■長編小説「煉獄のサイパン」

●第十章 3

1945年3月12日 伊豆諸島沖合

 1945年3月11日の正午を境にした前後1日の間、日米の上層部では激しい政治的動きが見られたのだが、一般市民が事実を知るのは戦後かなりが経ってからであった。そしてその後の事より今を重視しなければならない人々が、日本本土から硫黄島にかけて激しいデッドヒートを繰り広げていた。いや、デッドヒートというのは少し相応しくない。共にゴールを目指してはいたが、片方は力の殆どを使い果たした逃げる側であり、もう片方は世界最強の破壊力を持つ戦闘集団の半分を握った追う側だった。
 日本海軍第一遊撃部隊が硫黄島を距離3万メートルの彼方から砲撃を開始した3月11日の夜明け前、アメリカ海軍第58任務部隊の2個機動群は、北マリアナ諸島の北端に差し掛かろうとしていた。
 互いの距離はおおよそ340海里(約640キロメートル)。
 一年前の日本海軍なら攻撃圏内だが、アメリカ海軍が十分と考える攻撃圏内までは後150海里近くの距離が開いていた。無理を押して攻撃隊を放つにしても、もう100海里は詰めたいところだった。
 そして米軍は努力を怠ることはなく、昼間は24ノットの快速で燃費を無視した追撃を行い、1日半の追撃後、12日の午前中には日本艦隊を捕捉できるまで距離が詰められる目算が立っていた。でなければ、合理主義で動く米軍が追撃など行うわけなかった。
 ただし今回の米軍には不利な点が多い。
 まずは日本軍の完全な奇襲攻撃。以下、日本軍が攻撃したマリアナ諸島中枢部と、彼らの泊地であるウルシーとの距離。マリアナ諸島と硫黄島の壊滅による混乱。そして逃げればいいだけの日本艦隊自身の電波妨害による雲隠れ。これらの障害により、まずは各基地の航空機による偵察が8割近くも封殺される。唯一稼働しているグァム島基地群も、初手の無理な爆撃でB24が大損害を受け、十分な偵察ができていない。グァムとウルシーから偵察のための飛行艇も出撃しているが、距離の問題もあって十分な成果が上がっていない。また、マリアナ諸島から日本近海にかけて展開しているB29救難用の潜水艦群も、急な任務変更が影響して十分な成果が上がっていない。どちらも何度か目撃報告はあったが、日本側の巧みな変進と電波障害によって夜には見失ってしまい硫黄島の攻撃を許すことになったのだ。
 この時点での最後の目視報告も、硫黄島に展開する砲兵観測班によるものだ。
 しかし11日正午、日本艦隊の右舷には遠く小笠原諸島主要部が目視されると同時に、小型の単発機の機影も捉えた。
「ついに、追いつかれましたなあ」
 双眼鏡を掲げつつ、森下参謀長が意外にのんびりとした口調で口を開いた。その声焦りはない。
 伊藤も泰然自若としたままだ。
 航海参謀や通信参謀、《大和》の同種の長達が部下と共に敵艦隊の概略位置について調べているので、報告を待ってから口を開く積もりだったからだ。
 森下が暢気に言葉を発したのも、場の雰囲気を和らげようとした配慮からに過ぎない。
 そして司令部以下艦隊将兵の全てが待ちに待った報告がもたらされる。
「大和田通信所からの情報、艦隊と艦載機と思われる通信の無線傍受などから、敵艦隊の概略位置が判明しました。敵艦隊の位置は、北緯19度45分、東経143度5分。当艦隊との概略距離は320海里になります。また概略速力は22から25ノット。北北西に向けて航行中です」
「と言うことは」
 代表して報告した航海参謀の言葉に森下が素早く頭で計算した結論を導き出そうとする。が、航海参謀の隣にいた通信参謀の言葉が先だった。
「はい。敵機は敵航空母艦から発艦した可能性大です。しかし、敵機の能力から完全武装を施して往復できる距離ではありません」
「今日一杯、敵の本格的な攻撃がないという事か」
「だが、ウスリーの潜水艦から回されてきた報告からすると、米軍の動きが予測より早いな」
「ブロッケンの出力を上げるか?」
「いや、《信濃》から迎撃機を出すべきじゃないか」
 他の参謀達も言葉を続ける。皆、敵艦載機が頭上に現れた事に大きな不安を感じている。そんな空気を吹き飛ばしたのは、やはりと言うべきか長官の伊藤整一だった。
「諸君、恐らく敵の空襲は明日になるだろう。だが、本日中の敵の空襲は皆無とは言えない。注意を怠ることなく、明日に備えようじゃないか」
 そして第一遊撃部隊司令部の予測通り、敵偵察機は1時間もすると引き返していく。しかもブロッケンの威力の前に友軍に送った偵察情報は皆無だ。
 一方追う側の第58任務部隊だが、敵を捉えた事への興奮と、逃げ切られてしまうかも知れないと言う焦りで一種異様な雰囲気に包まれていた。
 各大型母艦からは、進撃速度の低下を最低限とするだけの航空機の離発着しか行われなくなり、巡航速度をまるで無視した24ノットでの強行軍は、ついに日没前後にまで広げられていた。この急速な進撃のために各艦の機関は連続運転を強いられ、故障や不調から脱落する艦も出始めている。既に駆逐艦2隻、軽巡洋艦1隻が艦隊から落伍している。
 だが全ては、マリアナと硫黄島を不意打ちで吹き飛ばした日本艦隊を殲滅するための当然の代価だと判断されている。
 司令長官のレイモンド・スプルアンス大将や参謀長のアーサー・C・デイビス少将にしても、現時点では追撃による一撃殲滅以外考えていなかった。
 これは慎重で冷静な戦術で知られるスプルアンスらしくない選択と言えるかも知れないが、それだけ今回の日本軍の奇襲攻撃にアメリカが精神的動揺を受けている証拠だった。
 現時点で第58任務部隊に与えられた命令も、万難を排してと言うレベルの言葉で日本艦隊の撃滅が命令されていた。しかも後方には補給のための艦隊が出発し、第58任務部隊の残りの艦隊(二個群)もミッチャー中将の指揮下で動き始めている。
 燃料を満載したグラマンTBFアヴェンジャーが機銃弾以外の弾薬を一切搭載せず偵察に出たのも、追撃側である米軍の焦りを象徴したものだった。しかもこの時米軍は、日本艦隊を恐らく捕捉したと推定による判断を下し、左右45度の前方にのみ18機もの機体を放っている。そして彼らの努力は報われる。
「惜しむらくは、見る事はできても手に触れることが出来ないことですな」
 長官室でデイビス参謀長が嘆息した。
 そうした内心を吐露できるのも、室内には部屋主のスプルアンス大将しかいないからだ。そのスプルアンスも、自らのソファーで目を閉じ姿勢を崩しくつろいでいる。
 彼らが少しばかりそうしていられるのも、既に夕刻までに行うべき指示を下しているからだ。何か火急の事態が発生しない限り、今日のディナーまで彼らに仕事らしい仕事はないとすら言える。ここ数日激務に振り回された彼らが、せっかくの日曜日のディナーぐらい静かに食べたいと考えても罰は当たらないだろう。
 なお、それまでにスプルアンスが出した命令は、無数の偵察機を放つ事、日本艦隊を発見した場合、継続的な追跡を続ける事、潜水艦を付近海面もしくは前方海域に集結させる事、艦隊の夜間進撃速度を上げる事だった。つまりは、後は逃げる敵を完全に絡め取るだけ。半分とは言え、第58任務部隊ならば十分任務を果たす事が出来る状況だった。
 無論、危険も皆無ではない。
 日本本土に近すぎる事、敵本土防空隊が出てくる可能性、敵潜水艦、逃げる敵の反撃など色々ある。だが、今回は危険を顧みず突っ込む必要性があった。故に、司令官と参謀長の意思統一も必要だ。今の二人の休息は、その為の休息でもあった。
「確かに見るだけというのは心情的に辛いものがあるな。で、彼らはどう出てくると思う」
「そうですな、私なら潜水艦の脅威を無視してでも、全速力で友軍制空権内を目指します」
「しかし、彼らの友軍制空権内というのも、一月ほど前に我々が叩いた地域だが」
「しかし、それでも空母1隻の防空力より力はあるでしょう。基地航空隊が相手なら、噂の横須賀の実験部隊が出てくるかもしれません」
「モビーディックに厚木に横須賀か・・・最大で150と言ったところだな」
「はい、最大規模で額面通りの戦力を出されては、厄介な相手となります。しかも、未確認情報ですが3月10日の東京爆撃では、ジェット戦闘機を見たという報告もあります」
「ナチスの潜水艦が日本本土に入ったという噂の延長の可能性は?」
「不明です。しかしこのところ日本軍は奇妙な新兵器を時折出しています。モビーディックの力にしても然りです」
「ジェットか、厄介だな」
「まったくです。出港間際のカミカゼ魚雷とサイパンの戦艦撃破がなければ、今頃追いついていたものを」
「それを言うな。戦争には相手がいるんだ。それにサイパン島のコンゴウクラスは捨て置けなかった。報告では砲弾を撃ち尽くしてたらしく誘爆一つしなかったが、残しておけば必ず禍根となった。それに、あの時点では後詰めを出す予定も計画もなかった。我々が叩くより他無かったんだからな」
「はい、埒もない事を言って申し訳ありません」
 そこでスプルアンスは軽く眉を上げる。気にしていないと言うサインだ。そしてすぐに真顔になる。
「ところで参謀長、グァム島の陸軍はB24は出してくれないのか?」
「はい。こちらが護衛を付けると言っても、先日の損害が大きすぎてまとまった数は不可能だという事です。偵察機を出させるのが精一杯でした」
「偵察機だけでもよしとするか」
「はい、こっちは見つけても1時間も張り付ついていられませんからね」
「そうだな。……それにしても、こうしてみると太平洋は広いな」
 スプルアンスの嘆息が、二人きりの会議の終了の合図となった。

 そして翌日黎明、第58任務部隊は夜明け前に再び大量の偵察機を放った。数は、昨日と同様にアヴェンジャーが18機。今回も偵察任務機に爆弾は搭載せず、長時間の接触のみを命令していた。何しろ、同種の機体が魚雷を搭載して攻撃するにしても、発見後すぐに攻撃隊を放っても帰ってこれない。進撃しつつ収容するという形を取っても、辛うじてというレベルでの攻撃隊発進ですら午後1時以降を待たねばならない。
 なお、彼らが多数の偵察機を放たねばならないのは、またも夜中に日本艦隊との接触をなくしていたからだ。せっかく呼び寄せた潜水艦も、敵艦隊の進路変更と敵駆逐艦の制圧、電波妨害の前に追跡失敗していた。この事も、アメリカ側の計画を遅らせる効果を発揮している。
 しかしスプルアンス達は諦めるわけにはいかない。それに既に指呼の距離の直前だ。
 重巡洋艦インディアナポリスの司令室にスプルアンスが従兵に伴われ入出すると共に、航空参謀が自信に満ちた表情で敬礼を決める。
「司令長官、第一攻撃隊の発艦準備整いました。後は偵察機からの報告を待つのみです」
 うん。静かに頷いたスプルアンスは続ける。
「事故その他はないか」
「はい。第1群、第4群共に問題ありません。ヘルキャット、ヘルダイバーがエセックス級から各12機。合計120機全て問題ありません」
 そこまで言うと、少しばかり残念そうに付け加える。
 強いて言えば、ヘルダイバーが抱える爆弾が500ポンドが1発という事でしょうか、と。
 そして航空参謀の言葉こそが、この時の米軍の無理を物語っていた。今だ第一遊撃部隊を正規の攻撃圏内に捉えていないので、軽過状態で攻撃隊を出すより他ないのだ。当然と言うべきか、雷撃を担当するアヴェンジャーは敵を完全に攻撃圏内に捉えるまで待機だ。
 また、各軽空母の艦載機は、偵察、対潜哨戒、そしてカミカゼ対策の防空戦を担当している。特にカミカゼ攻撃には注意が払われており、斥候艦も出せない状況のため多くの戦闘機が拘束されていた。誰もが、一ヶ月ほど前の硫黄島沖での《サラトガ》大破を忘れてはいなかった。
 また攻撃隊だが、ヘルキャットに十分な制空戦闘をする時間はなく援護に不安を抱えている。だがヘルダイバーは敵艦の対空火器を破壊する任務に一元化されているので、捕捉後すぐに攻撃を行い素早く退避する事になっている。
 初手はあくまで初手であり、距離が少し詰まる第二次は攻撃隊は、初手の二倍の規模が予定されていた。初手はむしろ、相手を防空戦闘で拘束し足を止めるのが目的とすら言える。
 そして黎明4時に発進した偵察任務のアヴェンジャーから、午前6時18分待望の報告が舞い込んだ。
「我、敵艦隊ヲ発見セリ。戦艦1、空母1ヲ中心トシタ輪形陣ニテ北進中。速力24のっと。空母ハ艦載機ヲ発進中」

 午前9時を回った頃、第一遊撃部隊の上空は轟音で埋め尽くされていた。
 とは言っても、つい先日のように《大和》主砲が連続して火を噴いている訳ではない。《大和》からも轟音の元は発生しているが、多くは高角砲、機銃によるものだ。そして騒音の中心に《大和》と《信濃》があり、艦隊上空やや後方では組んずほぐれつの格闘戦が各所で展開されている。
 この時米軍は、グラマンF6Fヘルキャット60機、カーチスSB2Cヘルダイバー60機を第一遊撃部隊上空に送り込んでいた。これに対して日本側は、空母《信濃》を根城とする戦闘301飛行隊「新選組」全力である紫電41型「紫電改」16機、零戦22型8機の生き残り21機がいち早く飛び立つ。さらに第一遊撃部隊から連絡を受けて、日本本土からも海軍の厚木、横須賀基地から雷電、零戦が約20機ほど飛来した。彼らは数に勝るF6Fの群れと、ほぼ互角の戦いを演じている。加えて横須賀からは、増加試作段階の機体も幾つか送り込まれている。
「畜生! ナチのジェットがミートボールを付けていやがる! 地獄猫どもはどこへ行った!」
 ヘルダイバーのパイロットの罵声が象徴するように、それはMe262そっくりの機体だった。と言うより、完全なフルコピーと言って間違い無かった。その証拠に、Me262にしかない後退翼が空を切り裂いている。ただし数は僅かに4機だけ。全て横須賀の工廠で日本的職人芸により再現された一品ものだ。だが、工場で作られていないだけに、カタログデータ通りの能力を発揮しているらしかった。
 ヘルキャットは、新参の敵を見つけたと思ったらすれ違いざまに数機を撃墜されるばかりか完全に振り切られ、ジェットは《大和》に第二波の急降下爆撃を仕掛けようとしていたヘルダイバーの群れに突っ込み大混乱に陥れていた。しかも二個中隊のヘルダイバーが壊滅的打撃を受け任務を妨害されたにも関わらず、敵機撃墜はゼロ。まさにカタログデータ通りのキルレシオだ。
 しかし米軍の方が数に勝る事は間違いない。
 普通の日本軍戦闘機は、ヘルキャットとの戦闘でほとんど手一杯。無線を無力化した混沌を利用して抜け駆けした機体もあるが、戦闘開始20分もすると米軍側の数に押し切られていた。ヘルキャットに艦艇への機銃掃射をさせていないだけでも健闘していると言えるだろう。
 急降下爆撃の方も、既に4割のヘルダイバーが投弾を行い、《大和》《信濃》艦上からは被弾による白い煙が立ち上っている。特に《大和》の方の煙が目立っていた。《信濃》の方が被弾数は多いのだが、完全装甲化された空母の防御力は伊達ではなく、500ポンド爆弾を全く受け付けなかった。煙も火薬が作り出した熱と爆発による小さなものだけだ。装甲甲板に守られた形の対空火力も、至近弾による被害が若干見られるだけで激しい火線を放ち続けている。
 一方《大和》は、初手で投弾された500ポンド爆弾のうち2発が直撃し、3発が至近弾となっていた。対空射撃で3機を確実に撃墜していたが、収支決算がマイナスなのは間違いない。既に、直撃を受けた左舷中央部の対空火力は大きく落ちている。
 先日と同様山科兄妹が詰める司令塔にも、艦橋近くの甲板で炸裂した半徹甲爆弾によって破壊された機銃座要員の様々なものが付着し、一部は司令塔の窓を赤黒く汚していた。
(気をしっかり持て)
 兄の山科博の強い視線を受け、副官よろしく側に立つ法子は小さく頷く。もっとも、法子は意外に冷静だった。と言うより、いつも以上に現実感が感じられない時間と空間に戸惑っていた。司令塔という最も頑丈で静かな場所に居るせいだろうと本人は思っていたが、あまりの凄惨な状況に神経が完全に麻痺しているに過ぎなかったのだ。
 しかしそれは幸運と言って良かった。
 敵の直撃弾を受けた機銃などは、鉄と血と肉塊を用いた悪魔の芸術品となり、バラバラにされた四肢などは生存者によってそのまま海に棄てられている。血や肉塊の多くも至近弾による水柱が多くを洗い流しており、敵の投弾が一段落した現状では破壊された場所以外は大きな変化が見られないほどだ。
 もっとも、《大和》に備えられた約180門の対空火器は、多数の水兵達の手により絶えずうごめき、新たな敵を見つけるや火を噴く。おかげで轟音と騒音が周囲に満ちていた。
 もっとも本来静かな場所である司令塔は、音の面でも主砲ほどの轟音でない限り大きく響くことはなく、どこか疎外されたような環境でもあった。
 また今回も、第一遊撃部隊の司令部や《大和》の長達も第一及び第二艦橋に殆どが詰めており、司令塔に入っている幕僚は予備要員だけの僅かな数だ。
 兄が言うには、《大和》が沈みでもしない限り最も安全な場所というが、それならば司令部はなぜこの場に詰めないのだろうと思った。
 そんな事を思った事で、あまりの現実を前に思考が現実逃避しているのが自分自身でも分かった。
 また、法子が考えたように《大和》が港ではなく洋上で沈められようとしている事に関しては、終戦が遠のくかもという無念の方が強く、自らが死ぬかも知れないと言う恐怖は感じなかった。
 そして無念さの中で現実感の感じられない戦闘は眼前で続けられるが、都合30分ほどで鉈で切ったように唐突に終わりを告げた。司令塔内の時計は、まだ午前10時にも至っていない。
 その間《大和》はさらに1発の被弾と1発の至近弾を受けたが、いまだ十分戦闘力を保持しており、《信濃》以下他の艦艇も特に問題はなかった。米軍が2隻の巨艦に攻撃を集中したため全く無傷だったからだ。
 また戦闘中盤で突撃してきた日本版メッサーのジェットこと『橘花』は、敵編隊を縫うように機動して敵戦闘機を翻弄し、たった4機で20機近い敵機を撃墜破して早々に帰っていった。特製の増槽付きでも航続距離が短く、遠距離進出が難しいからだ。
 他激しく消耗した戦闘機隊もそれぞれ基地へと帰投していった。301空も《信濃》に帰還せずに横須賀を目指す。着艦作業による速度低下を惜しんでのものだ。無論、次の航空隊が横須賀から飛来し始めており、この頃の海軍としては大盤振る舞いの防空戦闘をする決意を固めているのがよく分かった。彼らは知らないが、敵艦隊に対する大規模な特攻隊すら準備されていたほどだ。
 なお『橘花』だが、伊29潜が持ち帰った機体とエンジンそのものによる試験運用と完全な設計図面、一部ドイツ製冶具のおかげで、半年以上かけてようやく僅かばかりが手工業的丁寧さで生産されたものだ。当然というべきか戦闘機型で、ドイツ空軍とほぼ同じものである。
 そして『橘花』などが、横須賀や厚木で米軍の次の攻撃隊発進の報告を待ちかまえていたのだが、遂に迎撃機も特攻機も出す事はなかった。
 二式大艇などによる決死の偵察や大和田通信所の無線傍受から、午前9時頃から米艦隊で奇妙な電文が多数飛び交い始め、ついには決定的な報告がもたらされる事になったからだ。
 敵艦隊反転。
 その情報が第一遊撃部隊司令部に舞い込んだのは、3月12日午後零時32分の事だった。艦隊のすぐ側には、伊豆諸島を構成する大島が、前方には新島が見える。
 報告をもたらしたのは、北緯30度、東経140度を中心に哨戒ラインを張っている第22戦隊、通称黒潮部隊に属する特設哨戒艇だった。
 もっとも、哨戒艇と言っても、元々は100トン前後のカツオ・マグロ遠洋漁船に過ぎない。彼らは戦争の激化に伴い乗組員ごと徴用され、戦争のほぼ全期間を通じて偵察・監視任務に従事した。有名なのは、ドーリットル隊の発見第一報だろう。
 そして彼らは、海軍に属する水上艦艇が殆ど外洋に出なくなった中、生きた偵察兵器として日本列島とマリアナ諸島の間に配置されていた。彼らはマリアナ諸島から飛来するB24や潜水艦の攻撃により甚大な被害を出しながらも黙々と任務を続け、今この時も十数隻が洋上にあった。
 そしてその中の一隻、優秀な遠洋漁船に電探を搭載した特設哨戒艇が高速で北上する米軍の大艦隊を捉えた。しかも米軍は哨戒艇の電探の探知の中で一瞬停滞し、そしてもと来た道を引き返していく様も捉えることに成功していた。
 その間特設哨戒艇は不思議と攻撃される事はなかったが、そこに米軍の混乱と焦りが見え隠れしていると、報告を受けた第一遊撃部隊司令部は判断を下す。
 そして敵艦隊反転の報告を受けた第一遊撃部隊では、本当の意味での安堵がようやく全艦隊を包み込んだ。司令長官以下二等兵に至るまで、次は敵の本命がやってくると覚悟を決めていたから、安堵の大きさはむしろ拍子抜けと言えるほどだった。

「本当なのか」
 森下参謀長の疑念を含んだ声に、他の参謀達が代わる代わる答える。伊藤長官が黙している以上、森下がブレーンストーミングの中心を買って出なくてはならないからだ。
「現状では、第22戦隊からの報告を信じるより他ありません。また、厚木からは偵察の銀河が追加で出ています」
「しかし、22戦隊の報告が正しければ、敵は午後にはこっちを完全に捉えられる距離だぞ」
「しかしこちらも移動しています」
「向こうは航母部隊だ。短時間なら艦隊速力でも28ノットで進撃できる。現に今、軽過状態と思われるも攻撃してきた。それに攻撃隊発進後も進撃を続ければ、俺達が浦賀水道をくぐる前に雷撃機を伴った空襲もできた筈だ。こっちでも、そう予測していたじゃないか」
「では、何か事情があるのでは。燃料とか」
「確かに、向こうは無理をして追撃して来ている筈だから考えられなくもない。しかし、物量のアメ公だ。後ろから油槽船を派遣すればいいだろう。殆どヤツらの制海権下だ。護衛艦にも不足は感じまい」
「本土に近づきすぎたので、制空権が気になったという線はどうでしょうか。こっちがジェットを持っている事にショックを受けている通信を傍受しています」
「それも否だ。ジェットと言っても数は少ない。また、2月に連中は関東地方を攻撃している。それに、さっきも米軍が押していた。ひるむぐらいが関の山だ」
「では、マリアナ諸島と硫黄島の破壊効果の影響ではないでしょうか。今までの現状の違いはこれだけです」
「確かに否定はできんな。しかし、追撃が最優先されている航母部隊への影響があるとは考え難い」
「となると、政治的な影響でしょうか」
 遠慮がちな幕僚の言葉に、全員が敏感に反応した。海軍で政治のことを言うにはそれなりの注意と配慮が必要だ。もっとも、第一遊撃部隊司令部で非難しようという者はいない。単に同じ海軍というだけでなく、困難な任務をくぐり抜けてきた戦友意識が強い。
 にも関わらず彼らが反応したのは、発言者が影響していた。軍令部から出向している形になっている山科博大佐が発言者だったからだ。いつの間にか、司令塔から第一艦橋に来ていた。
 山科は続けた。
「第一遊撃部隊によるマリアナ諸島と硫黄島の攻撃で、米軍は恐らく一万人以上の戦死者を出している筈です。この数字は、開戦から45年に入までに太平洋で戦死した米軍将兵のおよそ半数に当たります。政治的影響が出るには、十分すぎる要素と変化ではないでしょうか」
 彼の言葉に、司令部は一瞬色を失った。追撃が無くなったという喜びよりも、どこか罪悪感めいた感情が勝ったからだ。確かに、1万人殺したと言われて、平気な者はごく限られているだろう。そして負の感情から棘のある反応を返す者も出てくる。参謀中佐が山科に斬りつけるような視線を向ける。
「で、山科大佐どう判断されるのですか」
「現時点では不確定だ。しかし、優勢な敵空母機動部隊が引き返すのであるから、物理的影響ではないと考えるのが妥当と判断するのみだ」
 山科は言葉を視線ごと正面から受ける。
 そして売り言葉に買い言葉とばかりに、山科に発言した幕僚が口火を切ろうとしたところで、別の人物が口を開き場も収まった。伊藤長官だ。
「諸君、議論や判断するのはまだ早いだろう。それに敵の意図はこの際無視しても構わないだろう。我々の最優先任務は、内地に無事帰り着くことだ」
 そして伊藤の言葉が、本作戦「防号」作戦の実質的な終幕を告げる言葉となった。この時、第一遊撃部隊の任務は実質的に終了したのだった。

 1945年3月12日、伊豆諸島沖合。
 第一遊撃部隊が、米追撃艦隊の奇妙な反転報告を友軍から受ける一時間近く前、第58任務部隊司令部はかなりの混乱に見舞われていた。
「追撃を中止する? 一体どういう事ですか。引っ掻くだけじゃなく、後少しで敵の胴体にかぶりつけるんですよ!」
 CICに怒声が響き渡った。参謀長のデイビスだ。
 第58任務部隊の現在位置は、伊豆諸島の一番端、以後硫黄島海嶺となる境界線に当たる孀婦岩のすぐ側。艦隊右舷の駆逐艦からは、島とは形容しがたい岩塊によって形作られた小さな島が見えている。日本本土まで約700キロの場所だ。
 航空母艦9隻を抱える大艦隊は、サイパン島及び硫黄島を奇襲攻撃で壊滅させた日本艦隊の追撃を続け、今まさに敵艦隊を捕捉せん所まで進撃してきた所だった。《ホーネット2》以下、9隻の航空母艦では、既に攻撃隊の準備が始められている。航空魚雷はまだ無理だったが、1000ポンド徹甲爆弾、機銃弾、無数の弾薬と燃料が準備され、順次グラマンF6Fヘルキャット、グラマンTBFアヴェンジャー、カーチスSB2Cヘルダイバーに搭載されつつある。
 搭載作業は格納庫ばかりか甲板上ですら行われ、余程大規模な攻撃隊を放とうとしているのが素人目にも理解できる程だ。実際、200機近い攻撃隊が準備されつつある。日本艦隊の総数が10隻強だから、1隻につき20機近い攻撃機がが当てられる計算だ。
 参謀長が怒るのも当たり前と言えば当たり前であり、今ここで引き返しては3日近い追撃が無駄になるばかりか、合衆国の恥をさらすだけとなってしまう。
 しかし、アメリカ政府及び合衆国海軍上層部が伝えてきた言葉は、第58任務部隊の追撃中止と速やかなる撤退。そして洋上での再補給と、艦隊全ての合同であった。
 3月10日の時点で最優先事項で追撃を命じながら、今になっての追撃中止は納得できない。
 デイビスはそう主張していたのだ。そしてデイビスの言葉は、司令部スタッフはもちろん、艦隊将兵ほとんど全ての言葉でもあった。
 デイビスは続けた。
「日本艦隊の奇襲攻撃に対する追撃で、我が軍及び我が艦隊は多大な犠牲を出しています。我が艦隊は、陣形編成中の隙を突かれ、敵特攻魚雷の攻撃により戦艦《サウスダコタ》が大破。数百名の死傷者と同艦の後退を余儀なくされました。第一次攻撃隊の損害も30機以上と無視できません。また我が艦隊の追撃開始により、次の「オペレーション・アイスバーグ」のさらなる延期はほぼ確定となります。これだけの犠牲を出しながら行った追撃を中断するには、相応の理由無くば納得がいきかねます。長官、司令部の思惑の一端なりともご説明いただけませんか」
 デイビスの言葉に、重要電文を一人読んでいる司令長官のスプルアンスは、事実上全員の矢面に立たされつつも、いつもの冷静さを失わない瞳で全員を見回す。
「無論説明しよう。主な理由は、日本本土の関東地方の敵制空権能力が飛躍的に向上した可能性があるからだ。と言うのも、3月10日に無理を押して爆撃を行った73航空団498爆撃群のB29が、ドイツと同じジェット戦闘機の邀撃を受けた。今の我々と同様の機体と思われる。同機は辛くもグァム島まで帰投したが、損傷箇所にはドイツ製機銃と同じ弾痕が確認されている。また、日本とドイツの間を、大型潜水艦が秘密裏に行き来した事も判明した。これらの事から、敵は首都近辺に多数のジェット戦闘機を配備した可能性があり、正確な情報が判明するまで接近を控えるようにとの厳重警告が発せられた。何しろ戦闘機型のジェットとレシプロ機のキルレシオは1対10では済まない。現に少数機の邀撃を受けただけのヘルダイバー隊は大損害だ。無論艦隊から中央への報告はまだ上げていないのだが、司令部は空母部隊の危険性を考慮したのだ。
 諸君、私とて追撃中止の命令は無念だ。だがこれは、合衆国最高司令部の下した命令だ。従おうじゃないか。それに、ミッチャーと合流しろという事は、《ヤマト》とモビーディックを徹底的に叩けという命令の前段階ではないかと私は考えている。
 また、我が艦隊の追撃により、敵艦隊は出撃地であった呉ではなく横須賀への帰投を余儀なくされた。万が一、日本艦隊攻撃より沖縄侵攻が優先されたとしても、これにより日本艦隊が沖縄に来ることは恐らくないだろう。つまり、長期的に敵の無力化に成功したのであり、十分価値のある追撃であったと判断している」
 スプルアンスの言葉で座も収まり、それぞれ持ち場に戻る。そして彼らは、転進及び補給艦隊とのランデブー、万が一の場合の日本軍の攻撃に備えた対処を行うべく艦隊を動かしていく。
 それを確認したスプルアンスとデイビスは、数十分後に司令長官室にあった。
「で、実際の所はどうなんですか長官」 
 デイビスが、電文の重要度を察して先手を打つ。スプルアンスも参謀長に隠すつもりはないらしく、ソファーに腰かけると姿勢を崩してリラックスする。
「うん。さっきの言葉だけど。あれはある程度真実だと思う。通信参謀にも確認させたんだが、ミッチャーの艦隊には2000ポンド徹甲爆弾が準備されつつある。上は、《ヤマト》を港で確実に沈める気だ」
「なぜ今沈めないのでしょうか。我々なら可能です」
「さてね。沈め損なって、取り逃がす可能性を考えているんじゃないかな。本気で殴りかかって逃がせば、恥をかくだけでは済まない。今なら、さっきの言葉通り作戦の内と説明もできる。それに、港なら相手が逃げることはない。今の我々ならば、2、3日腰を据えて徹底的に爆撃すれば沈められないものはない。沈めるのは、テルピッツより容易だろう。しかも日本の空軍力の主力は、南九州に集結しつつある」
「しかし関東地方には、ナチスのジェット機が」
「うん、多少はあるらしいが、上の方では日本の生産力、技術力から無視できるレベルと判断しているようだ。実のところ、ウルシーでその報告は受けていた。無論君に話していない以上、そう言ったレベルでの機密情報だった。何しろ、ジャップがジェットを持っていたなど士気に関わる。今関東にドイツのジェット機があるにしても、試作段階が精々だよ。だから噂話程度の存在でいいんだ」
「なるほど、表向きの理由というやつですね。そして《ヤマト》を着底という形で沈める事に、上は価値を感じていると……閣下、もしや」
 デイビスがさらなる発言をしようとしたところで、スプルアンスが瞳で押し止めた。
 その発言は時期尚早だと。
 そして第一遊撃部隊の追撃を続けていた第58任務部隊は、人々や政府、国家の思惑を乗せつつ一路進路を反転、追撃を中断するに至った。
 しかし、逃げ切ったと油断していた第一遊撃部隊には、最後の試練が待ちかまえていた。

 それは第一遊撃部隊が、伊豆諸島北部にある大島の脇を抜けつつある時だった。
「雷跡発見! 方位三五、距離三〇〇〇、雷速四〇、雷数六」
 第一遊撃部隊で《大和》の1000メートル後方に占位していた《信濃》の右舷見張り員複数が、電話や伝声管などに向かって絶叫した。他の艦でも同様の報告が飛び交い、艦隊右舷に位置していた駆逐艦《磯風》《浜風》そして《雪風》は、早くも潜水艦制圧のための行動を開始していた。右舷後方に位置していた《雪風》などは、《信濃》と魚雷の間に入ろうとしたほどだ。ただし《雪風》の努力が実を結ぶことはなく、せっかく艦と魚雷を交差させ乗員一堂が覚悟を固めるも、魚雷3線が虚しく艦底下を通過していった。大型艦を狙うべく深度が調整された魚雷だったからだ。
 そして、浦賀水道に乗るため《大和》が微妙に進路変更し、《信濃》も追従しようとしていた矢先の出来事だったため、《信濃》の反応は若干遅れた。
 阿部艦長は、すぐさま適切な対応を行おうと色々手を打ったが、急速回頭するにせよ、全速前進するにせよ、後退をかけるにせよ《信濃》は巨体過ぎた。
 速力20ノットという高い巡航速度で行き足が付いているだけに急な変針や転舵は難しく、魚雷が交差するまでの約2分半で出来ることは限られていた。
 結局、後進一杯、左舷急速回頭によって1発、2発目までは回避できたものの、右舷にまんべんなく4本の魚雷が命中。巨大な水柱を奔騰させた。
 魚雷の命中ごとに《信濃》はビリビリと震え、一瞬行き足も止まるほどの衝撃となった。まるで作戦中安全だった事のツケを払うかのような損害だった。
 そしてそこからが《信濃》にとっての本当の戦いとなる。
 奇襲攻撃に成功した米潜水艦は、第二水雷戦隊の爆雷制圧で最低でも押し込めることに成功しているので、まずは艦の保全が最優先だった。
 艦内では、作戦開始後も続けられていた応急処置訓練の成果が試され、また設計上は《大和》以上とされた水中防御力の高さも同時に試される事となる。
 そして流石と言うべきか、被雷後も16ノットでの航行は可能であり、残り数時間の行程は艦隊全体も16ノットに合わせる事となった。
 また、被雷後8度近く傾いた船体も、応急注水が無事機能したため1度にまで回復。浦賀水道を通過する頃には、航空機が最低限発艦できるまでに速力も復帰していた。

「流石、もとが不沈戦艦だな」
 船室内の丸窓から外を見た山科が、何となくといった風に呟いた。会話に困った末の言葉と言うのが見え透いており、そんな仕草が兄らしいと法子は感じた。
「笑うな。しかし、これでしばしの別れだ。陸に上がれば俺は軍令部に戻らねばならない。お前は、聯合艦隊が責任を持って預かると向こうが言い切っている。だから、恐らく戦争が終わるまで家に帰ることは適うまい。覚悟は良いな」
「はい。生きて内地の土を踏めるだけでも、感謝し足りないぐらいだと思っています」
「馬鹿者。兵隊のような事を言うな。だが、よく務めを果たした。兄としてではなく、一軍人として深く感謝する」
 深々と頭を下げる兄を見ると、気が引き締まるよりも、兄が今まで自分にしたことのない仕草だけに可笑しみの方が勝ってしまう。
「何故笑う。冗談ではないのだぞ」
「分かっています。分かっている積もりです。けど、兄さんが私に頭を下げるのが余りに珍しいものですから、つい。けど、不思議です。生きて帰れたと分かっただけで心が緩みます。他の人たちの事を思えば、不謹慎極まりないのは分かっているのですが」
「それが普通の人間の反応だ。ご時世的に公の場で表に出すのは考えものだが、今は構うまい。何しろ女が戦場に立つなど、普通なら考えられないからな。それより、その書類を埋めておいてくれよ。俺がここに来た理由なんだからな」
「はい。けど、これも不思議。存在しない筈の人間が書類を作らないといけないなんて」
「それが日本の政府組織だ。理由はいらん」
 兄の突き放した言葉に、法子は唐突に日本の組織というものを見た気がした。そして今回の米軍の追撃中止が、人々が大声で口にするように天恵ではなく、法子自身が考えた通りであることを期待するようになっていた。でなければ、この戦いを収めることはできないだろうと感じさせられたからだ。

 そして山科兄妹が別れた2時間後の3月12日午後3時18分、第一遊撃部隊は横須賀へ帰投。任務を終了した。


●第十一章 1 へ