■長編小説「煉獄のサイパン」

●第十一章 2

1945年3月19日

 第一遊撃部隊の横須賀への帰投後、山科法子は横須賀鎮守府内にある海軍病院に収容された。表向きは色々とそれらしい理由が付けられていたが、要するに軟禁だ。玉砕した筈のサイパン島から生きて帰ってきた者がいたなど、政府、大本営が公に認めるわけにはいかない。認めるにしても、それらしい理由が必要だ。何しろサイパン陥落から既に8ヶ月近くも経過している。遭難や脱出などの言葉すら白々しいというものだ。
 そこで今の法子は、乗船中の輸送船が撃沈され漂流していたところを、運良く友軍に救われたという事になっている。
 無論、普段の世話をする者などは、ある程度事情は察しているが、海軍上層部からの箝口令があるとあっては、法子とまともに口を利く者すらいない。
 法子自身も、覚悟していた事のでしばらくは仕方ないと考えていた。彼女から特に求めた事も、何か読むものと紙に鉛筆ぐらいだ。それも退屈だったからに過ぎない。そして3月13日以後、詳細な日記を付けることが日課となっていた。
 その日も朝6時に起床し、検温など形だけの病人のふりを看護婦共々演じてから朝食となる。朝食も誰かと共に取るのは控えられているので、看護婦が直接持ってくる。部屋は無論個室だ。日本最高レベルの施設である海軍病院の中でも隔離施設に近い場所で、部屋の広さや調度品からも高級将校用なのではと思えるほどだ。
 幾何学的なまでの白いバツ印で俄ステンドグラスのようになった部屋の窓からは、少し遠くに記念艦となっている戦艦《三笠》が見える他、あまり軍港らしさは感じられない。周囲の建造物もお金をかけたであろう重厚さを持つ以外、特に町中の建物と変わりない。
 軍港施設の中心は半島のようになったエリアの尾根を形作る丘を越えた西側にあり、海軍病院は他の施設からも離れた半島左側の付け根辺りの静かな場所に建っている。
 サイパンを破壊した第一遊撃部隊の艦艇や乗っていた人々がどうなったかを知る術もない。《大和》下艦の折りに、伊藤長官自ら「ご苦労様でした」の言葉を受けたのが最後となっている。それからは何ら情報や知らせが入ることもなく、病院での平穏すぎるほどの退屈な日々が続いている。それももう一週間だ。
 しかしその日の朝は、何かしらの胸騒ぎがした。これが兵士であれば戦場の感とでも言ったかもしれないが、それほど東京湾の空は緊張感に満ちていた。
 そして法子の感を代弁するように、重厚なくせして耳に残る音でサイレンが響き渡った。無論万人の耳に届かねばならないものだが、実に効果的な音だと妙に納得がいく音だった。
 いまだ敵機は東京湾の外だが、病院内では早くもメガホンを持った兵士姿に腕章を付けた看護士が叫んで回る。
「空襲警報発令。空襲警報発令。各員は速やかに所定の位置へ。入院患者は各員の指示に従い地下防空壕へ退避〜っ。空襲警報発令。空襲警報発令……」
 法子の元にも過ぎに看護婦が駆けつけ、法子を誘導する。法子自身は至って健常で、むしろ本当の入院患者達の避難の手伝いをしたいぐらいだったが、結局何もさせてもらえなかった。一度ならず自分に手伝えないかと看護婦に言ってみたが全く無駄だった。
 仕方ないので看護婦と共に建物の外に出て、敵機が襲来するであろう南の空に目をやってみた。空は、春の初め頃によくある少しどんよりとした雲が広がっている他は何もない。断続的に鈍い爆音も聞えたが、すれ違う人々のうわさ話を信じる限りは、近くの海軍の飛行場から飛んでいく迎撃機の音らしい。事実直接目にしたものもある。それは、プロペラの付いていない双発戦闘機の編隊飛行が通り過ぎる音で、通り過ぎた時は些か度肝を抜かれてしまった。甲高くも重厚な音で空気を振動させつつ進撃する様は、頼もしさを感じるほどだ。《大和》に乗っているとき乗員達が話していたジェットというヤツだ。
 もっとも、勇ましい日本軍機と攻め寄せる米軍機との間で空の戦いが目の前で展開されるという事はなく、法子は急かされるまま防空壕へ行くしかなかった。
 着いた先の防空壕は、鎮守府内の丘をくり抜いたもので、やたらと丈夫そうな鉄扉を備えたコンクリート製の施設へと入ることになる。扉をくぐってからの階段や下り坂になった通路から、単に横穴を掘ったのではなく、随分と地下深くにある事が分かった。また下に降りると縦横に広く伸びている。さしずめ地下要塞だ。そして下りきった中は様々な大きさのトンネル状になり、いくつもトンネル状の部屋に仕切られている。薄暗いながらもほとんどの場所に電気もついており、法子に本当の防空壕と言うものを実感させた。重厚なコンクリートや鉄筋で作られていることを伺わせる独特の圧迫感も迫力十分だ。
 入口付近では、避難する人々の喧噪が続いているようだが、奥深くまで入ると外の様子は全く分からない。
 しばらくすると地鳴り、地響き、鈍い爆音が地面とコンクリートを通して壕の中にも伝わってくる。しかし外で何が起きているのかは、皆目見当が付かない。現状とサイパンでも経験から考えても、近くが激しい爆撃を受けているという事が察せられるぐらいだ。

 この時横須賀を空襲したのは第58任務部隊。つまり、世界最強の破壊力を持った空母機動部隊だ。彼らに破壊できないものはなく、この時も圧倒的な戦力で横須賀に在泊する全ての艦艇を殲滅すべく、東京湾東部を群青色の翼で覆い尽くしつつあった。
 艦隊は、《エセックス級》航空母艦11隻、《インディペンデンス級》軽空母6隻から編成され、それを戦艦《ニュージャージ》以下、戦艦8隻、戦闘巡洋艦2隻、重巡洋艦2隻、軽巡洋艦及び防空巡洋艦13隻、4群合計63隻の駆逐艦が守っている。
 高速空母17隻という数は、日本海軍が最大動員したマリアナ沖海戦の約二倍の数であり、搭載する艦載機の数は三倍近い1300機近くに達していた。
 これをマーク・ミッチャー中将が指揮し、彼は1000機近い艦載機にゴー・サインを下す。
 しかも彼らの後ろには、多数の高速タンカーと航空機補充用の艦載機を満載した護衛空母を中心とする補給艦隊が展開し、幾日でも空襲できる態勢を整えていた。
 そしてF4Uコルセアを先頭にした第一波約300機が、午前7時前から日本海軍戦闘機隊との抗戦に入る。加えて、彼らの1時間後ろに第二波約250機が続いていた。日本軍が真珠湾を襲ったときの五割り増しの規模であり、うち攻撃機、爆撃機は400機にも達していた。
 これに対して、日本側の迎撃はささやかなものと言わざるを得なかった。海軍航空隊の陣取る厚木と横須賀からは、3月12日同様多数の機体が飛び立った。ある程度米軍襲来を予期して増援も送り込んでいたが、両飛行場を飛び立った機体の数は全ての種類、機体を合わせても100機に満たない。一時は、松山に一端戻った戦闘301の母体である343空の全力を呼び寄せようと言う話しもあったが、移動や受け入れ態勢の問題などから見送られ、現有戦力で関東地方の防空を行うより他無かった。
 また横須賀軍港内には、戦艦《大和》《長門》、空母《信濃》が在泊しているが、他の艦艇の殆どは出払っている。第一遊撃部隊も、3月15日付けで解体された。その後第2水雷戦隊だけが、他の艦艇や鎮守府内のタンクの底から僅かばかりの燃料を補給すると、東京湾にいた輸送船共々瀬戸内海方面へと去っていた。
 軍港内には、僅かな数の《松型》駆逐艦や海防艦、潜水艦が在泊する他は、殆どが小型の特攻兵器ばかりとなっている。しかも《信濃》は帰投直前の被雷により、生まれ故郷の第六船渠に重い腰を据えてしまい戦力価値は無くなっている。戦力価値がないのは、燃料をなくした2隻の戦艦も同様だ。《長門》は早々に特殊警備艦としての改装と擬装が進んでいる。《大和》も3月15日からは特殊警備艦に任務変更されると、慌ただしいという以上の早さで、機銃と高角砲の陸地転用工事が急がれ、ボイラー12基のうち11基の火を落とす作業が行われた。しかも《大和》の弾薬庫は一連の作戦で空っぽのため、特殊警備艦として防空砲台の役割を果たすことすら難しかった。呉や他の海軍工廠から急ぎ46センチ砲弾が製造され届けられることになっていたが、この襲撃時点での46センチ砲弾の数は念のため残されていた3式弾1斉射分9発に過ぎない。帰港を予定していなかった横須賀に備蓄はなかったのだ。しかも《大和》は燃料も殆ど使い果たしており、残量は帰投時で500トンを切っていた。どれほど燃料消費を抑えても、一ヶ月程度で飢え死にだ。正直、3月19日現在の《大和》が激しい攻撃を受けたところで、可燃物がないため誘爆が起きる危険性は殆どないほどだった。文字通り鉄の塊というわけだ。
 また、武装の転用と機関の停止によって、乗員の3分の2以上に下艦命令が下された。14日夜の任務達成を祝うささやかな祝勝会を最後に多くが既に下船し、新たな任地、任務へと向かっている。現在の《大和》乗組員は、作戦前の3300名から900名にまで低下していた。伊藤整一中将以下第一遊撃部隊の幕僚達の姿も既になく、有賀艦長以下《大和》首脳部だけが艦橋で頑張っているのみだ。
 しかも機銃や高角砲を降ろす工事も、事実上13日から工廠総出で開始され、17日の時点で機銃の9割と高角砲の全てが降ろされている。一部は既に汽車に積載される程の手際の良さだ。この対空装備の取り外しと乗員の下船は《信濃》も同様で、2隻から外された対空装備の数は合計で300門近くに達していた。
 なお、これほど帰投後の手際が良かった訳は、作戦当初から例え無事帰投しても燃料を使い果たすことは間違いないと考え、作戦要項の時点で特殊警備艦に格下げする手が打たれていたからだ。こうした点は、実に日本海軍らしいと言えるだろう。
 そして海軍は《大和》を簡単には沈める気はないらしく、降ろした機銃と高角砲のかなりの数を要員共々横須賀鎮守府の各所に設置し直していた。設置場所の多くは、《大和》《長門》が繋留されている艤装桟橋を挟んだ入り江状の岸壁と《信濃》の入る第六船渠だ。しかも丘状になった場所に、空からは見つけにくいように配置されているものが殆どだった。
 つまりの所、《大和》《長門》は自らを囮とした「防空砲台」の一環を占めるという事になるだろう。でなければ、軍港の入口に仁王立ち状態で置かれるなどの措置がとられていた筈だ。
 だが、日本側の対応をあざ笑うかのごとく、《大和》撃沈を絶対命令として受けた、強大無比な艦載機群が横須賀上空へと入りつつあった。
 いまだまとわりついている日の丸を付けた機体もあったが、圧倒的多数を前にしては焼け石に水状態だ。空のどこかでは、ドイツ生まれのジェット戦闘機が冒険活劇並の獅子奮迅の活躍をしているのかもしれないが、数が少なすぎて完全に埋もれていた。
 そして横須賀港上空に入った200機以上のヘルダイバー、アヴェンジャーは発見する。岸壁に繋留された《大和》を、彼らの復讐心を満たすべき存在を。
 しかも《大和》と対岸にいる《長門》は、編隊を捉えると同時に主砲を発砲。密集していた攻撃隊に無視できない損害を与えて自らの存在を誇示した。
 ただ、見つけてくださいとばかりの《大和》の姿に、米軍パイロット達の多くはいぶかしんだ。しかし、レイテや伊豆諸島沖で見た独特の姿を見違える筈はない。罠ではないかと注意深く地上を観測するが、あからさまな防空陣地以外からの弾幕もなし。煙幕も焚かれつつあるが現状では程度問題だ。
 そして数分かけて観察を終えた各指揮官達は、復讐の刃を抜き放つ命令を下す。
 「ゴー、ゴー、ゴー」景気づけの攻撃命令に、ヘルダイバーは1000ポンド爆弾を抱えた弾倉を開きつつ急降下に入り、アヴェンジャーは《大和》を沈めるために持ってきた2000ポンド半徹甲爆弾の集中水平爆撃をすべく針路を取った。
 そして米軍の第一波が爆撃針路に入った段階で、それまで射撃を控えていた機銃と高角砲が一斉に火を噴いた。多連装奮進砲と25ミリ機銃は急降下途上で避けることも出来ないヘルダイバーの無防備な腹を面制圧射撃で突き刺し、高角砲が高度3000メートルで密集飛行するアヴェンジャーへと狙いを定める。しかも米軍の目を紛らわせるがごとく、《大和》の二つの副砲がゼロ距離射撃を実施して多方向からの攻撃を完成させる。
 初手は日本軍の完勝だった。各2個中隊で攻撃を行った米軍機は面白いように撃墜され、木の葉のように東京湾のそこかしこへと落ちていった。特に機銃とロケットの雨の中へと自ら突撃する事になったヘルダイバーの損害は甚大だ。もちろん敵の攻撃は殆どが失敗し、数発の至近弾があったのみだ。
 第二波以後の米軍は慎重になるも、岸壁に横付けする《大和》に対する爆撃針路は限られており、戦闘機隊が敵防空陣地の概略位置への機銃掃射を行っただけで攻撃を再開した。しかし第二波の攻撃も第一波同様に失敗に終わると、ある程度判明した機銃座、高射砲陣地への爆撃へとまずは変更する。
 以後地上のそこかしこで激しい射撃と阿鼻叫喚の地獄絵図が展開され、それと平行して《大和》に対する攻撃も再開される。
 攻撃隊は本来なら、ドック入りしている《信濃》や当初から主砲による対空射撃をしてくる《長門》も攻撃するつもりだったが、今の彼らの目には広い艦幅を持つ《大和》以外入っていなかった。
 彼ら米軍パイロット達は、その後狂ったように《大和》への集中攻撃を繰り返した。一度に十以上の大きな水柱が立つ事もあり、海底に突き刺さってしばらくしてから爆発する爆弾も多数あった。
 当然ながら《大和》への直撃弾は数を増していった。それでも誘爆の危険が少ないためか《大和》は容易に屈しなかった。艦内の可燃物もほとんど全て降ろしていたし、もともと2000ポンド爆弾の水平爆撃に耐えられるだけの防御力も備えている。
 直撃した1000ポンド爆弾の中には、レイテ沖海戦同様に主砲塔の頑健な装甲に弾かれるものもあった。
 また、《大和》の付近で弾幕を張っていた多数の機銃座、高射砲(高角砲)、奮進砲にも損害が続出し、射撃開始時100門以上あったと見られる火線は、米軍の第一次攻撃隊が去る頃には半数以下に低下していた。だが初手の奇襲成功もあって、彼らだけで50機以上の未帰還機を出させたのだから、戦力価値的には十分な取引だったと言えるだろう。
 そして米軍の攻撃を一身に受けた《大和》は、米軍の第一次攻撃隊が去った午前9時45分時点では全く屈していなかった。既に20発近い直撃弾を浴びていたが、周囲からの応援もあって大火災には至っていない。と言うより、あまりに多い至近弾が吹き上げる水柱が《大和》の火災のことごとくを鎮火していた。
 そして接岸する岸壁を含め廃墟のような様相を示す艦上だが、主防御区画はいまだ一弾も貫通を許しておらず、第一艦橋及び3基の主砲塔もいまだ健在だ。主砲に至っては最後の砲弾を初手で放ってしまったというのに、屈するのを拒むかのごとく屹立している。
 しかし米軍の攻撃は、まだ始まったばかりだった。約20分後には250機もの第二波攻撃隊が現れ、さらに数時間経てば第一攻撃隊を再編成して再び押し寄せるだろう。単純計算で、今日だけで都合6回の100機単位の空襲がある筈だった。普通に考えれば、攻撃機、爆撃機だけで1000機以上。投下弾量は700トン以上と予測されていた。全ては、万が一敵の総攻撃があった場合に予測されていた数字だ。
 当然だが、とてもではないが耐えきれない事ぐらい誰もが分かっていた。《大和》の第一艦橋に詰める有賀艦長以下乗員の全ても理解している。だが、容易に屈するわけにはいかなった。《大和》と《長門》は日本海軍の象徴であり魂だ。相応の道連れと対価なくして屈させる訳にはいかなかったのだ。
 そして日本人のというより海軍の意地を見せつけるかのように、天空を貫く『矢』が米編隊を駆け抜ける。
 横須賀の飛行場から飛び立ち、そのまま加速を続けて敵編隊を突き抜けたのはブーメランのような姿を持つロケット戦闘機『秋水』。ドイツ空軍のMe163のフルコピー品だ。中には《伊29潜》が運んできたドイツ製の機体もある。数は『橘花』同様五本の指で数えられるほどだが、米艦載機群れの一部に見る見る混乱が広がっていく。そこに《長門》の三式弾が炸裂し混乱を拡大した。
 そこにもう一手あればと思える米艦載機群の混乱ぶりだが、長射程の高射砲を浴びせかけるのが今の日本海軍の精一杯だった。米軍は数分で混乱を収拾すると、編隊を組み直して《大和》目指して進撃を再開する。
 その数は、日本軍の予想を上回り200機に達しようとしていた。後どれだけ粘れるだろう、そう感じざるを得ない光景だった。

 午後5時、ようやく空襲警報が解除され巨大な地下防空壕から這い出した法子は、外の空気が流れてきた事で変化を理解できた。火薬と重油が燃える匂い。9ヶ月前にサイパン島でも体験した臭いだ。
 ノロノロとトンネルを抜ける行列に並んで外に出ると、臭い以外は見た目入るときと大きな違いはなかった。丘を挟んだ向こう側に幾筋もの煙が見えるのが例外なだけだ。そして臭いもそちらから流れてきていた。
 法子は、煙と臭いに誘われるかのように足を丘の方に向ける。
 空襲で混乱しているためか特に咎める者もなく、白い病人服のまま法子は工廠地帯へと続く丘の道で歩みを進める。そして丘の頂上に達しようという時、まるで視界を遮るかのような突風が襲う。堪らず法子は顔を手で覆って瞳を閉じた。サイパン島に行ってから大きく切ることの無かった自慢の黒髪も千々に乱れる。
 突風は何秒も続いただろうか。ようやく止んで瞳を開き手をどけた時、法子の眼前にパノラマで横須賀工廠の全貌が広がっていた。
 法子の眼下には、左手に工廠の主要地帯が並び、右手の方には小さな丘を挟んだ向こうに巨大な構造物が見える。第六船渠だ。幾筋もの黒煙が見えるが、構造物の中のもの、つまりくすんだ緑に彩色された《信濃》に外観上の変化は見られない。
 そしてほぼ正面には、艤装桟橋とそれを挟んで2隻の戦艦が横たわっていた。
 しかしその2隻は好対照の姿をしている。
 もちろん、好対照なのは外見ではない。二つの艦の有様が好対照なのだ。
 かたや《長門》は、法子が《大和》を降りるときに見たままの姿に見える。数百メートル離れているので詳細は分からないが、少なくとも外観が変わるほど破壊されてはいなかった。艦も水平を保って海面に鎮座している。
 いっぽうの《大和》だが、周囲の岸壁を含めてもはや廃墟に近かった。独特の幅広な船体の形は維持されていたが、そこかしこが黒く欠けており、また無数の大穴が穿たれいる。
 甲板上の構造物も主砲塔こそ健在だったが、主砲の砲身の半分ほどしか無事ではない。根元からなくなっているもの、途中でバッサリと切り取られたようになっているもの、様々だ。
 そして何よりもショックだったのは艦橋構造物だ。
 男性的魅力を放って止まなかった艦橋から煙突、そしてメインマスト、後部艦橋へと続く完成されたデザインは見る影もなかった。艦橋は何とか原型を維持しているが、そこかしこに欠損があり側面には大きな穴も穿たれている。倒壊しないのが不思議なぐらいだ。そして他の構造物は、元が何であったのか分からないほど破壊され、事前に見たことがなければ元の姿を伺い知ることは不可能なほどだ。他、艦中央の主要構造物を前後に挟んでいた副砲のうち後部の副砲も破壊され、甲板上で無事なものを探す方が難しいぐらいだ。
 幸いと言うべきなのか、機銃や高角砲の殆どを降ろしたと噂で聞いたが、大きく破壊された現状からは本当なのか噂だけだったのかすら判別できない。
 そして甲板以下の主船体だが、これの破壊も著しい。大きな穴や鉈で切り裂いたような傷跡は数えきれず、数百メートル離れていても岸壁の逆側に大きく傾いているのが見て取れるだ。だが、《大和》本来の喫水の深さが、一部着底してなおそれ程平素と違いない状態を表していた。
 だが、喫水線の方も既に大きく沈み込んでいるらしく、岸壁で奇跡的に残っていたラッタルと甲板に落差が発生しているのが見て取れた。
 そして《大和》と分かるだけの形を残しているのは、主要部を占める強固な装甲のなせる技なのだといまだ自己主張を続けているようにも思える。
 そう、《大和》は無数の大型爆弾を受けてなお、いまだ存在感を失っていなかった。
 恐らく現在位置での大破着底、事実上の沈没は避けられないだろうが、力のみを求められ、その力によって破壊された存在は、戦闘艦としての使命を全うしようとしているその時でさえ軍艦であり続けていた。
 そんな《大和》の存在感に引き寄せられるように法子は丘を下り、《大和》が接岸されている岸壁の廃墟へと歩みを進めた。
 《大和》に近づくほど水兵や職員の数が増えるが、病人服姿の法子を気にする者はいない。誰もが破壊し尽くされた《大和》を何とか救えないかと大わらわだった。また、無数の負傷兵を運ぶ人々もまだ多くが行き交っており、夢遊病者のように歩みを進める法子を気にする余裕などないようだった。
 そうして法子が《大和》の艦橋を見上げるところまで進んだ所で、聞き覚えのある声に呼び止められた。
 法子が視線を這わせるが、声の先を突き止めるのに数秒かかった。声が法子の腰の辺りからかけられた事に気付かなかったからだ。
 彼女がようやく声の主へと視線を向けると、そこには作戦開始前に法子を『物の怪』や『船魂』呼ばわりした下士官水兵が担架の上に横たわっていた。彼は酷く負傷し、顔の半分を血に濡れた包帯で覆い、そればかりか体中も包帯まみれだ。破片を半身にまんべんなく浴びたらしく、素人目にも生死の境目にある重傷と分かる。
 法子は自然腰を折って顔を彼の視線に合わせる。
「こいつぁ驚いた。『船魂』様にまた出会えるとはな。しかもご丁寧に病人服ときたもんだ」
 彼は、息も絶え絶えといったかすれた声で法子に話しかける。一瞬視線を担架を持つ者に向けるが、彼を担ぐ看護兵の腕章を付けた水兵は小声で口添えした。意識が途切れないよう、しばらく話し相手になってくれないか、と。
 法子は少しだけ首を上下に振ると、下士官へと視線を戻した。
 担架は《大和》の側まで寄せてくれる救急車を待つ。見れば、丘向こうの海軍病院から来た何台もの救急車やリヤカー、大八車が重病者を矢継ぎ早に運び出している。
「私も負傷したので、さっそく皆さんに治療していただいています」
「そうか、そりゃ良かった。こっちは、あんたの応急処置で手一杯なだけだったんだがな。まあ、取りあえず無事で何よりだ。何たって《大和》は、日本海軍の誇りだからな」
 はい。短く答えるだけとなった法子だが、下士官は構わず言葉を続ける。重傷時に分泌された脳内麻薬が、彼を一種の躁状態にしているらしい。
 そして救急車が来るまでまで付き合った法子だったが、下士官は別れ際まで彼女を『船魂』として扱った。本当にそう思っているのか、負傷による混濁した意識がそうさせているのか、それとも彼なりの心遣いなのかは分からないが、最後の言葉には彼の想いが詰まっていた。
「絶対に沈むんじゃねえぞ。《大和》が沈んだら日本は終わりなんだからな」

 しかし、《大和》が横須賀で沈むことを望んだのはむしろ法子であり、彼女の意見を是とした兄博と、兄の後ろにいるであろう終戦を工作する人々だった。
 そして日本の象徴としての期待に背くことなく、《大和》は翌々日の夕刻静かに横須賀の岸壁で着底し、その短い生涯を閉じた。



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