存在するが、直接の戦闘に役には立たない。
 そして眼前やや上空には、空母《信濃》を飛び立ったばかりの敵戦闘機部隊が立ちふさがり、その10数キロ向こうに米軍に史上空前の損害を与えた艦隊が白い航跡を幾筋も引いている。
 難い敵であるが、まずは敵戦闘機隊の第一撃をやり過ごさねばならない。でなければ、B29編隊の二の舞だ。かと言って、水平爆撃しか手段のないB24としては、攻撃力を維持するためにも編隊を解くことはできない。相手が低速の輸送船や小型の哨戒船ならば、低空に降りてスキップ・ボミングも選択できたが、20ノット以上を出す艦艇に安易に通用する攻撃方法ではない。
「畜生、来やがった。やけに早いぞ」
「何、こっちもいつもより早く始めるんだ。面食らうのは向こうの方さ」
 B24クルーが焦燥に焦がされている中、遂に深紅のサークルを機体各所に描いた小型機の群が、一斉に急降下を開始した。

 《大和》《信濃》を中心にした第一遊撃部隊の輪形陣に、4発重爆撃機の群が近づきつつあった。高度は3000メートル。水平爆撃が目的だ。機体はどこか飛行艇を思わせるあか抜けないデザインだ。だが航続距離が長く、日本軍機とは比較にならない防御力と爆弾積載量を誇っている。日本海軍にとってはコンソリでお馴染みの敵機だが、ここ最近は連敗記録の苦い記憶しかない相手だ。
「畜生、来やがった」
 数分前、B24クルーが言った事と同じセリフを《大和》艦上で多くの者が呟いた。
 周囲では、第41駆逐隊の《冬月》《涼月》が、自慢の長10サンチこと98式65口径10センチ高角砲の射撃を開始している。
 いち早く《信濃》を飛び立った戦闘301「新選組」飛行隊は、いまだ敵編隊に食らいついているが、秋月級の射撃開始を受けて徐々に離れ始める。
 「新選組」は、前日夕刻同様に初手はうまく迎撃できた。B24編隊は、遠距離から濃密な弾幕射撃を開始したが、やはり遠距離からでは無理があった。機銃に使われているM2重機関銃は、12・7ミリの大型機関銃で有効射程距離は約1000メートル。普段は敵機を編隊攻撃で撃破するため射程距離が限定されているが、今回は遠慮解釈ない射撃が開始された。
 しかし急降下の一番槍は《紫電改》戦闘機なので、零戦より頑強だった事も重なり思ったほど迎撃はうまくいかなかった。有効射程が1000メートルとは言え、各機銃手が遠距離射撃に馴れていない上に、空中で遠距離射撃するにはやはり距離が有りすぎた事も原因していた。
 そして「新選組」も敵機の攻撃をものともせずに突撃。距離500メートルで各8発のロケット砲を一斉に発射する。
 艦上からでも見えた派手な噴煙と爆発により、前列のB24の隊列が大きく揺らぎ、幾つかでは大きな爆発も確認できた。そのすぐ後に爆弾を投棄するもの、機首を後ろへとめぐらせるもの、不本意な降下を開始するものなど、10機近い機体が編隊を崩していく。
 そしてロケット砲の炸裂のショックが抜けきらない敵編隊に、紫電改がロケットを追いかけるようにそのまま突っ込み機銃弾で戦果を拡大する。
 だが、次に下から突き上げるときには、日本側にも損害が発生した。撃破するよりされる方が多くなり、以後組み直されたB24の編隊を日本の小型機が周囲から突っつくという戦闘が数分間繰り返される。陣形を崩されたとは言え、コンバットボックスを組み上げた米重爆撃機の防空陣形は強固なものだった。
 だが、初手の有効打もあって、第一遊撃部隊に近づくまでにB24は数を半数近くに減じていた。
 その段階での秋月級駆逐艦2隻の射撃開始だ。
 2隻の秋月級はハイペースで砲弾を空中に送り込み、比較的正確な弾幕は編隊前面の空に黒い花畑を作り上げる。他の艦艇が射撃を行わないのは、《大和》《信濃》以外のほどんどが、水平爆撃を意図した敵機をまともに迎撃できないからだ。
 これが敵艦載機ならば、《大和》《信濃》に搭載された無数の機銃やロケットランチャーが威力を発揮するのだが、多くの有効射程距離は精々1500メートルだった。だが、今少し接近すると、《大和》《信濃》の89式40口径12・7センチ高角砲が射撃に加わる。数は、片舷合計で丁度40門。16門から一気に3倍以上となった弾幕は、地上ならばよほど濃密な高射砲陣地以上ある。対艦攻撃が苦手な4発重爆撃機では荷が重いのは当然だった。砲弾の信管は米軍のような正確さはないが、制圧や撃退、牽制という面では十分以上の効果を発揮している。
 もっとも、撃っている方にとっては、依然接近を続ける20機近い大型爆撃機は十分脅威だった。特に心理的負担は大きく、追撃されているという強迫観念も重なって「狂ったように」とすら言える弾幕が形成される。
 第一遊撃部隊を構成する外縁の艦艇を見れば、ゆっくりしたペースで主砲を発射している駆逐艦も砲撃に加わり、空と海の喧噪を増やしていた。
 当然ながら早朝の澄んだ青い空を染め上げる黒い花は増え、爆煙の花畑の中を朝日を浴びた重爆撃機の編隊が押し渡ってくる。
 そして、1機また1機とじらすようにB24は脱落し、第一遊撃部隊の艦隊将兵が真上を見上げるようになる頃、その数は当初の3分の1近くにまで激減していた。即座に撃墜された機体はそれ程多くないのだが、弾幕射撃による破片を受けて脱落した機体が多数に上っているのだ。そして群れからはぐれたB24には、301飛行隊が容赦なく襲いかかった。
 しかし執拗に爆撃を求めるB24に、遂に任務を遂行する瞬間がやってくる。日本艦隊上空で爆弾槽扉が全開にされ、そこから細長い物体が無造作に投下された。
 総量は約33トン。数にして約150発。水平爆撃の一般的な命中率から考えれば、数発の500ポンドないしは1000ポンド爆弾が、日本艦隊に命中する筈だった。
 しかし米軍にとっての爆撃は、あまり勝算の高いものではない。日本艦隊の艦隊全体の数が少なく、第一警戒序列という潜水艦を重視した陣形を取っていたため、艦隊が比較的拡散していた。
 米軍が狙った《大和》《信濃》周りには、第二水雷戦隊旗艦の《矢矧》や防空駆逐艦を中心に5隻しかなく、爆弾は《大和》を中心に半径1500メートルの荒い円の中へと落ちていく。
 しかも第一遊撃部隊は、米重爆撃機が投弾態勢に入ったのを見計らって大きな進路変更を行う。米軍指揮官は、もう一度アプローチをし直すか爆撃を強行するかの選択を迫られたが、数秒の逡巡の後に結局後者を選んだ。
 自らに護衛機がなく、敵戦闘機はいまだほとんどが健在だからだ。もう一度アプローチなどしていたら、投弾する前に全滅しかねない。
 それに自分たちの攻撃は第一の矢に過ぎないことを米軍指揮官は信じていた。いかにサイパン島、テニアン島が壊滅しようとも、潜水艦も空母部隊も追撃している。硫黄島には、戦闘機隊も駆逐艦を中心にした包囲艦隊もいる。
 それに対して敵は、超大型とは言え戦艦と空母が1隻に、水雷戦隊が一つ護衛についているだけ。
 そう自身に念じるように言い聞かせたB24は、投弾すぐに編隊全機に急速退避を命令した。

 ヒュルルルルー。
 重量物が空気を切り裂く音が多重奏となって、周囲の空気を振るわせる。水上だとわずか数秒の間音が認識できるだけだが、艦隊将兵全員に緊張が走る。
 するとそこに、主砲発射を知らせるブザーが鳴り響く。主砲の対空射撃を行わないと聞かされていた将兵はいぶかしんだが、機銃員を中心に外に出ていた将兵は慌てて艦内や遮蔽物へと避難した。
 ビっ、ビっ、ビっ、ビーッ。
 規定通り短く3回、長く1回鳴ったブザー音の最後に、半日ほど前にイヤと言うほど聞かされた轟音と腹に響く振動が伝わる。
 主砲9門分、約3トンの火薬が作り出した巨大な圧力は主砲から火焔をほとばせると同時に、主砲を中心にした海面を数百メートルの凹レンズ状に形作る。あまりにも圧力が大きいため、周りの海水を押し込んでしまうのだ。そして空でも同様の圧力が均等に襲いかかり、水面へ着弾直前だったメイドインUSAの爆弾を爆圧で激しく叩く。よほどのタイミングを要求される作業だったが、概ねもくろみ通りの結果を導いた。
 瞬間、圧力に屈して信管を作動させた爆弾もあれば、強烈な横風を受けて進路が完全にそれる爆弾もある。他にも微妙に進路を逸れる爆弾はかなりの数に上り、《大和》を直撃する可能性のあった爆弾のかなりが周囲で派手な水柱をあげるに止まった。
 そして黒々と奔騰した水柱の中から、水柱を押しのけるようにして力強く《大和》が現れる。
 また、《大和》のすぐ後ろを走っていた《信濃》の周囲にも盛大な水柱が林立し、その中で一つ、二つと閃光が確認され全員に緊張が走った。だが、《信濃》からは、「飛行甲板に着弾。なれど我無傷。装甲甲板により難を逃れたり」とすぐに連絡が入る。
 着弾と共に固唾を呑んで見守っていた周囲の艦艇の将兵からは歓声や万歳の声が上がり、《大和》の第一艦橋に詰めていた艦隊司令部も取りあえずは安堵の溜息をついた。
 空では、悔しさを滲ませる間もなく追撃から逃れようとするB24と「新選組」との戦闘が続くが、まずは一難を凌いだ事になる。

 艦隊の雰囲気が和らいだ中、一人張りつめたような表情のままの男が艦右舷の長官公室へと駆け込み、そのまま前方の扉を勢いよく開く。そこは長官寝室。今は臨時に山科法子が収容されている部屋だ。
 部屋の中央では、第二種軍装の白い衣装につつまれた人物が腰をついた状態で床にへたり込んでいた。
「大丈夫か?」
 すかさず男が声をかけるが、法子はゆっくりと声の主へと顔を向けるも、すぐに反応は示さなかった。
 そして目の色に少しずつ感情の色が加わり、何度か口を無音のまま動かした後、一度小さく深呼吸をする。
 その頃には男が法子の腕を取って立たせ、態度とは裏腹に法子の足腰も意外としっかりしていた。
 そして深呼吸時に閉じていた目をゆっくりと開くと、いつもの知性と理性を感じさせる瞳が男を捉えた。
「少し驚きましたが、もう大丈夫です」
 肌の色はいまだ蒼白だが、口調はしっかりとしている。
「うん、そうらしいな。しかし迂闊だった。戦闘中なのだから司令塔に連れて行くべきだった」
「けど、本当に大丈夫です」
「ああ、しかし直撃弾がなくて幸いだった。至近弾がこの近くに落ちてヒヤリとした」
 そう言って山科博大佐が視線を走らせた先には、外とを隔てる壁の一ヶ所に十センチほどの鋭い破片が突き刺さっている。一つ間違えば、十分に人一人を殺傷する能力がある凶器だ。居住区は外板が断片防御程度なので、至近弾のあと山科は慌てて妹の元へとはせ参じた次第だ。そして予想が半分当たり半分外れた事を破片は伝えていた。
 山科が、敵弾の破片や部屋の様子に気を取られていると、法子は完全に落ち着いた瞳で兄を静かに見続けていた。
「どうした?」
「お聞きしたい事があります」
「こちらが聞いている。その目をする時、お前はいつもこっちが驚くような事を聞いてくるからな」
 兄の言葉に少しばかり苦笑した法子だが、すぐに表情を引き締める。
「かもしれません。けど、今日のは驚くほどの話ではありません。先ほどの会議で交わされていた事について少しばかりお聞きしたいだけです」
 兄が妹の促すように少しばかり首を傾げる。
「先ほどの会議では、今回のサイパン島攻撃が大規模な本土爆撃を数ヶ月遅らせるだけだと話しておられました。本当に戦争は終わらないのでしょうか。あれ程の破壊を行ったのに」
「気持ちは分かるが、恐らく無理だろう。身内の恥をさらすようで心苦しいが、恐らく今頃大本営はお祭り騒ぎの筈だ。本来なら一矢報いて後の講和というのが大本営の方針らしいが、気をよくしてさらなる勝利や戦果を求めるだろう」
「なぜです? 方針が決まっているのに」
「簡単だ。我が国は明治維新以来、対外戦争で負けたことがない。つまり、負け方を知らないのだ。軍も政府も、そして国民もな」
「では、今回の攻撃は行わなかった方が良かったのではありませんか」
「そんな事はない。もし我々が何もしなければ、今頃帝都は焼け野原だった。サイパン島の火災を見ただろう。あれは砲撃によるものだけではない。ほとんどが、米軍があの島に持ち込んでいた焼夷弾や燃料の揮発油によるものだ。我々の攻撃は、百万の死者、千万の被災者が発生するのを数ヶ月先に延ばしたのだ。十分以上の成果だ」
「ならば、稼ぎ出した数ヶ月の間に矛を収める事こそ、筋なのではありませんか。規定の方針通り一度勝利し、破局を先延ばしただけと分かっているのに」
「分かっていても止められない。それが今の状況なのだ。それに、戦う力が残っていると多くの者が思っているんだ。軍人が簡単に戦いを止めるとは言えない」
「そんな事はない筈です。先ほどの会議でも、この艦隊は燃料問題から二度と出撃できないと話していたではありませんか」
「そうだ。だが油はなくとも艦は残る。武器があるのに戦争を止めようとは言えない。……海軍にも面子があるからな」
「そんな! 国家を背負う者が個人的な面子などっ!……いえ、失礼しました」
 激昂しかけた法子が辛うじて自制する。ほんの少しの間沈黙が訪れた。兄も妹が考えをまとめているのだと察し、次の言葉を静かに待つ。
 そして数秒目を閉じていた法子が瞳を開き、兄を真っ直ぐに見据える。
「武器が無くなれば、海軍は戦争を止める方向に動きますか」
「……物騒なことを考えているな」
「はい。今の攻撃から、米軍のこの艦隊に対する強い復讐心を感じました。彼らは合理的な考えを持っているのに、今の攻撃は無理を承知で行ったように見受けます。それに、私の知る限りのアメリカ人は、やられっぱなしで泣き寝入るような人たちではありません。しかし現状では、この艦隊の撃滅と共に空襲の再構築を急ぐのではないかと思います」
 それで。兄が促す。
「はい。今ひとつ、彼らの顔に泥を塗ることはできませんか。そうすれば、どんな手段を用いても、まずはこの艦隊を滅ぼそうとする筈です」
「どんな手段、か。もう腹案があるんだろう」
 はい。今までより数度低い冷たさをもった返事と共に、法子が口を開く。その顔に血の気と表情はなく能面のようだ。元々整った顔だちだけに、お告げを受け取る時の巫女のような凄みがある。
「先ほどの会議で、硫黄島には敵航空隊が進出していると話をしていました。また硫黄島の守備隊は、すでに北部に押しやられ島は完全に包囲されているとも。しかし、包囲艦隊に大型艦艇はないので艦隊脱出の脅威ではなく、航空隊をやり過ごせば問題はないと」
「よく覚えているな」
 はい。この部屋には、会議の声がよく響いていました。兄の無機質な言葉を無視するように法子を続ける。
「サイパンの奇襲攻撃に続いて勝利目前の包囲下の島を攻撃すれば、アメリカは二重の意味で恥をかくはずです。いえ、攻撃はサイパンの焼き直しで十分な筈です。先ほどの会議でも、砲弾はまだ3割近く残っていると報告されていました。その残りの砲弾を、距離を置いて島に撃ち込めばいいんです。島の過半は敵の制圧下。目隠ししても敵陣地に当たるのではありませんか?」
「そして復讐心で怒り狂った米軍は、何を置いてもまずこの艦隊を、いや《大和》を殲滅する、か。最後の事はともかく理は通るな。それに硫黄島の陥落が遅れれば、本土爆撃も遅れる事になる。追撃もかわすしやすくなる。いいだろう、伊藤長官に意見具申してみよう。今からなら間に合う」
「待って下さい。もう一つあります」
 急ぎ立ち去ろうとしていた兄の背に、法子がさらに続ける。
「出来る限り《大和》と《信濃》は、内地の港、出来れば横須賀に帰り着けるようにして下さい」
「なぜだ。沈めなければならないのではないのか」
「権力者や軍人の目の前で最後の艦隊を沈め、なおかつ無惨な姿を晒させた方が効果が高いはずです。……事は、心の問題ですから」
 その言葉に山科は、しばし言葉を奪われたように沈黙を余儀なくされた。彼自身、米内光政などの意見などからも、戦争と止める手だてとして聯合艦隊の壊滅はやむを得ないと考えていた。だが、軍人でない妹の方がどこか女々しいところのある日本軍という本質を捉えていたからだ。
 そうしてしばし見つめ合った兄妹だったが、兄の方が静かに頷く。彼にとって、《大和》が無事内地に帰り着く方が良いからでもあったからだ。
 《大和》がとにかく無事内地の港に戻れれば、妹の法子は救うことができる。それは、犠牲と屍の上に自らの行動を行ってきた兄博にとっては、小さな贖罪であり、せめてもの救いとなるはずだったからだ。



●第十章 2 へ